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「弱い立場」の人への「責任」はなぜ生じるか

前回、「『強い立場』の人が持っている力とは、本来、『弱い立場』の人から譲り受けているもの(預かりもの)だ」ということを書きました。これは実際そうなので、わかる方はすぐにわかると思いますが、一方で納得できない方も多いかもしれません。今回はなぜそう言えるのかを、考えてみたいと思います。

「力の差は仕方がない」という考え方の誤り

「人間にはもともと強い者と弱い者がいるのだから、力の差があるのは仕方がないのではないか、そこに力の貸し借りのようなものはないはずだ」と思われる方も多いかもしれません。前回、最後の方で取り上げた新自由主義の考え方は、そのような考え方の典型かもしれません。「くやしかったら、自分が強くなればいいじゃないか」という考え方です。そういう考え方をすれば、前回まで述べてきたような「『強い立場』の人には『責任』がある」、「力には責任がともなう」ということは、たわ言として忘れることができます。しかし、このような新自由主義の考え方は、「人とはどういうものか、人が生きるということはどういうことか」をまったく考えていない点で、間違っています

「生きる」とは、「安心・自信・自由」を持って生きること

人は、「安心・自信・自由」とともに生きています。「高校生のための人権入門」では、人権の中身は「安心・自信・自由」であり、人権とは「安心・自信・自由」を保障されて生きる権利だと書きました。(くわしくは、「高校生のための人権入門(17)人権の中身「安心、自信、自由」」などをご覧ください。)しかし、権利とはそもそも義務と同じように法律上の概念なので、もう少し正確な言い方をすれば、わたしがここで言いたいことは、「人はそもそも『安心・自信・自由』がなければ生きていけない存在なのだ」ということになります。人が「生きる」ということと、その人の「安心・自信・自由」とは不可分のものです。

人権侵害とは、相手の「安心・自信・自由」を奪うこと

わたしは「安心」とは、「わたしはここにいていい」、「自信」とは「今のわたしはこれでいい」、「自由」とは「わたしの生き方はわたしが決めている」という思い、実感だと考えてきました。(くわしくは、「高校生のための人権入門(17)人権の中身「安心、自信、自由」」などをご覧ください。)「安心・自信・自由」の中身をそう考えるならば、「安心・自信・自由」とは、人が生き生きと生きていく上で、どうしても欠かせないものだということがわかります。このことは「安心・自信・自由」がない状態を考えてみれば、あきらかです。

家庭や学校や職場の中で、「わたしはここにいてはいけないらしい」、「わたしは今のわたしのままではいけないらしい」、「わたしのすることは人がみんな勝手に決めている」というような思いを抱えながら、人は生きていけるでしょうか。とてもつらくて、生きてはいけないでしょう。しかし、現在、差別を受けたり、いじめを受けたり、虐待を受けている人たちは、すべてそのような「安心・自信・自由」を奪われた状態にあるのです。「安心・自信・自由」がない状態では、人はつらくて生きていられなくなります。「安心・自信・自由」を持つということは、生きることとひとつだからです。人権尊重とは、その人(または、わたし)が、今、そこでその人(または、わたし)として、生きていることを、無条件で尊重する(される)ことです

人が家族や社会をつくる理由と、それがはらむ矛盾

「安心・自信・自由」なしでは、人は生きられません。ところが、ここに矛盾が生じます。多くの場合、人は自分の「安心・自信・自由」を自分の力だけで保持することはできないからです。人は自分以外の人(他者)を、なんらかの意味で信じて、自分の「安心・自信・自由」を他者にゆだねる(任せる)ことでしか、自分の「安心・自信・自由」を保持することができないのです。人が家族とか、社会とかをつくる理由がここにあります。しかし、同時にここには大きな矛盾が生じます。とりわけ、「安心・自信・自由」の中の「自由」を他者にゆだねることは、「自由」の本来意味するもの(わたしの生き方は、わたしが決めている)と本質的に矛盾します。しかし、人は現実には、赤ん坊の時から、自分の「自由」を、ふつうは自分より「強い立場」の人にあずける(ゆだねる)ことでしか、生きていくことができないのです。

もちろん、このような「自由」のゆずり渡しは、意識されて行われるわけではありません。ほとんどの場合は、気づいていたらそうなっているのです。親子関係を考えてもこのことはすぐにわかります。子どもは、親など(おとな)からの保護の必要な「弱い存在(立場)」としてこの世に現れます。子どもの「安心・自信・自由」は、言わば、最初から親など(おとな)の手にあるのです。その結果として、親などは子どもの「安心・自信・自由」をできる限り保障する「責任」を負い、日々、その「責任」を果たそうとします。親など(おとな)が子どもの「安心・自信・自由」を保障しよう、子どもをすくすくと育てよう、とするのは、それが民法などによって規定された親の「義務」だからではありません。おとなは自分の保護がなければ一日も生きていかれない子どもを見た時に、放ってはおけず、そうせざるをえなくて、いわば自分の人としての「責任」として行うのです。そして、重要なことは、この「責任」感は、思いやりや、やさしさや、道徳心や良心とは、本来、別のものだということです。(このことについては、後日また書いてみたいと思います。)

「自由」を、自分より「強い立場」の人にあずけること

子どもに限らず、人は自分の「安心・自信・自由」を他者にゆだねる(任せる)ことでしか、自分の「安心・自信・自由」を保持することができません。これが、対等の関係にある人同士の間で行われるのならば、あまり問題はないかもしれません。例えば、友人関係のような場合です。しかし、多くの場合は、「弱い立場」の人が、「安心」して暮らしていくために、自分の「自由」を、自分より「強い立場」の人にあずけるという形になります。つまり、「わたしはあなたの言うことを(ある程度)聞くから、あなたはわたしを保護しなさい」というわけです。繰り返しますが、このような「自由」のゆずり渡しは、意識されて行われるとは限りません。むしろ、意識されていないことの方が圧倒的に多いのです。前回、例としてあげた交通事故で負傷者が出た場合などは、救急車を呼ぶかどうかなどの判断や行動は、一瞬で「相対的により強い立場」となった、(あまり)負傷していない者に、事故発生とともに「責任」としてゆだねられることになります。

「負債(借り)」は必ず返さなければならない

これが、前回、「『強い立場』の人が持っている力とは、本来、『弱い立場』の人から譲り受けているもの(預かりもの)だ」と書いたことの意味です。「強い立場」の人が持っている力とは、このように「弱い立場」の人が、本来は誰にもゆずり渡したくない自分の「安心・自信・自由」を、(意識してではなくても)「強い立場」に人にあずける(任せる)ことによって生じてきたものです。その意味で、「強い立場」の人は「弱い立場」の人に「負債(借り)」があるのです。そして、「負債(借り)」がある以上、それはなんらかの形で(ある程度)返さなければなりませんそのことが、「強い立場」の人には自分の「責任」として感じられるのです。その「責任」を果たさなかった場合、必然的にそれは「負い目」となって感じられる「はず」なのです。今、「はず」と書いたのは、実際にはそうでない場合があるからです。それが、先ほどから述べている人権侵害の場合です。

「責任」を放棄し、「弱い立場」の相手を非難する人権侵害

人権侵害とは、「強い立場」の人が、自分の「責任」を放棄し、そのことに「負い目」を感じるどころか、自分にその「負い目」を感じさせる「弱い立場」の相手を、自分の持っている力で思いどおりにコントロールしよう、最後は排除しようとして攻撃や非難や忌避をした時に生まれます。(くわしくは、「高校生のための人権入門(19)「多様性の尊重」の落とし穴」や「高校生のための人権入門(21)力の関係としての人間関係」などをご覧ください。)人権侵害をなくしていくためには、「強い立場」の人(たち)に、その「責任」を自覚させることが必須です


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