社会の持続性と個人の幸福
帰宅。
やはり仕事は健康によくないな。1か月くらいで白髪がまた少し増えたわ。まあ、こういう状況が嫌いじゃないんだけど。
それはそれとして、最近、頭の片隅で漠然と考えていたこと。
社会保険制度における世代間所得分配の法的限界づけ(つまりは、給付反対給付均等の原則と収支相等の原則に基づいた保険原理の、生存権思想に基づく扶助原理による修正の法的限界づけ)の議論が、税方式との関連での議論を除くと、社会保険法学では十分には展開されていないという指摘がされることがある。
大ざっぱで抽象的な枠組みとしては、いわゆる巷で言われるような「世代間格差」の議論に近接してくるのだろうけども、より本質的には、現役世代、つまり、「労働する人間」を社会的にどう位置づけるか、という、近年の社会学的・経済学的議論とも絡む話であり(BIを巡る議論などが典型的)、より突き詰めていけば、個人としての人間の「かけがえのない人生」と、種として、あるいは、世代としての人間社会の連続性をどう有機的に連関させて捉えるか、という哲学的議論にも結びついてくる話ではないか、と私は思っている。この展開として、近年熱い反出生主義に関する議論だとか、それに対抗する姿勢を見せている、森岡先生や百木漠先生なんかのアーレントの生命論の再評価がある、とみることもできるんじゃないかな、と漠然と考えていました。
民法学における世代間承継の法的基礎づけの議論や、家族法制・相続法制の改正論、それから、吉良貴之先生がやっているような世代間正義論の話とも関連してくるよなあ、とか。社会の持続可能性の文脈に広げて考えると、ESG投資の倫理的基礎づけ、マクロ経済学的な意味、の議論にも接続してくる。なぜESG投資が勃興したのか、という問題については、世界的な金利低下、資本調達コストの低下によるカネ余り、とか、先進国における低成長の恒常化がそれらの国々の投資家たちに新たな成長分野を見出させた結果だとか、技術革新企業の期待利益率のバブル的な上昇だとか、IT分野の革新だとか、社会変革に関心を持つ新たな世代の台頭だとか、「フラット化」していく世界の必然的な趨勢であるとか、金融論的なアプローチ、技術革新的なアプローチ、社会学的なアプローチからいろいろ言われているわけですが、「有限な個という存在と世代間承継の有機的連関」に対する意識の先鋭化も、影響しているのだろうと思います。なぜそうした意識が先鋭化したのか?ここが問題だと思うのです。
持続可能性の議論というのは、見方を変えれば生命論であり、世代間承継の話でもある。この世代間承継という問題に横糸をぶっ刺してくるのが、シンクレアの『ライフスパン』に代表されるような、「有限な個」の観念自体に挑戦するような超・長寿社会を前提とした保守派の議論なんでしょうね。健康に生きる個人を社会の根本基盤として積極的にイデオロギー化するならば、その極北には、「不健康になる自由」を有しない社会における健康な快楽マシーンとして生きる人間とその社会の憂いを描いた、伊藤計劃の『ハーモニー』の世界がある(いうなれば、厚生労働省しかない世界です)。もちろん、これは一つのディストピアとして。あるいは、世代間承継と階級制度を産業構造と結びつけてイデオロギーとして全面的に社会システムの中に取り込むならば、ハクスリーの『すばらしい新世界』の地平が開けてくる(こちらは経済産業省しかない世界とも言える)。社会のあり方として極北に位置するこれらの社会システムについて、二者択一を迫られるものでは当然ないでしょうし、そうあるべきではない、と、私は思っていますが。
私は、マンションとか土地とか注文住宅とか、つまりは不動産が好きなので、そういう話をするとついでに、「そもそも現代人はなぜ『家を買う』んでしょうかね?」みたいな議論を、賃貸派✕持家派という構図のナンセンスさに絡めてふっかけたくなる。個人のライフスタイルは別にして、普通、人はライフステージに応じて賃貸を選ぶ、持ち家に住む、という営みの「循環」があるのだし、最近の首都圏の不動産市場の騰貴を見るにつけ、そもそも『家を買う』とはどういうことか、歴史的に不動産市場というのはいかなる経緯で形成され、不動産(プロパティ)の承継がいかにして世代間承継の象徴的行為となるのか、みたいな議論をしたくもなってくる(そういう話は150年くらい前にマルクスがしているわけです)。それから、もちろん、集合住宅における修繕積立金・管理費の計画的な積み立てと将来的な建て替えという、居住インフラのライフサイクルが社会問題として意識されるようになったのも、昨今の思想トレンドと無縁ではないわけで。これは少し脱線でした。
そんなことを考えながら、電車の中でサンデルの新刊『実力も運のうち』をパラパラ読んでました(本の内容とダイレクトには関係ないかもしれないけれど。実力主義と世代間承継あるいは世代間格差の関係、そういう文脈でも読める。)。
なお、個人的には、サンデルのこの本の結論は好きではない。謙虚さが能力主義の冷酷さを救済するだろうか。私には、コミュニタリアンとしてのサンデルが公共善というよりも、熟議を信頼しすぎているように思えてしまう(それが彼の立場なのだからどうこう言うことでもない)。能力主義が約束しているように思える無限の自由が、本来重視されるべき公共善的な民主的プロジェクトの義務から関心を逸らさせてしまう、という指摘には納得できるのだけども。
というわけで、またしばらく音信不通になります。
あと、バージニア・ウルフの『波』も休憩時間に買ってきた。読む時間あまりないけど。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?