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《備忘録》ニライ・カナイと渚と青と

 2024年8月4日、沖縄県南城市を巡って。



知念岬にて撮影
久高島が向こうに浮かんでいる

 私が降り立った世界は、写真に収まることを拒否した。

 写真では、水平線が空と海とを隔てている。しかし肉眼では、この水平線を捉えることができない。

 灼熱の日差しを逃れて木陰に入ると、海から涼しい風が吹いていたことに気づく。陸地と海水の比熱の差によって、陸上では上昇気流が、海上では下降気流が発生し、海風が吹いている。海上の空気の屈折率を狂わせていたのは、この対流運動だったのだ。

 屈折率の狂った空気は、海を空のほうへと映し、空を海のほうへと映す。その揺らぎのなかで、水平線はいつの間にか溶けてしまう。私が写真に収められなかったのは、海と空の揺らぎであり、すなわち私自身がそこで呼吸をしていた時間である。

 水平線が消失した視界のなかで、遠くに見える久高島が、かつての水平線にぼんやりと浮かんでいる。水平線の向こうにあるとされる「ニライ・カナイ」への想像力は、この久高島を媒介にしていたはずだ。ニライ・カナイから来た祖神アマミキヨは、まず久高島に降り立っているし、ニライ・カナイに由来する五穀の入った壺は、まず久高島に流れ着く。

 久高島とは、おそらく想像力の翼であり、生活世界の外殻に穿たれた窓であった。久高島だけでなく、台風が去って渚に残される漂着物や、夏の大潮の夜明けとともに現れるスク〔アイゴの稚魚〕の大群は、人々の関心を水平線の向こうへと誘導しただろう。

 我々が何か大きなものに生かされているという感覚、それが総体として結晶化したイメージが「ニライ・カナイ」だと言うことができよう。




斎場御嶽(せーふぁうたき)にて撮影

東海の彼方から訪れたニライ大主(アガリ大主)は、久高島を経由して斎場御嶽の尖頂端のキョウノハナに飛来し、垂直に下降してサノコウリへ、そして、そこから約七メートルの三角状の岩穴を通られ、人間界に出現される。通って来られた三角状の岩穴こそ、神の世界と人間界を結ぶテダが穴、すなわち神の門と見ることができよう。

仲松弥秀『神と村』p. 148

 三角状の岩穴は、おそらく女陰を象徴している。ニライ大主、すなわち夜明けの太陽は、ニライ・カナイから人間界へと産み落とされるのだ。古代琉球では、女性のほうが神に近かった。なぜなら、ニライ・カナイから人間界へとやってくる霊は、かならず女性の胎内を経由するからである。斎場御嶽の岩穴の向こうがニライ・カナイと通じているのと同じように、女性の胎内もニライ・カナイとつながっている。

 斎場御嶽は、もともと男子禁制の聖域であった。神女は助産婦であり、神霊が人間界へ出現するのを助けていた。助産婦が必要とされるのは、出産が母子の危機でもあるからである。夜明けの太陽が産み落とされるものであるからには、それには死産の可能性が付きまとうのであり、神女たちは夜明けを無事にもたらすことを最大の責務としていたはずだ。

「日がまた昇る」ことが必然ではないことの不安。

真木悠介『時間の比較社会学』p. 55




 ニライ大主は、太陽であって太陽ではない。

 昼間に外を歩いていると、灼熱の日差しが身体を焼く。天上の太陽は、徹底的に人を寄せつけない態度をとる。このことは、慈愛と豊穣をもたらすニライ大主の姿と相容れないように思われる。民俗学者の仲松弥秀によれば、琉球弧の島々では、夜明けもしくは日暮れの太陽を拝する例は広く見られるが、天上の太陽を拝する例は見当たらないという。

さて、そこで、南島琉球弧における太陽なるものは何かということになるが、要するに、それは熱帯的な国々と同様、物体としてのテダではあるが、神としてのテダではない。しかし、東海の彼方からのぼってくる太陽、それは短時間にすぎない太陽ではあるが、その短い時間の太陽は神とされた。

そして、その太陽と、同じく東海はるか彼方から、豊穣・幸福を与えるべく来訪されるニライ大主なる神との双方が、一つに結ばれたのが琉球弧の島々における信仰上のテダであると考えたいのである。

仲松弥秀『神と村』p. 137-138
奥武島の「竜宮神の拝所」にて撮影
ニライ大主(朝日)の真下には、かすかに久高島が見えている

 奥武島おーじまには「竜宮神の拝所」という聖地があり、そこから美しい朝日を拝むことができる。竜宮とはニライ・カナイを意味するから、竜宮神とはニライ大主のことである。

 海面に浮かぶ道は金色に輝いて、水平線にかすかに見える久高島へと続いている。これは神話の再現に他ならない。ニライ・カナイからやってくる神は、久高島を経由して、人間界に降り立つのである。慈愛と豊穣をもたらすニライ大主は、夏の大潮の日にはスク〔アイゴの稚魚〕を連れてくる。

集落の人々がそれぞれ組をつくり、朝暗い時分から、イノー〔礁池〕の入口近くに網を張っていると、スクはかたまりとなって潮に逆らうようにしながらやってくる。夜明けの太陽の光に染められて銀色の身体がきらきらと輝く。〔……〕スクの塩辛をスクガラスを呼ぶが、それをもって農村に出かけていき、芋や豆などと交感した。古代琉球の村落はスクの寄ってくるイノーをたよりにして営まれた、といってもさしつかえない。

谷川健一『渚の思想』p. 89

 スクにもいくつか種類があり、最も大きいのは「テダハニスク」と呼ばれる。ニライ大主の慈光を受けてきらきらと輝く様子が、まるで太陽(テダ)の羽(ハニ)のように見えたからだろう。また「ウンジャミ」と呼ばれる種類もあるが、これは海神うんがみがなまったものである。竜宮がニライ・カナイを意味するように、海神はニライ大主を意味する。

 このように、夜明けの太陽はニライ大主そのものであり、久高島を経由して人間界にやってくる。しかし、夜が明けてしばらくすると、光の道は消え去ってしまい、苛烈な日差しが照りつけるようになる。そのときにはすでにニライ大主は太陽から剥離してニライ・カナイに還っていて、残された太陽は我々を痛めつけるのみである。

 ところで私は、奥武島の魚市場でスクを見つけた。3cmほどの銀色の小魚が発泡スチロールのトレーに詰められて、500円で売られていた。しかし、残念なことにその写真を撮り忘れてしまった。友人Tに頼んで那覇市のスーパーを回ってもらったが、スクはどこにも売られていなかったという。




 神の世界と人の世界は、隔絶されてはいけないが、近づきすぎてもいけない。ニライ・カナイと人間界は、直接に対峙しているのではなく、何らかの中間項を介して対峙している。そのような中間項は、神と人の二重性を帯びることになる。

 たとえばニライ大主は、前述したように久高島を中間項としている。あるいは、人間の霊魂もニライ・カナイからやってくるが、それは女性という中間項を介して人間界に顕現する。ここで、久高島は人域でありながら神域であり、女性は人でありながら神である。

 ニライ・カナイからやってきた霊魂は、少しの間だけ人間界に顕現し、やがてニライ・カナイへと還る。しかし、還るときには「女性」とは異なる中間項が必要となる。すなわち、ニライ・カナイへ還ろうとする死者が、しばらく滞在する場所が必要である。

イザナギ、イザナミの神話にみるように死とはヨミの国、またはその他のさまざまな名前で呼ばれる他界へと去ることであり、そうであればこそ「よみがえり」とは、このヨミの国から帰り来ることに他ならなかった。それは空間的移動としての生死のイメージをよくつたえている。

真木悠介『時間の比較社会学』p. 102

 琉球諸島には「奥武島おーじま」と呼ばれる小島が七つか八つほどあるが、それらはいずれも古代の風葬所だったようである。人が死ぬと、残された人々は遺体を島に置いてくる。死者はやがてニライ・カナイへと還るが、しばらくは島で生前と同じように生活する。

奥武島にて撮影
「青の島」を包みこむ「青の世界」

 「奥武島」は、「青の島」を語源としている。さまざまな原色に疎外された色彩感覚をもつ現代人とは違って、古代の人々は、淡くぼんやりしたイメージをすべて「青」で表した。この写真の空と海はすべて「青」である。

 それぞれの語源になっているように、明るさは「赤」で表され、暗さは「黒」で表される。「白」とは「知る」であり、はっきりしていることを表す。これらで表されないものはすべて「青」となる。「淡い」や「漠い」が語源になっているとも言われ、明るいとも暗いとも言えず、はっきりしないイメージが「青」である。

〔古代の色彩感覚は「青」の原色など想定していないが、その感覚を現代人に理解してもらうのは難しいだろう。そこで、念には念を入れて、以下の写真も掲載することにした。この写真の世界は一面の「青」である。〕

奥武島にて、友人Tが撮影
筆者が「青の世界」を写真に収めようとしている様子

 結局のところ古代琉球の人々は、「死者の世界」を、よく分からない世界としてしか想定しなかった。死者の霊魂は、しばらくは生者の集落の近くに滞在し、やがてニライ・カナイへと還っていく。ぼんやりとしたイメージの世界は、そのまま「青」と呼ばれた。

 ニライ・カナイは、誰もが憧憬する「青の世界」である。理想郷と説明されることが多いけれども、何がどのように理想なのかは分からない。少なくとも安らかな世界であることだけは確かなようである。

 そして、現世からニライ・カナイへと移動するための中間項が「青の島」である。青の島に滞在しているうちに、死者は神となってニライ・カナイに還る。こうして霊魂は、水平線をまたいで往来する。




奥武島にて撮影

 この写真は、奥武島の渚から沖縄本島の渚を眺めたものである。死者の世界と生者の世界は、これほどまでに近い。

 護岸されていない場所を探して、私は奥武島を一周した。本島も奥武島もだいたいのところはコンクリートで護岸されており、ほとんど諦めかけたとき、両岸ともに自然地形を残したところが見つかった。

 渚は、人々が呼吸するところであり、海が呼吸するところである。近代の明晰な意識によって分断されてしまった生者と死者と海とが、ここで呼吸をともにしている。




――友人Tの協力に感謝を示す。


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