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ぼくの親はランドセルを選べなかった。

ランドセルを背負うという行為そのものが、成人式と同じくらい、子の成長を表す通過儀礼なのかもしれない。

ラン活という一大イベント

これはもしかすると親にとって、子育て人生の中でも上位に食い込む一大イベントなのかもしれない。私自身に子はいないが、早ければ小学校入学の一年前くらいかランドセルを選ぶ活動すなわちラン活が行われるこの国では、毎年「もうランドセル売ってる!」と思わされるものである。

親が選べる最初で最後のチャンス

私服登校の中学・高校なら、生徒自らの意志でその辺で売っているバッグを通学用に使うのだろうし、逆に制服登校の学校なら制服はもちろん通学バックにも指定品が存在する。

この意味で通学用バックの選択権が親にあるというのは、新小1のこの瞬間だけなのだろう。また現代においてはランドセルを背負うという行為そのものが成人式と同じくらい、子の成長を表す通過儀礼なのかもしれない。だからこそ、親がランドセルを選ぶというのは、20歳を迎えた晴れ着姿と並ぶ心に残るイベントのように思えてきた。

「私も選びたかったわ、ランドセル」

さて、だいぶ昔になるとは思うが、就学前の私のいとこがランドセルを背負っていた時の話である。母が当時その姿を見て、

「私も選びたかったわ、ランドセル」

とぼそりと口にしたことを最近思い出す機会があった。というのも、私や私の姉が義務教育を修めた大阪府摂津市では市内の児童には市立小学校入学時、特別なランドセルが全員に配布されるからだ。

ぼくもこのランドセルを背負っていました

このランドセルの配布は1975年から開始され、今でも続く摂津市独自の活動である。その背景には、家計負担を減らすという大義名分がある。すなわち、「ラン活」という言葉が存在するくらいに市場価値の高いランドセルの購入は世帯によっては大きな金銭的負担であるということだ。そのため、表題の「選べなかった」という表現には、あくまで私の母がいとこを目にしたその瞬間だけそう思っただけであって摂津市の保護者すべてがそう思っているわけでもない。事実、母もその後

「よくよく考えたらランドセルくれるってすごい家計にとってはありがたい話よね」

と口にしている。

ランドセルと親

少し調べてみると、ランドセルをめぐって親の意見がぶつかり合うなんて場面も少なくないらしい。これには外野から「子どもに全部任せちゃえばいい」「子どもの問題に親が介入しすぎるな」なんて批判もある。

ただ私としては私の母の境遇を考えると、「我が子の通学バッグを選ぶチャンスなんて最初で最後だから親同士で喧嘩してもいいんじゃない?」なんて思ってしまう。それは、ランドセルというのは使用者である子ども以上に、親の側の思入れが強くなるものらしいからだ。

今年もランドセルを巡って日本各地の夫婦や保護者が対立するのだろうか。もしランドセルを巡って喧嘩している夫婦を見つけたら、そっと微笑むか、「摂津市ならその喧嘩、起きませんよ」と声をかけたくなってきた。

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私が大学生のとき、当時私服登校の高校の女子生徒の間で制服っぽくデザインされた服を着る「制服コーデ」なるもの流行っていると耳にしました。
当時の私からすれば「制服よりも私服がいいからその高校選んだんじゃないの?」と思ったものですが、いわゆるJKになるにはそれくらい制服というものが必要不可欠な存在であると思い知らされたのも事実です。
のび太君の本質はめがねorのび太君か。女子高生の本質は制服か女子高生か。

服は記号である、と初めて感じた経験でした。というわけで私が日々消費している記号、エプロンについてはこの記事を↓

またこの記事を書くきっかけになった記事はこちら↓

※写真引用元


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