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普通の狂気性〜戦時下の国防婦人会とコンビニ人間〜

私たちの社会は、「普通」でなければ社会への参加を許さない。

『コンビニ人間』と普通

久しぶりに『コンビニ人間』(第155回芥川賞)を読んでいた。この本が描くのは「普通」の狂気性であると私は捉えている。

そして、先日のNHKスペシャルをみて、この普通の狂気性は今も昔も存在するのではないかと。

結論から言えば、主人公(古倉恵子)がコンビニ店員としてであれば社会に参加できることと、国防婦人会が女性の社会参加の場として機能していたという指摘は、同じ文脈にあるということだ。

恵子は30代後半で未婚の女性。しかも仕事はコンビニバイト。「「普通」であれば、結婚をしたいと願わなければならず、もしくはキャリアのために結婚は諦めたという理由が必要とされる年齢である」と作品は恵子の置かれた境遇の普通を定義する。
そのため、この普通に属さない人は「いい歳して、結婚もせずバイトかよ」と社会的に陵辱される。もしくは上記のような要請された普通に「ほんとは私も結婚したいんだ」「実は体が弱くてバイトなの」と迎合していくことになるという。

すなわち、恵子は社会に迎合する(≒空気を読んで合わせる)ことをしない限り、普通とされるコミュニティに属することは許されないのだ。
他方でコンビニ店員であるという事実だけは、性別、年齢、国籍etc何も気にしない。いくら本人を知る人間が本人を揶揄しようとも、コンビニの制服を身にまとえば、赤の他人からすれば「単なる店員の一人」でしかない。

だからこそ、コンビニ定員であるその瞬間は少なくとも、恵子は社会に参加できるのである。

国防婦人会と女性の社会参加

さて、時代を遡ること1932年。国防婦人会は大阪港周辺の主婦が出征兵士に労いの茶をふるまったのが原点とされる。
もともとは「兵隊に行く前に、お茶ぐらい出してあげてもいいじゃないの」という善意から始まった活動であったらしい。
しかし、戦局の拡大につれて貴金属類の回収や出征の見送りといった活動はもとより、戦死遺族の慰問、ついには陸軍による指導の下で徴兵年齢未満の「志願兵」の斡旋までも担うようになる。

ドラマやドキュメンタリーでは、国防婦人会を語るにあたり、この「志願兵」の斡旋であったり、実子が戦死しても涙を見せない母親といったある種の狂気がしばしば描かれる。

他方で、事実として数十万単位の会員を誇った国防婦人会を単なる狂気的な集団だったと捉えるだけで、それは十分な見解といえるのだろうか。

「国防婦人会こそが当時の女性(主に主婦)に与えられた唯一の社会参加の場であった」

これが先のNHKスペシャルが示した視点である。すなわち、参政権もなく、家制度のもとで嫁ぎ先以外のコミュニティに属することができない女性たちにとっては、国防を通して社会に貢献することが一つのアイデンティティとなったということである

普通でなければ許されない

ドキュメンタリーのインタビューでもあったが「お国のため」という理由であれば、家を飛び出して、自己意思のもとで何か社会貢献ができる。これが当初、国防婦人会に女性たちがのめり込んでいく理由の一つであった。

これはどこかコンビニ店員であることが心の拠り所となる恵子と重なる部分がある。
つまり、恵子が社会の一員としてコンビニの制服を着たように、国防婦人会の女性たちが割烹着で街を繰り出すことは、社会への参加を意味していたのだ。

私たちの社会は、「普通」でなければ社会への参加を許さない。

今の時代であれば、「普通」は、正社員として働いて、30歳を超えたら結婚を意識して。
戦時中であれば、銃後の守りは女の務めとして国防婦人会に加入する。たとえ加入しなくても、お国のために身を捧げる。
もちろん違和感を覚えながらも国防婦人会に入会した女性もいたというが、いわゆる「周囲の目」を気にするとそれに異論は唱えられなかったとインタビューで当時を知る女性は語る。逆に国防婦人会という普通に属することで、社会参加の権利を得た。

これは逆に言えば、戦争に邁進するという普通が日本にやはり蔓延していたということである。これこそが、戦時下の日本が狂気的だったと評される所以ではないか。

普通の狂気性

国防婦人会が彼女らの声を上げると場として機能し、それが狂気的な普通を生み出した。結果的にこの狂気的な普通がいわゆる銃後ムードを支えていたと考えると、狂気という感情論では語りきれない、当時の日本社会の構造的な欠陥が浮かび上がるように思われる。
すなわち狂気じみていたのは人間そのものというよりも、人間が作り出した普通であったということだ。

ただこの状況は、きっと現代でも同じではなかろうか。恵子がコンビニ店員である間だけ社会参加が許されたというのと同じように、現代においても普通に属さない人間はコミュニティーに属すことすら許されない。

戦中の国防婦人会と現代のコンビニを通してみつめる日本社会は、常に普通の狂気性で溢れている。

ーーー
というわけで、久しぶりにどえらくまじめな小論を書いてみました。
それぐらいこのNHKスペシャルは久しぶりに「その視点はなかった」と思ったのです。

実は、大学院時代、「原爆体験はいかに語り継がれるのか?~広島平和記念公園における語りの生成と消失~」なんていうタイトルを付けた研究をしておりましたもので。
しかも、プロフィールに観光学修士なんて文言を入れていますが、観光研究とはいっても、扱う内容はかなりセンシティブだったのも確かです。

研究からは離れて久しいですが、研究それ自体やそこから考えることについては今後もたまには投稿しようと思っています。
それは、4万字の学術論文と1000~2000字程度のネット記事それぞれに伝えられること・伝えられないことがあるはずだからです。

というわけで、本日はこれにて。
ご清読ありがとうございました。

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