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汎ASD論(その1) 〜ASDの人の生きづらさはどこからくるのか(その1)〜

差別や人権侵害を考える上では、『違い』と『共通性』の両方を考えることが重要になる。

前回はこの言葉を出発点として、「人はみな両性愛者ではないのか」ということを書きました。そのような観点が、いわゆる「性的少数者」への差別や人権侵害の解決(または、解消)に、役立つのではないかと考えたからです。同じようなことが、ASD(Autism Spectrum Disorder、自閉スペクトラム症)についても言えるのではないかとわたしは思います。

ASDの特性の本質はなにか

わたしは、ASDの傾向は多かれ少なかれだれもが持っていると考えています。これが、今回から書く「汎ASD論」という文章の題名の意味です。しかし、実際には、ASDの傾向が高い人(少数派)と、ASDの傾向が低い人(多数派)の「違い」が、ASDの傾向が高い人の「生きづらさ」を生んでいます。そのため、今回と次回ではASDの傾向を持つ人の特性とはなにかということ、つまり「違い」をできるだけ明らかにし、次々回では「共通性(連続性)」にもとづいて、題名のような「汎ASD論」になるように書き進めていきたいと思います。

ASDの傾向を持つ人の「生きづらさ」

ASDの傾向を強く持っている人は、日常の生活の中で、まわりの人から見ると、他の人とは明らかに違う、特徴的な考え方やふるまいをすることがあります。そして、そのような思考や行動の特性がきっかけとなって、集団や組織の中で孤立してしまったり、場合によっては「いじめ」や「パワーハラスメント」の対象(被害者)になってしまったりすることがあります。

逆にASDの傾向を強く持っている人からすれば、自分のいる集団(家族、教室、職場等)が、なんとも訳のわからない、理不尽で、おかしな人の集まりに感じられ、時によってはまわりの人たちに悪意を感じることがあります。ASDの傾向を持つ人の「生きづらさ」がどのようにして生まれてくるのかを、今回と次回は、ASDの傾向を持つ人の特性を掘り下げることによって明らかにしてみたいのです。

「想像力」の問題とは

ASD(Autism Spectrum Disorder、自閉スペクトラム症)とひと言で言っても、そのあらわれ方は実に千差万別です。だからこそ、「スペクトラム(Spectrum、多様な色合い)」という表現が使われているのでしょう。しかしそんな多様性の中で、ASDの傾向がある人に共通する特徴として、以前から次の三つのことが挙げられています。①「社会性」の問題②「想像力」の問題、③「コミュニケーション能力」の問題の三つです。この三つの中で最も本質的なのは、②「想像力」の問題です

この場合の「想像力」とは、10年後の未来を想像したり、行ったことのない土地を想像したりする力のことではありません。目の前にいる「相手の気持ち(感情)」を想像する(推しはかる)ことが、苦手だということです。そしてこの特性が、「社会性」や「コミュニケーション能力」の問題、つまり人間関係がうまくつくれないという問題を生み出しています。そう考えると、三つの問題はとかく並列して説明されますが、実は「想像力」の問題が一番本質的なものであり、ほかのふたつはいわばそこから結果として出てくる問題だということがわかります。そのため、以下では「想像力」の問題に焦点を当てて考えます。

マーブルチョコのテスト(スマーティ課題)

ASDの傾向がある子どもの特性を見るテストとして、昔から「マーブルチョコのテスト(スマーティ課題)」と呼ばれるものがあります。これは次のようなステップで、チョコレートの箱を見せ、その中身について子どもに質問をするというものです。

ステップ1 小さな子ども(Aさん)に、スタッフがチョコレートの箱を見せます。
ステップ2 次に、「この中には何が入っていると思いますか」とAさんに質問します。
ステップ3 Aさんは、箱の絵を見て、「チョコレート」と答えます。
ステップ4 スタッフは、「残念、違います」と言って、蓋(ふた)をとって箱の中にエンピツが入っている様子を見せ、その後、また蓋をします。
ステップ5 別のスタッフが、「(Aさんの友だちである)Bさんが来るよ」と言います。
ステップ6 スタッフは、Aさんに、「Bさんは、この箱を見たら、中に何が入っていると思うでしょうか」と質問します。

この質問に、Aさんがなんと答えるかというのが、このテスト(課題)のポイントです。

「エンピツ」と答える子と「チョコレート」と答える子

実際にこのテストを子どもたちにしてみると、一般に三歳くらいまでであれば、ほとんどの子が「エンピツ」と答えるようです。しかし、四歳以上になると多くの子が、「チョコレート」と答えるようになります。四歳を過ぎても、「エンピツ」と答える子の場合、ASDの傾向を持っている可能性があるそうです。

このテスト自体は、「アスペルガー症候群」などという呼び方が行われていた時代からある古典的なものですから、そのまま今のASDの概念に当てはめてしまうのは、ちょっと乱暴な気もします。しかし、一方でこのテストは、最初に述べた「想像力」の問題とは、どのようなものなのかについて、われわれに解明のヒントを与えてくれます

「事実」を当てはめるか、「心の動き」を当てはめるか

ここで問題になっていることは、後からやって来るはずの子(Bさん)が、そのチョコレートの箱を見た時にどう思うだろうかという「内容」に、その子(Aさん)が

ア 先ほど自分が、チョコレートの箱の中に「エンピツ」が入っているのを見た(ステップ4の)「事実」を当てはめるか

イ 自分が最初にその箱を見た時に、中に「チョコレート」が入っていると思った(ステップ3の)自分の「心の動き」を当てはめるか

アとイの、どちらを当てはめて答えるかということです。

発達心理学の考え方とその問題点

発達心理学などでは、イの「心の動き(気持ち)」を当てはめることができるようになることが、人の発達(成長)の証(あかし)であると考えます。つまり、自分の最初の状況(シチュエーション)と同じ状況になったBさんが、どのような「心の動き」をするかを「想像」できることが、発達(成長)の証だと考え、逆に、そのような「想像」が苦手である子どもたちを、ASDの傾向(発達の障害)がある子どもではないかと考えるわけです。

しかし、発達心理学のこのような考え方は、「エンピツ」ではなく「チョコレート」と答えられるようになる多数派の子どもの変化を、「ふつうの望ましい成長」と考えている点で、問題があります。「ふつうの望ましい成長」は、「定型発達」という言葉であらわされますが、「定型発達」という考え方自体が、ある種の偏った価値判断(これはよくて、これはわるい)を背後に持っていることは、常に忘れてはならないことです。

おとなは「チョコレート」と答えるが

この「マーブルチョコのテスト(スマーティ課題)」は、おとなに対して実施しても意味がありません。おとなであればASDの傾向がある人も含めて、ほとんどの人が「チョコレート」と答えるからです。それは、それまでのさまざまな経験の積み重ねから、知的に判断して、Bさんは中を見ていないのだから、「チョコレート」と答えるだろうと予測できるからです。しかし、それはあくまで経験からくる知的な予測であって、自分が最初、「チョコレート」が入っていると思ったという「心の動き」を、他の人に対しても当てはめて考えた(いわば、感情移入の)結果、出てきた答えではありません。この違いはきわめて重要です

だれかと会って話している時に、相手の人が心(気持ち)を持って話をしていると「知っている(わかっている)」ことと、話をしている中で、その人のちょっとした表情の変化や言葉づかいに、その人の心(気持ち)の動きをリアルに「感じる」こととは、まったく別のことです。実際の人間関係では、この「知っている(わかっている)」ことと「感じる」こととの違い(溝、ギャップ)が、人間関係のトラブルを引き起こすのです

「チョコレート」と答えるために越えなければならないふたつの山

もう少し、「マーブルチョコのテスト(スマーティ課題)」について掘り下げて考えてみます。

子どもが「エンピツ」ではなく「チョコレート」と答えるようになるためには、つまりそのような変化をとげるためには、少なくとも次のふたつの大きな山を乗り越えなければなりません。

第一の山は、「わたしは(今、目で見て)この箱の中にはエンピツが入っていると、今、はっきり知っている(思っている)。しかし、これから来るBさんは、わたしとは別の人で、別の心を持っているのだから、今のわたしと同じように思うとはかぎらない」ということを、大前提として、スタッフの質問に答えることができるかということです。つまり、わたしの思いと他のだれかの思いは、そもそも「違う」別のものだということがわかっている(思っている)かどうかが、このテストで「エンピツ」と「チョコレート」のどちらの答えを選ぶかの、最初の分かれ目になります。

三歳以下の子どもが、「エンピツ」と答えてしまうのは、すでに自分が中身を見て、箱にチョコレートの絵は描いてあるけれど、中身は「エンピツ」だと自分が思っている(知っている)からです。つまり、自分の思いが、自分のまわりの世界にそのまま広がり、自分の思いがそのまま他人の思いになっているのです。三歳以下の幼い子は、自分と他人との区別(境界)がまだはっきりついておらず、「自分」というものの輪郭がまだしっかりとできていないために、「わたしの思っていることを、あの人も思う」ような世界の中に生きているということなのです。

第二の山はBさんがチョコレートの箱を見た時に「思うこと」に、自分が最初にその箱を見た時の「思い(心の動き)」を、当てはめて考えることができるかということです。これは、その時の自分の心の動きを覚えているかどうかという「記憶」の問題ではなく、これこそが、最初に書いた「想像力」の問題です相手(Bさん)の心の中に、自分の心(気持ち)を映して(投影して)、それを相手の心(気持ち)として見る(思う)ことができるということが、この場合の「想像力」の中身なのです

「感情移入」とか「共感」とか呼ばれるもの

昔ながらの心理学の言葉で言えば、この場合の「想像力」は、「感情移入」とか「感情の投影(投射)」ということになるでしょう。日常的な言い方をすれば、広い意味での「共感」ということになります。一般に、相手の心の中に、自分の心(思い、感情)を映して見ることができた時、つまり相手に「感情移入」や「共感」ができた時に、われわれは「あの人の気持ちは、わかる」と感じるのです。

ただ、今の説明で使った「できる(できた)」という言い方には、問題があります。われわれには、「できない」よりは「できる」方が「よい(優れている)」という思い込みが、根深くあるからです。そのため、ここでは「できる」と言うよりは、「(そう)してしまう」と言った方が、実態に近いはずです。

一般に、「感情移入」や「共感」は、人と人を結びつける人間的なよいものだという考え方があります。しかし、一方的な「感情移入」や「共感」が、相手の人権を傷つけることもあることは、忘れてはいけないと思います。

ふたつの山を越えることがはらむ矛盾

今述べた、第一の山である「自分の心(思い)と相手の心(思い)は別物だ」ということと、第二の山である「相手の心の中に、自分の心を映して見て、相手の心がわかったと思う」ことは、それぞれが意味していることをよく考えると、実は矛盾しています。「本当に別物であれば、わからない」でしょうし、「本当にわかるのであれば、別物とは言えない」からです。つまり、「相手の心がわかったと思う」ことには、どこかに論理的な矛盾(インチキ、思い込み、ごまかし)が含まれているはずです。

実際にはこの矛盾から、いわゆる「勘違い」や「見込み違い」ということが、時によって生じてきます。つまり、「わたしは、あの人の気持ちがよくわかっている。あの人なら、こういう場合は必ずこういう行動をするだろう」と思っていたら、予想とまったく違った行動をその人がしたという経験は、だれにもあるはずです。相手の気持ちが「わかった」というのは、あくまでわたしの「思い込み(自分の感情の相手への勝手な貼りつけ)」にすぎないからです。

次回に向かって

誤解のないように申し上げておきますが、わたしはASDの傾向は多かれ少なかれ、だれもが持っていると考えています。そして、ASDの傾向が高い人とその傾向が低い人をくらべて、どちらの方が、よいとか考えているわけではありません。

ただ、ASDの傾向が高い人の方が、より「生きづらさ」を感じやすいのは、事実だと思います。そしてそれは、単にASDの傾向が高い人の方が少数派だからではありません。なぜ、ASDの傾向が高い人は、『生きづらさ』を感じるのか。このことを現象的にではなく、本質的に考えることができれば、その「生きづらさ」を減らすことができると思うのです。

次回は、わたしが今回の文章を書いている中で思いついた「自分専用の物語」と「共用の物語」という言葉などを使って、ASDの傾向を持つ人の「生きづらさ」について、さらに考えていきたいと思っています。


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