自己顕示欲と他人のふんどし
自分のことばかりの筆者と他人のことばかりのマスコミ
他人のふんどし
他人の情報をよどみなくそのまま伝えるのに長けたマスコミ。他方でそれは記者自身のにおいを消すことでもあるのかもしれない。
これが確信に変わったのは、元新聞記者で現在はフリーライターとして活躍される方とのこんな会話にある。
元記者「個人メディアの時代だから、私もnoteやろうかなと」
筆者「元新聞記者って肩書なら読者も獲得しやすいんじゃないですか?」
元記者「そうでもないのよ。結局私たちって他人のことしか書いてないんだよね。唐崎君とは違って」
筆者「といっても、僕は自己顕示欲の塊ですからね」
元記者「他人のふんどしで相撲を取ってきた私たちは、案外自分のこと書くのは苦手なのよ」
もちろん彼女の言うことがすべてではないが、概してマスコミ記者は自分のことを書かないというのは一つの真実ではなかろうか。もちろん新聞記者の文章力や修辞法は目を見張るものがある。とはいえ、記者が書いた綺麗な文章よりも、雑然とした素人のエッセイのほうが人気を集めたりもするのが個人メディアでもある。彼女の言う個人メディアの時代の趨勢はこのような部分に見ることができる。
自己顕示欲の塊
さて、なんだかんだ言っても私がこうして日々記事を投稿しているのは、やはり自己顕示欲に帰する部分が多い。自分のことを知ってほしい、伝えたいという気持ちはなるべく上品に扱いたいと思うものだが、それは案外難しく、気が付けば自己満足の権化みたくなってしまうときもある。
私にはマスコミとは異なり、情報を伝えることに何の社会的使命も与えられていない。ただ一人の人間の考えを私の一存で書き連ねているだけである。
私なりの文章とマスコミの責任
他方マスコミのような既存メディアは元記者の言うように、他人の情報、思いを事実として伝える役割を今も昔も担い続けてきた。また私は昔新聞記者になりたいと考えていたが、今は絶対に向いていない職業だっただろうなと思う。
なぜなら、私は基本的に私のことを書きたいからだ。また他人のことを書くにしても、私なりの言い回しや言葉選びをしたいと考えるからだ。
マスコミが伝える情報はできる限り平等で、そこに好き嫌いがあってはならない。それは解釈による認知の差を最小限にとどめるためである。
個人メディアを続けるために
私はこれからも個人メディアでの活動をやめることはないだろう。だとすれば、私はできるかぎり自分が自己顕示欲の塊であることには自省的である必要があると考える。
というのも、個人メディアの時代はマスコミのように事実を伝えることよりも、その事実をいかに伝えるかに執着しかねないからだ。
自己顕示欲によって書かれた文章は他人の好みを生み出す。よく言えば、それはきっと書き手の個性という言葉に収斂されていくのかもしれない。
それでも、私が私なりの、もっといえば私ならではの言葉選びを追求することで事実は様々な解釈で彩られていく。ともすると、ときに事実が見えにくくなる可能性は否定できない。
だからこそ、私が私のふんどしに表面に「自己顕示欲」と印字したくなってきた。
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いつかは他人様のことをライター業として書きたいなと思うところです。
お声がけいただければ、インタビュー(オンライン可)の上、一本書かせていただきますので。例えばこんな感じ↓(note公式にオススメいただきました↓)
※こちらの記事はオンラインでインタビュー
というわけで本日はこれにて。
ご清読ありがとうございました。
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