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観光から「死」を社会に組み込み直す ~観光の政治性という新たな視点~


観光なのに、「死」?

と思われた方、ぜひご一読ください。
絶対に読んで損はしない内容です。

流行り言葉の「観光」とは異なる、新たな「観光」の捉え方を提示しています




観光の政治性


この頃、

「観光の政治性」

について、今の自身の生活と照らし合わせて、改めて思うところがある。

私自身は大雑把にいうと、大学院時代、広島の原爆をめぐる観光を研究していた。
そこで気づいたことの一つに、戦後、日本政府やGHQによって観光が「平和国家」「文化国家」を推し進める手段として利用されていたことが挙げられる。
そうすることで、戦後の混乱・荒廃・貧困といった社会的な問題には目を向けずに、棚上げできるという効果があったからだ。

たとえば、広島市の平和記念式典は、被爆した人々の暮らす「原爆スラム」を強制排除することを必要とした。
なぜなら、それは「平和国家」「文化国家」として観光客を受け入れるためには、そのあるべき姿として相応しくなかったからだ。

2003年成立の小泉政権において「観光立国」が声高に謳われて以来、いまでこそ観光に注目が集まるようになったように思われるが、実は約60年も前に日本は、観光立国を目指す政策を掲げている。

観光を通して、日本という国をどのように演出し、見せたいように見せるのか?そして、それに不可欠な要素、邪魔な要素は何か?
つまり、観光は「見せたい姿」のために何を排除すべきかを考えることでもある。

この意味で、観光は「楽しい」という側面を見せるというよりもむしろ、「排除」を前提とした営みでもある。
そして、その排除を通して、

我々は観光に多大なる政治的メッセージを孕ませうる

のである。

理想の島を演出する


前置きが長くなったが、とはいえ、これは国家レベルだけの話だろうか?
私はそうは思えない。
なぜなら、私自身が観光の政治性を利用しているからだ。

私は「さぬき広島」の暮らしぶりをお届けし、「遊びに来てね!」なんて言っている。
その材料として活用する写真を見返すと、大抵の写真は「晴れ」である。海は綺麗で落ち着いた「凪」である。

しかし、実際住んでいると、もちろん「雨」の日もあるし、「しけ」の日もある。
また美味しそうな魚の写真に、魚の内臓や生き血は登場しない。

私は島における「薄暗さ」、特に「死」を写真から排除している。
なぜなら、それは楽しくて、ハッピーな島暮らしの文脈にはそぐわないからだ。
この態度は、まさしく島を見せたいように見せるという意味で、極めて「政治的」である。

これからの私は島暮らしをお伝えしていく、また島への移住者増を願う島民たちと協働するにあたって、このような島の実情をどこまで伝えるべきなのだろうか?

「死」を生活から排除する

私は当たり前のことに島に来てからようやく気が付いている。

魚は血を流す。そして私も血を流す。

畑で野菜を収穫しようとして、小石で指を切ったりしているのだ。
また生魚をさばこうものなら、内臓を引きちぎったせいか、魚は台所で流血している。そして、彼らはどこか恨めしい目で私を睨んでくるのだ。流血し死を間近に控えた彼らが最期に見せる包丁への抵抗は凄まじいものがある。

私個人としては、もちろん綺麗な海、満天の星空の「島」も体験してほしいが、こういった血生臭い体験も観光客には味わってほしいと思っている。

なぜなら、それは都会に住んでいた私を筆頭に、いつの間にか現代人は「死」を生活から排除してしまっているからだ。

たとえば、スーパーでは畜産物や魚介類の頭の切り落とされた「死体」が売られている。
野菜や果物は傷の無い、大きさの揃った「選ばれし者たち」だけが来店客を迎え入れ、選ばれなかった者たちは、我々の知らないところで抹殺されている。

また単純に、野良猫や野良犬が死んでいれば、それはいつの間にか行政サービスとして片付けられている。「死」は無視していればいいのだ。

そして、現代人は自身の死さえも生活から排除している。端的には、今や大半の人間の死に場所は病院である。病院という箱の中で起こる他人の死に、我々は興味を示さない。

そして、「死」を実感できない我々は、ときに、「死」を無意味に美化してしまうことさえある始末だ。

観光から「死」を社会に組み込み直す

現代の生活に「死」はそぐわないのかもしれない。排除すべきなのかもしれない。

でも、果たしてそれでよいのだろうか?

私は、観光を通じて、島から「死」を政治的に排除することができる。

しかし、反対に、観光によって、島に「死」を組み込み直すこともできるのではないか?

そして「死」を組み込むからといって、綺麗な海や星空がなくなるわけではないのではなかろう。

「死」は目障りなのだろうか?

だとすれば、我々が日々刻む「生」のストーリーは究極的には、この現代社会には必要ないと私は思う。

なぜなら、我々が「死」を確約されている以上、我々にはいつか自分が不要物として排除されることを否定する資格はないからである。

―――
この件については、私も深く考えるところではありますが、皆様の意見を頂戴できればとも思っています。賛否を問わず、ぜひ一言コメントください。

最後に、少し話はズレますが、研究について少しお話します。

今回の件を筆頭に、今、観光の理論研究において指摘されたきた課題が、私の身に降りかかってきていると感じています。
それは「パフォーマンス」であり、「まなざし」であり、挙げ始めるとキリがありません。

他方で、実践研究と比べ、理論を突き詰める基礎研究は「役に立たない」「金にならない」などと揶揄され、補助金も減っていく一方でもあります。

しかし、今ひしひしと感じるのは、理論によっても現場の課題を見つけることができるということです。

実践メインだから見つかる課題もあるし、理論メインだから見つかる課題もある。またそれぞれが見つける課題は、範囲やニュアンスが異なるものだと思っています。 
例えば、実践研究は「地域の問題」を詳らかに見つけようとする一方で、理論研究はときに地域という範囲を飛び越えて「社会の問題」を見つけようとしていることもあります。

実践研究の方が確かに華やかで、分かりやすいです。その点、理論研究は地味で、「ややこしすぎて、理解できない。で、そもそも、どうすればその問題を解決できるの?」と思われることでしょう。

しかし、まず問題を探すという作業自体に、そもそも大変な労力が必要です。しかも、そのあと、調査・分析という、これまた気の遠くなる作業が待っています(この点はどの研究も同じだとは思いますが)。

ただ、実践研究の場合は、「どのような実践を行ったか?どのような目に見える成果を残したか?」に大きな評価軸がある一方で、理論研究の場合、「どのような問いを見つけ出したか」にも大きな評価軸が据えられています(わかりやすくするために、とても大雑把に括ったので、異論はもちろんあると思います)。

そのため理論研究が問いを立てるということと並行して、アクション(実践)を起こしていくのは、端的に言って、時間的にも資金的にもとてもキツイです。しかも、実践までをそもそも目標に掲げていないのです。

とはいえ、問題を指摘するだけではビジネスにならないという事実と、「目に見える成果が見えない」問題発見には金を出さないという国の方針から、ますます理論研究の行動範囲は狭くなっています。

だからこそ、博士課程に進んだ同期・後輩や指導してくれた先生・先輩方の足元にも及びませんが、私も一応は理論研究をしていた身であるので、「理論畑出身、人文出身だからこそできる観光」を模索していきたいと考えています。

理論のような基礎研究が軽視される時代だからこそ、自分なりに理論と実践の融合を目指していこうと思っています。

それではお読みいただきましてありがとうございました!
次回はポップなやつを書きますね!(笑)🍊🍊

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