非日常化した日常を取り戻すために「何もしない旅」に出よう
旅は非日常だとよく言うが、実際は、「我が子と夕方に遊ぶ」なんていう日常さえもが非日常化している。
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旅する。つまり、旅はするものらしい。
何かを見たり、どこかへ行ったり。旅ではまさしく to doが自分の中に形成される。旅はきっとこれからも「する」ものに変わりないのだろう。
と、宿に来たあるお客様が仰られた。その女性は、旦那様の来宿の意向に「まぁ、いっか」とついてきたとのこと。確かにウチの宿は文化遺産を利用した施設でもないし、宿が建つ島自体に名所があるというわけでもない。確かに、私がお客様だったとしても「何するんだろう?」と思えてならないだろう。
ご夫妻とは、お食事をして、おしゃべりして。そんなこんなで数時間。それまでといえば、それまでだ。そのため、確かに「何もしていない」と言えば何もしていない。
ただ、食べて、お喋りしているのもやはり事実だ。だからこそ、「何もしていない」の中には、「何かする」がきっとあると思えてくる。
では私たちは何をしているのだろう?
と女性はいう。ただ他方で、夕方に親と子どもが遊ぶというのは、別に旅先でなくても実施できる。つまり、家族が家の近所の公園に皆で遊びに行けばいいのだ。親は仕事から、子どもらは放課後の自由時間から、少し早く帰宅すればいい。
加えて、夕方、家族が公園で遊んでいても、きっとその街の人は「仲のいい家族だな」程度にしか思わないだろう。
家族が仲睦まじく公園遊ぶ姿は、何の特別性も持たない、街の単なる日常に過ぎないのだから。
ただ実際、仕事は休めない。子どもは友達とサッカーしたい。家族そろって腹が減る。ともすれば、夕方に家族皆でそのような日常を味わうのは実質的には不可能なのだ。この意味で、女性が望む日常は、非日常化しているのである。
旅は非日常だとよく言うが、実際は、日常さえもが非日常化している。旅先ではゆっくりメシが食えるなんて意見も、健康面を考えると、メシは日常的にもゆっくり食べた方が良い。でも、それができないのだ。
私は宿のオーナーとして、「何もしない」を推奨している。そうすると、「家の近くで遊んで、ごろ寝して」「ゆっくり食べて、話して、寝て」という行動が姿を現す。つまり、本来日常で実践されるべきだった「何かする」と再会するということだ。
「何もしない旅」で日常を取り戻す。
それをお手伝いすることが私の役目だと思えてならない。
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非日常と日常のあいまいな部分、つまり「ほとり」がきっと人生にはあるわけで。そんな気持ちで日々、農家民宿を運営しています。
ただ他方で「何かする旅」もやっぱいいわけで。そのため、私はいつも
とお話させていただいております。
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