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人の心は善か悪か ~性善説と性悪説の議論に終止符を打つ~

人権の問題の解決を考えるためには、善悪というものが、人にとってどういうものなのかを考えてみることが必要です。


孟子の「性善説」

中国の戦国時代に活躍した思想家に孟子という人がいます。この人は、「性善説」を唱えた人として有名です。彼は、こんな話をします。

幼い子が目の前で井戸に落ちようとしているのを見れば、誰でもハッと驚いて憐れみの心から手を差し伸べて助けようとするだろう。その子の両親に取り入りたいと思っているからではないし、周りの人たちにほめられたいからでもない。見殺しにしたと非難されるのが嫌だからでもない。(A)
このことから考えれば、憐れみの心がないのは人間ではない。自分の不善を恥じず、他人の不善を憎まない者は人ではない。譲り合う心を持っていない者は人ではない。正しいか間違っているか見分けることのできない者は人ではない。(B)

(『孟子』「公孫丑上篇」より)

高校の教科書にもよく載っている文章ですが、この孟子の主張をみなさんは、どうお考えになりますか。わたしの結論を先に言ってしまえば、(A)の部分はそのとおりだと思いますが、(B)の部分は間違っていると思います。

孟子の議論の問題点

目の前で子どもが井戸に落ちようとしているのを見れば、誰でもとっさに手を差し伸べて落ちないようにする。そのとおりです。それは、人にその行為をほめられたいからでもないし、その行為をしないと人に非難されるからでもありません。もちろん、実際にそのような行為をすれば、人にほめられるかもしれません。また、助けられたのに助けなければ、人から非難されるかもしれません。しかし、井戸に落ちようとしている子どもに手を差し伸べるのは、そのような予測や判断によってではありません。

ここまでは、ほとんどすべての人が納得できるような内容ではないでしょうか。

しかし、(B)の部分で、孟子は「手を差し伸べて子どもを助けること」を「善」とし、そうしないことを「不善」と考えてしまいます。そして、人には皆そのような「善」の「端緒(糸口)」があるのだから、それを「学(学問や教育)」によって、伸ばし育てることによって、よい社会がつくれると考えました。

確かに、「手を差し伸べて子どもを助けること」は、「そうしないではいられない心」からするのであって、利害や義務や倫理や法律に基づく「判断」からするのではありません。孟子は、この「そうしないではいられない心」を、同じ文章の少し前のところで、「人に忍びざるの心(人に対してそうしないではいられない心)」と呼んでいます。これは、わたしが今までnoteの文章で書いてきた「責任」に当たるものと同じだと思います。わたしの考える「責任」とは、「強い立場」の人(ここでは、見ているおとな)が、「弱い立場」の人(ここでは、井戸に落ちそうな子ども)を目の前にした時の、理屈(利害や倫理や道徳や宗教や法律)を抜きにした、「そうしないではいられない心」を指すからです。

「人に忍びざるの心」はゴリラやネアンデルタール人にも?

ここで話を少し広げます。一般に、強い者が弱い者の欲求に応えるという行動自体は、実は人間だけでなく、類人猿(ゴリラやチンパンジーなど)や旧人類(ネアンデルタール人など)などでも確認されています。ゴリラのグループでは、力の強いゴリラが力の弱いゴリラから食べ物やえさ場を要求された時に、自分の食べているものやえさ場を譲り渡すことが確認されています。(『「サル化」する人間社会』山極壽一著、集英社、57ページなど)一方、力のヒエラルキー(序列)が基本になっているサルの社会では、このようなことはありえないことだそうです。(前掲書、61ページ、158ページなど)また、ご存知の方も多いかもしれませんが、旧人類のネアンデルタール人の遺跡からは、重い身体障害を抱えながら長く生きることができたネアンデルタール人の骨が発見されています。このようなことは、周りの者からなんらかの形で面倒をみてもらうことがなければ、不可能なことです。


ゴリラやネアンデルタール人が、道徳的な「義務」感(そうしなければならないという思い、正しさ)からそうしている(いた)とは、考えられません。これは、彼らの中のなんらかの「そうしないではいられないもの」から行われたことだと考えるのが妥当でしょう。

このような話を聞くと、そのような行動は、彼らの中の「本能」から生まれているのではないかと考える人もいらっしゃるかもしれません。しかし、このような行動が、親子関係などを除けば、人間を含めたきわめて限られた生き物の中でしか見られず、人間に近いとされるサルにも認められない点から考えても、生き物の「本能」と考えることはむずかしいでしょう。わたしは、このような行動は、類人猿などの生き物が、少数の個体がきわめて緊密に結びついた持続的な集団(人で言えば、家族)を作った時に、初めて生まれたものと考えるのが適当だと思います。

「人に忍びざるの心」は、道徳や善よりも古い

以上のようなことを考えてみると、孟子のいう「人に忍びざるの心」や、わたしの考える「責任」は、人間の道徳や倫理や宗教や法律よりも、たぶんはるかに古い時からあるものです。「人に忍びざるの心」や「責任」の中身は、人が「そうしないではいられない思い」です。それに対して、「そうしなければならない」という「義務」は、道徳や倫理や宗教や法律から出てくるものです。ふつうに考えれば、「責任」と「義務」はほとんど同じことのように思えるかもしれませんが、人権問題の解決を考える上で、この両者の違いはきわめて重要です。「責任」と「義務」を比べれば、「責任(それをするか/しないかという「行動」)」は、「義務(それは善か悪かという「判断」)」よりも、はるかに先行するものです。人間にとって、より根源的、本質的なのは、「責任(=行動)」の方です

「責任」と「義務」の逆転現象が起きた

ところが、人間の歴史や社会においては、どこかの時点で、価値や考え方の「逆転現象」が起きてしまいます。この場合は、「責任(するか/しないか)」から「義務(善/悪)」が生まれた時点で、おそらく人は、「義務(判断)」の方がより本質的な根底的なものであって、「義務」があるから「責任」が生まれるのだという「錯覚」にとらわれてしまいました。今のわれわれもその「錯覚」(価値や考え方の「逆転現象」)にとらえられています。ちょうど、「子どもを大切にしないではいられない思い」の方が先にあるのに、「自分は子どもを愛しているから、大切にしたいと思うのだ」と考えてしまうようなものです。さらに言えば、「ものの価値(使用価値)」から「貨幣(お金)」が生まれてきたのに、まるで「貨幣(お金)」が「ものの価値(交換価値)」を生んでいるか(決めているか)のような「錯覚(価値の転倒)」が、人を支配している状態によく似ています。

「責任」と「義務」は直接結びつくものではない

孟子の間違いは、「責任(そうしないではいられない)」を「義務(そうしなければならない)」に直線的に結びつけてしまったことにあります。そして、孟子にとっては、正しい「判断(義務感)」を身につける過程・手段が、「学(学問、教育)」になります。しかし現実には、正しい「判断」が身についても(または、身についたつもりでも)、人は正しい「行動」をするとは限りません。(こんなことは、経験としてはだれでもよくわかっていることです。しかし、どうしてもその事実を認めたくない人があまりにたくさんいます。)義務(感)は、必ずしも行動を生まないのです。「頭ではわかっていても、できないこと」、「できることならそうしたいが、いざとなるとなぜかしない(したいと思わない)こと」は、誰にでもあることです。しばしば、現在においても、現実には「行動(する/しない)」は「義務(すべき/すべきでない)」に先行、優先するからです。

「善」と「悪」は、人間の「義務」から逆算されたもの

「性善説」と「性悪説」は、ずっと不毛な議論をしてきました。その議論で問題にされている「善」と「悪」は、人間の「義務(そうしなければならない、そうであるべきだ)」から逆算されて設定されたものにすぎません。道徳や倫理や宗教や法律が示す「義務(そうしなければならない)」のとおりに行動するのならば、「善」で、行動しなければ、「悪」だという発想から抜け出ることができなかったのです。しかし、「性善説」と「性悪説」のどちらが正しいかという議論は本質的に不毛です。これまで述べたように、本来の人間の性質、本来の人間の心は、道徳や倫理や宗教や法律が示す「義務(そうしなければならない)」とは、直接には結びついていないからです。本来の人間の性質、本来の人間の心が直接、関係するのは「義務」ではなく、「責任(そうしないではいられない)」の方です。この「責任(そうしないではいられない)」は、当然のことながら、道徳や倫理や宗教や法律とは直接、結びつきません。そもそも、孟子の言う「人に忍びざるの心」や、わたしの考える「責任」は、善でも悪でもないのです。(これは逆に、「人に忍びざるの心」や「責任」は、善でも悪でもあると言っても同じことです。)

人権問題の解決の基盤は、「人に忍びざるの心」や「責任」

人権問題の解決は、「義務」ではなく、「人に忍びざるの心」や「責任」に基づいて行われる必要があります。

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