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現場主義の欺瞞を考える

「現場を知らないくせに何が分かる!?」

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もしあなたが親なら、子育ての相談を子無しの教育専門家の話と5人の子を育てた肝っ玉かあちゃんどちらの話を聞きたいだろうか。

さて、なぜこんな話をしているかと言うと、先日私の知り合いが子育てに関する本を出版した。ただその方に子はいない。他方で彼は子どもの教育に関わる勉強をアメリカの大学院で、しかも今はその学びをスポーツや音楽、英語学習を通じて子供たちに還元している。

私はその姿にいつも尊敬を覚えるし、お話しを伺ってもとても腰が低く、丁寧な方だ。もし私に子が生まれたら、その本を読んでみたいと思っている。

さて、ただもし私が彼と面識がない場合、本当にこの本を読んでみたいと思えるだろうか?と考えるわけである。すなわち、自分で子どもを育てたことのない人間の意見を、自分が親となったときにすんなりに受け止めらえるか?という問いなのである。

おそらくだが子育てに関する理論、また最新の研究結果やその動向については世のパパさん・ママさんよりもきっと彼の方が何十倍、何百倍も理解が深い。そしてまた、自分に子がいないという状況があるからこそ、自分の子を比較軸とせずにフラットに他人の子らを見つめられるという場面もあろう。

となると、月並みな答えではあるが問いの種別に応じて、専門家に話を聞くのか、肝っ玉かあちゃんを頼るのかは臨機応変に峻別されていくべきである。願わくば、その両方の意見を聞いた方が良いのは確かだろう。

しかし、今はどこかいかなる場合においてもより現場に近い肝っ玉かあちゃんのほうが有用視される傾向はないだろうか?いわば「現場に知らないくせに何が分かる!?」である。

現場でしか見えないこともあれば、現場から離れないと見えない問題もある。特に、問題の次元を上げるという行為は現場から離れないとできない事も多い。たとえば、ネグレクトの問題をその当事者家族の問題として捉えるだけでなく、その地域コミュニティ、市と問題の次元を上げていくことも現場から離れてみることで冷静に見えてきたりもするだろう。

今回は子育てを例に論を広げてきたが、ビジネス、まちづくりと様々な議論で、過度な現場主義が広がっているように思う。特に専門家と呼ばれる人間が現場第一主義を盲目的に叫ぶのなら、私はそれを「現場主義の欺瞞」と呼びたい。なぜなら、専門家には議論の次元を上げるという役目が与えられているはずだからである。

肝っ玉かあちゃんの現場の知恵と専門家の理論が融合するという状況はなかなか遠いのかもしれない。とはいえ、その歩み寄りが新たな発見を生み出すのではなかろうか。

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島暮らしもよく似ていて。たとえば島のお困りごとを外部の方が聞いてくれるわけですが、彼らが困っていることそれ自体を解決する術を考えてくれるときに「なんだかなぁ」と思ったりします。偉そうですが。

たとえば、人が少ない→移住者集めよう!みたいな。

というのも、結局、その解決法を実行するのは島民自身や行政職員であることが大半だからです。

もちろんそこに思いもよらない解決法の提案がある可能性もあります。ただそれはきっと「現場のお困りごとがどのような社会的背景、時代、産業・・・を持ってして、なぜ生まれたか?」という問いの次元を上げていかないと見えないのではないか?と一人思ったりもします。
現場主義とはいいますが、現場にいない人に現場にいない人にしかできない第三者的な目線を期待してしまうのは私のエゴなのでしょうか?

というわけで、本日はこれにて。
ご清読ありがとうこざいました。


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