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言葉くらいでしか自分を表現できないくせに

言葉くらいでしか自分を表現できないくせに、言葉に苦しめられている。

言葉以外で勝負する人たち

ここ数年、私の人生には画家だとかイラストレーターだとかいう人たちが数多く現れる。そして、彼らの多くはこう口にするのだ。

「言葉にならないからこそ、絵で表現する」

今思い出せば、居酒屋で偶然知り合ったダンサーも同じようなことを言っていた。ダンスこそが私を表現する方法なのだと。

言葉なんて必要としなかったアイツ

トルコ留学時代のルームメイトのチェコ人はとにかくだらしない奴だった。英語はほとんど話せず、トルコ語については学ぶ気配もない。ずっと酒と煙草ばかりを口にして、「I'm lazy(私は怠け者)」というフラダンスのような奇妙な動きをしていた。
にも関わらず、気がつくと彼の周りには誰かがいて、挙げ句言葉も通じないのにトルコ人の彼女まで見つけてきた。言葉は人柄には勝てないのか、と落ち込んだ。

言葉にできる、は褒められたりもするけれど

中学生くらいまでは「喜怒哀楽、薄くない?」なんて言われることも度々あった。自分の中にきっと感情はあるのだけれど、それを表情や動きで表現することがあまり得意ではなかった。だからこそ、当時は特に小説を沢山読んだ。自分の感情に当てはまる言葉を探すために。

そんな私は今、趣味でも、仕事でも文章を書くことが多い。それはパソコンでの入力、直筆の手紙両方である。そんな私を見て、ときおり周囲の人間は、

「自分の思っていることを、ちゃんと言葉にできていいね」

と言う。たしかに間違っていないとは思う。

言葉くらいしかない

ただ一方で、私からすれば思いや考えを伝える手段が言葉くらいしかないのである。絵は描けない、ダンスはできない、チェコのアイツのような根っからの愛され性分が羨ましい。挙げ句、自身の感情を直感的には理解するのが苦手でもある。

そんな私にとって、言葉だけが自分を理解する、そして伝えるための全てだった

課題と問題は何が違うのだ。関連と連関、関わって連なることと連なって関わることが同じだとは私には思えない。私はいまジレンマ(dilemma)を抱えているのではない。言うなれば葛藤しているのだ。

そんなことばかりを考えて生きてきた。というよりも、今も大して変わらない。言葉くらいでしか自分を表現できないくせに、言葉に苦しめられている。

だからこそ、言葉が好きかはまだ分からない
ただ言葉にこだわりを持っていることだけは確かだ。

これからの人生で、言葉以外の表現を獲得することはきっとないだろう。
だとすれば、せめてもの足掻きとしてそんな人生を言葉で記録してやりたい。

(終)

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★本や言葉に関するエッセイは他にも


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