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高校生のための人権入門(21) 力の関係としての人間関係

はじめに

前々回、「現実の『人と人との関係』は、基本的に力と力の関係であり、どちらかがどちらかを支配している(相手を従わせている、自分に合わせさせている)関係なのです」と書きました。このようなとらえ方には、違和感や反感を覚える方も多いのではないかと思います。そのため、前回、人間がつくる集団には二種類あるのではないかということを書きました。人間のつくる集団の二面性と考えていただいてもかまいません。今回はそれを踏まえて、人間関係の「力と力としての関係」の面について考えてみたいと思います。

なぜ、力の関係が生まれるのか

人と人とが関わる時、そこには「力の関係」が必然的に生まれてくるとわたしは考えています。もちろん、「力の関係」がないように見える「人と人との関係」がないわけではありません。しかし、それはどちらかと言えば例外的な状態で双方の力の強さがほぼ同じ状態、力の均衡がとれている状態と言った方がよいのではないかと思います。

なぜ、人と人との関係には、「力の関係」が生まれるのでしょうか。以前、わたしは、それは人間の「自己保存本能」や、人間に抜き去りがたく存在している利己心やエゴイズムのせいだろうと考えていました。ただ、最近はそのような説明に納得できないものを感じるようになりました。だいたい、人間の行動を本能で説明するのはうさんくさいし、利己心やエゴイズムで説明するのも、現象にただ名前をつけただけで結局、何の説明にもなっていない気がします。それでは、一体、どんな説明が適切なのかと聞かれても、正直、自分が本当に納得できるような説明には、まだたどりついていません。ですから、以下に書くのは現時点でのわたしができる範囲での説明です。

自分の存在を維持しようとする力

17世紀の哲学者、スピノザの重要な概念に「コナトゥス」というものがあります。コナトゥスとは、わかりやすくいえば「自分の存在を維持しようとする力」です。

「いかなるものでも自己の存在に固執しようとする努力は、もの本来の生きた本質にほかならない。」(『エティカ(エチカ)』世界の名著30,中央公論社、第三部、定理七、工藤喜作、斎藤博 訳)
「おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はそのものの現実的本質にほかならない」(注:「有」とは、ここでは「存在」という意味です)(『エチカ』岩波文庫、第三部、定理七、畠中尚志 訳)

上記の二つの訳で、「努力」と訳されている語がコナトゥスです。スピノザの思想は本当にむずかしくて、簡単に引用して、それに基づいて自分の論を展開できるようなものではありません。ただ、スピノザの『エチカ』のこの部分でとても重要なことは、スピノザが「ものの本質」を、コナトゥスという「自分の存在を維持しようとする」だとしている点です。

ただ、スピノザを離れて考えても、人間は、生きものである以上、「自分を維持しようとする力」を持っていることはあきらかです。わかりやすく言えば、どんな生きものも、「生きる(生きようとする)力(エネルギー)」を持っています。この力は自分以外の人との関わりの中においては、当然のことながら、相手を、自分が生きていく上で、より都合がよいものにしようとします。単純な例で言えば、赤ん坊が泣いて、ミルクを求めるような場合です。この時、親がすぐにミルクを与えれば、赤ん坊は泣きやみます(これをAの場合とします)が、なんらかの理由ですぐにミルクが与えられなかった(与えなかった)時は、さらに赤ん坊は大声で泣き続けます(これをBの場合とします)。Aの場合は、赤ん坊が親をコントロールすることに成功したわけですが、Bの場合は失敗しています。そして、Bの場合は、親が赤ん坊をコントロール(待たせる、がまんさせる等)しようとしているわけです。

このように赤ん坊と親が、お互いに相手をコントロールしようとした時、多くの場合、親の方が最後は折れて、結局、赤ん坊が泣きやむことを親がしてやることになります。なぜなら、前回でも述べたように、家族は、基本的に、「自分が属する集団を維持することを目的とする集団」だからです。赤ん坊の欲求と親の都合や考えのどちらが正しいかということは、ここでは一番大事なことではありません。一番大事なことは、家族(の関係)を維持することです。ここで注意しておかなければならないことは、家族の中でもっとも自分を維持する力の小さい人(放っておかれたら死んでしまう人)である赤ん坊が、その「弱さ」によって、他の家族全員を支配(コントロール)しているということです。なぜ、こんなことが起きるのでしょうか。これはあとで、もう一度考えてみたいと思います。

子どもは、なぜがまんするようになるか

子どもがもう少し大きくなった場合を考えてみましょう。小学生くらいになると、子どもと親の関係は少し変わってきます。親は子どもにがまんさせることができるようになるからです。親が子どもを、ある程度、支配(コントロール)できるような力の関係に変わっていくのです。赤ん坊は、基本的にがまんはできません。しかし、小学生になれば、子どもは、しぶしぶでもがまんできるようになります。この時、どういうことが起きているのでしょうか。親は自分の「都合」のために(たとえば、子どもを愛しているので、子どもにはこうなってほしいというのも、ここでは親の「都合」と考えます)子どもを自分の思うように動かしたい、生きさせたいと思います。その親の考えと子どもの思い(こうしたい)が一致する場合はいいわけですが、一致しない場合、どちらかがどちらかに合わせる(譲歩する)ことが必要になります。基本的には、親の方が圧倒的に「強い立場」ですから、多くの場合、子どもの方が親の意向に合わせる(譲る)しかありません。子どもが親の意向を無視したり、逆らったりした場合は、親が不機嫌になったり、怒ったりして、冷たい扱いを受けることを子どもは経験から知っているからです。そのため、子どもは自分を守るために(つまりは、自分を維持するために)、親の意向をしぶしぶ受け入れます。そして、親の意向をしぶしぶでも受け入れる度合いは、子どもの成長とともに、ふつうは減っていきます。小学生と高校生、大学生を比べてみれば、その違いははっきりしています。高校生や大学生になれば、親の意向を拒否しても、自分を維持できる(生きていける)可能性は、ずっと高くなっているからです。

相手への「信頼」という重要な気持ち

もう一度、小学生と親の関係に戻ってみます。小学生が、親の意向をしぶしぶでも受け入れるのは、実は親の「強い立場」、その力に圧倒されるからだけではありません。受け入れても大丈夫だという思いが、子どもに必ずあるからです。そうでなければ、子どもはどうなるか不安で受け入れることができません。親の意向を受け入れて、自分の維持ができなくなれば、それは元も子もない、最悪の事態になるからです。しかし、子どもは多くの場合、受け入れます。それは、しぶしぶであっても、「親が、自分にとって根本的に悪いことはしないだろう」という思いがあるからです。親が、基本的には自分を愛してくれているという「信頼」があるからです。この「信頼」(親を信じて頼る思い)は、親への依存心と一緒になっていますが、とても重要なものです。一般的に、「弱い立場」の人から「強い立場」の人への信頼があれば、少なくともその時点では人権侵害は起きません。これと違って、職場において、たとえば上司の「指導」がパワーハラスメントになるのは、「弱い立場」の人(部下)が、「強い立場」の人(上司)への信頼を持っていない(持ちようがない)からです。同じように、介護者が、高齢者に対して「よかれと思ってしたこと」が、高齢者の怒りを引き起こすのは、高齢者が介護する人への信頼を持つことが、大変むずかしいからです。前にも書いたように、高齢者は常に強い不安の中にあるからです。

「弱い立場」の人が、最終的な決定権をもっている

最後に、途中で宿題にしておいた、「家族で一番弱い存在である赤ん坊が、なぜ他の家族を支配できるのか」ということについて、考えてみたいと思います。18世紀から19世紀にかけて活躍したヘーゲルという哲学者がいます。(また、哲学者かと思われる方もいらっしゃるかもしれません。すみません)彼は、初期の代表作『精神現象学』の中で、「主人と奴隷」の意識についてこんなことを述べています。「主人の意識」とは、「自立した(自主的な)意識」であり、奴隷を支配しようとする意識です。それに対して、「奴隷の意識」とは、主人に従属する意識であって、自主性や独立性を奪われた意識です。(『精神現象学』作品社、133〜135ページ、長谷川宏 訳)このヘーゲルの「主人と奴隷」の関係論でおもしろいのは、主人は奴隷に対して、自分を主人として「承認する」(奴隷が彼を、自分の主人として認めて、彼に従う)ことを求めるわけですが、実際に、主人を承認するかどうかは、奴隷の方に選択権があるということです。もちろん、主人を主人として承認しなければ、最悪の場合、奴隷は死ぬしかないのですが、実際には奴隷に暴力をふるったり、食べものをやらずに奴隷を死なせてしまった場合、困るのは主人であり、周りの非難は主人に向かうのです。(主人には奴隷を保護する義務があるからです。)実は同じことが、親と子どもの関係でも、パワーハラスメント(たとえば上司と部下の関係)にも言えるのです。どの場合も、一見、「強い立場」の人が「弱い立場」の人を支配しているように見えますが、実際にはそのような支配関係が成立するかどうかを最終的に決めるのは、「弱い立場」の人の方なのです。(だからこそ、パワーハラスメントや児童虐待が起きるのです。)そう考えてくると、家族の中ではもっとも弱い存在である赤ん坊が、他の家族を支配できる理由がわかります。しかし、職場ではどうでしょうか。パワーハラスメントを受けている被害者(弱い立場の人)は、職場の自分より強い立場の人を、赤ん坊のように自分の「弱さ」で支配できるでしょうか。これは、場合によって違いますが、パワーハラスメントは最終的には、被害者(および加害者)が、その部署を去ったりする場合が多いと思います。これは、パワーハラスメントの犠牲者が、赤ん坊ほど無力ではないこともありますが、もうひとつの大きな理由は、前回お話しした集団の性質の違いにあります。家族は基本的には、「その集団の維持を目的とする集団」であるため、赤ん坊の行為が「正しい」かどうかはあまり問題になりません。しかし、職場は「(その集団の維持以外の)なにかの目的を達成するための集団」であるため、その目的の達成を邪魔するような事態は嫌われますし、目的達成に役立たないような人たちは避けられます。その結果、パワーハラスメントの場合、被害者も加害者も部署を異動させて、その仕事から外すことによって、一応の解決とする場合が多くなるのです。


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