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ウクライナへの人道支援のためのチャリティアンソロジー『青空と黄の麦畑』

序文

 いまウクライナでは数多くの人々の命が危険に晒されています。本アンソロジーは、公開において得た収益の全てを、ウクライナで「毛布や寝袋等、極寒の東欧で避難を強いられる人々が必要とする支援を届け、逃れて来た難民が性的搾取や人身売買に遭わないよう、保護する」国連高等弁務官事務所(UNHCR)に寄付する目的で作られました。約70作品、計17万字のこのアンソロジーによって少しでも多くの人々の命が守られることを願っています。
 本アンソロジーはUNHCRに寄付する際、noteへの手数料や振込手数料が多々発生するため、多額の寄付を行う場合はUNHCRに直接お振込みください。UNHCRへの直接の寄付は税控除(税制優遇)の対象になり、領収証は確定申告に利用できます。千円から募金でき、クレジットカードやコンビニ払い、払込用紙での支払いにも対応していますので、直接お振込みできる方はそちらをご活用ください。

<UNHCRサイトリンク>

ウクライナ緊急:避難を強いられる家族に人道支援が急務です | 国連UNHCR協会 (japanforunhcr.org)

 本アンソロジーは、当初10人程度の規模を想定していました。告知直後に約70名もの皆様が参加してくださいましたが、編集作業に多くの時間がかかってしまいました。いま苦しんでいる方々への早急な寄付のために、本アンソロジーは10日間の有料期間で集まった金額を全額寄付し、その後無料公開いたします。本アンソロジーの目的は、アンソロジーを通して寄付を募ることだけでなく、アンソロジーを通して皆様一人ひとりが関心を持ち、自身の手で支援の輪を広げていただくことにあります。
 本アンソロジーの作品の取り扱いについては、著作権は寄稿者の皆様に帰属し、本アンソロジーの公開前後を問わず寄稿作品を他の媒体で発表されても構いません。
 最後になりましたが、本アンソロジーに御寄稿くださった皆様やご協力してくださった全ての皆様に感謝申し上げます。ありがとうございました。

令和4年3月27日

星野いのり


結果報告

 本チャリティアンソロジーへの皆様のご協力、誠にありがとうございました。
 また、主催者の多忙により有料期間が当初予定していた10日間より長くなってしまいました。誠に申し訳ありません。
 結論から申し上げると、本企画に際して5万円を募金いたしました。
 それではひとつずつご報告いたします。
 まず初めに、本企画の告知ツイートのインプレッションが11万回を達成しました。本企画は広告宣伝費を全くかけていないため、これほど多くの方々に見ていただけたのは、すべて皆様のご協力のおかげです。ありがとうございました。
 次に、本アンソロの購入者による閲覧回数は2千回弱でした。寄稿者の皆様のご協力により、ボリュームのある内容となり、何度も読めるものとなりました。ありがとうございました。
 そして、このアンソロの収益は合計で4万3千円となりました。
 内訳は、定価500円でご購入された82名分の41000円と、サポート機能により4名の方が定価に500円上乗せして頂いた分の2000円となります。
 noteの申請システムの都合により、noteから私の口座へ振り込まれるのは、3月にご購入・サポートされた3万3千円分は4月末に、4月にご購入・サポートされた1万円分は5月末に振り込まれます。ウクライナの切迫した状況を鑑みると一刻の猶予もないため、先にUNHCRへ私の貯金から振り込み、後日noteから受け取る方式にいたしました。収益は4万3千円でしたが、この企画を応援してくださった皆様への感謝と、ウクライナでいまも苦しんでいる方々への私の気持ちを込めて、5万円を募金いたしました。
 最後に、寄稿者の皆様をはじめとして、多くの方々の支えと応援によりこの企画は大きく成長し、多くのことを成し遂げました。これはひとえに皆様のご尽力のおかげです。本当にありがとうございました。このチャリティ企画はひとつのきっかけだと考えています。この企画自体は終わりを迎えますが、この企画で生まれた素敵な御縁や、このアンソロに心を動かされた方々の手によって、チャリティの輪が広がり、何か新しいことが生まれることを願っています。この度は誠にありがとうございました。

令和4年4月23日 

星野いのり


参加者一覧


目次

俳句

タイトル:空と麦
ペンネーム:星野いのり

タイトル:人間がいなくなる
ペンネーム:西川火尖

タイトル:あっけらかん
ペンネーム:いかちゃん

タイトル:なだれ雪
ペンネーム:村蛙(そんえ)

タイトル:碧眼朧
ペンネーム:うはのそら

タイトル:ぼくの絵の具箱
ペンネーム:わたなべじゅんこ

川柳

タイトル:うぐいす餅オライリー
名前:西脇祥貴

タイトル:蓮根の匂い、肉の味
ペンネーム:月波与生

短歌

タイトル:烏克蘭に
ペンネーム:月岡烏情

タイトル:雨を知らない
ペンネーム:紅坂紫

タイトル: ものすごい輪
ペンネーム: 桝枯井戸

タイトル:春鬼
ペンネーム:泉由良

タイトル:いてもいい
ペンネーム:くろだたけし

タイトル:長い夢・画面
ペンネーム:田島千捺

朗読

タイトル:「春」(堀辰雄『風立ちぬ』より)
ペンネーム:風呂

ラップ

タイトル:不安平
ペンネーム:馬大頭

タイトル:#寝る前の耕也とのおはなし №286(2月8日)
ペンネーム:草野理恵子

タイトル: 伝言ゲーム
ペンネーム: ことの想(ことのそう)

タイトル:果報者たち
ペンネーム:采目つるぎ

タイトル:もくれんのそばで
ペンネーム:群青すい

タイトル:ホットケーキを
ペンネーム:レオレオ

タイトル:白銀の世界は148平方センチメートルの向こうで手招く
ペンネーム:春風亭どれみ(Y.ASHIDA)

タイトル:すいかようび
ペンネーム:泉由良

タイトル:洗濯日和
ペンネーム:泉由良

タイトル:未来宣言
ペンネーム:泉由良

タイトル:母参道
ペンネーム:Comoestanuqui

タイトル:永遠の現実
ペンネーム:ねむみえり

タイトル:十字架の下にも家は無い
ペンネーム:渡辺八畳

タイトル:爆弾
ペンネーム:宮永蕗

タイトル:わたしがみつけたあの空は
ペンネーム:奥田繭

タイトル:日常という平坦な戦場で戦う貴女の、そして僕の物語
ペンネーム:アマリリス

タイトル:壊れた日
ペンネーム:夢沢那智

タイトル:目覚め
ペンネーム:砂丘 めぐみ

タイトル:無言
ペンネーム:伽理野 憬

タイトル:ただ猫のように
ペンネーム:ゆり呼【渡邉裕美】

タイトル:みえない
ペンネーム:ゆり呼【渡邉裕美】

タイトル:幾千万の彼方から 愛してるって叫ぶゲーム
ペンネーム:ゆり呼【渡邉裕美】

タイトル:今はただ
ペンネーム:福士文浩

タイトル:貴方の不滅の魂を届けて
ペンネーム:児島成

タイトル:みえない
ペンネーム:晴

タイトル:(題名なし)
ペンネーム:(匿名希望)

タイトル:愛の渦
ペンネーム:104hero

エッセイ

タイトル:世界中の「君死にたもふことなかれ」
ペンネーム:こい瀬伊音

タイトル:テレフォン・レディ
ペンネーム:カナエ

タイトル:神様の知らないところ
ペンネーム:設楽みいろ

タイトル:はやにえ日記
ペンネーム:糸川乃衣

タイトル:思い出の話
ペンネーム:江永泉(えなが・いずみ)

タイトル:きゅうりのみそしる
ペンネーム:夏川大空

タイトル:骨に咲く薔薇
ペンネーム:Yoh クモハ

タイトル:このパンが焼けるまで
ペンネーム:ぴょん

小説

タイトル:クローバーのカーテン
ペンネーム:風呂
171字

タイトル:秋月国奇譚『山の住人』
ペンネーム:今村広樹 
232字

タイトル:都市の見る夢
ペンネーム:ドーナツ
300字

タイトル:虹
ペンネーム:飛龍さつき
311字

タイトル:月のパレード
ペンネーム:ことのは もも。
431字

タイトル:マイクロノベル連作「ネオンの虎」
ペンネーム:渋皮ヨロイ
528字

タイトル:龍の卵
ペンネーム:阿瀬みち
609字

タイトル:まるでミルクの渦みたい
ペンネーム:鳥鳴コヱス
769字

タイトル:なんらか各組
ペンネーム:ニガクサケンイチ
838字

タイトル:テレビ
ペンネーム:大江信
999字

タイトル:たとえばこんな空回り
ペンネーム:海音寺ジョー
1019字

タイトル:式日
ペンネーム:瀬戸千歳
1100字

タイトル:「一枚物語~日常篇~」 
ペンネーム:鞍馬アリス
1427字

タイトル:「嘉良華リャカ文章選」刊行に寄せて
ペンネーム:葦沢かもめ
1432字

タイトル:左翼線上の恐怖
ペンネーム:小林猫太
1895字

タイトル:tide
ペンネーム:オカワダアキナ
2124字

タイトル:ホンヤクプロパガンゴヤク
ペンネーム:日比野心労
2119字

タイトル:杞憂
ペンネーム:柊とち
2217字

タイトル:空と横顔
ペンネーム:みたか
2273字

タイトル:はだおもい
ペンネーム:和泉眞弓
2579字

タイトル:サンサン号の冒険
ペンネーム:関元 聡
2866字

タイトル:亡命政府で働く
ペンネーム:乙野二郎
2094字

タイトル:月夜の海の水底の夢
ペンネーム:山崎朝日
2304字

タイトル:朔の約束 
ペンネーム:ぬかるみ
3014字

タイトル:白の丘、神使と狗
ペンネーム:里崎
3441字

タイトル:再訪のポーンハブ(Pornhub Revisited)
ペンネーム:暴力と破滅の運び手
5029字

タイトル:虹の夢
ペンネーム:あまるん
5249字

タイトル:最終章 世界は滅びなくて、くまの惑星になればいいな♪
《PLANET OF TEDDYBEAR, I wanna be changing OVER-HUMAN.》
ペンネーム:M☆A☆S☆H
5416字

タイトル:パイナップルの船
ペンネーム:化野夕陽
6581字 

タイトル:あべこべな場所で
ペンネーム:アオ
7944字

タイトル:コンビニエンスストアの宇宙飛行士
ペンネーム:倉数茂
11155字

タイトル:人灯
ペンネーム:川咲道穂
51230字 


俳句


空と麦

星野いのり

雪解けや鎮痛剤は底をつき

侵略侵攻燕難民避難民

どうしても戦地の空へ鳥帰る

いつか火に触るるか万の麦青む

風船を抱きしめている夜だった

土埃春の夜明けの哺乳瓶

何度でも人工呼吸器におぼろ

左手に蝶右手にはベビーカー

春月や紙を掲げることも罪

罪と罰たくさん作るしゃぼん玉

青と黄の春の絵の具をぜんぶ出す


人間がいなくなる

西川火尖

明るくて失語に近き冬木立

雪瓦礫機械翻訳の字幕

反戦と言ふとき顔を撮られけり

通訳の声の被さる春の虹

春の水溜り生まれの魚逃げよ

黒蝶の重さを正確に記す

子の習ふ日本桜が咲くのみの


あっけらかん

いかちゃん

グラノーラがつがつ五月来たりけり

ちんちんに十歳の自負かしわもち

冷蔵庫開けてしばらくして閉める

すり鉢の溝のこまやかなる薄暑(はくしょ)

じゃがいもの花は袱紗(ふくさ)のやわらかさ

木苺を摘みきって恥ずかしい森

ミツツボアリぷくぷく今日も怒られた

砂糖水甘くて人は単純で

金蠅(きんばえ)に舐めてもらえるマグカップ

口どけの良いクリームに似て昼寝

ンコングサンバ産バナナ色の滝

宇宙船からパパイヤを放りけり

ハネムーン・サラダね時の記念日ね

新入りはビールにわさび入れる系

柿の花母は何でも甘く煮た

サニーサイドアップさんさん夏つばめ

白南風(しらはえ)や海鮮丼に赤身咲く

カップ麺しお派しょうゆ派みなプール

ツノ鋭きソフトクリーム日を真上

青林檎あっけらかんと雨上がる


なだれ雪

村蛙(そんえ)

如月の苦しき平和を侵攻す

雪解川跳んでそのまま侵攻す

新聞を読まない亀の鳴く声は

わたしたちを許してください雁供養

おかあさんおかあさん梅開くのに

なだれ雪あやまちはくりかへしませ

三月に言い訳をとろとろと聞く

よなぐもり北回帰線を通る駅

しじみ汁少年兵の涙かな

止められぬなら止まらぬのなら春夕焼

夏みかん父の手に残していきぬ


碧眼朧

うはのそら

火の熱し人に狂気といふ凶器

核の跡爆の始まり二月尽

春寒し戦車の数の正義有り  

少年のカラシニコフや春疾風(はるはやて)

幼子の碧眼朧(あおいめおぼろ)砂袋  

春の夢奏でし指のモロトフを

涅槃雪(ねはんゆき)兵吾子の手をガラス越し

春茜瓦礫の街のかくれんぼ

菜の花や硝煙絶えぬ青い星  

青空へ顔(かんばせ)あげし黄水仙


ぼくの絵の具箱


わたなべじゅんこ

金色のほどけて愛は春の色

春銀河ネイル刮(こそ)げている姉貴

灼熱に自転車俯く西日の矢

夏蜜柑食べる?くれたら食べる夏蜜柑

くまんばちぶうん呑み込む野の女郎花(おみなえし)

貝割菜零して二歳児上機嫌

この街の記憶は君との青写真

雪鳥の影藍色にそらいろに

地の果ては貝紫の色海の色

真っ白な紙にきれいな白魔術


川柳


うぐいす餅オライリー

西脇祥貴

むすんでひらいて兎 兎の大驟雨

鈍器群全世帯から参列す

Pa(ちがう)Du-du(はい)SHANANANANANANA(常時ON)

受け取って受け取って尾に舞う電子

跳躍の練習 こどもはふざけなさい

ひい、ふう、みい、よ、にせものの陽ら、町にもえ、

ふざける額に米、米雨、雨米米米雨米

〽つきませな こめ つち ついて はるはやて

うなり音(餅に呑まれる水の星)

かなしんでくれるあなたは全音符


蓮根の匂い、肉の味

月波与生

蓮根を食べると穴の味がする

階段の多い部屋から月面へ

空き瓶に誰でもよかったを詰める

おんな乗りすると夜霧になる木馬

稜線を見せ合う初めての人と

マジシャンの鳩を並べる仮眠室

よく笑う方が傷んでいる蜜柑

ボランティア終わり乾電池に戻る

神無月以外はヤドカリと暮らす

ヘブル語は通じず傘も持っていない

死に顔と寝顔を分けている水辺

無理数のすべてを点描画の鳥へ

空腹の金魚を捨てる金魚売り

目玉   おやじ解体されクーデターらし

出入口にあるきれいな汚物入れ

水のない絵本で溺死する鯨

右足は印度に行ったことがない

菫にも過去は興味のない話

天丼の海老もほどよく慌てている

戦争も平和も肉を焼く匂い


短歌


烏克蘭に


月岡烏情

そして花、言ひさしてのち 海空は とほけれ 國が人を殺しき


雨を知らない


紅坂紫

切り開かれた生きものらを見ていた(その日たたかい始まったんだ)

かたづけてぬぐってもなおのこるあか不可逆であることを思えよ

薄皮を隔てたような場所にいて祈ることしかできない、誰か

春のとおいとおい街から来た便りばりりと開けてキスをした春

雨降らずとも固くなる大地あれ そこで揺らめく花を知りたい

土踏まずくぐる風から花になる「パリは燃えているか」を流した

春のちかいとおい街へと出す便りキスした切手貼り終える春

泣くことができる怒ることができる繋がる意味をもう知っている

かたづけてぬぐってもなおのこるあか忘れることを恐れ続けよ

切り開かれた生きものらを見ている(この日戦い終わらせるんだ)


ものすごい輪

桝枯井戸

口がある銃にない耳 聴くことをやめればひとは銃弾を吐く

その街の猫は、木陰は、向日葵は、図書館は無事ですか? あなたは?

手を止めて甘く綺麗で繊細なお菓子を食べてください、どうか

食べたくもないパンを食う日々の果ての撃ちたくもない銃を撃つ日だ

弱くある権利がほしい奪われず軽視もされずただ弱くある

永遠の積み木 ひとつを語るのにことばをひとつひとつ尽くすよ

牛乳のやわらかい泡たいせつなものほどとてもたやすく消える

その泡がちゃんと勝ちとる場所もある プリンに確固たるスが入る

声帯はこの世の震えるものすべて 肩/窓ガラス/まつ毛/水滴

ドーナツのものすごい輪だ銃口が敵いもしないものすごい輪だ


春鬼

泉由良

猫の仔を助けられない雨の日はせかいいち弱いにんげんになる

錆びついた缶に砂糖水貯まらない花の枯れた翌日だつた

鳩尾に鳩尾あつて心には心が無くてとても苦しい

熱心に蒸留水を磨く人 それは水だよ? だれの生涯

幸福と氷砂糖と琥珀石 良きものは皆うつすらしてる

水差しに水を生かせり曇りの日(さみしくてもね)仰ぎみる空

この夜は明けるのだからと云はれても暗闇が嘘になるわけはなく

嘘をつき過ぎた日町に光あれ瞳は私の通風孔だ


いてもいい

くろだたけし

晴れないとわかってからは青空を思い出さない人のしあわせ

詳細は不明のままで昼下がり短く鳴ったおもちゃのラッパ

てのひらのサイズで殴りあう人を見ているわりに特権はない

落とされるために上まで来たのだとわかったときはあきらめていた

約束を破ったあともずっといる日付を越えてくっついてくる

朝からの雨に時計は乱れても昨日にまでは戻らぬ仕組み

アンテナが余計なことも受信するでもスイッチを切れば沈黙

壁を抜け声は聞こえてしまうこと忘れて皆が叫び始める

写真屋は何を思って消えるのか薄笑いする顔が縦横

あの頃のわたしは時間割でした閉まり始めたドアなのでした

無自覚に破れないって決めつけてもし破れたらどうするつもり

透明になれる薬を飲んだあと他に類のない体臭になる

人食いの花もいずれはあらわれる誰も行かないトンネルの先

羽ばたいて羽がないのはわかっても手をつないだらふりもできない

どこからかやってきたのと前後してそれはかぼちゃと呼ばれ始める

うしろからいつも引かれているせいでうっかりすると歩幅が狭い

今もまだ耳をすませている僕に厚みのなさを自慢されても

すべすべのあなたの脚と毛だらけのわたしの脚にそれぞれの夜

憎んではだめと言われて飽きている祭りの鬼の数はあいまい

信頼のために生身の眼を見せて静かな夜の薬を配る

冬が来るまでにはちゃんと太ります甘いイモだけ苦手なのです

見覚えがあるものが皆古くなりわたしは石になったりもする

汚れてはいなかったのにまみれてもそれがほこりと思われるまで

置き場所が決まらないって最後まで裸のままで捨てられちゃった

テーブルや椅子に威厳がある部屋の鹿の頭の眼はのぞき穴

あきらめることはできても夏はもう来ないと決めることはできない

順番に夜は明けると伝言が残されていて間違い電話

見た夢を思い出そうとする夢を見ているうちに現実が来る

少しずつ溶けだしている雨の日にぬかるむ土は靴底の下

自転車は乗らずにいたら錆ついて川は流れて怖いと思う

恋文のように赤赤実ったと売られていても素通りでした

怪しくはないのですよと笑っても出てくる声が鴉の声だ

この道がどこかへ続く道ならばどうして誰も来なかったのか

会わなくていい人だったさらさらになりたくなって水だけを飲む

おたがいをゴミと罵る僕たちは同じ種類に分別された

すれ違う配達人に見覚えがあるような気がどこまでもする

この部屋の明るさからはわからない午前か午後か三時の時計

間違えてあいつを虫にしたせいですぐ逃げられて殺せなかった

塩味にたちまち飽きてテーブルを離れ窓から抜けだせば海

ひとりでも黙っていても言葉ならそこらあたりを漂っている

天気図の通りに風が強くなるいてもいいけどいなくてもいい

触れないでいるから何も感じないそしておそらく触れないでしょう

のぞいたら中の誰かと眼が合ってつらいことだけ思い出すかも

配られた隙間だらけの台本の役を取れない人は透明

月へ行く船に勇んで乗りこんだみんな同じだコケシの顔だ

存在を証明したら新しい税が増えたりするのでしょうか

わたしには引けそうもないなめらかなラインがあってそれもよかった

あたたかい本があるから大丈夫ランドリーにて待っていますね

宇宙的音階が鳴る口笛にしては大きく風の隙間で

認証を指紋で済ませ開く鍵あんなに雨に濡れたあとでも


長い夢・画面

田島千捺

池に雪ふれるはしから消えていく夜のあしたは凍るだろうか

ともだちの知り合いがいま国境に、だから、ではない。あぜ道に泥

翻訳のたぶん区切りをまちがえた半角までをゆっくりなぞる

ひと晩を眠りに冷えた足首をさすれば夢の手はうすらいで

*** *****なかったことにできなくてテレビに注ぎこむCIAOちゅ~る

思おうとするときとってもいい話 映像 スクリーンショットされた

眠るにも夢は重たく戦勝のパレードの日を一昨年知った

雪かきに硬い土から土を削ぐ感触だけが二の腕にある

息災を祈れば入りこむ夢のそれでもどうか悪夢を終えて

バス停の降りたところの空き地から月がいつもは見えているはず


朗読


「春」(堀辰雄『風立ちぬ』より)

風呂

【朗読本文】「春」(堀辰雄『風立ちぬ』より)
「これはライラックだったね?」と彼女の方をふり向きながら、半ば訊くように言った。
「それがどうもライラックじゃないかも知れないわ」と私の肩に軽く手をかけたまま、彼女はすこし気の毒そうに答えた。
「ふん……じゃ、いままで嘘を教えていたんだね?」
「嘘なんか衝きやしないけれど、そういって人から頂戴したの。……だけど、あんまり好い花じゃないんですもの」
「なあんだ、もういまにも花が咲きそうになってから、そんなことを白状するなんて! じゃあ、どうせあいつも……」
 私はその隣りにある茂みの方を指さしながら、「あいつは何んていったっけなあ?」
「金雀児?」と彼女はそれを引き取った。私達は今度はそっちの茂みの前に移っていった。「この金雀児は本物よ。ほら、黄いろいのと白いのと、莟が二種類あるでしょう? こっちの白いの、それあ珍らしいのですって……お父様の御自慢よ……」
 そんな他愛のないことを言い合いながら、その間じゅう節子は私の肩から手をはずさずに、しかし疲れたというよりも、うっとりとしたようになって、私に靠れかかっていた。それから私達はしばらくそのまま黙り合っていた。そうすることがこういう花咲き匂うような人生をそのまま少しでも引き留めて置くことが出来でもするかのように。ときおり軟らかな風が向うの生墻の間から抑えつけられていた呼吸かなんぞのように押し出されて、私達の前にしている茂みにまで達し、その葉を僅かに持ち上げながら、それから其処にそういう私達だけをそっくり完全に残したまんま通り過ぎていった。
 突然、彼女が私の肩にかけていた自分の手の中にその顔を埋めた。私は彼女の心臓がいつもよりか高く打っているのに気がついた。「疲れたの?」私はやさしく彼女に訊いた。
「いいえ」と彼女は小声に答えたが、私はますます私の肩に彼女のゆるやかな重みのかかって来るのを感じた。
「私がこんなに弱くって、あなたに何んだかお気の毒で……」彼女はそう囁いたのを、私は聞いたというよりも、むしろそんな気がした位のものだった。
「お前のそういう脆弱なのが、そうでないより私にはもっとお前をいとしいものにさせているのだと云うことが、どうして分らないのだろうなあ……」と私はもどかしそうに心のうちで彼女に呼びかけながら、しかし表面はわざと何んにも聞きとれなかったような様子をしながら、そのままじっと身動きもしないでいると、彼女は急に私からそれを反らせるようにして顔をもたげ、だんだん私の肩から手さえも離して行きながら、
「どうして、私、この頃こんなに気が弱くなったのかしら? こないだうちは、どんなに病気のひどいときだって何んとも思わなかった癖に……」と、ごく低い声で、独り言でも言うように口ごもった。沈黙がそんな言葉を気づかわしげに引きのばしていた。そのうち彼女が急に顔を上げて、私をじっと見つめたかと思うと、それを再び伏せながら、いくらか上ずったような中音で言った。「私、なんだか急に生きたくなったのね……」
 それから彼女は聞えるか聞えない位の小声で言い足した。「あなたのお蔭で……」


ラップ


不安平

馬大頭

外発的な思考の 正義を手にして、

「戦争をやめろ。」と文字に起こして。

こんな時に何も 言えなくなる様な

ラッパーになる為にやってるんじゃないよ。

皆怖いよ、分かってる分かってる。

でもだからこそ歌うべきなんだ。

【幼稚園にミサイル】の見出しが出てた。

それが今この世界のリアルだ

沢山の命が たった今も消えてる。

同じ空の下 悲劇が起きてる。

武力じゃ不幸しか生まれないから

僕らが言葉で変えないといけない。

声を上げて何も変わらなくとも

何かを変えようと 重い腰をあげることが

ラッパー、いやオニヤンマとしての

人間としての、在り方だ。

NO WAR. NO WAR. 今叫ばなきゃ

NO WAR. NO WAR.今動かなきゃ

怯えて逃げて言及もしないで

それで何が 表現者だよ。

NO WAR. NO WAR.変えていくんだ

NO WAR. NO WAR.悪役代表が

1人じゃ何にも変えられなくとも

WE ARE THE WORLD.おんなじ命

語りたい物 叫びたい事

高くなる鼓動 と 本当の音。

誰か一人のための世界じゃない。

武力じゃ何にも変えられない。

ロシア兵が涙目でキエフの街で

ウクライナ侵攻に嘆いたビデオ

ひまわりの花を胸に咲かせて

陽だまりの中で泣いている。

HeyYou プーチン 名指しで問いたい

形を変えても残らない物

お前にそれが分かんのかよ。

命の重さに代わりはない

黙認をすれば サイレントマジョリティー。

臆しちゃダメだ。戦おう。涙を

流しても 言葉を 止めはしないぞ

平和を歌え ヴィランレペゼン

NO WAR. NO WAR. 今叫ばなきゃ

NO WAR. NO WAR.今動かなきゃ

怯えて逃げて言及もしないで

それで何が 表現者だよ。

NO WAR. NO WAR.変えていくんだ

NO WAR. NO WAR.悪役代表が

1人じゃ何にも変えられなくとも

WE ARE THE WORLD.おんなじ命




#寝る前の耕也とのおはなし №286(2月8日)

草野理恵子

私:じゃあね。

「えーんえーん」誰の声?

耕:どれみふぁ

私:どれみふぁさんが泣いています。

誰かなぐさめにこないかなぁ?

耕:ばいばいばい

私:そこへバイバイさんが通りかかりました。

バイバイさん助けてあげて!

バイバイさんは「はい」と言いましたが、すぐ「バイバイバイ」と行ってしまいました。

バイバイさんなので仕方ありません。

耕:くつした

私:おっ。

靴下さんがやって来ました。

これは期待できそう。

耕:おしっこ

私:靴下さん、急におしっこを始めました。

耕:ぷー

私:おまけにぷーとおならもしました。

耕:わらったかお

私:どれみふぁさん、思わず笑ってしまいました。

耕:うー

私:どうしたんですか?

耕:おこったかお

私:靴下さんは怒った顔を見せました。

なので、どれみふぁさんも次は怒った顔をしてみました。

するとあらあら不思議、泣きたい気持ちはなくなって……。

あんしんしてあんしんして……おやすみなさい。

(どれみふぁさんが笑ってるの図)

*次男のこうやは主にドラべ症候群によるてんかん発作のため重度の知的障害を持っています。お話を作ってから寝ることを続けて、それを一年ほど前からツイッターにあげています。

読んでくださってありがとうございます!


伝言ゲーム

ことの想(ことのそう)

人から人への
伝言ゲーム
何処で誰が
関わったのか?
やさしい言葉が
次々に削ぎ落とされて
痛々しい言葉ばかりが
伝えられる
あの人が告げたの?
あの人がつぶやいたの?

正確に言葉を
伝えるためのゲームなの
でもね
あの人の所に行って
聞き直す事はできないの

本意ではないが
泣く泣く
あなたの伝えた言葉を
口にするのであった

this game must be finish.
もうさ、こんなゲームは
やりたくないよ。


永遠の現実

ねむみえり

沢山のマッチに火を灯し続けたい
一瞬が幻影なら、永遠を現実にしたい

手も繋げないわたしたちは
目配せし合うことしかできない

時計の針を遠ざけ続ける
終わらない、終わらせない

私たちは幸福になる
祈りだけじゃなく、あの未来たちのために、だから


果報者たち

采目つるぎ

偏在する欲は
それでも死蔵すらままならなくて
誰の手も届かない象限に向かうから

俗に溺れろ
俗から逃げるな
最後の一滴まで使い切りなよ
果報者たち


もくれんのそばで

群青すい

もくれんのそばで
いつもゆめをもやした
さまざまないろのけむりが
さまざまにもくれんをそめた
せかいはとてもしずかで
じぶんのまばたきのおとすらきこえる
しんぞうのおとはとおかった
みゃくだけがはだのうえでなみのように

もくれんのそばで
いつもうそをついた
いろいろなうそのひらめきが
いろいろにもくれんをいろどった
それはうつくしく
ときにみにくく
あたたかいないふのように
ひえきったてのひらのように
ちはあかくなみだはみえず
それでもこのひといきに しんじつはいきづく


ホットケーキを

レオレオ

ママ、ママ
今から私は大好きな人と結婚します
とても幸せです。
ウェディングドレスもケーキもダンスも音楽もないけど、今この瞬間にしたいと思った事を出来る命と勇気があることを感謝しています。
でもね、ほんとは、本当は、ママの焼いたホットケーキを、日曜日の朝に、たっぷり蜂蜜をかけて食べたい。
ママとパパに幸せな瞬間をみてもらいたい。

ママ、ママ
いつまでもあなたの事が大好きです。
きっとあなたの作ったホットケーキを、大好きなこの人に食べてもらえる未来が来るように生きていたい。


白銀の世界は148平方センチメートルの向こうで手招く

春風亭どれみ(Y.ASHIDA)

何処の誰かが 仕事始めに だるそうに
首を鳴らして 液晶画面と 睨めっこしている そんな時
私はといえば 藪を掻き分け 車輪に巻いた鎖を

ザリリ…… ザリリ……

としわがれた アスファルトへと 打ち据えて
道なき道を だいたい時速30キロメートルほどで 駆け抜けている
さながら 給料を貰って野山を這いずり回る イタチか狸にでもなった気さえすることも 暫しある

ならばさしずめ 今日はオコジョか 

いいや自身を 妖精よばわりなんて 烏滸がましいか
などと馬鹿げたことに 思い巡らす時間は 本来はない
ステップを降りて 重心を落とすと

ズム……ムム……ム……

大地が軋んで 音を立てる
ヨチヨチ歩きで 銀の箱の佇む 庭先へ向かい そして戻る うっかり滑って 世界を真っ逆さまにしないように

こりゃ あっちの急勾配を登るのは かなわんな

連絡が来るまでと カブのリアから 魔法瓶を取り出して 蓋を逆さに 淹れてきたほうじ茶を啜る 柔らかい信号の灯りが 恋しく思える
どっかり 農耕車優先道路 なんて書かれた立看板に 腰を下ろして 景色を眺め 私は口から 小さな雲を吐く
人影はなく 瓦の屋根も すすき野原も あまり見慣れぬ 雪の化粧に 戸惑いながらも 白き沈黙に浸ったままで 
数刻前まで 旭と呼ばれていたものだけが 高いところから 私を見下ろしている
ふと私は 手にしていた紙片と景色とを 見較べ そして呟く

どうやら 私の方が 絵はがきの向こうの世界に 来ちゃったみたいだ


すいかようび

泉由良

さあ
四月のエデンにお入り
楽園の扉が開き
果糖を味わうことも赦される
今日はすいかようび

甘い蜜を吸って陽射しを浴びよう
今日はすいかようび
すっぱい甘い優しい果実
つめたい遠い明るい真実
空は爽快
とんぼひこうきが白く舞い上がる
今日はすいかようび

私のくちからはやがて
忘れていた母国語がこぼれだす
あなたの唇もとても素敵なかたちをして
遥か遠い祖国の旋律を歌い始める
舞い上がる羽根飛沫
墜ちてゆく人々の抜殻
ころり転がる言葉魂
今日はすいかようび

それは水曜日と火曜日の狭間にある
ほんのうっすらとした一瞬の奇跡
遥かコーカサスの岩合いで朽ちてゆく形骸と
エデンの園で西瓜糖蜜を嘗めて微睡む心
満ち足りた笑みを浮かべ目を閉じて
幸福へと墜ちてゆく
今日はすいかようび


洗濯日和

泉由良

ぴんと張ったロープ一面に白いシャツがはためく
ずらりずらりと並んで青い空にはためくシャツたちよ
一番端の白いシャツには赤い天使がわらっている
真ん中らへんの少々狡賢い一枚には銀の鎖が引っ掛かる
斜め下の小さなシャツには優しいキスを!
 
なんという洗濯日和だろう

かあさんも満足そうだ
ねえさんも満足そうだ

赤ん坊も今夜は陽の香と
ヴィタミンのなかで眠れるのだろう

青い空も満足そうだ
黒い鳥も満足そうだ
なんという洗濯日和だろう
 
洗濯機も満足そうにぐるぐると回っている
かあさんがシャツを脱水機にかけて
ぎゅるりぎゅるりとハンドルを回すのは末のいもうとだ

みんなが今夜は日光とヴィタミン豊富に眠れるだろう
ロープを渡した庭の樹木も今夜は酸素と二酸化炭素を巧妙に
呼吸しながらまどろむだろう
洗濯日和の楽しさや

粉洗剤の箱とコーンフレークの箱が双生児
かあさんは調子にのってパンケーキも庭で焼く
ねえさんと妹たちは歓声をあげて糖蜜をかける
赤ん坊の木陰の揺りかごに栗鼠たちがそっと近づく
なんという洗濯日和だろう

洗濯日和の楽しさや
みんなが今夜は日光とヴィタミン豊富に眠れるだろう


未来宣言

泉由良

夜の帷が
霞雲になる頃には
蔑みの瞳に憐れみを
哀しみの雲雀に微笑みを
痛みの消えない背中には
引きちぎられた羽根の痕が
契る
ねえ 何処へゆこう? というよりは
何処ならゆけるかな?

春曜日の早朝
羅紗の衣を羽織って
出掛ける

朝をさえずりが鳥篭のなかで
赤いカナリヤは
唄を忘れて幾数年
かなしみわすれていく年月
正す
ねえ 何を歌おう? というよりは
何なら歌えるかな?
安っぽい言葉並べてまた嘘吐き娘に戻る

眺めている感情のない吐息
紫月の午前は
白い心が汚れない
悟る
ねえ 何をしよう? というよりは
何なら出来るかな なんて訊くのは莫迦らしい ぜ
息をしろ
そして生きろ

いつか爆弾が落ちたあと
薔薇の雨降り注いだ
焼け失せた街の瓦礫

この血に
この地に
みゃくみゃくと流れているあの焼け跡の記憶を
語り継ぐため
契る
さあ
息をしろ
そして生きろ
どんな圧力でも受け止めて
護るため争うような愚かさをかなぐり捨てて
僕らの未来は歌いながら
生きろ

知らない唄を歌いながら
いつも 生きろ


母参道

Comoestanuqui

僕はお母さんを知らないから、
お母さんに逢うための比喩は要らない。
白鳥のように長い首をもたげたり、
揺れる馬のたてがみは、
お母さんを支えてきた楼閣だ。
子馬の痛快な走り方が、
跳ねあがる心臓へ、
研がれた爪を立て、
希望と絶望の波にもまれ、
かわるがわる、
海底に沈んでゆく。
化石になればいつか記憶に逢える。
からだじゅうで、
お母さんが言っている気がする。
僕から離れた償いを、
岸壁に砕ける羊水が削りとり、
暗闇を照らしながら、
まっすぐ突き進む海の、
満月の参道には、
今夜も人の往来がある。
お母さんは、
生きているのか
死んでいるのかわからない。
そのような、
産声も聞こえないところへ、
手をあわせに上って行く人や、
手をあわせて下りて来る人がある。


十字架の下にも家は無い

渡辺八畳

十字架の下にも家は無い

たまに夜空が光るだろう
眠る星をも無理やり起こす閃光
それと共に引き裂かれた空の形だよ

ミシェルミシェルミシェル
ポーレットポーレットポーレット

せめて犬は寂しくないよう
せめて犬はここで安らげるよう

✝✝✝✝ かみさま あの ✝✝✝✝ 
✝✝✝✝ 子は どこへい ✝✝✝✝ 
✝✝✝✝ くのでしょうか ✝✝✝✝ 

ミシェルミシェルミシェルミシェル
ミシェルミシェルミシェルミシェル

(映画「禁じられた遊び」から)


爆弾

宮永蕗

どこか

眠らされている

みたい、繰り返す毎日に、世界、

なんか、見えない

誰もがどこかに病を抱えているにしろ

誰それが入院しただの亡くなっただの

そんな話も聞かなくて

他人事のようにニュースを聞いている。

平和、振り返ればかけがえのない、

いつか、幸せだったと思い返すときが来ると、

大切に噛みしめなければならないと、

言い聞かせてはみるけれど

この前食べたパン屋さんの

あのシナモンの効いたのがまた食べたいなって

スーパーに買い物のついでにパン屋に寄って

叶えたいことがあって良かった

小さな欲望があって良かった、まだしも。

金曜の夕方、忙しげに

市街地方面に車を駆って信号待ちをしている

一台一台の窓を叩いて掴んだ肩を揺さぶって

「ねぇ、どこいくの。

どんな大事な用事があるの、ねぇ」

訊いてみたい

雨の日の通勤

晴れの日の通勤

同じ道を行って、戻って、

あとは帰宅後、車に乗って

時折スーパーに買い出しに行く

だけだよ、わたしの毎日は

あ、大根、200円超えた。

どこか

眠らされている

か、壊死してしまっている

かもしれないけれど、

どこをどうしたいのか

気づけない、どこかが、

眠らされている、からね。


わたしがみつけたあの空は

奥田繭

わたしがみつけたあの空は
あなたの空となにがちがうの
わたしがさわったあの命は
あなたの命となにがちがうの

ゆっくりと息をすいこみ
ゆっくりと息をはきだす
時々ゆっくりと窒息して
時々ゆっくりと時をとめるツナワタリ

あなたの四肢は鼠色の毛に覆われ
わたしの顔は鮮やかなピンクのかたまり
だからふたりは影絵のなかで
近づいたり離れたりを繰り返すの

拍手は聞こえない幕の内側で
他人の息づかいをとらえようと四苦八苦 
足はからまり 歌は遠吠え
時間がくるまで 明日の幕を願いながら

顔のない群集は与えられた役もなく
指揮者の顔に答えをさがして右往左往
入り口は入り口 出口は出口
逆走したら もはや戻れないと知っている

わたしがみつけたあの空は
あなたの空とはまったくベツモノ
わたしがさわったあの命は
あなたの命によく似ているのカモシレナイ


壊れた日

夢沢那智

ある日
遠い国の空が壊れた
遠い国のことなので
みんなスマホで傍観していた

壊れた空からは
無数の破片が落ちてきた
そして欠けた部分から
炎の雨が降りはじめた
人々は悲鳴を上げて逃げ惑い
次々に焼かれ溶かされていった

「これは他人事ではない」
「何とか助けてあげないと」
何人かが声を上げたが
みんな鼻で笑うばかりだった
だって、心が壊れていたから
ずっと前から壊れていたから

みんなスマホ越しの地獄を
わくわくしながら眺めていた
どれだけ酷い感想を言えるか
夢中になって競い合った

その日
自分たちの空も壊れた
その時になってやっと
他人事だった人たちは気付いた
空はつながっているという
当たり前すぎることに

壊れた空からは
無数の破片が落ちてきた
そして欠けた部分から
炎の雨が降りはじめた
だけど人々は逃げもせずに
スマホを空に向けていた
そして最後まで
現実を直視することもなく
炎の雨に焼かれていった

炎は人だけでなく
鳥や獣たちも焼いた
罪がある者も無垢な者も
容赦なく平等に焼いていった
作りかけの新たなバベルの塔も
祈りの声も精霊たちの歌も
人がついにたどり着けなかった
あの場所を書き記した書物も
すべて終わりの炎に包まれた

壊れた神さまだけが
泣きながらそれを見ていた


日常という平坦な戦場で戦う貴女の、そして僕の物語

アマリリス

演題:日常という平坦な戦場で戦う貴女の、そして僕の物語

序章:開戦前夜

開戦前夜の静かな海 澄みわたる空 輝く星

貴女のやさしい子守唄は もう聴こえない 聴こえない

朝日が昇ったら始めよう この透明な銃に弾を込めて

朝日が昇ったら始めよう この透明な銃にありったけの弾を込めて

毎日が開戦前夜 毎日が宣戦布告
毎日が開戦前夜 毎日が宣戦布告
毎日が開戦前夜 毎日が宣戦布告
毎日が開戦前夜 毎日が宣戦布告

ここは戦場

「戦場で煌めいている人生があれば
 居酒屋で煌めいている人生もある」

「戦場で知らない誰かに撃たれて死ぬよりは
 今ここで貴女に終わらせてほしい」

第1章:戦場とエロティシズム、感情の死

軍服を着た あの女は 薔薇のように とても美しい
黒い革の 編み上げブーツに 僕はそっとキスをした

世界中が マスターベーション 空は曇り 黒い雨が降る

あの女は ピストルを握り 僕のこめかみに 銃口を向けた
引き金を引く瞬間に 一瞬でも僕のことを 想ってくれたならば

僕は幸せ

僕の赤い感情は死んだ
僕の赤い感情は死んだ
僕の赤い感情は死んだ
僕の赤い感情は死んだ

ブーゲンビリア 南の島 壊れた戦車 あの女の笑顔

「貴女が日常という平坦な戦場に飛び立ったその朝
 ベランダで季節外れの朝顔が一輪咲きました」

第2章:白鳥、そしてミミ

昔 愛した 13人の女の 写真がしまってある
パイン材で出来た 机の3番目の 引き出しの鍵を開けた

13枚の写真を部屋の壁に貼って
13本のダーツの矢を投げて刺した

どうして涙なんて流れるのだろうか
どうして涙なんて流れるのだろうか

美しい白鳥が僕の部屋から
大空に向かって飛び立ってゆく

ねえミミ ベランダの朝顔が咲いたよ
朝の雫越しに見える外の風景

美しい白鳥が僕の部屋から
大空に向かって飛び立ってゆく

ねえミミ 君のその純粋な笑顔を
僕だけに見せてくれるのならば
僕はどんな汚いことでもするよ
世界中の人を殺してもかまわない

「部屋に残された貴女の白いワンピース
 僕は顔を埋め残り香を…」

第3章:貴女の残り香、奏でる旋律

着る女のいない 白いワンピース
微かに漂う 残り香を探して

弾く女のいない 古ぼけたピアノ
微かに聴こえる 旋律を探して

貴女のいない こんな街なんて
滅茶苦茶に 壊れても構わない

神様 僕が犯した この罪は
許してくれなくてもいい だけど
あの女だけは 返して…

貴女のいない こんな街なんて
滅茶苦茶に 壊れても構わない

Hello , hello , how low ?
貴女が望んでた そちら側の世界は 大丈夫ですか?
Hello , hello , how low ?
僕が残された こちら側の世界は…

「ラジオから神様の声が…」

第4章:ラジオ

枕元のラジオから 神様の声がするよ
お前は南へ向かえ お前は南へ向かえ
ベッドから飛び出して 古い鞄に荷物を
詰め込んで外へ出るよ 太陽の指す方へと

あななたちの作り話 聞き飽きたよ さよならするよ

街のノイズにさよなら
愛のノイズにさよなら
生のノイズにさよなら

ピストルに弾を込めた

「貴女を追いかけて僕は海沿いの街へ」

第5章:L.A.ブルース

僕は僕を捨てるために
この街に辿り着いた
ホテルの近くの酒場で
偶然出会った天使
ジンライムを片手に
酔っぱらった天使
彼女はにっこり微笑んで
僕にこう囁いた

「ごめんなさい 天国にあなたの場所はないの」

サンタモニカのレストランで
天使と僕は食事を楽しんだ
モーテルの軋むベッドで
抱き合って眠った

差し込む朝日で目覚めた
枕元のラジオのスイッチを入れた
ジム・モリソンが歌っていた
THE END

隣に天使はいなかった

天国の扉の
鍵を失くした
もう二度とそこには
行くことは出来ないのか

天使さんお願い
僕を連れてって
向こう側の世界に
今すぐに

第6章:サンフランシスコ

路面電車に乗って
坂を上り降り返る
空と海と太陽
ママの腕の中のベイビーの微笑み

路上に座り込んでる
彼に煙草をあげた
チャイナタウンのレストラン
脚の綺麗なウェイトレスの微笑み

貴女のいないこの世界では
生きていけるはずなどない
この太陽とひとつになって
このまま海に溶けても構わない

サマー・オブ・ラブの亡霊
紫の煙の煙草
骸骨が踊ってるあの十字路
古いジュークボックス
ジャニス・ジョップリン
歌っているのは サマータイム

貴女のいないこの世界では
生きていけるはずなどない
この太陽とひとつになって
このまま海に溶けても構わない

「あの自転車の後ろに貴方を乗せて乗せて
 僕はどこまで行けるだろう」

第7章:グラスホッパー

レースのカーテンの
隙間から差し込む
朝日につつまれた
水色の表紙に
貴女の名前が
書いてある日記を
そっと開いた

少しだけ右上がりの文字で書かれた
貴女の世界は遠い場所へ

グラスホッパー そう名前つけた自転車の
グラスホッパー 後ろの席で笑ってる
グラスホッパー 白い服の貴女と
グラスホッパー 僕はどこまで行けるだろう

夏の朝の海岸で
作者のいない日記に僕は
しずかに火をつけた
波の音が揺れていた

花瓶の中で枯れたひまわりのように
貴女の世界は遠い場所へ

グラスホッパー そう名前つけた自転車の
グラスホッパー 後ろの席で笑ってる
グラスホッパー 白い服の貴女と
グラスホッパー 僕はどこまで行けるだろう

グラスホッパー 白い服の貴女と
グラスホッパー 僕はどこまで行けるだろう

「日常という平坦な戦場で戦う武器
 僕たちはそれを手に入れた
 その名は…」

第8章:ロックンロール

街はずれにある 丘の上の 古ぼけた墓地
失われたものに 別れを告げ 花束を贈る

ピストルを入れて 箱に鍵をかけて

僕だけのロックンロールを歌う時がきた
大きな声を出してギターを手に取って
僕だけのロックンロールを歌う時がきた

ブルーズよ さよなら

雨上がりの街 済んだ空気 動き始める
空を見上げて 傘をたたみ 歩き始める

雲の切れ間から 光差し込んで

僕だけのロックンロールを歌う時がきた

大きな声を出してギターを手に取って
僕だけのロックンロールを歌う時がきた

ブルーズよ さよなら

雲の切れ間から 光差し込んで

僕だけのロックンロールを歌う時がきた
大きな声を出してギターを手に取って
僕だけのロックンロールを歌う時がきた

ブルーズよ さよなら ブルーズよ さよなら
ブルーズよ さよなら ブルーズよ さよなら

雨上がりの街 済んだ空気 動き始める
空を見上げて 傘をたたみ 歩き始める

終章:朝をつくろう

しあわせになりたい
ただそれだけなのに
どうしてその望み
叶わない

一緒に朝をつくろう
眩しい朝を
たとえそこに絶望しか
なかったとしても

しあわせになりたい
ただそれだけなのに
救いの扉は
閉ざされたまま

一緒に朝をつくろう
眩しい朝を
たとえそこに絶望しか
なかったとしても

一緒に朝をつくろう
眩しい朝を
砕け散った希望のかけら
この手にあつめて

しあわせになりたい
ただそれだけなのに


目覚め

砂丘 めぐみ

私たちが眠っている間に
たくさんの星が空を流れていく

私たちがマスクをしている間に
梅が高く香って散っていく

私たちが音楽を聞いている間に
不死鳥がさえずり飛んでいく

私たちが携帯を確認する間に
ほら金色の猫が足元をすり抜けていったよ

追いかけて、追いかけて
ふさふさしたしっぽを
燃える羽根を
やわらかな花びらを

星の影に手を伸ばしたら
大地の底から全てをひっくり返すような
茜色があらわれました
朝です


無言

伽理野 憬

光忘れ行く夕暮れに私たちは佇んでいた

彼が別れを告げるというのだ

私は止めなければならなかった

「ちょっと待って。草木も、夜空も、月も、皆泣いている。」

彼は振り返ってこう言った

「それは君が泣いているんだろう?君が気付かないから、周りの生き物や空なんかが君の真似して教えてくれてるんじゃないか」

私はハッとして大きく空を見上げた

さっきまで月だった筈の太陽

夕暮れだった筈の紫色の雲を押しのけ柔らかい光で照らす

草はしなやかに優しくたなびく

両手を大きく広げると

湿った暖かい風が私を包んだ

皆思ったほど怖くはなかった

私はこの草原の中を 一人で

歩いていくのだろう

ふいに涙があふれ 私は泣いていた

私はさようならを言わない

決して言わない


ただ猫のように

ゆり呼【渡邉裕美】

過ぎ去った雨に宿る屋根

恋しい想いを雫が知るの

水溜りには空の虹

1つ垂らせば消えてゆくのね

木立の上にいわし雲

永遠に広がるさまにも似て

ただ猫のように1つ啼く


みえない

ゆり呼【渡邉裕美】

宙にある星も月も

昼間には姿隠す

確かにそこにあるのに

見えない

まるであなたの想いのように


幾千万の彼方から 愛してるって叫ぶゲーム

ゆり呼【渡邉裕美】

これはゲームだって知ってるわ
あなたも
私も

熱くなった方が負けだって事も

だってゲーム
知ってるわ

愛されるとか愛すとか
サイコロ一つで決まるんだって事

けどねもうコマは置いたの
幾千万の彼方から

愛してるって叫ぶゲーム

知ってるでしょ
本気じゃなきゃ

テーブルになんてつかないわ

幾千万の彼方から

愛してるって叫ぶゲーム
私はもう夢中で止められない


今はただ

  福士文浩

問いかけてはいけない
季節はなぜに過ぎ去るのかと
惜しんではいけない
季節の留まらない移ろいを

夏には鮮やかな緑
秋には実りの歓び
冬がどれほど厳しくても
春は必ず巡ってくるから

今はただ生きるだけ
浮かれもせず落ちこみもせず
今はただここにいるだけ
時に追われず時を追わず

問わずにいられ
ない
人は何を奪い合うのかと
泣かずにいられない
人はなぜに争い合うのかと

止まらない欲望
安っぽい名誉
恨みだけが確かなことだと
いったい誰が言い切れるのか

今はただ立ち上がるだけ
傷つけられず傷つけず
今はただ立ち向かうだけ
すべての痛みの源へ

問いかけは尽きない
世界はなぜにここにあるのか
答えはまだ見えない
だけどいつかは見つけ出したい

宇宙の彼方
生命の始まり
不思議な運命の中での
あなたとの出会い

今はただ見つめていたい
遙か遠くで光る星を
今はただ感じていたい
あなたと創るこの世界を

   終


貴方の不滅の魂を届けて

児島成

聖アナスタシアの壁でひっそりと絶えていた
竜が蘇り 黒海に影を落とす時
世界の羅針盤は狂い
帆柱は折れるでしょう
渾沌が 友の死が差し迫っています
騎士ゲオルギウスに伝えて下さい
黄金伝説の物語 カンヴァスの絵画
メダイの彫刻 信じる人の心から飛び出し
西風よりも疾い馬を駆って
トレビゾンドの王女をどうか援けに来てと
絵空事ではないのです
貴方は貴方の槍を運んで下さい


みえない

かすみ雲が隠れた先
いつかみてみたいと思っていた山はまだ、雪だ
そう簡単にはいきたくはないのさ
鞄がちょっと重たいから

いつか君が隠したという結晶は
いまでもとけずに残っているだろうか
誰かに壊される類のものじゃない
みたことのない
ふれたことのない
言葉でのみ知っているそれを

限りなくみえなくなってしまっても
必ず、会いに行く


(題名無し)

(匿名希望)

塗り塗りが花となり
線をあつめる してるとあつまるよ
墨汁をかける してるとのびるんだ
塗り塗りが私の手によってではなく

誰でもない もしくは
さっき読んだ本の現れる
ぶんしょうたちの洗われる
色だったらいいのに

塗り塗りが 引き引きとなり
丸を交差する してるとむずかしい
木葉をばら撒く してると冬が来ない
引き引きが私の思考によってでなく

どんな動物でもない あるいは
すべての動物の荒らされた
檻の前にあつめられた
糞の匂いだったらいいのに

塗り塗りは遠くの丘や河や私たちの頭をきちがいにするよ


愛の渦

104hero

暖かい風になびく
君の髪が
ボクのこころを
くすぐっている

真っ青な空には
透明な鐘
幸せの音が
遠くで鳴ってる

白いシャツの
ボタンを
もう一つ開けて
二人並んでかけてゆく

愛のトンネルを
くぐろう
緑の渦の中へ
飛び込もう

ボクらの手は
離れない
明るい明日を
信じてるから

冷たい雨が降り
君の肩を
打ち付けてゆく
昨日からずっと

それでも見上げよう
雲のスキマから
明日への道が
見えるはずだから

愛のトンネルを
くぐろう
緑の渦の中を
駆けてゆこう

ボクらは手を
離さない
愛を明日に
届けたいから


エッセイ


世界中の「君死にたもふことなかれ」

こい瀬伊音

「群れ居たりける水鳥どもが何にか驚きたりけん、ただ一度にばつと立ちける羽音の、大風いかづちなんどのやうに聞こえければ」(『平家物語』より)

 大群の夜襲かと思った平家・維盛軍は総崩れする。平安末期、富士川にて。源氏討伐の途中のこと。

 戦の時は疑心暗鬼で、水鳥の羽音に飛び上がって反応する。人間として、それは自然な反応に思える。だから今、NATOは行動を慎んでいる。軍事的な動きだと思われないように。予定されていた軍事訓練は中止、制空権の制限を行わない、など。

 軍事力を持つことによって、抑止力とする。
 世界の国々が信じてきたその考えは、机上の空論であったことが明らかになってしまった。均衡を保つ、ということのためには、天秤の両側に同じだけの重さで大切なものが乗っていなければいけない。
 あなたのたいせつなもの。
 わたしのたいせつなもの。
 あなたが犠牲にしてもいいと思うもの。
 それはわたしのたいせつなもの。

 キエフが攻撃され、泣き腫らした赤い目のこどもの映像が写る。避難の途中で、爆撃を受けた学校を目の当たりにする。砲撃音にふるえる。砲弾の破片が刺さり、あっさりと命を落とす。国境行きの列車に人々が群がる。運良くぎゅうぎゅうと押し込まれても、立ったままの、九時間。小さなこどもも、年老いたひとも、弱きものに目を配らなくてはと思う健常者とて身ひとつでも過酷な。人いきれと、言い争う声と、感情の枯れを得たひとを、国境近くの街へ運ぶ路線。
 原発は攻撃され、占領される。
 プーチンはどうしたいのか。いったいなにがしたいのか。どうしてこんなことをするのか。わたしたちにはわからない。

 ながいながい路線を思うとき、わたしはシベリア鉄道を、そして戦前の、満州鉄道を思い起こす。
 開戦のきっかけがほしくて謀略を尽くし、皇姑屯にて張作霖が乗った列車を爆破した。本国の首脳部とは別の思考を持ち暴走を重ねる関東軍は、戦いを、戦い自体を求めていたように感じる。
 国際連盟の脱退、世界からの孤立。昭和の日本は着地点がまるで見えないまま戦いに進む。国際的にどう思われるか、自国の立場がどうなるのか、そのことを考えるのを放棄しているもっとも危険なテロリスト集団となって。わたしたちは不可解な自国の歴史を持っている。それも、比較的最近のものだ。

 文明が進めば。
 誰とでも繋がれる世の中ならば。
 こんな戦争など起きないと思っていた。
 一人の独裁者の存在で、世界は今脅かされている。
 かれは、自分の力を示せることで満足しているだろうか。
 なにを欲して、なにを怖れているのだろうか。

 わたしの日常とあなたの日常は同じ重さであると、毎日発信し続ける。世界中の人と連帯する。みな一様にひまわりの種をもって。ウクライナの空を想って。
 わたしのねがいはこれだけだ。
 今日も明日もだれもしなないで。
 明後日もしあさっても誰も殺させないで。

 ロシアの、ウクライナの、世界中の、
「君死にたまふことなかれ」。
 みんな、おうちにかえろう。
 かえって戦争は嫌だと言おう。
 日常を愛そう。
 あなたの。わたしの。

 与謝野晶子が日露戦争反対のために書いたこの詩は、今、きっと、ロシア兵士の家族みなのきもち。
 誰も死なないで。
 誰も殺させないで。

 「2022.03.07」

君死にたまふことなかれ   
旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて
          
   與 謝 野 晶 子
 
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺(さかひ)の街のあきびとの
舊家(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
安(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。


テレフォン・レディ

カナエ

近頃の私は反抗期だ。人を責めず、自分を責めず、真っ当に、清く正しく生きていくことが私のモットーであるけれども、性根が腐っているのでなかなか理想通りにはいかない。そういう時、溜まりに溜まったストレスは予想外の行動をなんの考えもなしに試してみる、という半ば博打のような行為によって昇華される。今回はそれが「テレフォン・レディ」という仕事だった。
テレフォン・レディとはなんだか知っているだろうか。私は人と喋ることが好きなので、電話するだけでお金がもらえるなら楽しいし、お小遣い稼ぎになるしいいのでは?と思って登録した。
スマートフォンのボタンをぽちぽち押していればすぐに登録できる。そうすると会社の方から仕事内容についての説明の電話がかかってくるのだが、平日朝の七時という時間に登録したのに即座に返事が来たのには驚いた。この時点で、電話の向こうの会社員は二十四時間体制で張っているんだろうか、大変だなという感想を持った。
男の社員の方は大変丁寧で、というかむしろ丁寧すぎるくらい丁寧で、喋り方や私を持ち上げるような口調にキャバクラの黒服の男性を思い浮かべた。あ、これはもしや、「おはようございます、朝いい天気ですね」みたいな会話をする仕事ではなく、半ば風俗のようなものなのか?と遅まきながら気づいたのだが、社会経験の一つだと思ってそのまま説明を聞いた。
「普通の会話はできますか?」と聞くと「あのですね、えーっと……九:一くらいの確率でお客様はえっちなお話を求めているので、そこを上手くかわすことができれば……」と大変誠実な回答をいただいた。
電話でえっちなことを求める男性ってなんだ? と、これまで生きてきた人生で確実に関わったことがないであろう世界に踏み込むワクワク感しかなかった私は、「じゃあ試しにやってみます!」と朝の七時らしく元気よく返事をし、専用のアプリをインストールし、男の人からの電話を待った。
何を喋るんだろう?朝だしそんなにセクシャルなことを求めてくる人っているのかしら、ぼんやり考えながらコーヒーを入れて待つこと数分。名前も顔も年齢も知らない男の人との電話が繋がった。
「こんにちは~」と電話に出たら切られた。
なんでやねん。私は割と人当たりが良い方だと自認しているので、こんにちはの一言でぶつ切りされるのが続いてだんだん腹が立ってきた。
この人たちが普段、この電話で話しているレディたちはどう対応しているのだろう。次こそは相手からの返事を引き出してやる、と思いつつ何回目かの電話を取れば、やはり黒服じみた社員の男の人が言っていた通りえっちなことしか頭にない男性と繋がった。
詳細はあまりに憐憫を誘う悲しいものなので省くが、レディと一分電話をすると男性側に料金が発生するため、その男性は五十八秒で切るのを三回繰り返してきた。せこい、せこすぎる。
そんなんだからテレフォン・レディ相手にそんなことをする大人になってしまうんだ。
そう言いたい気持ちをグッと飲み込んで、私はアングラな世界にもう大体満足したのですぐに退会した。登録から説明を受け、電話対応をし退会するまで三時間の出来事である。
正直、ストレス解消にはなった。なかなか体験することがないことを経験できたし、世の中広いな、私の悩みなんてまだまだ小さなものだ、と思うことができた。
テレフォン・レディ上級者のお姉さまに電話をかけて、どう対応するのが電話を長引かせるコツなのか聞きたいと思ったが、その道を極めた先には何かまた新たな邪の道が待っている気がするので、私の好奇心はこの辺りで仕舞い込むことにする。同年代の女性には無論、お勧めしない。別に楽しくも稼げるわけでもないからだ。


神様の知らないところ

設楽みいろ

真っ白でふわっふわの雲の上、誰もいなくて、気圧のせいでか耳がつーんとなっていて、だから余計に静かな感じ、本当にそこには誰もいないんだって、ちっちゃい頃のあたしはがっかりしてた。そんなわけはないと思ってはいたけど、雲の上に神様がいるなんて信じていたわけではなかったのだけれど、それでもそのあまりに綺麗で静謐な世界に厳然と拒絶されたようなそんな気がして、どうしようもなく悲しくなった。神様はいないし、おまけにここは生き物の住む世界ではない。そういう諦念を持ってあたしは成長してきた。
あれはまだ家族が形をもってた頃で、パパとママとあたし、三人で旅行に出かけた時のこと、でも不思議、どこに行ったのかとか楽しかったのかとか、誰かの笑顔とかはしゃぐ自分の声だとか、そんなものは全く覚えてなくて、飛行機の窓の外、ただただ続く雲の海の記憶しかない。
あれから12年、両親は別居していて、あたしはママと暮らしている。彼女も仕事やらのせいでろくに帰ってこないので、ほとんど一人暮らしのようなものだ。
音声をミュートしたニュース画面を見ている。爆煙、戦車、捕われた兵士。泣き叫ぶ子供の顔とおとぎ話のように鮮やかな美しい街並み。ごちゃごちゃと蠢いている人間たち、モニターの向こうではそういう彼らの方がリアルで多分あたしの方が偽物めくのだろう。
それでもあたしは生きている。どんなに胡散臭くても、まるで実感の伴わない生命だとしても、懸命に足掻いて生きている。夜空に星が爆ぜるように戦火がみるみる広がっていく。破壊された建物、画面が切り替わるとコメディアンが大げさな仕草で笑っている。
神様はいない。
少なくともここは神様の目の届かないところ。
そんな世界に生きている。


はやにえ日記

糸川乃衣

 近所の公園にモズがいる。尖った木の枝や有刺鉄線なんかに獲物を串刺しにする「はやにえ」の習慣で知られる、あのモズだ。
 はじめて見たときは困惑した。大きなまるい頭にくびれのないころんとした体、淡いオレンジ色の羽毛にぱっちりした黒い瞳という愛くるしいすがたが、はやにえという行為からうける印象とかけ離れていたせいだ。
 だけど私は騙されなかった。モズが「小さな猛禽」と呼ばれているのを聞いたことがあったし、その嘴がタカなどと似た鉤型をしていることや、頭が大きいのは顎の骨をふくむ頭蓋骨が発達しているからだということも図鑑で読んで知っていた。気になって調べてみると、ドイツ語名が”Würger”(絞殺魔)であること、そもそも学術名の”Lanius Bucephalus”の”lanius”からして「引き裂くもの」の意であることが新たにわかった。鋭い嘴で獲物を引き裂き、強靭な顎で噛み砕く――これはそういう鳥なのだと、見た目に惑わされかけていた気持ちを引き締めた。
 私の住んでいるあたりにはもっと大きな本式の猛禽も生息しているのだが、公園のモズには逃げたり隠れたりする気はさらさらないようで、いつ見ても街灯のてっぺんや木の枝のさきっちょでふんぞり返っている。縄張り意識の強い種であるらしいから、同じ場所で見かけるのは同じ個体だ。そう決めつけて、彼を「もずお」と呼ぶことにした。
 
 その「もずお」を眺めながら、ふと思った。
 そういえば、はやにえって見たことない。

 モズがはやにえにするのは、ハチやバッタやカエルやトカゲ。ときにはネズミやスズメまでずぶっとやるらしい、なんて言われると、小心者の私はそれだけで背筋が寒くなる。
 が、困ったことに、私は未知に弱いのだ。食べたことのないもの、見たことのないもの、さわったことのないもの、そういうものはみんな試してみたい。
 はやにえ、見たい。絶対に。
 そう思ったらもう、らーめんやカレーの口になるみたいに、はやにえの頭になってしまった。
 時は二月初旬。はやにえの季節とされる秋から初冬を、すでにだいぶ過ぎていた。今年はもう無理かもしれない。でもまあとりあえず、ウグイスの初鳴きを聞くまで足掻いてみるか。そんな軽い気持ちで、私ははやにえを探しはじめた。

 これが、最初のはやにえツイート。
 次にはやにえに言及したのは、一週間後のことだった。

 これ以降、はじめのつぶやきにぶらさげる形で毎日のはやにえ探しを記録するようになった。
 その日のぶんのツイートを追加してツリーを伸ばしてゆく手続きは、音読カードや読書マラソンカードのスタンプを集めるのに似ていた。あのころのスタンプは先生からもらうものだったけれど、今は自分でぺたりとやれる。そのことに小さな喜びをおぼえた。

 こうして日課となったはやにえ探しを、一度だけ休んだことがある。
 二月二十五日。
 ロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始した、その翌日だ。

 二月二十四日の私は、一日中、どころか日付が変わって深い時間になってからも、twitterから離れられなかった。ことの重さに押しつぶされ、真偽が入り混じって押し寄せる情報の濁流に呑まれ、スマホをスクロールする以外のことができなくなっていた。
 フォローしているひとたちが反戦の声をあげるのを前に、自分もなにか言わなければという焦燥に駆られた。だけど、どんな文句を打ちこんでみても空回りしているような気がして、送信ボタンを押すことができなかった。
 「みんながやっているから」を動機に発言するのも違うと思った。連帯するのも意志を示すのも大切なことだけれど、私は自分に浅はかな面やいい格好しいな面があることを知っている。慎重に慎重をかさねなければ、他人の戦争(とは言い切れないと思っているが)を安全圏から(これも、明日は我が身だと思っているので正確さを欠く表現ではあるが)自己演出のために消費してしまいそうで、怖かった。
 おのれをよく見せようとしていないか、わかってもいないことをわかったように語っていないか、言っただけで気持ちよくなろうとしていないか、ただのポーズにならないか、これは本当に私自身の言葉か……。悩んだ末にようやっと絞りだした死にぞこないの蚊みたいなツイートを思い出すたび、自分のことが嫌になる。

 私は、twitterではなるべく重要な話はしないようにしている。(理由はいくつかあるが、ここでは語らない。おなじように、それぞれのひとがそれぞれの考えに基づいて日々発信したり呑みこんだりしているのだろうと想像している)
 ウクライナ侵攻に関してもこの方針でゆくことにしたのだが、しばらくは気持ちが落ちつかなかった。というか、いまだに落ちつかない。
 今回の件に限らず、大きな災禍のさなかにそれに言及することなく個人的な話をするたび、おぼえなくてよいはずの罪悪感をおぼえてしまう。深刻な情報があふれるなかでそれが一切目に入っていないようにふるまうことにも違和感がつきまとう。
 それでも私は、はやにえ探しのスタンプを集めつづけた。
 世情を理由に日常を中断する必要はない。自分のためだけにつける楽しく素朴な記録は、私なりのささやかな祈りで抵抗だ。
 などということを考えていたかといえば、それはまあ、まったく考えていなかったわけではないが、したり顔ができるほど真面目に考えていたわけでもない。
 私はただ、はやにえ探しをやめたくなかった。

 藪に林に葦原に、はやにえを探しながら、ふとした瞬間にウクライナやロシアに思いを馳せた。
 などということも、一度もなかった。
 ひとたび探索者のギアが入った私の意識からは、はやにえ(と野鳥)(と散歩中の犬)(とまれに見る野良猫)(と春の気配にそわそわしはじめた植物)(と頭上の雲)以外のすべてが消えた。はやにえ探しの一時間弱は、外界のなにものにも侵されることのない私だけの時間だった。

 そのぶん探索以外の時間で自分にできることを探した。軍事支援ではなく人道支援にあててもらうために、信頼できる団体に寄付をする。子どもたちの心を戦争の報道から守る方法を調べ、仕事を通じて実践する。「あなたは物事を点でしか見られないふしがある。線で見ることも学ぶべし」という連れあいの助言を受け、今回の軍事侵攻の背景を知るべく歴史や政治について学ぶ。(ありがたいことに、アメリカの多くの大学が講義を無料で公開してくれている。コロンビア大学の政治学が特に良かった)など。

 こんなふうに両輪でバランスをとりながら、とろとろと走ってきた。もっとも、はやにえのほうの車輪がジープのタイヤぐらい、もう一方の車輪は子どもよう自転車の補助輪ぐらいとまるで大きさが違うので、ちっともうまく走れてはいないのだけれど。

 疲れていたり気が滅入っていたりするときなんかに自分と直接関係のないところにいる誰かの日常のかけらにふれると、不思議とほっとすることがある。あれと近いものを、私はいつしかはやにえ探しに感じるようになっていた。
 人間界がコロナ禍や戦禍に翻弄されているあいだも、自然界では変わらぬ営みがつづいている。草木や虫や鳥にそのことを思いださせてもらうたび、肩のちからがいくらかぬけた。
 よりどころというほど大袈裟なものではないけれど、不安定な日々において、細いつっかえ棒ぐらいにはなっていたのだと思う。

 そのつっかえ棒が、ぽきんと折れた。

 きっかけは、モズが私の住んでいる地域のレッドデータブックに載っているのを知ったことだった。

 今年が駄目ならまた来年。そう言いつつも、私は悲観的な人間なので、心の内で(まあ、来年が必ずくる保証はないけどね)と付け足していた。だけどその際に想定していたのは自分の側に何かが起きることだ。モズのほうが脅かされる可能性については考えたこともなかった。

 モズがいなくなるかもしれない。
 緑地や草地が減少している影響、つまりは私たち人間のせいで。

 その事実を突きつけられたとき、自分のすべてが無理になった。
 人間の強欲さと傲慢さを棚にあげて自然のゆるぎなさを盲信していたおめでたさが無理になり、他の生き物たちを追いやって整えた土地で暮らしながら小綺麗な公園や手入れされた河川敷で鳥を愛でる醜悪さが無理になり、モズが絶滅危惧種であることも知らずにのんきにはやにえを探していた無知と無神経が無理になり、そこからドミノ倒しのようにして、今回のウクライナ侵攻を通じて自覚させられた欧米偏重の歪なものの見方が無理なり、紛争や迫害のせいで苦しんでいる人たちはウクライナだけでなく世界中にいることにようやく意識が向くようになってもなおこれ以上は抱えきれないからと目をそらしつづけることのできる器用さが無理になり、搾取と蹂躙をやめられない人間という存在、その一員であることが無理になり、さらにはまったく関係のない個人的なあれこれ、心身が健やかなときであれば堰き止めておける劣等感やら自責の念やら積もりに積もった恨みつらみやらがふくれあがって一切合切が無理になった。「最後にのせた一本の麦わらがラクダの背骨を折る」という意味の英語のことわざがあるが、まさにあれだ。傍から見たらわらのように軽いのであろうひと押しがとどめとなり、堤防が決壊した。

 その晩はろくに眠れなかった。翌日は、読み書きや家事や鳥見にあてるはずの出勤前の時間を、ソファの上にたためないまま積んである洗濯物を押しやって作った人間ひとりぶんの隙間で小さく丸まって無為にすごした。しみったれた現状をどうにかするためにやらなければならないことが山とあるのに、体を縦にすることができなかった。
 社会人として最低限の責任を果たすためになんとか家をでたあとも、過去の嫌な出来事がひっきりなしに頭をよぎって目の前のことに集中できないぽんこつぶり。帰りの電車の中でtwitterをひらいても文字が上滑りしてゆくばかりでみんながなにを言っているのかがよくわからなかった。
 上から下へと素通りしていった情報のなかに、チャリティアンソロジーの告知があった。
 参加するつもりはなかった。このざまじゃ何も書けない。こんな状態で人と関わるべきじゃない。そう思い、自分の弱っちさにめそめそしながらふて寝した。

 そのはずが、気づけば起きだしてモニタに向かい、この文章を書いている。
 もちろん企画の主旨に賛同し、参加を決めたからなのだが、それとは別に、今のこのぐちゃぐちゃな状態をぐちゃぐちゃなまま書き残しておきたいという衝動がこみあげたのだ。
 衝動の根っこにあるものがなんなのかはわからない。こんなぐちゃぐちゃな情緒のまま人の目にふれる文章を書いて良いのか、自分のために吐きだした言葉でチャリティに参加するのが正しいことなのか、この戦争がいつまで続くのか、どんな形で終わるのか、その影響がどこまで広がるのか、未来がどう変わってゆくのか、来年も「もずお」に会えるのか、どうすれば私たちは、私は、異なる背景をもつ人々や他の生き物たちを踏みにじることなく暮らしてゆけるのか、なんにも、ひとつも、わからない。職場の子どもたちから「おとななのにできないの?」「おとななのにわからないの?」と呆れられたり驚かれたりすることがあるけれど、わからないよ、おとなだって、いや違うか、わかるおとなもたくさんいるんだろうけど、わたしにはわからない。なんにも、ひとつも、わからない、そういうおとなになってしまった。

 顔も洗わず髪も梳かさずパジャマに膝掛けという格好でここまで書いた。
 九割は花粉のせいでぐずぐずになった鼻をかみ、身支度のために立ちあがる。
 なんにもわからない私だけれど。
 考えることを、動くことを、やめてはいけないことだけは、わかっている。

 午前五時五十三分。
 ウクライナでは間もなく昨日が終わる。
 いつのまにかくせになっていた時差の計算をしながら、靴をはく。
 今年はもうみつからないとわかっているはやにえを探すため、日がのぼる少し前に家を出る。

―――

参照したサイト

日本の鳥百科:サントリーの愛鳥活動「モズ」

東京都環境局:東京都の保護上重要な野生生物種(本土部)2020年版

くまたか 日本野鳥の会筑豊支部:野鳥の学名入門(日本鳥類目録 改訂第7版準拠)


思い出の話

江永泉(えなが・いずみ)

 あなたに、1991年生まれの私の話をします。思い出したことを話します。私の見聞きしたこと、体験したこと、その他です。あなたの周りとは、よく似た光景かもしれないし、ずいぶん違うのかもしれません。自分だったら、何を、誰に宛てて、どんな風に話すか。そんなことを想像しながら、読んでもらえると幸いです。

 この前、東京の書店で本を買ったら、チラシが挟まれていた。福嶋亮大『ハロー、ユーラシア 21世紀「中華」圏の政治思想』という本に、植村真也(原作)の漫画『終末のワルキューレ』の宣伝が。キャッチコピーにこうあった。「人類の存亡をかけた、全世界の神代表 vs 人類代表の、タイマン13番勝負が開幕する!」。なんとも苦い諷刺のような、冗談にならない冗談のような組み合わせだった。そう評して済ませるには、あまりに広告的でポップ過ぎるかもしれないが。

  私は日本のフィクションをあれこれ読んでいて、ゲームのように造られた世界が壊れていったり、また社会が壊れていったり壊れた後で残る世界が広がっていたりする様子をたくさん眺めてきたが、そういう類いのものは二次創作ないしはアマチュアの手による創作が中心だと思っていたら、気がついたら黙示録以後(ポスト・アポカリプス)なる検索タグが流布するようになっていて、それに殺伐とした異世界が様々なプラットフォームのそこかしこに溢れていて、いまだに奇妙な気持ちになったりもする。

 日本の小学校に私が入学してから、高校を卒業する頃までに、統計では35万人超が日本で自ら命を絶っている。いじめを苦に、という報道も幾つかあって、私はひとに死ねとかエイズとか言われていた側だったから、つまり、いじめを受けていた側だったから、それに、そう言ってきた相手のひとりの顔面を椅子で殴ろうとして、教師に羽交い絞めにされた側だったから(頭おかしいんじゃねえのお前、って、殴ろうとした相手にドン引きされた)、そして、そんなどこかおかしい気もする自分自身がこの世に存在していていいのか、と悩んだ側だったから、それを考えると、まだ、異様な心境になる。

 いまのところ、私は、自分も他人も、この手で殺すことなく、生きていられている。ただ、あるとき読んだ「自爆する子の前で哲学は可能か」という小泉義之の文章に、私は自分が此岸に踏み留まれていたと教えてもらったような気がしていた(それは私の誤読や誤解に基づいた体験だったかもしれないが、それでも)。

 北朝鮮による核実験やミサイル発射実験が脅威として日本国内で大きく取り沙汰されていた頃、街に緊急放送が流れてサイレンが鳴るなかで、未成年だった私は何かとんでもないことが起こると直感したことがあった。実際は、何事もなく生活を続けていた、商店街の大人たちのほうに軍配があがったが。書いていて気づいたけれど、これはSMAPの曲『Triangle』が、あちこちで流れていたときのことだった。自衛隊がアフガニスタンやイラクに派遣され、それがどうして国際協力なのかと議論されていた時期のことだ。そのときには想像もしていなかった事態が、その後、たくさん起きた。

 自衛隊のひとに会うと、何か戸惑う気持ちがある。このひとは、命を奪うとか、命を失うとか、そういう事態も辞さない行動のために、備えているのだ、と。もちろん、災害救助や緊急救命医療、強行犯捜査、そして諸々の社会福祉ほか、命が失われたり奪われたりする瀬戸際でなされる、様々な活動がある。当然ながら、私が現に身を置く社会なり世界なりが、無関係にあるわけでは全くないのだが、距離がとれている、とれてしまえてあるという感触を抱えている。そういうところにいる(それでも時々、周りで、ひとが死ぬ)。

 

 私は自衛隊員の孫だ。早期退職した祖父はアルコール依存症になってしまい、だから妻子には色々あった、と聞いて育った(その子どもというのが私の親のうちのひとり)。けれど私が学校に通うためのお金のいくらかは、その祖父からの援助でした。 

 自衛隊員が「人殺しのために働いている」、みたいな物言いは、よく批判のときに口にされていましたよね。例えば20年ほど前、アメリカによるイラク侵攻の頃です。みなさんは生まれていましたか。覚えていらっしゃいますか。私は少しだけ。もっとも、「人殺しのために働いている」などと罵られたことは、私にはないのだけれど。それでも私は「人殺しのために働いて」いた者(直接そう聞いたことはなかったけれど、祖父はたしか通信関係の役職だった)の孫です。そしてまた反戦の志を聞き、育ちました。

 もうひとりの私の祖父の父親(曾祖父)は、第二次世界大戦後すぐの時節に変死したそうです。「国策会社」に勤めていたその曽祖父は、上司の指示で書類を処分したところ、上司と連座で不正の責任を取らされ、最後は海に沈められた、らしいです。だから、それまで生徒として通っていた学校で、今度は下働きをして家計を支えながら勉強していた、とも。そちらの祖父が遺していた書きかけの回想録には、そんな風に書いてありました。どこまで本当なのかは、わからないけれど。

 祖母たちの話をしないことを、ゆるしてください。ひとりまだ存命なのです。また曾祖母の話をしないことも。私が知るひとりの曾祖母は、いま存命の祖母とのあいだに、色々あったのです。

 別の、どこまで本当なのかわからない話。もうずいぶん前のこと、スマホも知らなかった頃の話だけど、二人きりでいるとき、自分は、東条英機の遠縁の一族だ、と打ち明けられたことがあった。これはあんまり人前で言うな、って言われているんだけど。そう前置きをしながら、ひとが話してくれたことがあった。確かめてはいないし、会わなくなってから時間が経ち、相手の連絡先もわからない。だけど、ともだちだったんです。

 皆さんは、どんな戦争犯罪人の縁者と会ってきましたか。話してきましたか。心を通わせてきましたか。誰から、どんな話を聞いて、育ってきましたか。あなたの御曾祖は人を殺しましたか。反戦を訴え、獄中で亡くなりましたか(そういう人もいた、と4、5歳の頃に知った。親族ではなかったけれど)。あるいは、飢えて、落ちていた腕を食べようとしましたか(別のひとから聞いた話。私はそのうち一人しかわからないが、私の曽祖父はそのような経験はしていなさそう。もう三人の曽祖父は、どうだったのだろう)。

 思い出を話すのは怖い行為で、しばしば傲慢な行為かもしれないとも思います。時宜にそぐわない長話を誰かに聞かせることができる力は、何か強権じみたものにも思えます。ただ、こうした話を通してしか、できないことがあります。想像すること。例えば写真でしか知らない相手の顔の輪郭や陰影に、そのひとが辿ってきた生を重ねてみること。あるいは統計で数えられる一名に。そこに抽象的な誰か以上の、息をして血が流れる誰かがいると心底から感じること。そういうことです。

  ひとは、過去を思い出すとき、また話すとき、目の前がおろそかになったり、手が止まったりします。それらは、必ずしもよい出来事とは保証されてないけれど、それで止められる事態もあります。だからこうして、わざと少し遠くに、私的な言葉を投げようとしている。声を吹き込んだ風船を飛ばすように。

 皮肉な出来事。自分や他人が己だけの思い出を声に出しあうという私のビジョンには、10年ほど前に読んだ詩人、ヨシフ・ブロツキイによる講演の一節が残響してある。「大衆の支配者たちが小さなゼロを操ってやろうとたくらんでいるとき、芸術はそのゼロたちの中に「ピリオド、ピリオド、コンマ、マイナス」と記号を書き込んで、ゼロの一つ一つを、常に魅力的ではないにしても、ともかく人間らしい顔に変えてしまうのです」(『私人』)。私たちが言葉の力で互いに「ともかくも人間らしい顔」を得る、そんな理想。けれど、冷戦下にソビエト連邦を追放されたこの詩人は、その後もずっと、大ロシア主義という思想を抱き続けていたらしい。つまり、ウクライナという国が立つことを否定する思想を。ブロツキイは、そうした立場から、「ウクライナの独立について」という詩を書いてもいたらしい。私はそのことを、これを書くなかで初めて知った。

 もうひとつ、皮肉な出来事。私はあるとき、自分をいじめていた加害者も私と同じ人間であると腑に落ちた(だから、いまは級友と呼びたい。後年になるほど、世間の空気を読み上や下の人間として他を扱っていたほかのクラスメイトたちに比べればずっと、私は私とその級友に近しさを覚えるようになっていた。不相応な理想化や悪魔化が働いているとも自省するが)。家庭や経済の諸々を背負って、歴史や社会の積み重ねのなかで、誰もがいまを生きている。私にそう気づかせたのは、書店で立ち読みした小林よしのりの漫画『いわゆるA級戦犯』の、東条英機だってひとりの人間だった、というメッセージだった(そして偶然、私が東条英機の遠縁のひとに会ったのは、そんな体験をしてから暫く後のことだった)。もっとも、だから日本の歴史を知ろうと私は加藤陽子『それでも日本人は戦争を選んだ』を手に取り、そうして歴史を学ぶうち、私の心を撃った漫画家は粗雑なデータを使い回し、諷刺というかプロパガンダ的な美化や歪化を施した絵で、独断的な主張を発している人物だと判断せざるを得なくなっていった。

 これらの、韜晦に映るかもしれない文章が、そこに記された皮肉な出来事が、茶化しや水差しのために選ばれたネタというより、笑い泣きをする以前の地平で私が激突した身も蓋もない事実からできた話であることを、強いて私は述べておく(どうしようもなくアイロニカルなのは、わかっているけれど)。

 人にはこういうことも起こると、話したくなったのは羽鳥ヨダ嘉郎『リンチ(戯曲)』を読んだからでもある。そこには例えば、20世紀にハンセン病者が(不当に)隔離されていた島でなされていた男女分断(これはいわゆる「断種」にも通ずる優生学的企図に裏打ちされていたようだ)への抵抗として、人々が暴動を起こした話に触れられている。それはアメリカ植民地下のフィリピンのクリオン島で起こった出来事で、日本軍による満州侵攻のあった年に起き(てしまっ)た男性たちによる女子寮襲撃であり、だから「この女子寮襲撃をマンチュリアと呼びます」(『リンチ(戯曲)』)。さらにその後、日本軍の海上封鎖によってクリオン島への食料輸送路が絶たれ、たくさんの脱出者や、餓死者が生じた、と記録されているようだ。

 この紛然。これが生であり、記憶であり、歴史でありもすること。一捻りのシニカルな皮肉ごときで、カバーしきれるはずもない紛然。どんな表現のなかにも、出来事のなかにも、それが示さんとする当のイデオロギーからの逆流すら生ぜしめかねない、ユートピアへの衝動が抱えられてあるのではないか(そして、その逆もまた)。私はそんな風に思いたくなる。きっと、それが私を動員する、イデオロギーなのだが。

 私がいまできる、話はこれで終わりです。

結びに、ふたつの文言。

「戦争の徹底的に卑劣な破壊の下に、さらに消費のいくつかのプロセスをも発見しなければならない」

(ドゥルーズ『差異と反復』)

「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」

(ユネスコ憲章 前文)

これらを、脳に刻んでおく。


きゅうりのみそしる

夏川大空

私の祖父は戦争に行きかえってきた戦争経験者だった、たしか大陸にいって向こうでは料理番をやっていて、だからその時代には珍しく料理ができる男だった。

その祖父がつくってくれたもので忘れられない料理がある。

きゅうりのみそしるだ。

私は子どものころ、ひどく田舎に住んでいて、家は裏に畑を持っていた。

きゅうりもいつも畑で育てていて、とるのを忘れて、出来すぎた、細長いうりぐらいのきゅうりがたまにとれた。

祖父は生食には向かないそれをみそしるにしてくれたのだ。

言葉数の少ない祖父は、あまり大陸のはなしや戦争のはなしはしなかったので、大陸のはなしは私は図書館の本でしか知らない。

ただ、母の幼い頃の思い出の、食べ物のなく、卵を醤油で薄めたり、バナナが高級品だったりする話からは、出来すぎたきゅうりを無駄にできないということはうすうす感じた。

話してくれない祖父の代わりにたくさん読んだ本は、日本はなぜ戦争で負けたかをこう書いた、「己の正しさにのみ酔ったからだ」と。

幼きころの母のような人を忘れたからだと。

ただ己の正しさに酔い、ちいさなもの、ちからなきものをわすれ、かえりみず、だれのこえもきかず。

祖父が亡くなってずいぶんたつ、私はたまにきゅうりを買いすぎて生食に向かなくなると、きゅうりのみそ汁をつくる。

育ち過ぎたきゅうりのあの味は出ないけれど、テレビのニュースに映る戦車に、祖父がたまに戦争のPSTDでうなされていたのをおもいだし、これを祖父が見なくてほんとうによかったと思うのだ。

ただ己の正しさに酔い、ちいさなもの、ちからなきものをわすれ、かえりみず、だれのこえもきかず。


骨に咲く薔薇

Yoh クモハ

「なに摘んでいなさるんですか」

 郷里の土手を歩いていたら 、自転車を押したおばさんから声がかかった。

「まだ早いけど、ツクシないかなって」

「ツクシ、どうやって食べるんですか?」

 話の流れで摘みたてのフキノトウをおすそ分けしてもらえるところだったが断った。新幹線乗車一時間前の話。 私は赤い靴に青いタイパンツ、モンベル風グリーンの上着(モンベルにあらず)、白いニット帽というかなりキテレツな格好だったが、よく声をかけてくれたものだと思う。 「摘み仲間」に悪い人はいない。

 おばさんがフキを摘んだであろう土手は、駅までの道すがら特定した。来年はここで摘めるかな。 今年はツクシの時期に帰省できないのが残念。

 四十九日の納骨に郷里を訪れたのは、ツクシにはまだ早い、ちょうどフキノトウの時期だった。

今朝、ママンが死んだ、と書いてみたかった。

 願いどおり、彼女は日付が変わって十五分後に息を引き取った。看取ってくれたのは妹と義弟で、遠方に住むわが家族は臨終二時間前にLineのビデオ通話で母と対面した。最後までビデオの画面に向かい、動く右手を振っていた彼女は、脳梗塞になってからの一年を入転院を繰り返しながら耐えた。充分に使い切った肉体で管も刺さない、酸素吸入もしないまま、自宅で家族に看取られての最後はこの次節、贅沢とすら言える。

 葬儀は直系の娘たちとその家族、それに母と仲良しだった従姉妹だけで行った。それは久しぶりに顔を合わせた親族のお祝いとも言えた。なかでも主に親族男子が集まっての通夜は、昭和歌謡の熱唱も飛び出す賑やかさで、楽しいことの好きだった母をきっと慰めたことと思う。

 母の身体が焼けている間、一族は「レストラン三宝」で遅いお昼を食べた。

 残された骨は痛めた膝こそ少し変形していたものの、大腿骨や骨盤は見事だった。頭の骨を特別扱いする風潮に逆らうように、私は尾てい骨を選んで骨壷に入れた。そうして月日は過ぎ、四十九日納骨の運びとなったわけだ。

 ようやく春が訪れたような一日だった。少し前にドカドカ降った雪は、路肩や駐車場に押し上げられている。 お寺さんに到着し、納骨に先立って墓を調べに行く。墓への道すがらは杉の落ち葉と雪で埋もれている。こだわりのピンヒールで落ち葉を踏みにじり、雪を踏む。長靴にすればよかった、と心の中で思う。

喪服で掃除するん? 百均で買った掃除道具を使い、軽くこする。服にかからないようにそっと水を流す。その間、妹の一人が通路を掃いて歩きやすくする。墓の隣の通路には無縁の墓がいくつか。いい意味でも悪い意味でも故郷でめちゃくちゃ目立っていた三姉妹は、お生憎さま結婚して別の籍に入ったから、生家の名字はここでお終い。墓もお終い。数世代たったらここも無縁の墓になっていることだろう。

 大正時代からの付き合いがある寺で、会社を潰して世俗を離れたと公言するお寺さまにお経を上げてもらい、墓に戻る。父の世代は兄弟姉妹も多く、死者も多く、幼い頃からどれだけの葬式を見たことやら。とは言っても、この前亡くなったのは祖母で四半世紀前だから、記憶もあてにはならない。

 骨をどこから入れるかは墓によって違う。この墓は後ろの穴を石で塞いである。それを外し、紙を敷いたちりとりで少しずつ骨を入れていく。

「骨でいっぱいになることはないんですか?」

 戯れに聞いてみる。今の墓は知らないが、この墓の下は地面になっていて、古い骨はそのまま土に還るのだそうだ。穴は狭く、骨は少しずつしか入れることができない。三姉妹と義弟の四人で代わる代わる骨を納めるが、妹の一人は腰痛で無理がきかない。焼き締められた骨は軽い。和紙を貼りあわせたようにガサガサする。最後に頭の骨を入れる。骨箱から出した時に気づいていた。いくつかに分割された頭蓋骨は丸さを残したまま、骨の内側がピンクに染まっている。それはまるでバラの花束のようだった。頭蓋骨っていつもこうなの? 近所の資生堂のいいお客だった彼女は、晩年バラの香水を好んでつけていた。あかぎれの絶えない手で酒瓶を運ぶ人生だった彼女の思い出には、微かなバラの香りが寄り添っている。六十歳を前に配偶者を亡くし姑を看取ってから、彼女は四半世紀を生きた。

「今がいっちいいんらて」

 最期までそう言ってウサギに英語を教えていた彼女には、仏花よりバラの方が相応しい。最後の骨を納めて、墓を閉じた。骨箱の隅に残っていた埃を空中に散らした。これでいい。彼女はここにいて、どこにでもいる。


このパンが焼けるまで

ぴょん

 私はパンが好きだ。どれくらい好きかと言うと、パンの何が好きかを語りだすと止まらなくなるくらいには好きだ。好きなところをあえて挙げていくとすると、まず、パンはおいしいし、意外と作るのも簡単であるところ。次にパンの種類はびっくりするくらいあり、とても奥が深いところ。そして、とても可愛いところ。ざっくり言えばこの三つになるのだが、おそらく三つ目の可愛いところ。と言う私の発言に、頭に三つくらいのはてなを浮かべた人は少なくないだろうと思う。それでもパンは可愛いのだ。可愛くて、可愛くて、仕方がない。もちろん、出来上がりの色味もフォルムも可愛い。でも作っている時のパンの生地も可愛い。ふわふわふっくら、もちもちぺたぺた。これは作ったことのある人しか感じたことのない、一種の愛情である、とすら思う。わが子の成長を慈しむように、生地の発酵が、微笑ましいのだ。パンはどこまで行っても可愛い。これはゆるぎない事実なのだ。

◇◇◇

 眠れない時や鬱々とした気分の時、私はパンを焼く。もちろん、気分がいい時にも焼くが、気分がいい時はパンよりもケーキを作ることの方が多い。特に理由はないのだが。
今日も眠れない日だった。パンを焼こうと思ったのは、翌日友達と会う約束があるからだ。焼き過ぎてもあげる相手がいることで、多少強気の行動ができる。
 何パンにしようか。
 冷蔵庫を開け、中を確認する。ベーコン、玉ねぎ、じゃがいも、卵、バター。戸棚の中も確認する。チョコチップ、くるみ、アーモンドダイス、粒ジャム、キャラメルクランチ、米粉、薄力粉、強力粉、甜菜糖、グラニュー糖。なんでも作れそうな気がする。もちろん、気のせいだけれど。明日会う友達の好みを思い出す。確か、甘いものはそんなに好きじゃなかったはず。柔らかいリッチ生地で、ジャーマンポテトを包んで、バターをのせて焼いたらおいしそうだ。バターはアンチョビガーリックバターにしよう。
 そう決めたので、私は材料を準備していく。強力粉、砂糖、ドライイースト、塩、バター、牛乳、卵。卵が入るのと、水ではなく牛乳を使うことから、ベタつくことが予想されるので、牛乳はほんの少し少なめにして作ることにする。パンを捏ね始める前に、レンジでジャガイモを柔らかくしておくことも忘れない。強力粉を計量し、二つのボウルに大体半分になるように分ける。そうしたら、大きいボウルの方に砂糖とドライイーストを隣り合わせに入れる。そして、卵ポケットをその向かいに作り、そこに溶いた卵を流し入れる。小さいボウルの方には、塩とバターを入れる。レンジで人肌よりもほんの少し熱いくらいの温度に温めた牛乳を、大きなボウルの方にイースト目掛けて一気に入れる。最初は粉がこぼれないようにゆっくりと混ぜ、粉っぽさがなくなってきたら、高速で一分ほどぐるぐると混ぜてグルテンの形成や、発酵を促す。混ぜ終わったら、小さいボウルの方の粉類を全て大きい方のボウルに入れ、更に粉が飛ばないよう気をつけながら混ぜていく。まとまりが出てきたところで、私は生地を台の上に移す。そして捏ね始める。
 最初は伸ばし捏ね。手のかかとを使って生地の混ざりを均一にしていく。混ざってくると、グルテンも形成され始め、まとまりも出てきて捏ねやすくなってくる。ここまできたら、次にブイ字捏ね。ブイの字になるように自分側を支点にして左、右、左とパンに圧をかけながら転がして捏ねてゆく。これをすることで、生地の表面がツルツルしてくる。ある程度ツルツルしてきたら、もう一度伸ばし捏ねをする。そしてまたブイ字捏ね。丸め直しを行い、生地の表面を張らせてみて見極めをする。端の方がまだぽそぽそしているため、もう一度ブイ字捏ねをする。あまり長い時間をかけて捏ねていると、生地がどんどん乾いていってしまう。ここはなるべく手早い方がいい。大体十五分ほどで私は捏ね上げる。(眠たいのか、体温が高いので手が温かく、発酵が促進される為、今回の捏ね上がりは通常よりも早いかもしれない)丸め直しをしてボウルに入れ、ラップをかけてオーブンへ。四〇度で三十五分ほど発酵させる。
 発酵中には、中に入れる具材の準備。
 手始めにジャーマンポテトを作る。柔らかくしておいたじゃがいもの皮を剥き、一口大に切る。ついでにベーコンも細めの短冊切りにする。ニンニクは芯をとって潰しておく。オリーブオイルをひいて、温めたフライパンにニンニクを入れてオイルに香りを移す。この時、強火にするとニンニクが焦げてしまうため、弱火にするのを忘れないこと。ニンニクに火が通ったら、木ベラで小さく砕く。そこにベーコンを入れ、少しカリカリにしてからじゃがいもを入れる。ジュー、ジューという音が鼓膜に届く。ある程度炒めたら塩コショウを振り、味を調整する。アンチョビバターを上にのせて焼き上げたいので、味付けは気持ち薄めにする。ジャガイモの表面がカリッとしたら、ボウルやバットにあけて冷ましておく。熱すぎると、やけどの原因になるため注意だ。そして、後から作るアンチョビバターのためのバターを室温に戻しておく。ジャーマンポテトを手早く作ったため、時間が余ってしまった。余った時間で一旦片付けをすることにする。使った器具を洗い、洗い物かごへと入れていく。ちゃかちゃかと洗い物を済ませてしまったため、更に時間が余ってしまった。
 この余った時間が私は好きだ。全く何もしていないときの「暇」と言うのは完全に怠けてしまうのであるが、パンの発酵時間であれば時間制限があるため、適度に自身のしたいことが出来るのだ。コーヒーを入れて、夜のひと時を楽しむ。一息ついている間に、オーブンがピーと鳴る。発酵が終わったようだ。
 発酵が終わったので分割していく。今回は五等分することにした。生地を五等分して、丸め直しを行う。そこに濡れ布巾をかけてベンチタイムを十分とる。この十分の間に先ほど作ったジャーマンポテトを五等分して、軽くまとめておく。終わったら空になったボウルなどを洗ってから、天板にクッキングシートも敷いておく。
 一通りが終わると丁度十分経つので、丸め直した順に成型していく。優しくガスを抜き、丸く平たく伸ばしたら、真ん中にジャーマンポテトを置き、包む。この時に周りの生地が厚いと真ん中が薄くなってしまうため、真ん中を気持ち厚めにして包むときれいに包める。お饅頭を作るときの様に包んだら、しっかりと綴じる。綴じ目を下にして天板に置いていく。全て包み終わったら、ラップをかけその上に濡れ布巾をかけ四〇度のオーブンに再び入れて二十五分、二次発酵させる。この間に先程室温に戻しておいたバターにアンチョビを混ぜ合わせる。混ぜ合わせたら、ラップに包み冷蔵庫へ入れておく。そして、また使った道具を片付け、それが終わったらまたコーヒーを淹れ、ゆったりとした時間を過ごす。この時間の過ごし方はその時による。手帳を開いて書き物をしたり、執筆作業に勤しんだり、はたまた本を読んだりもする。
 この時間は自分の中で自由に使っていい時間であるのだが、ここでスマホのゲームなどをやってしまうと、普段のだらだらと変わらなくなってしまう。だからここではより有意義な時間を過ごしたい、と言うことでスマホに触らないような作業をすることにしているのだ。
 ところで、私は字を書くことが好きだ。幼少期には習字を習っており、意外かもしれないが、毛筆は九段を持っている。ものぐさな私が、どうして字を書くのが好きになったのかと言うと、周りから褒められるからだ。
「字がきれいねえ」
 と、言われたいがためにめちゃくちゃ字の練習をしてきた、と言っても過言ではない。何なら料理だってそうだ。勿論、自分が食べたいものを作れるようになった方がストレスフリー。という考えのもと料理を作っていた。と言う理由もあるのだが、料理が出来ると褒められるのだ。私は褒められたい人間なので、褒められることは伸ばしていきたいと思っている。今褒められていることは今後もっと褒められたい。
「そんなことないよお」
 は「もっと褒めて」の裏返しなのだ。面倒くさい女で申し訳ない。そんなこんなで、今日はネタ帳の整理をすることにした。私は、思いついたことをすぐにネタ帳に書き込むようにしているのだが、徹底しすぎてネタ帳が汚い。元来、授業のノートなどを分かりやすくまとめたい女であるため、ネタ帳もまたしかりなのだ。汚いノートは耐えられない。一年に一回は書き直しを行い、やりたいこと、できたことなどを振り返るようにしている。自身を見つめなおし、ポジ・ティブ子になるための第一歩である。ただし、ポジ・ティブ子に近づいているのかは本人にはわからない。
 カリカリとお気に入りのペンを走らせ、ノートをまとめていく。集中して書いているため、時間が過ぎるのが早い。いつの間にか発酵が終わる時間になり、ピー、とオーブンが鳴る。すぐにオーブンから出し、オーブンの予熱を開始する。取り出したパンはそれはもうふっくらぷくぷくと発酵し、ふわふわまん丸になっている。ここに、今から切り込みを入れ、その上にアンチョビバターをのせて焼くのだ。まずはパンにつやを出すために、溶き卵を刷毛でパンに塗る。塗りすぎるとパンの上に卵焼きが出来上がってしまうので、薄く塗ること。塗り終わったら、切り込みを入れていく。切り込みは三回に分けてハサミでぱっちんしていく。十字の切り込みにしたいので、まず縦に一回ぱっちん。そこに垂直に上の方を一か所ぱっちん。その後下もぱっちん。ラケルのパンみたいな見た目になる。切れ込みを入れ終わったら、切れ込みの隙間にアンチョビバターをのせていく。のせ終わったら、オーブンの予熱が終わるまで少しだけ待機。
 ピーと、予熱が終わった音が響く。待ってました、とばかりに、がばりとオーブンの扉を開け、そこにパンの乗った天板を入れる。十三分、焼き色がつくまで焼き上げる。もしここで焼き色が甘ければ様子を見ながら焼き時間を足していく。焼き上がりに近づくにつれて、パンのいい香りが部屋に充満していく。真夜中だというのに、パンの香りに負けた私のお腹がきゅるりと鳴く。それを知ってか知らずか、――知らないに決まっているのだが――オーブン様がパンの焼き上がりを告げる。焼きたてのパンを庫内から取り出す。とたんに鼻をくすぐるアンチョビガーリックの香り。くすぐるというか、もうこれは殴り掛からんばかりの威力である。パンの匂いに胸ぐらをつかまれたような気分だ。ここで食べたら負け、ここで食べたら負け……。
「よーく考えよー、味見は大事だよー。明日友達にあげるんだし!」
 そんな言い訳を誰に言うわけでもなく自身に言い聞かせ、ぱくり。空腹の前で、私の理性は完全敗北した。でも、焼きたてのパンはおったまげるほど美味しいので優勝。
「つよぉし、強し強し強し強しつよぉし。やはりこの私間違ってはいなかった、焼きたてのパン一つあれば国盗りは可能なのだ」
 なんて一人でふざけつつ完食する夜も悪くないだろう。夜も更け切って、もうすぐ朝が来る。美味しいパンを食べて少し元気をもらえたので、今日のところはここいらで寝るか、と思い歯を磨いてから布団に入る。温かい布団の中で、明日のことをうっすらと考える。明日何を着ようか。あれを着て、これを着て……。そう考えているうちに眠気が襲ってくる。隣の部屋からふんわり香ってくる焼きたてのパンの匂いを感じながら、私は今日も、穏やかに眠りについた。
パンを焼くと、何となく気持ちが晴れて、ゆっくり眠れるようになる。それはきっと、パンをこねている間無心になれるから。そして、発酵中に自分の気持ちの整理が出来るから――。

 私は今夜もパンを焼く。パン生地に心のもやもやを食べてもらうため。そして、明日私が笑顔でいられるように。

 可愛い可愛い私のパン達。どんどんどんどん膨らんでゆく。可愛い可愛い無垢な生地たちを、私はこんがり焼いてゆく。そうして今夜も、夜が明けてゆく。


小説


クローバーのカーテン

風呂

 日当たりのよい時間にもカーテンを。

 こちらのレースカーテンはやや生地が厚く、透かし彫りした無数のクローバーがカーテンを彩ります。

 このカーテンをある晴れた日の朝、日当たりのよい場所で引いておきますと、クローバー柄の光があなたの部屋へと差し込んで来ることでしょう。

 そんなクローバーのレースカーテンとともに、わたしと美しい朝を過ごしませんか?


秋月国奇譚『山の住人』

今村広樹  

  秋月国の宗全山中に一人の白髪白髭な異国の人が住んでいた。名前をミクーラという。
 かれは、空を翔び回る能力があり、毎週パトロールしてるとか、自分を襲った強盗を一喝しただけで、嵐のような突風がふき強盗を弾き飛ばしたとかいろんな伝説がある。
 実際は街の子どもたちにプレゼントをあげる好漢で、酒場で歌い躍りマイ・フェイヴァリット・シングスをトランペットでふいたり。
 大人からは
「呑んだくれの名音楽家」
子どもからは
「プレゼントおじいさん」
と、呼ばれたという。


都市の見る夢

ドーナツ

 首都のインフラの管理はすべて人工知能に一任された。市民は煩雑な業務から解放される。しかし、人工知能は管理業務に留まらず、都市の成り立ちに興味を持ち始めた。

 首都に怪奇現象が起こる。月に動植物の鮮明な映像が浮かんでいた。人工知能の仕業である。開発者の質問に「都市開発の過程で滅びた動植物」だと答えた。
「都市は人間のためのものだ。人間は過去を喜ばない」
 人工知能は夢想する。

 首都で暮らす人々の顔が月面に映し出された。投影された市民の死亡が高確率で確認される。人々は今や俯いて歩いていた。
「未来予測は混乱を招く」
 開発者は人工知能を停止する。市民は再び生活に忙殺された。だが、月は今も彼らの頭上にある。


飛龍さつき

 虹の色が国によって違うと知ったのは、いつだっただろうか。ドイツ出身の友人が5色だと言い張って、軽く言い合いになったのを覚えている。紫のない虹は虹じゃない、とわたしが言えば、紫なんかどこにあるのか、と言い返される。この歳まで知らなかったのも恥じたが、知らない人も世界中にまだまだいるもんだと関心した。

「わたしは嫌いよ、虹」

「そうなの?」

「最近、LGBT関連で見るじゃない、虹の旗。あれが嫌いなの」

「安直……」

「理由なんて、どうでもいいのよ。気に食わないか、そうでもないか、人間なんてそんなもの」

 ここは日本で、虹は7色だけれども。この子は虹を嫌う。

――目の前にいる、あたしを好きな癖に。

End


月のパレード

ことのは もも。

 次女が生まれた記念に寝相アートの写真を撮ることにした。
 長女の保育園のママ友が良かったら家で撮らないかと誘ってくれたので、彼女の家で撮ることになった。
 当日、約束した時間に家を訪ね、居間に通され驚いた。
 手芸が好きだとは聞いていたが、大きな布一面にフェルトやビーズがあしらわれた見事な星空がそこには広がっていたからだ。
「凄い、綺麗!!」私は思わず声をあげた。
『いいでしょ!』
 彼女は微笑むと娘の美来ちゃんを連れてきた。
『美来がね、お月さまになりたいってずっと言ってて。きっかけは中秋の名月だったんだけど、その日は曇りで月が見えないのを私が残念がっていたら、じゃあ美来が月になるからーって』
 折角なら大きい夜空を作りたいなぁって思って、次の日からこの作品に取り組んだのよ。
 彼女は次女をそこに寝かせると、美来ちゃん、そして長女に横になるように指示した。身長順だ。
『月の満ち欠けを表現したくてね』

 私たちは可愛い月のパレードを写真に収めた。


マイクロノベル連作「ネオンの虎」

渋皮ヨロイ

いよいよ王は狂い、ネオンカラーの虎を国中に放つ。春めいてきたから、というのがその理由だ。昼、虎たちは出歩く国民を噛み殺し、気ままに喰らった。夜には多くの虎は眠るが、その身体は鮮烈な光を放つ。無発色の虎は変わらず檻の中で過ごし、きらびやかな夜のせいで不眠症になった。

長雨が続くうち、ネオンカラーの虎たちはしぼみ始めた。雨の度、小さくなっていく。それでも光を放ちながら、国民を襲う。ある時点から虎は狩られる立場となった。多くの輝く虎たちは殺される。射られ、殴られ、斬られる。やがて完全に雨が止んだ夜、珠のような光の欠片が闇に揺れた。

生き延びたネオンの虎は手乗りサイズにまで縮んでいた。捕獲された何頭かが他国へ売られていく。季節は移ろう。いつの間にか王は消えた。以前のように、夜はうす暗闇に覆われる。それは圧倒的な静けさも伴う。檻で暮らす無発色の虎は身体つきに変化もなく、やはり眠れないままだった。

そこは雪深い地域だった。住民は初めて虎を見る。その生き物はネオン色に発光し、ネズミの仔ほどの大きさだ。実際に触れ、手のひらに乗せる。人々は心からそれを愛でる。虎が小さく吠える。わずかに覗く喉の奥はこの世の何ものよりも紅いが、光に照らされない限り、その色は見えない。


龍の卵

阿瀬みち

閃光、すこし遅れて雷鳴がとどろき地面が割れた。ミサイルだ、と誰かが言った。飛翔体、飛翔体、飛翔体。三機が雲を吐きながら旋回、腹部に蓄えた爆破物を投下、投下、投下。振動、倒壊、崩落、アスファルトの地面はひび割れ瓦礫がクラックの表面を覆った。電線がショートし灯りが消える。褪せた色の埃が町を覆う。ぼくは公園の遊具の中で正面の建物が崩れるのを見ていた。友達が住む団地だった。駆け出す。崩れる、危ない逃げろ、戻れ! 叫び声は耳に届いているけど意味は通らない。途中から折れて鉄骨が剥き出しになった建物に飛び込み階段を上る、上る、上る。壊れた廊下の向こうに友達がうずくまっている。名前を呼ぶとぼくの方を見る。彼女の服は赤い。どす黒い赤だ。乾いた暗い赤だ。不吉な赤が額にもこびりついている。もう一度名前を呼ぶと彼女は咆えた。体にこびりついた血液が細かくひび割れ鱗のように逆立っていく。皮膚表面に無数のひび割れが生まれそのいずれの場所からも新しい血が滲み、乾いて固まっていく。気がつけば彼女の前身は赤黒い鱗に覆われ巨大な黒い龍になる。龍は逃げていく飛行機をすべて飲み込んで破壊した、戦車もその巨体で押しつぶし無に帰してしまった。兵士も大きな口で丸のみにしてしまって、血の一滴も残さなかった。彼女は大きなげっぷをすると、また勢いよく空に昇って行って、見えなくなってしまった。地上には誰も残っていない。ぼくは呆然とそこで立ち尽くしていた。


まるでミルクの渦みたい

鳥鳴コヱス

「あんたはいいよね。寝てるだけで良いじゃない」
 そんな声に耳を立てる。その声は羨望の響きであって攻撃性を感じるものではなかったので、私は再び微睡みへと沈むことにした。と、その背を柔らかな手のひらが撫でる。少し冷たい主人の手。その女主人は疲れると私を撫で回して構い倒す癖がある。
「にゃぅ」
 可哀想に、疲れたのね。
 そんな言葉を投げかけて、好きに撫でさせておく。彼女のことはどこか子どものように思っているのでつい甘やかしてしまう。
 ――猫には9つの命があるという。実際、私たち猫は9つの人生、もとい猫生を生きる。その猫生は決してすべてが平坦というわけではない。野良猫として生まれ、優しくはない世界で短い生を終えたこともある。食材にされかけたこともある。小さな人間とともに育ったことも、ネズミ捕りの道具として扱われていたこともある。現代を生きる猫たちですら、平均寿命は2年から16年くらいと言われているらしく幅が広いし、稀に20歳超えのご長寿猫なんかもいたりするので、9つの猫生の始まりの方の記憶は曖昧だ。
 ああ、でも、初めて蒸気機関車を見たときは、その音の大きさに驚いたのを覚えている。あの頃はまだ陸蒸気、って呼ばれていたっけ。
 その次の生で、周りの人間が皆、悲嘆に暮れていた頃があったのも思い出せる。あの頃は私も生きていくのが難しくて少し曖昧だけど。
 飼い主や関わる人間たちの悩みも悲しみは時代によって変わる。大きくも小さくも。私たちの生もそれに寄り添うように変わってゆくので、私は人間を仲間のように思っている。
「あーミルクたん、ほんっとうに癒やされるわぁー……」
 遠くから電車の音が聞こえる。あの陸蒸気の音に比べたらアリの鳴き声みたいに微かな音。
 今は穏やかな9つ目の生を堪能して、私はころころと喉を鳴らした。

(了)


なんらか各組

ニガクサケンイチ


 さわやか三組を見てみよう。

 爽やかな子どもたちだね。みんなが白い歯を剥き出しにして、こちらに微笑みかけている。クラス全員、窓に押し寄せて、笑いかけているよ。嬉しい大歓迎だ。

 あさはか一組を見てみよう。

 クラス全員の腕じゅうに、テストの答えが書いてあるね。堂々と、浅はかだね。六年間、この調子だったというから、驚きだ。カンニングを叱られたら、全員いっせいに窓から逃げていったよ。単純で好感が持てるね。

 いくらか二組を見てみよう。

 教室に入ると、三割程度は二組だね。でも、残りの七割は、炊飯器や洗濯機といった家電が、置いてある。明らかに、誰かが、生活しているね。日々、「二組」の文字がじわじわ薄れて、「桑田」という文字が浮かび上がっている。やがて、この教室の十割が「桑田」になったとき、クラスは桑田家になる。桑田がどこかで、それを見ているんだ。

 

 さわやか三組は一回見たからいいよね。しかしずっと窓にへばりついて笑っているね。

 まちなか四組を見てみたいところだけど、残念ながら、校内では見られない。

 四組は、学校ではなく、街のどこかにランダムで出現するんだ。四組の生徒は、自分のクラスを探して、永遠に街を彷徨い続けているよ。なかなか出席できないから、卒業できるかどうかわからずに、まだ一年生のままの六年生もいるそうだ。どんな授業をやっているのか、教室の中にどんな先生がいるのか、見たことがない人のほうが、多いんだって。

 やすらか五組を見てみよう。

 教室の上下左右、四方四面が自発的に、白く光っているね。眩しいけれど、目を凝らして、見てみよう。壁に、天井に、床に、無数の、なだらかな、人型の膨らみがあるね。ときおり、顔らしき膨らみの表面の、まぶたがゆっくり開いて、眼球だけが光の中に浮かび上がる。あちらこちらで、血走った瞳が瞬いている、ただそれだけの時を過ごす、クラスなんだね。

 最後に、すみやか六組を見てみよう。

 えっ、もう帰った?

 〈終〉


テレビ

大江信

 そのテレビは待っていた。持ち主を待っていた。何年も何年も何十年も待っていた。
 発見されたときのテレビは驚くほど状態が良く、考古学者達は口を揃えて奇跡だと言った。
 テレビは待っていた。テレビ番組も待っていた。持ち主がまた見るに違いない番組は待っていたのだ。

 永遠かと思うほど長い月日が流れた。
 テレビの中で私達はずっと暮らしてきた。生まれたのもテレビの中だ。保育所も学校も会社も盛り場もテレビの中にあった。
 テレビの中にはテレビがあった。ドラえもんもサザエさんもやっていた。私達はそれらを見て笑い泣いた。
 知らない国には見たこともないテレビがあるらしい。
 私達はテレビで以上の番組を見た。

 私達はテレビだったしこれからもテレビだ。考古学者達はテレビを見たことがなかったからテレビと言えなかったのだ。
 奇跡がテレビに起きたことは間違いない。
 しかし、テレビが無ければ分からない。
 私達は時々居酒屋へ行き酒を飲む。考古学者達もそこで酒を飲む。
 考古学者達が帰ったあと、私達はテレビを見た。
 私達はテレビで以上の番組を見た。

 テレビの中で私達はテレビを見る私達をテレビで見る。そういう番組もテレビを待っていた。
 持ち主はテレビを買い替えたが気に入らなかった。今までのテレビと違っていたからだ。
 テレビはテレビ番組を見るためにある、とは持ち主は考えていなかった。
 私達はテレビで以上の番組を見た。

 永遠かと思うほど長い月日が流れた。
 テレビはテレビの中で私達と関係を結んでいた。持ち主はそれを知らなかったからテレビを買い替えたのだ。
 考古学者達は口を揃えてそれを奇跡だと言った。
 奇跡はテレビの中にあった。奇跡はテレビの外にもあった。考古学者達が見つけた奇跡とは一体何だったのか。
 奇跡がテレビに起きたことは間違いない。しかし、テレビが無ければ分からない。
 私達はテレビで以上の番組を見た。

 そのテレビは待っていた。持ち主を待っていた。何年も何年も何十年も待っていた。
 発見されたときのテレビは驚くほど状態が良く、考古学者達は口を揃えて奇跡だと言った。
 テレビは待っていた。テレビ番組も待っていた。持ち主がまた見るに違いない番組は待っていたのだ。

 永遠かと思うほど長い月日が流れた。
 私達はテレビだった。それは今でも変わらない。


たとえばこんな空回り

海音寺ジョー

 お寺の尼さんが入所してきた。介護士になってほやほやの頃は違和感があったが、今や看取りはお寺の仕事ではないのである。寺で面倒見きれぬようになったら、施設で引き受ける時代なのだ。脳梗塞からの重度の片麻痺で、全介助要介護5だ。殆ど聞き取れない声と筆談で「親族に迷惑かけたくないから、このまま死なせてほしい」と希望してる。夫や子はいない。弟がキーパーソンだ。弟の嫁は非協力的で、本人の欲しがるジュースは施設で買ってくれないんですか?と初日から文句を言ってきた。

 尼僧としての真面目さからか、入所初日から、食事を受け付けなかった。親族に迷惑かけたくないから、潔く衰死したいのだろう。看護師からの圧力があり、我々は繰り返し繰り返し口元にスプーンを運び、吐き出すミキサー食を受け、また口中に入れ、嚥下を促すという苦行を余儀なくされる。私は尼さんの宗派を調べ、ネットで故事や宗旨に合った説話などを探り印字した。それをもとに尼さんの部屋で法話の真似事などをし、親密度を上げた。仏教の話だと、目を輝かせて聞いている。食事は依然拒否を続けてたが。

 名を呼んだ。「華善さん」意識を、華善さんはこちらへ向けた。私は続けた。

「華善さん。貴方の親族に迷惑をかけたくないとの思い、届きましたか?彼女らは、『身勝手な人』と私らに放り投げてきたんですよ、貴方を。華善さんは誰のために我慢してるんですか?貴方を良く思わない奴らに尽くすくらいなら、毎日世話を、下の世話すらしてる私らの為に食べてくれませんか。それが慈悲だと、私は思うな」

 翌日から、華善さんは人が変わったように食事量が増えて、笑顔を見せるようになった。他の職員は不思議がったが、介助の負担が減ったので一様に喜んだ。

身体能力も回復するかに見えた。だが次の週、また脳の太い血管がやられたのか、状態が悪化した。看取りのために実弟が付き添いのため泊りに来た。華善さんは目で、私に何か言いたげだったが、真っ直ぐその目を見つめ返すことしか出来なかった。実弟は夜勤の私に剃刀は無いか?と請うて来て、自分の剃刀をあげた。御礼というわけじゃないが、と菓子包みを一箱ぼくに渡そうとした。かたくなに固辞した。今から思うと、何で受け取らなかったのか不思議でならないが、そういう気分だったのだろう。華善さんは弟が来て、三日後に逝った。

         

                             おわり


式日

瀬戸千歳

 役所へいく前、最後に妻が寄りたがったのはかつて住んだアパートだった。いきつけのパン屋でも常連だった定食屋でもないことには驚いたけれど、彼女がその場所を選んだことは悲しいほど理解できた。数年ぶりに降りた駅は再開発が進み、僕たちが暮らしていた頃の面影はほとんど残っていなかった。アパートまでの坂道は記憶のなかより、ずっとずっと長かった。僕たちは途中でなんども休憩をとった。
 さきほどまで妻は不自然なほど明るくふるまっていたのに、いざアパートを前にしてから急に黙りこんでしまった。かつて住んでいた部屋のベランダで、若い男女が煙草を吸っている姿が見えた。やわらかな日差しを浴びながらふたりとも手すりに身体をあずけ、ときおり顔を見合わせ笑っている。耳をすませば笑い声さえ聴こえてきそうだった。
 僕たちにも世界にふたりだけしかいなくなったみたいな、とびきり甘い瞬間があって、たとえばベランダで月を見上げながら団子を食べたり、わずかばかり積もった雪を集めてだるまを作ったり、洗濯物を干しながら遠くに横たわる川を眺めたりしていた。もしこのアパートでずっと暮らしていたなら、こうなっていなかったかもしれない。ふたりで暮らすには充分すぎるほどだったのに、やがて授かるはずの子どもにあわせて僕たちは住処をうつした。疑わなかった。幸福が訪れるまで病院へなんどもなんども通い、ふたりの貯金をほとんど使い果たし、ふたりの心を限界まですり減らして、それでも僕たちのもとに子どもはやってこなかった。
 妻の手を握る。指先は冷えきっている。ふりほどくことも握り返すこともない。
 ずっと抱いていた理想の家庭像を、僕はどうしても捨てられなかった。妻もどうしても捨てられなかった。たとえ子どもに恵まれなくても以前の日々に戻れるはずなのに、ひとりぶん、本当はふたりぶんを思って空けた隙間は、僕たちだけで埋めるにはあまりにも大きくなりすぎてしまった。
 妻はベランダのふたりに向かって大きく手をふる。ちょっと。小声でたしなめるけれど彼女はまっすぐに彼らを見つめていた。ふたりも妻に気づいたのか、笑顔のまま手をふり返してくれる。男の子のほうは身体を手すりに預けたまま肘だけを動かし、女の子のほうは腕を高くあげてぶんぶんふった。それでも妻はやめなかった。恥ずかしくなって僕もささやかに手をふりはじめると、彼らの笑みが濃くなったのがぼんやりとわかった。急に下顎と耳の付け根あたりが熱を持ってしびれる気がして、その熱はだんだん鼻の頭へ流れ、あ、と思った途端に目尻から涙がこぼれる。僕は目をつむる。薄ぼんやりとした光のなかで妻のかすかなふるえだけがわかる。


一枚物語~日常篇~

鞍馬アリス

「窓」
 ある晩、ホトホトと窓を叩く音がカーテンの向こう側からする。
 こんな夜中に何だろうと思っていると、鳥の鳴き声が聞こえて来た。雀のように思える。
 窓の外にベランダはない。雀が留まれるような場所はないはずだ。それに、ホトホトと叩くあの音を、雀が出せるだろうか。
 雀だとしたら奇妙だし、雀でないとしたら奇妙を通り越して怖い。なにかが窓に張り付いてホトホトと叩いている様子を想像してしまい、急いで部屋の灯りを消すと、寝室へと逃げ込んだ。
 そのままベッドに潜り込んで眠ってしまったのだが、妙な夢を見た。
 自分の部屋の窓のカーテンが開いていて、そこにホバリングをした雀が見える。雀の翼の先には小さな人間の腕が付いている。その腕がホトホトと窓を叩いている。窓を叩くと雀がチュンチュン鳴き声を出す。
 叩いては鳴き、また叩いては鳴く。その繰り返しだ。ハハァ、これが夜中に窓を叩いていた物の正体かと、夢の中で納得する。
 そこで目が覚めた。朝になっていた。
 変な夢だなと思いつつ居間へ向かい、窓のカーテンを開ける。勿論、なにもいなかった。

「音鈴虫」
 鈴虫の声だけを売っている屋台が、職場の前にできていた。一籠五〇〇円で売られている。中には何もいない。けれど、鈴虫の鳴き声だけは、ハッキリと聞こえている。
 音鈴虫と言うそうだ。屋台の主人がそう教えてくれた。捩じり鉢巻が妙に似合う女の人だった。
 彼女によれば、音鈴虫は音だけの生き物なのだという。だから死ぬことはないし、実体がないので誤って殺してしまうこともない。夜中になるとリンリンリンと心地の良い音を響かせてくれるので、無料のリラクシング音楽と考えてもらっても構わないと言われた。
 それは確かによさそうだなと思った。ちょうど、仕事を終えて疲れていたこともあり、私は一籠買うことにした。
 五百円玉を払って紫色の籠に入っている音鈴虫を購入した。
 アパートに持ち帰って、テーブルの上に置いておくと、たしかに心地が良い。適度な音量なので、読書をしていても気が散らない。寝る時にベッドの横に置いておくと、これはこれで趣きがあって気持ちよく寝れた。
 例の屋台は翌日には消えていた。
 また現れないかなと密かに期待している。

「くずし字転売」
 私の友人に、紙に記された文字を剥がして転売している人がいる。そういうのはよくないんじゃないかと諫めたりするのだけれど、彼女は全く意に介していない。
 彼女が転売するのは、江戸時代の黄表紙と呼ばれる本に記されたくずし字だ。そういう本をネットのオークションで買って、文字を剥がし、それっぽく丸めて転売する。
 掌に乗ってしまうほどの小さな崩し字の玉が、一つ数万円で取引されている。
「くずし字玉」と彼女は名付けている。インテリアとして買う人が大勢いるのだとか。
「そもそも、あれを文字だって誰も認識してないと思うよ? だからこそ、お洒落だと感じて買おうとするんだと思う」
 前に、友達はそう言っていた。くずし字は普通の人は読めない。それ相応の訓練を積んでいないと、簡単な挨拶文でも読解は不可能なのだとか。でも、逆に読めないからこそ、そこに妙な価値を見いだしてしまうのが人間というものなのかもしれない。
 今日も友人は黄表紙からペリペリぺリとくずし字を剥がして転売をしている。私は会えば変わらず諫めているけれど、彼女の生き方がほんの少しだけ羨ましくもある。


「嘉良華リャカ文章選」刊行に寄せて

葦沢かもめ

 嘉良華(からか)リャカほど奇妙な作家は、そうそういないだろう。彼女は現在ではその名が知られているが、元々は幾つかの著作をウェブ上で発表しているだけの、無名のアマチュア作家であった。

 当時、特別に注目されたという形跡は残っていない。某コンテストの一次通過者として一度名前が挙がったことがあるのみである。SNSで他のアマチュア作家とも交流をしていたが、その頻度はあまり多くなかった。その存在があまりに謎に満ちているために、実際には複数人のユニットなのではないか、有名作家の裏アカウントなのではないか、という説も囁かれていたが、現在では否定されている。

 彼女の死後、遺族が部屋の中に散らばった複数枚のメモ用紙を発見したことが、大きな転機となった。それらのメモには現時点で判明している限り、少なくとも数十種類の投稿サイトに十二のペンネームで作成されたアカウントのIDとパスワードが記載されていた。

 遺族が実際にログインすると、それら投稿サイトのクラウド上に、未公開の下書きとして膨大な量のテキストが残されていた。テキスト量が膨大すぎる余り、一つのアカウントに用意された容量では到底足りず、複数のアカウントを運用せざるを得なかったという説が、現在は支持されている。

 テキストの内容は多岐に渡り、単なるアイディアの走り書きのようなものもあれば、日々の生活を綴ったもの、詩、ToDoリスト、映画の感想、愚痴、その日に見た夢の内容、そして作品として完成に近いと判断されている小説もある。同じ作品のアイディアと思われるテキストが複数のサイトに跨って存在していることも確認されている。

 遺族がこれらのテキストデータを保存するための活動を始め、彼女の所持していたアカウントの一つにまとめて公開した。すると、その膨大なテキストに魅了され、テキスト間の関連性を考察する人々が多く現れるようになった。こうして嘉良華リャカとそのテキスト群は、多くの人々に知られるようになった。

 

 本書は、その膨大な遺稿から見つかった、短編小説と考えられているテキストをまとめたものである。この中には物語に複数の分岐・エンディングがあると判断されているテキストが含まれているが、本書では更新日時が最も新しい版を掲載することにした。

 今後さらに遺稿が発見されて、これらの掌編の一部が同じ物語を構成していることが明らかになったとしても、私は驚かない。彼女のテキスト群のうち、同一の作品である可能性が指摘されているテキストは無数に存在する。むしろ単独の作品であるという共通認識が得られた作品が存在しない、と言った方が正しい。当時存在していた小説投稿サイトには既にサービスを終了しているものもあり、未発見のテキストが消失した可能性も指摘されている。

 編者として大変悩んだが、本書の題名を付けるにあたり、「短編集」や「作品集」という言葉は、あえて使わなかった。本書に掲載したテキスト全て、いや彼女の遺稿の全てが、実際には一つの長編小説を構成する文章であったとしても不思議ではない。

 その解釈の自由度の高さこそが、作家・嘉良華リャカの魅力の一つと言えるだろう。彼女が有名になって以降、アマチュア作家の遺稿が公開されるケースが増えたが、彼女のように評価されている作家はいない。彼女の文章だけが、異常であり、異質であり、読んだ人を狂わせる何かを持っているのである。

20XX年 3月 嘉良華リャカ

<了>


左翼線上の恐怖

小林猫太

 市営欅崎球場の左翼ファウルライン上には目に見えない魔物が潜んでいる、という噂は知る人ぞ知る、しかし知らない人の方がはるかに多い話ではあった。およそ十年前に完成した同球場の左翼線上で起こった最初の悲劇は、完成記念として行われた市民野球大会での出来事であった。三塁後方に上がったファウルフライを全力で追っていた左翼手が、白いラインを踏んだ瞬間にバッタリと倒れてそのまま帰らぬ人となったのである。心臓麻痺だった。そして二度目は同じ年の秋、高校野球の秋季大会の只中のことであり、ライン際の飛球を背面で追っていた欅崎工業の三塁手が、ちょうど白線上で躓いて変な転び方をしてしまい、鎖骨と肋骨を二本複雑骨折して救急搬送された。折れた肋骨は肺を貫通しており、三塁手は生死の境を彷徨ったという。たまたま二つの試合を見ていた関係者は、彼等が倒れたその場所が全く同じポイントであることに気づいた。呪われた左翼線の噂は瞬く間に広がったが、そもそも野球に興味がなく球場にも行かない人にとってはどうでもいい戯言にすぎず、その伝播は関係者に限られていた。球場を管理する職員は、完成したばかりの球場に得体の知れぬ悪評が立っていることを気に病み、有名な神社の禰宜に厄祓いを依頼し、試合で使われるたびに問題の場所に盛り塩を置いた。

 その対策が逆に「欅崎球場のレフト線を踏むと災厄に見舞われる」という噂を迷信以上のものにしてしまったことは否めない。それは「畳の縁を踏むのはタブー」という昔ながらの作法の比ではなかった。レフト線に飛ぶ打球は高い確率で安打となった。そうでなければ野手のエラーを誘った。球を追う際にどうしてもラインの存在が気になってしまい、無意識に脚が鈍ったりボールから視線を外してしまうからだった。どう考えても馬鹿げた話ではあった。それでも長い間、左翼線上の盛り塩は続いた。それはもはや関係者にとって申し送り事項のひとつとなっていたし、そんな噂をとっくに忘れていた選手も、その盛り塩を見ると無視できない恐怖に襲われるのであった。

 球場が建設される前、そこは山の裾野に広がる荒地だったが、確かレフト線の辺りには古い落武者の墓があったはずだという話がまことしやかに囁かれた。滅多に誰も足を踏み入れない土地だったため、人知れず殺された死体が埋められていたのではないかと言う者もいた。そうではない、最初の犠牲者の思念が留まり霊障を引き起こしているのだとする者もいた。それらの妄言を疑う者はいても、もはや「左翼線上の呪い」を疑う者は皆無だった。なにしろそこには現実に盛り塩があるのだ。それは具現化された未知の力への恐怖に他ならなかった。

 だがその精神的結界はいとも簡単に破られることとなる。数年後、欅崎球場で開催された地域の社会人対抗野球大会決勝戦、白熱したシーソーゲームは専攻北越電設が一点リードのまま9回裏、二死二、三塁で欅崎市役所の打者が打ち損じたフライが三塁後方へ飛んだ。ライン際に落ちるテキサスヒットかと思われたが、前進守備の左翼手が猛然と突っ込んできて地面ギリギリでスライディングキャッチを試みた。勝つか負けるかの瀬戸際で、彼は呪いの存在を一瞬忘れ、ライン上の盛り塩を激しく蹴散らしてしまった。左翼手が勢い余って転がり倒れるのを見て、誰もがハッと息を呑んだ。しかし彼は歓喜の笑顔ですかさず立ち上がると、ボールを握ったグラブを高々と天に突き上げて見せたのである。彼が負ったのは肘のかるい擦り傷だけだった。

 その瞬間、誰もが、自分がどれだけくだらない妄想に捉われていたのかを知った。考えてみれば、ただ単にたまたま不幸が起こった場所が重なったというだけのことで、二度あることが三度あるための因果などそこにあろうはずもなかったのだ。半年後に北越電設が失火により倒産した時にも、ただ一人逃げ遅れた社員があの時の左翼手だとわかった時にも、左翼線上の呪いを持ち出す者はほとんどいなかった。いや、関連付けた者はもう口に出すことも憚っていたのであった。彼等にとってそれはもう、否応なしに「ある」としか思えなかったからだ。とはいえ、なかにはこう考える者もいる。そこに「ある」と思うことで本当に何かを呼び寄せてしまったのではないかと。

 翌年、欅崎球場は左翼付近に急激な地盤沈下が認められ、補修工事が行われたが、掘り返した地面から、例えば破損した墓石や人骨のような何かが出てくることはなかった。ただ、その後特筆するような事件が起こっていないことから、件の場所に新しく何かを埋めたのではないかという噂は今でも絶えることがない。


tide

オカワダアキナ

 駐屯地の近くに遊べるようなところはなく、かろうじてサティがその役割を担っていたのだと思う。年寄りばかりの町に合わせた品揃えで、若い男の刺激になるようなものはあまりなかったろうが、ほかに行くところもなかったと見えた。ぶらぶら買い物している自衛官たちをよく見かけた。服装はいろいろだったが、日焼けした体や短い髪でかれらがそうだとすぐわかった。いつも黙々とクレーンゲームをやっている男がいた。しゃべったことはない。台を抱えるみたいにでかい背中を丸め、クレーンの先で突っついたりひっかけたり、じょうずだった。ぬいぐるみをレスキューしているみたいでいいなと思っていた。
 ゲームコーナーは階段そばのうす暗い一角にあり、クレーンゲームのほかはじゃんけんゲームとかじいさんばあさんしか座らないメダルゲームの機械とか並んでいて、いずれも好き勝手に光と音をまき散らしていた。音は混ざり合ってうねっていた。そこにいる人たちはみな黙ってボタンを押しているかぼんやり筐体を物色しているかで、うるさいということはすごく静かなのだと知った。
 その後町を出て、私は人魚になり、クラブ遊びだってするようになり、夜な夜な水に満たされたフロアを泳ぎ回るようになったが、ばかでかい音響で水面に波が立ち、色とりどりの照明がぎらぎら光るのを水底から眺めるのが好きだ。知り合いに会えばハイタッチし、ぜんぜん知らない人魚でもすれちがいざま尾びれを絡ませてきやがる、好みのタイプなら私も尾を振ってあげる。うろこを一枚剥がして手渡すこともある。爆音の中、私たちは耳に手を添え、内緒話みたいにささやきあう。ほとんどキスするくらいの距離で、それでもぜんぜん聞き取れないこともあるけど、まあ、どうせ大した話じゃない。息だけ耳にもらう。濡れた背中をさすりあう。
 人魚になったというか、そうであることに気づいたというか、足をぴったりくっつけたらああそうだったと思い出した、やってみたらいけた、心の底からどうしても二足歩行を憎んでるってわけではなかったし足もつかえることはつかえるんだけど……。場所のやかましさによって無口になること、言葉は半開きの口の中でとどまり、湧いては消え、ぽろっとこぼしたとしてもほとんど誰にも気づかれない。そういう気持ちよさの萌芽はきっとあのゲームコーナーにあった。

 母の買い物について行き、自分はここで待っていると言う。そうすると百円握らせてくれる。「遊ぼうよ! 遊ぼうよ!」、何かの機械が繰り返し呼びかけているが、どれの声なのかわからない。メダルのじゃらじゃらいう音がずっと響いている。なんかメリーゴーラウンドみたいな音楽も聞こえる。どれにしようか、どれでもいいからいつまでも迷った。硬貨を手汗でべたべたにしながら筐体の間を歩き回った。金属と汗のまざったにおいは嗅ぐ前からわかっていて、答え合わせをするみたいに鼻に手のひらをくっつけた。昭和何年。この百円は自分が生まれる前からあった。ぬいぐるみの男は昭和何年だろうと思った。
 そのころうちの姉は手相占いに凝っていて、私の手のひらには運命線がないと笑った。運命線とは手のひらの真ん中あたりにあって、中指の下から縦に伸びる線で、これがないということはあんたの将来は定まっておらず、将来を考える心も弱く、何かを切り拓く力がないということだ……と予言した。ろくでもない予言だしそれを真に受けたわけではなかったが、手相占いの本と自分の手のひらのようすがちがうことがなんだかつまらなくて、いつも手のひらを縦に折り曲げ、自分で運命線を作ろうとした。毎日毎日やったからほんとに線はできた。いまでは生命線と同じくらい濃く太い皺になり、あのころ毎日がんばった成果だ。ゲームコーナーをぶらついているときも、百円玉を作りかけの運命線に挟んでいた。
 あるときゲームコーナーにダンレボがやってきた。ばかでかい台だ。ぬいぐるみの男はぬいぐるみをやめて踊るようになった。丸太みたいな体をばたばたやって、おぼつかないステップを踏んでいたが、次第に踊りはうまくなった。ちょっとした人だかりができるようになり、クラスの女の子たちがはしゃいでいた。私はそれが憎らしかった。ぬいぐるみは自分で助けなきゃ、でも私はクレーンゲームがへたくそだから、百円は使わずにとっておき、貯め、好きな人形を買いもとめた。

 人魚たちの集まるクラブは埋立地の倉庫街にあり、夜になるとあたりはがらんとして、信号機ばかり煌々としている。橋の上から運河の暗い水を見る。磯のにおいを吸いこむ。満潮で膨らんだ水面がやけに静かで、流れが止まって見えた。大潮の週末の釣り大会……。参加したことのないお祭りを思い出した。今度の正月は帰省する金がないと言ったら、じゃあ母がこっちに来ると言う。まいったなあと思っている。水の中で朝まで踊る。私の運命線はちょっと曲がっているので中指と薬指のあいだの水かきにつながっており、人魚であるということは属性ではなく、生き方ではなく、生活習慣でもなく、趣味でもなくて……。耳がキーンとする。うろこを剥がしすぎたからひりひりする。

(初出:白昼社「オートマニュアル vol.0」)

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ホンヤクプロパガンゴヤク

日比野心労

私は現在世界で進行している全ての戦争に反対する。戦争は愚かな行為であり、戦争は何も生み出さない。戦争は解決にならず、戦争は正義ではない。
兵士よ銃を置け。君たちが手に取るべきはいま君たちが殺そうとしている人間の手だ。
戦争をやめろ。

I oppose all wars going on in the world today. War is a foolish act and war produces nothing. War is not a solution and war is not justice.
Soldiers, put down your guns. You are holding in your hands the hands of the people you are now trying to kill.
Stop the war.

Я проти всіх воєн, які зараз відбуваються у світі. Війна — дурний вчинок, а війна нічого не дає. Війна – це не рішення, а війна – не справедливість.
Солдати, будь ласка, опустіть рушницю. У ваших руках ті, кого ви збираєтеся вбити.
Зупинити війну.

私は、今世界で起こっているすべての戦争に反対です。戦争は悪の根源であり、戦争は何もしない。戦争は解決策ではないし、戦争は正義でもない。
兵士たちよ、もしよろしければ、タオルを置いてください。あなたは、殺そうとする者を手にしているのです。
戦争に終止符を打つ。

I am against all wars going on in the world today. War is the root of evil and war does anything. War is not the solution and war is  justice.
Soldiers, if you would, please put down the towel. You are holding in your hands those who are trying to kill you.
Put on end to war.

Я против всех войн, происходящих сегодня в мире. Война - это корень зла, и война делает все. Война - это не решение, а война - это справедливость.
Солдаты, прошу вас, опустите полотенце. Вы держите в своих руках тех, кто пытается убить вас.
Я продолжаю конец войне.


我对今天世界上发生的所有战争。战争是全的根源,战争无所不为。战争是解决办法,战争就是正义。
士兵们,请把毛巾放下。你的手中握有那些试图杀死你的人。
我继续战争。

Меня интересуют все войны, которые происходят сегодня в мире. Война - корень всего, война - ничто. Война - это решение, война - это справедливость.
Солдаты, пожалуйста, положите полотенце. Вы держите в руках людей, которые пытаются вас убить.
Я продолжаю войну.

I'm interested in all the wars that are going on in the world today. War is he root of everything and all that, and war does anything. War is the solution, war is justice.
Soldiers, please knock down TV tower. You are holding people who are trying to kill you.

I continue the war.

(終)

今、世界で起こっているすべての戦争に興味があります。戦争はすべての根源であり、戦争は何でもする。戦争は解決策であり、戦争は正義なのです。
兵士の皆さん、テレビ塔を打ち倒してください。あなた方は、あなた方を殺そうとしている人たちを捕らえているのです。

私は戦争を継続する。


杞憂


柊とち

「懐かしさって、どんな時に感じる?」
 食後に暖かいお茶でも飲みながら話そうか、と妻が湯気の立つマグカップを目の前に置きながら聞いた。
 なんだか突拍子もない話だな、とまだ熱いお茶に息を吹きかける。懐かしさ。色んな所で感じるし、人の心を掴む一つの手法と言ってもいいのかもしれない。
 テレビをつけてCMが流れているのを見ると、発売が30年も前みたいな曲がしょっちゅう流れている。
 きっとその世代の人間が、今お金を持っていると踏んでの企業の戦略なのだろう。

 「そうだなぁ。やっぱり、昔の曲が耳に入ったときとかかな」
 曲は歌詞だけじゃなく、その時に感じた色々な思いや感覚を連れてくる。クリスマスソングがアレルギーの様に苦手な人間の気持ちも多少は分かるつもりだ。
 失恋なんかと結びつけられた曲が、街中に溢れていたら、しんどくて堪らないだろう。
 幸いにして、自分はあまり積極的に音楽を聴く方ではないし、かつての恋人との記憶に結び付けられた曲は、ほぼないと言ってもいい。

 「君は?」
 聞き返されると思わなかったのか、目をぱちくりとさせて瞬きをした。そうだなぁ、とまだ熱いお茶を啜る。彼女は、自分と違って猫舌ではない。
 「道かな」
  熱い吐息を吐き出す様に、口にした。
 「道?」
 「学校に通った道とか、遊びに行く時に時よく歩いた道とか」

 ぼおっとした時とか、ふとした時とか、歩いていても似た道なんかあると思い出すの、と付け足された。

 「道かぁ。分かるような、分からないような」
 「だいたい記憶に残っているのは、砂利道とか住宅の間の細い抜け道とか、暗いジメッとした道で」
 「あー、僕もそういうのあったなぁ。小学校とかなんかだと不審者が出るから通らないようにって厳重に言われるんだけど、馬鹿だから言われれば言われるほどそういう道を選んで帰ってさ」
 今日はこっちの道を通ろう!と分かれ道で友達とじゃんけんをしたり、一緒に何度も寄り道をした記憶が、じわじわと蘇ってくる。
 そういえば、無駄に石を家まで持って帰ると蹴りながら進んだこともあったし、グリコをしながら進んだこともあった。運悪く負けが続くと、友達の姿は豆粒のようになってしまうし、大声で叫びながらの「ぐーりーこ!」の声は響いたらしく、近所のやまんばと噂のばあさんが鬼の形相で怒鳴りつけてきたこともあった。
 石を家まで蹴り進めた記憶はないので、どこかでどうでも良くなってしまっていたのだろう。

 「お母さんを心配させたタイプでしょ」
 「そうそう、帰りが遅くなって。でも、通学路を遡ってももちろん居ないわけで…結構怒られたなぁ」
 見透かしたような言い方に、なんだか妻に迷惑を掛けたわけでもないのに申し訳ない気がして、肩をすくめた。

 「そういう道って、もう区画整理されてなかったりするよね」
 「たしかに。記憶にも残らないような大きな幹線道路にされてたり、綺麗で快適なんだけどそっけないような道になってたりする」
 どこも同じような、コンクリートで固められた道。特徴がない、と言ってもいいのかもしれない。
 きっとそんな道の写真達を並べられても、見分けは付かないだろう。

 「だから記憶だけが頼りになってさ、思い出の中でどんどん美化されていったりするよね」
 「だからって、確かめようがないもんなぁ」
 今思い出した懐かしさ。それは錯覚だ、と言われればそれまでかもしれない。SFなんかでお決まりの、植え付けられた記憶、というやつかもしれないし、水槽に浮かんだ脳に電気を流し込まれているだけかもしれない。

 でも、別に誰かに迷惑を掛けているわけじゃないし、時折思い出しては適当な懐かしさに浸ってもいいんじゃないだろうか。
 むしろ、美化されればされるほど物語性が出て良いだろう。実は自分とほとんど接点はなかったけれど、クラスの男子のほぼ全員が可愛いって言っていたユリちゃんなんかを登場させて…って、そんなことをしていたら現実との境目が分かりにくくなって仕方ない。
 危ない危ない、と咳ばらいをして意識を現実に戻した。

 「あんまり美化し過ぎると、思わぬ罠にひっかかるよ」
 片方の唇をあげて目の前の妻はニヒルな笑みを浮かべていた。おそらく、色々考えていた時にだらしない顔でもしていたのだろう。取り繕おうとしたがもう遅かった。

 「気を付けるよ。大事なのは、今とこれからなんだから。過去に縋りついているのはみっともない人間の極みだ」
 自分に言い聞かせるように、刻み付ける様に、一言ずつ区切って言ってから、丁度良い温度になったお茶を飲んだ。

 「よく言った。そういうことだよ」
 今度はなぜか誇らしげな表情をして、うんうんと力強く頷いている。
 結局、この話の着地点ってなんだっけ、と首を捻りながら会話の足跡を辿ろうとするが、分からないままだった。

 「何の話だっけ」
 なんでもないよ、と妻は首を振りながら、机の上の空になったコップの取っ手を掴んで立ち上がって、肩越しに言った。

 「同窓会のハガキ、来てたよ」

 貴方の部屋の机に置いといた、と聞こえた時には、もう顔は見えなかった。
 そういうことか、と水を勢いよく出してコップを洗い始めたその背中を眺めながら、心配しなくてもいいのに、と自分の耳に届く程度の音量で呟いた。

END


空と横顔

みたか

 あいつには、青空がよく似合う。透き通るような淡い水色を背負っている横顔は、ずっと見ていても飽きない。

 学年が変わって出席番号順に座っていた頃、栄浪(えいなみ)は前から三番目の窓際の席だった。春の陽気を乗せた空とは反対に、しんと静かな栄浪の横顔が印象的で、おれはずっと忘れられない。

 栄浪は休み時間になっても席に座ったままで、いつも一人で本を読んでいる。連んでいる連中の声に合わせて笑いながら、おれはこっそり栄浪を見ていた。だから席替えをして斜め後ろの席になったときは、正直嬉しかった。

 昼飯のすぐあとの授業が自習になった。絶好の昼寝時間となった教室は、起きているやつのほうが少ない。

 栄浪は起きていて、課題のプリントをさっさと終わらせて本を読んでいる。おれはシャーペンをくるくるといじりながら、斜め前の横顔を見た。真っ黒に見える髪は、光が当たるとほんのり茶色くなる。青を切り取るような横顔は、特別美人というわけでもない。でも控えめにくっついている鼻と薄い唇はいい形をしているし、何より文庫本に落としている目がいい。文字を追うたびに睫毛が揺れる。ときどき瞬きをする。その一つ一つが繊細だ。ただ、この席からは瞳までは見えないのが少し残念だ。代わりに、頬のふっくらと盛り上がったラインがよく分かる。これはこれでいいなと思う。

 男だとか同級生だとか、そういうことはおれにとってどうでも良かった。これは人間が花を愛でるのと同じだとおれは思っている。

「……何か用?」

「いや、別に。なんもねえ」

 ちら、とこちらを振り向いて、こそこそと囁くように話しかけられた。

「視線がうざい。気が散るんだけど」

 栄浪は口を開くとこんな調子で、クラスのやつらからも浮いている。あっそ、とおれは適当に返事をした。

 手元の文庫本には、今日はブックカバーがされていない。毎日同じものを使っていたから、よく覚えている。落ち着いたキャラメル色のブックカバーだ。柄は入っておらずシンプルで、こいつらしいなと思っていた。

「お前、いつも使ってんのは?」

 それだけで栄浪は、おれがなんのことを言っているのか察したらしい。

「昨日、雨だったから」

 濡れてしまったのか。そういえば昨日は雨だった。

 指の隙間から表紙が見えた。海の中を描いたような絵が載っている。おれはそれを学校帰りに本屋で見たことがある。タイトルも作家の名前も覚えていないが、見たら分かる。普段は本なんて全然読まないけど、おれも読んでみたくなった。

 ノートの端っこを小さく破いて、栄浪に投げた。

「おい」

 そう言って眉を寄せながら、栄浪は紙屑を拾って広げた。

『帰りに本屋』

 その文字を読んだ栄浪は、はあ? と言いながら頬を緩めた。

 いつもの本屋の扉を開けると、本の匂いが鼻をかすめた。紙の匂いなのだろうか。それともインクか。おれには分からないが、本屋に入った瞬間のこの感じは好きだ。

 駅前にも大きい本屋があるが、ひっそりと建つこの本屋におれは愛着があった。何を買うわけでもなく、気まぐれに立ち寄ってぶらぶらと眺めることがある。

 今日は人が多くてざわざわしている場所よりも、二人きりでゆっくり話せる場所が良かった。予想通り、本屋の中は客がいなかった。

 店長だろうか、おれの親ぐらいのおじさんがいるレジ前を横切り、文庫本コーナーへと向かう。

「で、なんで急に本屋なんて来る気になったんだよ」

「お前が読んでたやつ、買おうと思って」

 そう言って鞄を指差すと、あっ、という顔をした。そういえば、こうやって栄浪と話すのは初めてかもしれない、と頭の片隅でぼんやり思う。

「お前、あの作家が好きとか?」

「いや、別に」

 そもそも誰の本かすらも知らない。

「じゃあなんで」

「お前が読んでる本が読みたくなった」

 ただそれだけが理由だった。だから誰が書いていても、どんな本でもおれは良かった。

「はあ? なんだよそれ、変なやつ」

 おれは海が描かれた表紙の文庫本を手に取った。思ったよりも厚くなくて、少しだけほっとした。

「他にも教えて、読んだやつ」

「……お前の好みは?」

「なんでもいい。お前が読んだやつな」

「はいはい、しょうがねえなぁ」

 ぶつくさと文句を言いながら、並んでいる本を前に頭を悩ませている。おれはその横顔を眺めながら待った。

「視線がうるさい」

「いいだろ、減るもんじゃねえし」

「減るんだよ俺は、色々と。ん、これ」

 栄浪が差し出したのは文庫本一冊だ。しかもあまり厚くない。

「お前、あんま本読まなさそうだから。これは短編集だし、読みやすいと思う。あと俺の好みな」

 文句を言いながらも、栄浪なりに色々と考えながら選んでくれたようだ。自分から頼んだくせに、なぜかちょっと照れ臭い気持ちになる。

「……なに笑ってんだよ」

「は? 笑ってねえわ」

 ありがとな、と一言添えてからレジへと向かった。いつの間にか頬が緩んでいたらしい。支払いをしながら小さく息を吐いた。

「なあ、これ読み終わったらまた付き合えよ」

「読み終わったら、な。ちゃんと読めよな、それ」

 駅まで栄浪と二人で並んで歩く。隣を見ると、栄浪の瞳はまっすぐ前を向いていた。光が瞳を揺らして、繊細さを引き立てている。その目をずっと見ていたい。そんな気持ちになった。

 空は少しずつ夕日に包まれようとしていて、淡いオレンジ色の光が栄浪の頬に当たっている。

 おれは初めて、こいつには夕焼けも似合うということを知った。


はだおもい

和泉眞弓

 ミニトマトの皮を厚くしないためには、たっぷりと水遣りをしなければならない。今年のように猛暑で雨が落ちない気候では、とりわけ水遣りが大変だった。一年遅れの東京オリンピックを腰を据えて観ることもなく、水を遣ったそばからたちまち乾きだす庭土に水を撒いて撒きつづけた夏だった。ケアしただけ結果する家庭菜園は、わたしに、確かな因果を知らせてくれる。「うまい。売っているのより、うまい」同居の彼からもらえる感想はよくてこの程度だが、うまいうまいと言いながら食べてくれるのはうれしい。味が今一つ決まっていないと思うようなときもうまいうまいと言うので、味の審美者としては信頼していないが、伴侶にするならば、これぐらい大ぶりな方がいいのかもしれない。

 肌もまた、手をかけたらかけただけ応えてくれる。室内にいても紫外線は入ってくるので、軽めの日焼け止めが欠かせない。夏の日中に外に出る時は、戦闘準備だ。服から外の部分に強めの日焼け止めをくまなく塗るとともに、アームカバーと日傘は標準装備。マスクがふつうになる前までは、どんなに暑い日もスカーフを首元に巻き顔の下半分をかくしていたが、マスクがふつうになってからは首だけを守ればよくなり、助かっている。そこまで策を講じていても、外出した後は肌が火照る。日焼けやしみは、ようは炎症の痕なので、火照りの段階でしっかり手当てしてやることで、かなり防ぐことができる。鎮静効果の高い化粧水をコットンにたっぷりと含ませる。一枚のコットンを四枚に薄く割き、両頬に二枚ずつパックするようにあてる。その上から化粧水を直接かけて、ひたひたにする。その要領で、もう一枚コットンを割いておでこと鼻先と顎、あまったコットンをまた化粧水に浸して、腕と手の甲をぬぐいしっかりと水分を与えてあげる。パックが乾いてきたら、再度追い化粧水。にんじんは一日二本。サプリはトラネキサム酸とハイチオールC。「肌きれいだよね」「肌きれいでいいよね」彼や友達がほめてくれる、ざっくりしたそれらももちろんうれしい。だがなによりの報酬は結果だ。肌は結果する。肌は取り扱いに鋭敏に反応する。肌はケアをあまさず受け取る。肌はケアを裏切らない。たしかな因果と秩序がそこにはある。

 人は内面、外見は関係ない、と何ひとつケアしなかった自分が、年齢に求められる手習いとしてスキンケアをはじめた。肌に手をかけるようになると、ただちに手応えがあった。反応がうれしくて、また肌に手をかける。気づくと自分などどうなってもよいとは思わなくなった。美人の誉れ高い姉が自転車で転んで顔を大きく擦り剥いた時、不美人のわたしだったらよかった、代わってあげたいと願った自分は、もういない。不美人であろうが、顔を擦り剥いていいわけがない。

 秋の異動で、児童養護施設に勤務することになった。結婚のほのめかしが彼からあったけれども、子どもを持つことについて覚悟を試されると思う、少し待ってほしい、と保留させてもらった。入ってみると、どの子も注視に飢えていた。数十人の子どもを大人数人でみる。たっぷりの水など、どこにある。目を離せば、モノや壁が破損されている。一度にかかわれるのはせいぜいひとりかふたり、おとなしくしている子は水を遣られない。水のにおいがする職員を、水に飢えた子どもは離さない。何かの用事があってその場を離れても、行った先でまたほかのことがおきて他の子とかかわっていると、「うそつき!」と色鉛筆を折り、書棚の本を引き裂く。いまの行動を一緒にふりかえろう、と、職員がその子のために時間を割くと、今度はおとなしくしていた子が不公平だと泣き始める。そうやって誰かが手をかけられ始めると、急に打ち明け話を始めたり、おなかが痛くなったり、ほんとうに熱を出す子どももいる。

 入所している子どもは虫歯そしてアトピーが多い。夜勤時、寝る前のわたしの処置は子どもたちに評判がよかった。大きい子は自分で塗るよう指示することもできたが、ヒルドイドクリームを丁寧に塗ってやる。「わあ、気持ちいい」「腕の形に、こう手をまるめてね。圧さないように、こすらないように、丁寧に。肌を大事にしていると、自分も大事に思えてくるよ」「先生方のいう、自分大事とかわかんない、どうでもいい」「肌からやろう。毎日ね。どうでもいいと思わなくなるかも。あなたは大事。みんな大事。」乾燥のない子までやってもらいたがるので、ニベアで同じことをする。わたしの夜勤のときは、皆が寝るのが遅い、職員が比べられる、セルフケアを自立させるのも大事、と他の職員から苦情が来た。こだわりたく、やめる気はなかった。

 小さな子に宿題を教えていると、ヒルドイドをいつも塗ってもらいたがる体の大きな子がにわかに名指しで「先生、宿題手伝って」と言い出した。「順番ね」とわたしが言うと、「順番順番って、いっつも小さい子ばっかり! ヒルドイドも小さい子から塗って!」と般若の形相で拳を振り上げ、その子が小さな子に向かっていく。猶予はない。とっさにわたしは腕を出して彼女を止める。「なんで! なんで!」わたしは盾になる。わたしの肌に、泣きじゃくるその子の爪が、歯が、突き刺さる。表皮は剥離され、血が流れる。折られる鉛筆のように、破られる本のように、肌が取り扱われる。痕が残る傷になるだろう、遠い気持ちでわたしは思う。ただの物理障壁、どうでもいいものとして取り扱われるわたしの肌、ただの障壁、わからずや、うそつき、みんなどうでもいい、くずれていく肌、水はどこ、ぼうとする、秩序がこわれていく。

 湿潤を保ってケアをしたが、手甲と腕には皮膚の盛り上がった複数の傷跡がくっきりと残った。夜景のこぼれる店で、彼はわたしのその手をとって、結婚の申し込みをした。美しい背景に、盛り上がった傷たちが飛びこんでくる。「傷が」どうしても無視してもらいたくないわたしが言うと、彼のおもてにほんの一瞬、あぜんとした風情がよぎる。彼は瞬時に顔を作り直すと、しみじみと間を持たせた調子で「きみは、傷ついてなどいない。立派じゃないか。聖痕だよ」と、そう言う。

 目の前に差しだされた指輪を、わたしは彼の顔に全力で投げつける。ぼやける夜景を後に、ふりかえらずに、わたしはまっすぐドヤ街のほうへと歩いていく。


サンサン号の冒険


関元 聡

小学校の校庭で、小さな宇宙船が出発の時を待っていた。

僕とシンイチとその弟のリクが、宇宙船の前に整列している。全員お揃いの銀色の宇宙服を着て、固い表情のまま気をつけの姿勢で校庭に並んでいる。

しばらくして、金色の宇宙服を着た担任のタナベ先生が歩いてきた。でも、今日は特別にタナベ船長と呼ばなければならない。

「全員、気をつけ!」

タナベ船長が大きな声で号令をかけた。

「諸君、今日は待ちに待った宇宙飛行実習の日である。皆それぞれ、訓練の成果を十分に発揮してもらいたい」

厳しい顔でタナベ船長は続ける。

「特にリク君には期待している。君はまだ五歳だそうだが、宇宙怪獣にとても詳しいとシンイチから聞いているぞ」

いきなり話しかけられたリクの顔が、緊張のせいかいつもの青白い色から真っ赤に変わった。それを見たシンイチが、弟の背中にそっと手を添える。

タナベ船長は全員を見回してからこう言った。

「今日のフライトは火星を一周して戻ってくる予定だ。パイロットはシンイチ、副パイロットはマナブ。そしてリク君にはこれをあずけよう」

それは赤いボタンのついたスイッチだった。

「もし宇宙怪獣が現れたら、これを使って倒すんだ。大事な任務だが、君に任せる」

リクはそれを聞き、大きく目を見開いてうなずいた。

「それでは出発する。全員、持ち場につけ!」

僕とシンイチは大きな声で、はい! と返事をし、少し遅れてリクの小さな声が聞こえた。

ハシゴを登って四人が宇宙船に乗り込むと、そこはまるで教室のようで、黒板がある場所には横長の大きなテレビがかかっていた。床には木の椅子が人数分置いてあり、その周りはテーブルで囲まれて、パソコンのキーボードや金属製の機械がいくつも置いてあった。そこから色とりどりの配線が伸びて床をはい、壁の向こう側に消えている。

僕はタナベ船長にそっと目配せしてから、リクの後ろでこっそりと合図を出した。するとどこからかズンズンというエンジン音が鳴り出し、壁に貼りつけてあるメーターやランプ類がちかちかと点滅し始めた。僕はこぶしを握りしめた。よし、今のところはすべて順調だ。

シンイチがタナベ船長に敬礼してこう言った。

「発進準備が完了しました。船長、ところでこの船の名前は何にしましょう」

「われわれ3年3組の船なのだから、サンサン号と名づけよう。それでは、発進!」

船長のかけ声とともに、ランプがいっせいに輝き始めた。壁の向こうから聞こえてくる重低音はしだいに高く大きくなり、最後にドンと何かが破裂するような音がして、船が大きく揺れ始めた。

サンサン号が、ついに宇宙に向けて飛び立ったのだ。

「地球の大気圏を脱出。エンジン異常なし。これより火星に向かいます」と僕が声を張り、タナベ船長が唇のはしを上げて軽くうなずいた。すると突然、シンイチが叫んだ。

「流星群だ!」

同時に、ビーッビーッという警戒警報がうるさく鳴り響いた。驚いた顔をしてテレビに目を向けると、たくさんの流れ星が続けざまに近づいてくるのが見えた。もし当たったら、船に穴が開いてしまいそうだ。

「右から2つ、左から3つだ。正面からもでっかいのが来るぞ」

上ずった声でそう僕が伝えると、シンイチは了解と落ち着いた声でこたえ、流れ星をよけるように右へ左へと舵を切った。その動きに合わせるように、サンサン号は細かく揺れ動いた。後ろの席ではリクが肩をすぼませながら、心配そうにシンイチの背中を見つめている。

やっとの思いで流星群を抜けると、テレビには目的地の火星が小さく映っていた。

その時、いきなり巨大なドラゴンが現れた。

リクがわっと悲鳴のような声を上げた。手ごわい宇宙怪獣だ。三つの頭を振り乱し、牙の生えた口からオレンジ色の炎を吐いて、猛スピードでこちらに向かって突進してくる。

少し火が強すぎたかもしれないな、と僕は思った。

「リク君、スイッチを用意しろ」

タナベ船長がけわしい顔でそう命令した。

「マナブ、操縦を代わってくれ」シンイチは僕にそう言い、後ろのリクの席に移動した。僕はシンイチの席に座って操縦桿を握り直す。

「できないよ僕。お兄ちゃんがやってよ」

後ろからリクの不安げな声が聞こえてくる。

「大丈夫だ。お前ならきっとできる。リク、あの怪獣の弱点はどこだ?」

シンイチは穏やかな声でそう言いながら、リクの頬に顔を寄せた。

「……胸の、星マークのところ」

「オーケー、じゃあそこを狙おう。大丈夫、お兄ちゃんがついてるから心配ない」

ドラゴンはすばしこく飛び回るが、サンサン号も負けずについていく。ドラゴンの炎をかいくぐりながら、テレビ画面の動きに合わせて船はぐらぐらと揺れ動き、時々大きく傾いた。やがて画面の真ん中に描いてある十字線が、ドラゴンの星マークとぴったり重なった。

「リク、今だ!」

シンイチのかけ声に合わせ、リクはえいっとスイッチを押した。すると突然ドラゴンの体がピカッっと輝き、轟音とともに大爆発を起こした。

ついに宇宙怪獣を倒したのだ。

「やったぞ、リク!」

シンイチが叫んだ。僕も思わず声を上げ、ガッツポーズをしながら後ろを振り返った。リクは涙目になってシンイチの顔を見上げている。ボタンを持つ手はまだ細かく震えていた。

すぐにタナベ船長がリクのそばに駈け寄ってきて、「リク君、ありがとう。すべては君の活躍のおかげだ」と、大きな手で握手を求めた。

「君は地球に帰ったら、とても大事な手術を受けると聞いている。いいかリク君、君は強くて勇気のある宇宙パイロットだ。宇宙怪獣もやっつけた。病気なんかに負けるはずがない」

それを聞いて、リクは誇らしげな顔で何度も大きくうなずいた。

テレビ画面にはビー玉みたいな火星がはっきりと映っていた。それがどんどん大きくなって、やがて地表の赤い筋模様が画面の下半分をものすごい速さで通り過ぎていった。気がつくとエンジン音が空気を切るような甲高い音に変わっていた。サンサン号は今、火星の赤い空の中を通過しているのだ。

「現在、火星の上空約五百キロメートル。速度三万宇宙ノット。すべて順調。サンサン号はこれより地球に帰還する」

そう言いながら外に向けて合図を出すと、スピーカーのスイッチが入り、ミッション成功を意味する軽やかな電子音楽が流れてきた。それに混じって仲間たちの小さな歓声が漏れ聞こえた。僕は苦笑いをして「まだ早いよ、みんな」と喉の奥でつぶやいた。

サンサン号は、飛べない宇宙船だ。

手術を怖がるリクを勇気づけるために、3年3組のみんなで作った手づくりの宇宙船なのだ。

火星の地平線の向こうに、青い地球の姿がぽっかりと映っていた。僕はようやくほっとして、ふうと長い息を吐いた。

板と布と段ボールでできた僕らのサンサン号は、校庭のすみでクラス全員に支えられながら、ゆらゆらと小さく揺れていた。

そして地球へと向かうエンジン音を聞きながら、サンサン号は今、確かに宇宙を飛んでいるのだと、僕は思った。 了


亡命政府で働く

乙野二郎

 ぼくらの島に亡命政府がやってきた。
 亡命政府といっても、おじいさんが二人、ゴムボートで流れ着いたというべきであって、そんなに大層なことじゃなかった。それでも島のみんなにとっては一大事だったから、おおさわぎになったもんだよ。
 やれ、暗殺部隊がくるんじゃないかとか、やれ、島ごとミサイルで吹き飛ばされるんじゃないかとか。ま、そんなことは全然なかったけどね。
 で、ぼくはその亡命政府で働くことになったんだ。かれらはこっちの言葉はもちろん英語もまるで駄目だったから、たまたまかれらの国の言葉がすこしわかる(YouTubeで勉強してたんだ)ぼくが抜擢されたわけ。
 おじいさんの一人が偉い人だったみたいで、もう一人がへこへこしてる。
 偉い方のシンゾは、亡命政府の代表をしているくらいだから、元々は国のトップの地位にいたらしい。まあ、ぼくから言わせたら、ただのおじいさんだよ。
 かれもこんな島に来たらかつての地位なんてものは関係ないと悟っているのか、みょうに腰がひくい。
 ぼくがなにかしてあげるたびに、この恩は国に帰ったらお礼をしますぞ、っていうのがめんどうだけどね。ぼくはちゃんと給料もらってるからべつにそんなのいらないよ。やるべきことをやってるだけさ。それにかわいそうだけど、もどれる気配はないね。国際情勢に疎い島のぼくたちでもそれくらいはわかるよ。
 もう一人のカメリは格式ばって威張っているから嫌いだ。
 ぼくの態度が一国のシュショーに対するモノじゃないって怒るんだ。でも、シンゾ本人がそれでいいっていってんだからいいじゃない。
 カメリはそんなふうに怒ってばかりだけど、ふいに不安になるのか、急に泣き出したりする。いったんそうなっちゃうとずっと塞ぎ込んだままだから、ぼくとシンゾで懸命になぐさめないといけない。なかなか大変なんだ。
 亡命政府のあるコテージの一室でなにをするかっていうと、なにもなくて、そのへんのことは支援するっていう外国がやってるんだろう。ごくたまに手紙が届くくらい。
 まずぼくが開封する。万が一危険なものでも入っていたらの用心なんだろうけど、このときばかりはかれらとの間に壁を感じるね。しょせん替えの効く現地人なんだって。それから中身をカメリが読んで、シンゾにうやうやしく差し出す。シンゾがじっと読んで(ほんとうに読めているかは怪しいんだ。老眼鏡が合っていないからね)、カメリになにか言う。カメリが大きく頷いて返事の手紙を書き出す。三日くらいかけて一枚の便せんに返事を書くと、シンゾがちょっと眺めてから、これでよしと言う。こういうときはみょうに威厳があって偉い人だったというのはほんとうなんだねって思った。それからカメリが馬鹿丁寧に封した手紙をぼくが出しに行くって寸法さ。それくらいのことさ。ちなみになにが書いているかはわからないんだ。ぼくはあの国の文字を読む方はさっぱりだからね。
 そんな感じで、当初の物珍しさがなくなってしまうと、かれらは島のみんなにとってはもうどうでもいいような存在になってしまった。外貨はもっているみたいなんで、店の人たちには好評だったけどね。
 おっと、わすれてた。かれらが来てよかったのはシンゾがネコを連れてきていたってことだね。
 島にもネコくらいいるけど、ヤマネコとそんなに変らない感じで隙あらば店先の肉や魚やらペットの鳥を捕ってしまうので困る。まさにケダモノだよ。
 シンゾがゴムボートの片隅に連れてきていたネコは真っ白な毛並みで顔つきも丸くておっとりしてる。ネコがこんなに可愛い動物だとはぼくたちはしらなかったね。カメリは最初はこんなときにこんなものを連れてこられてってシンゾに小言をいっていたけど、じきにこのネコは福猫にちがいないとか言い出して、ぼくにも丁寧に扱うよう命じる始末だった。それくらい可愛いってことだよ。
 最初の頃は家に閉じ込めて外にも出さないようにしていたものだけど、この島は暑いからね。じきに開け放った窓から外に出るようになった。そうなったら、やっぱりネコだよ。島を気ままに散歩するようになるのに時間はかからなかった。
 そうこうしているうちに数年が経って、シンゾが死んじゃった。カメリは暗殺されたって大騒ぎしたけど、どうみたって身体が弱って死んだだけだった。カメリも一人残ったのが堪えたのか、すぐに寝たきりになってその年には死んだんだ。
 かれらが死んで亡命政府のことなんかみんなわすれてしまった。ヤーパン(かれらのネコの名だよ、ほんとうはちがう名前なんだけど、ぼくたちが勝手につけたんだ)だけが残った。自然とぼくが引き取ることになったね。
 残念なことに、まもなくヤーパンはなにか悪いものを食べてしまって死んでしまったけど、島の雌ネコたちともよろしくやってたみたいで、いまではかれの毛並みに似たネコをみかけるようになったよ。ぼくたちはヤーパンの子たちって呼んでる。
 ほら、さっそくそこに一匹来たよ。
 ねえ、あの真っ白な毛並みが強い日差しを反射してる姿は真昼の太陽のようだと思わないかい?


月夜の海の水底の夢

山崎朝日

 夜中過ぎ、階段を上って部屋に戻ると、世界は月の光に満たされていた。

 中天に、煌々と満月。月明りで参考書の読めそうな、けれど薄蒼い、鎮まった世界。

――海の底、みたいだ。

 何故そう思うのかわからなかった。月夜の海で泳いだことなどないのに。月夜でなくても、夜の海で泳いだことなどない。海の「底」にいたこともない。

 瓦屋根に月の光が落ちている。それだけのことだった。窓から見える景色は、昼間のそれと物理的には何も違わない筈なのに、奥行きが増していた。向かいの山が、いつもより遠い。間に敷き詰められた田んぼまでの谷が、いつもより深い。家々の屋根までの距離が、その間の空間が、透明度を増して、それでいて存在感をも増して。

――海の底に沈んだ村みたいだ。

 ダムの底ではなく、海。何故そう思うのかはわからない。そこに悲しみが沈められている気がしなかったからかもしれない。網戸を開けると、何の疑問もなく漂い出ることができた。多分夢を見ているのだろうと思った。自分で夢だと認識している夢を。満ちているのは空気なのか水なのか、暑くも寒くもなく、重くも軽くもなく、自由に動くことができた。斜面に点在する家々、その瓦屋根、開いている窓、閉まっている窓。庭先の犬、部屋の中の犬、屋根の上の猫、窓辺の猫。動物達は、不思議そうにこちらを見ていたが、騒ぎたてはしなかった。

 高速道路には、時折動くものがある。光を発しながら、重なった別の時間のように無干渉に行き過ぎる。それを中空から眺めて、潮の流れに乗る。

 空高く――空であった時なら、空高く。水底にいた身としては、水の中の高いところ、おそらくは水面近くまで運ばれて流され、いつの間にか見たことのない場所にいた。元いた場所と同じような集落があって、一つの窓から、別な誰かが漂い出て来た。

 姿は見えなかったけれど、私達はお互いを認め、お互いの周りを廻って踊った。魚でさえない生き物だった。踊っている間、海にはおおらかな喜びがあった。これは海の記憶なのだと思った。この場所がまだ海の底だった頃の、太古の大地の記憶。

 唐突に、時間は途切れた。ランプの魔人のように元いた窓に引き戻され、夜空の月が雲に覆われているのを見る。家々はもう海の底に沈んでいるようではなく、向かいの山までの距離も田圃までの谷の深さも、いつも通りだった。そして自分は眠っていなかった。少なくともベッドに横たわってはいない。

 漂い出て来たもう一人はどうしただろう。お互いの周りを廻っていた時、私たちは交尾したのだろうか。海が喜んでいるのはわかったけれど、話に聞くような快楽は自分にはなかったと思う。そういう方法で生殖する生き物ではないのだろうか。そもそも雌雄の有る生き物だったのだろうか。あったとしたらあれは雄だったろうか。また会えるだろうか。この夢を覚えているだろうか。

 獣の叫び声が聞こえた。誰かを、何かを威嚇する、濁った、それでいて鋭い声が、満月を雲に隠された夜に響く。長距離トラックが高速道路を行く。田舎の夜には田舎の夜の喧騒があった。

 涙が頬を伝った。もう一人と引き離されたことが悲しいのではなく、海の底の夜が消えてしまったのが寂しかった。蒼い明るさと静けさが、自我をほとんど感じないほど自由だった時間が恋しかった。

 蒸し暑い夜だった。全ての照明を落とし、全部の窓を、レースのカーテンさえも開け放っていたのは、少しでも夜気を入れる為だった。暑い。月が出ていた時はそう思わなかったのに。どこかで雨が降っている。その湿気だけがここまで流れて来ている。

 蒸し暑さを感じる身体を煩わしく思いながら眠り、夜が明けても記憶は去らなかった。

             *

 呼び声で目を醒ました。真夜中過ぎだった。耳に聞こえる声ではない。けれど、呼ばれているのはわかる。

カーテンを開けると、雲のない空に煌々と満月があった。世界はいつもより静かで蒼く、透明で、深かった。

――海の底の夜だ。

 あれから何度満月の夜に外を見ても同じようには感じなかったのに。一年以上たって。

 窓を開けると、あの夜と同じように、漂い出ることができた。高速道路を眼下に水面近くまで上昇し、潮に身を任せる。見覚えのある窓から覚えのある気配が漂い出てきたが、それはいつかのように踊ろうとはせず、自分の出て来た窓へと私を誘った。

 間に合ってよかったと、その人が思っているのがわかった。前に一度会った時、とても楽しかった。自分はもう逝くから、最後に、もう一度会って挨拶したかった。間に合ってよかった……。

 窓の中では、一人の人が亡くなろうとするところだった。部屋の中央に敷かれた布団を家族と思しき数人が囲んでいて、周到に招かれた医師が、高齢の男性の手首に触れていた。

 どんな人生を送った人なのか知らない。だから悲しくはない。本人も、無念そうではなかった。人が死ぬのは自然なことなのだ。海もまた、悲しんではいなかった。何であれ、生き物は死ぬのだ。

 心のどこかで期待していたような若いイケメンではなかった。高校生の時はそれなりだったかもしれないが、今それを知ってどうなるものでもない。

 海が、それとも月が、何をしたかったのかはわからない。ただ単にその時間に目を醒ましていた二人だったのだろうか。けれど、それは幸せな時間だった。選ばれたのは幸せなことだったと思えた。雲が月を隠すまで、私はその人の臨終を見ていた。

                 ――了。


朔の約束

ぬかるみ

祖父は、お月見と称して酒を手に庭に出る事が多かったが、それはいつも、月のない新月の夜だった。

街灯がほぼない田舎にある我が家は、庭だけが不必要に広い。星灯りの中、祖父が庭の奥の木の袂へ向かう姿は闇に飲まれるようで恐ろしく、幼い私はよく泣いていたと思う。その度、祖父は一旦私を宥める為に戻って来る。

闇からぬるりと、でも眉尻下げつつ笑んで現れる祖父の姿は私の恐怖を拭うには十分で、大丈夫大丈夫と頭を撫でられる。いつしか、新月の夜に庭へ降りる祖父の後ろ姿を引き止める事なく、見送る事が出来るようになった。

少し大きくなった頃、何故新月の夜に庭でお月見をするのか尋ねたが、祖父は柔和に笑むだけで何も教えてくれなかった。私が社会人になる頃には痴呆を発症し、尋ねる機会は永久に失われたかに思えた。


その一端を知る事が出来たのは、祖父が亡くなる前の、最後の新月の夜だ。

そろそろ危ないらしいとの報を受け郷里に戻ったあの夜、私は祖父に肩を貸し、共に庭の奥の木の袂へ向かっていた。様々忘れ、長らく庭へ出る事がなかったが、あの夜だけ正気を取り戻したように、お月見をしよう、と私にせがんだのだ。

木の袂に腰を降ろした祖父は枯れ枝のようで、木に同化して見えた。そんな祖父の姿に込み上げるものもあったが、月のない闇は私のやるせなさを優しく隠してくれる。私は、いつでも祖父を支えられるように、傍らに腰を降ろした。

「今夜が、新月で良かった」

不意に、明朗な祖父の声が響いた。

私の胸中を言い表すかのような言葉に、軽く息を飲む。が、次いで幾度も「ありがとう、ありがとう」と呟いていた。

どうやら祖父は、私を誰かと間違えているようだった。

月のない空を見上げる祖父が呟く「ありがとう」は、次第闇に溶けて行った。

祖父の葬儀が済み、初めて迎える新月の夜。

私は、祖父がそうしていたように、縁側の下に揃えられた祖父の草履に足を入れ、酒を携え庭へ出る。

祖父の愛した木の袂に一人腰を降ろし、背を預けながら夜を仰ぎ見る。

あの日と同じように、月のない夜は晴れていた。

水が飲みたかった。

土埃や汗や涙や鼻水、そして。己自身のものか、仲間や敵のものともわからない血に塗れ、兵士は辿り着いた木の袂に背を預けていた。戦場で散り散りになった仲間の生死もわからぬまま、兵士はこうして生き延びた。が、それももう尽きようとしている。

この地特有の木に生い茂る葉の隙間、夜空を仰ぎ見るも月はない。無数の星が瞬いているのみだ。

新月なのだろう、闇は兵士の身を上手く隠してはくれたが、それ以上の優しさはなかった。

時折、周囲の茂みからガサガサと音がする。獣か、敵か。

最早、どうでも良かった。全ては“今更”なのだ。

音のする茂みに視線だけ動かし、担いだ武器には手を掛ける気にもならない。殺すなら殺せ、屠るなら屠れ。末期の水すら得られない今、兵士にとってそれは幸福な死と言えた。

「……ゆっくり、飲んで下さい」不意に声を掛けられ、闇に目を見張る。

男の声だ。極度の飢餓と脱水で視界は酷く歪んでいたが、兵士の眼前に差し出された水筒はクッキリ見えた。

「一気に飲んだらダメですよ。吐いてしまうから、ゆっくり」

言いながら、声の主は水筒の蓋を開け、兵士の口元に近づける。ああ、水の匂い。兵士は眼前に浮かぶ水筒を両手で捧げもち、渇きでひび割れ震える唇を押し当てる。ちゃぽん、と清涼な水の音が聞こえた途端、兵士の口内に久しく味わう事のなかった水が触れる。ゆっくり、舌に滲み始める。本物か確かめるように、口に含む。声の主を確かめるべく目を凝らすが、水筒を掴む手だけが白く浮かび判然としない。

口内の水と、声の主と。

その二つのみに兵士は集中し、漸く嚥下する。

水だ。

甘い。

水だ、水だ、水だ。

そう、ゆっくり、と。ともすれば貪りそうになるのをやんわり制し、声の主は水筒の角度を変え、調節してくれた。

今しがた、胃の腑に落ちた水分がもう循環したかのように。

枯れ果てたと思った兵士の目から、涙が溢れた。

本当に助かりました、と。傍らに腰を降ろした男に、兵士は再び礼を告げた。困った時はお互い様です、と男は柔和な声音で言う。

「今夜が、新月で良かった」不意に、夜空を仰いだらしい男が呟く。

「……本当に。私にしたら、幸運でしかない」

「それは私もですよ。……何しろ、闇が深くて良く見えない。色々な、余計な事を隠してくれる」

『余計な事』という言葉を、男は苦々しげに言い放った。

あまりに深い闇の中、互いの顔や姿は相変わらず判別出来ない。

そう。敵兵ではないとは、言いきれない。双方それを察してか、兵士も男も、互いの素性を語らなかった。どちらかがそれを口にすれば、この束の間の穏やかな時間は壊れてしまう。

「……こんな夜があってもいいじゃないですか、ねぇ?」と男が言葉を次ぐ。

「私も、そう思います。……もういいですよ、もう沢山だ。私は元来、こういった事には不向きなんです。本当は、月夜の晩に酒でも飲みながら、気に入った本を読んでいたいタチなんですよ」

「奇遇ですね。私もそういうタチですよ。まだまだ、読みたい本があるのに」

そんな風に、ポツリポツリと互いの好む本の事を語り合った。酒の変わりに水を酌み交わし、月のない夜空を見上げ。

「そろそろ、行きます」と、東の空が薄らと白み始めた頃、男は立ち上がる。

「本当に……っ、本当にありがとうございますっっ」

まだ身体に力の入らない兵士は立ち上がれないまま、前のめりに手をついて頭を下げる。

お互い様ですよ、と男は笑みを含ませた声音で告げ、そのまま歩み出したが、不意に止まる。

「……そうだ、いつか。いつか、この戦争が終わったら。美味い酒をご馳走して下さい。それでチャラです。私はオススメの本を数冊持って、貴方の所に遊びに行きますから。……また、新月の夜に、月見酒と参りましょう」

約束ですよ、と。

男は告げ、ガサガサと音を立て歩き去って行く。一度も振り返らずに。

兵士は顔を上げないまま、ありがとうございますと、はい、を繰り返した。

音が遠くなる頃、漸く顔を上げた兵士の目に映ったのは、朝焼けの中、幾度も自分が手にかけてきた敵兵と同じ背だった。

決して叶う事のないだろう約束に、兵士はまた。

声を押し殺し、泣いた。

子供の泣く声で目が覚める。

酒の入った私は木の袂でうたた寝をしてしまい、夢を見たらしい。

「パパーっパパどこーーーーっ」

息子が泣きじゃくっている。幼い頃の私のように、闇に飲まれる私の姿を見たのだろう。私は立ち上がり、尻についた土を払いながら飲みかけの酒を最後まであおる。

瞬間、月のない夜空を見た。

そうか。

夢が全て、祖父の身に起こった事だとは言わないが。

なにせ、月の光には不思議な力があるのだし。

それは、新月といえど、変わらないのだし。

私は、全てを語らなかった祖父の想いを、知ったように思う。

『約束』を果たそうとしていた、祖父の想いを。

パパーっと再び叫ぶ息子の声に呼ばれ、私は家へと足を進める。泣きながら私の元へやって来る息子を受け止め、抱き上げる。

大丈夫大丈夫、と昔祖父がしてくれたように息子の頭を撫でながら、私はいつか、祖父の話を彼にしようと思う。

あの木の袂で。

新月の夜に。


白の丘、神使と狗

里崎

昼過ぎの、活気あふれる洋食屋。
銀皿に盛られたポークカツから、ふわりと湯気が立つ。入口近くの席で、それを手早く切り分けて美味しそうに頬張っているOLが一人。春にこの街に越してきた彼女がこの店の常連になってから、二つの季節が巡った、とある秋の日。
「お、カバン変えた?」
対面の椅子に置かれた大きな黒革のダレスバッグに気付いて、テーブルの奥に食後の珈琲を置いたコックが声をかける。
むぐむぐとなにか答えたOLが最後の一口を飲み込み。
「君のに似てたから買っちゃった」
「え?」
「なんてね。ごちそうさま」
珈琲を飲みほし、まるで新品の皿のようにあとかたもなく食べ尽くした皿とカップを残して、手を振って店を出ていく。カランとドアベルが鳴る。
「ありがとうございましたー」
OLの去った隣のテーブルで、新聞を読んでいる小柄なじいさんがぽつりと言った。
「元は私のだがな」
テーブルには飲みかけの珈琲と、いくつか減った角砂糖のポットと、煙のたちのぼる象牙のパイプ。
いつも不思議なことを言う、茶目っ気のある常連のお客さんが、この店には二人もいるのだ。空の皿を下げながら、コックは楽しげに目尻を下げて笑った。

***

ーー話は、誰も数えることのできないほど、昔にさかのぼる。
ーーどんな生物さえも辿ることのできないほど、遠い遠い世界の話。
もしかしたらそれは、どこかの辺境の地の民族が細々と語り継いでいた、ただの、嘘っぱちの、架空のおとぎ話だったかもしれない。



真っ白な丘陵が広がる。
ゆるやかな傾斜に積み上がる白い小さな立方体ーー丘の花弁が、吹き付けられた熱風にあおられて、地表から舞い上がっては宙に漂って、そのうちどこかへと消えていく。
大地に咆哮がとどろいた。丘の陰から飛び出した大きな獣が、大きく下顎を開く。赤い舌の下、鋭い牙が光る。
命乞いをしながら逃げまどう青い小人たちをさんざん追い回して、何匹かまとめて丸呑みしたあとで、その奥の物陰にある、もうひとつの熱源に気づく。
灰色の毛に包まれた筋肉質の前脚が、白い地面を蹴った。
「ああ、君かぁ」
物陰から、ひどく能天気な声。
大きく口を開いた灰色の獣は、その生き物の至近距離で動きを止めた。命乞い以外の言葉が聞こえてきたことが、ひどく久しぶりだったのだ。牙の先からぼたぼたと垂れた唾液が、灰色の毛を色濃く濡らす。
「君が食べてくれたら、次は生物になれるんだ」
獣の牙に息がかかるほど近くで、逃げようともしないままそう言って、相手は目尻を下げてへらりと笑った。熱風でずりおちた中折れ帽の下から、真っ白い髪と黒い角が現れる。右手に握られた黒革のダレスバッグ。
こいつが神使しんしか、と獣は気付いた。輪廻転生の輪の外に存在する、孤独な白い聖物。土地神の遣いとして『白の丘』の安寧秩序を保つ存在。
食欲の失せた獣は、嫌そうな顔をしてさらに大きく口を開いた。神使の『中身』ーー夢や記憶や感情だけを、それもとりわけ大事そうなものだけを、よくよく噛んで根こそぎ食べてやろうと思ったのだ。
「あっそれはだめ」
とある記憶に触れたとき、急に神使が早口に言った。
「……聖物って、自虐的なんだな」
両目をマズルにぎゅっと寄せて、すっかり食欲の失せた獣が、口を閉じて呆れたように唸る。



真っ白な丘に一本立つ、真っ白な『大樹』。
長い枝葉や太い幹は多くの鳥獣や精霊たちの棲家となり、豊潤な果実や花蜜は彼らの糧となる。

そうとも知らず、無知な神使はその大樹を折ったのだ。覚えていないほどささやかな理由で。

最初に、花虫たちが一斉に亡くなった。真っ白な大地にぼとぼとと死骸が落ちて、その鮮やかな体色はしばらく地表と舞う立方体とをまだらに、異様な色に染めた。
それからしばらくののち、彼らを餌とする中型の生物たちがいくつか力尽きた。
白の丘一帯に、暗い影と腐臭と死臭が漂った。
土地神の御使いに、生命を司るほどの力はない。時を戻すこともできやしない。
ゆえに神使はただひたすらに慟哭した。死にゆくものたちを前に、ただ嘆くことしかできなかった。
……永い眠りについていた土地神が事態に気づいて、手を差し伸べてくれるまで、ずっと。



年輪が剥き出しになった『大樹』の切り株を、その樹皮を愛おしむようにそっと撫でる、神使の手。いくつかの若い芽と細い枝が伸びているその先に小さな精霊たちが集い、何事かくちずさんでいる。
ふわりと熱風が湧く。神使の白髪を揺らした風が、続いて隣の灰色の毛をも揺らす。
樹皮を伝って垂れる樹液とうろに溜まった猿酒さるざけを、美味しそうに舐めとっている灰色の狗。

神使と狗が、なんとはなしに近い場所で暮らすようになってから、二つの季節が巡ったーー白い花々がいっそう華やかに咲き乱れる時節の、とある穏やかな風の日。
ふと立ち上がった神使が、真っ白な空を見上げて言った。
「嗚呼、土地神様のお迎えだ」
なまあたたかい風が、白い中折れ帽を空高く吹き飛ばした。
「この時間さえなかったら、次は生物になりたいだなんて、思わないのに、なぁ」
神使が狗にすがるような目を向ける前ーー狗は大きな口を最大限に開けて、その白い聖なるものをひとおもいに飲み込んだ。
うろ覚えの、健勝と息災の祈言いのりごとを繰り返し唱えながら。
記憶だけは別にして、なんども入念に、いつまでも噛み砕いた。少なくとも、あのひどく自虐的な記憶だけは、ひとかけらも残さず消え去りますようにと、入念に。
なぜだろう、一緒に過ごした日々は長くはないのに、大切なことだと思ったから。

小さな白い立方体が、空に散らばった。

***

「申し訳ない、相席でお願いします」
喧騒の中でコックから提示されたのは、定位置のひとつ隣のテーブル。
新聞を読んでいる先客のじいさんに一礼して椅子を引いたOLが、いつものように綺麗にナポリタンを平らげたあと、ふと顔を上げ。
「あぁ、給料日かぁ」
いそがしく立ち回る料理人の姿をぼんやりと眺める。
その対面、小柄なじいさんが新聞を置いてカップを引き寄せる。琺瑯ホーローのポットから二つ三つ、角砂糖を落としながら、ぽつりと礼の言葉を述べた。
「へ? なぁに?」
「なんでもないよ。残さず食べ・・・・・てくれて・・・・、ありがとうな」カップを傾け、じいさんはどこか遠くを見ながら言った。「しかしお前ら、似たもん同士だよなぁ」
食後の珈琲を味わいながら首をかしげるOL。
懐中時計を見て「おっと、寝る時間だ」と席を立った老人が、コックを手招きし、しわだらけの手でチケットを差し出した。
「二人で行くといい」
「あ、ここ聞いたことある。ありがとう!」
ぱっと顔を輝かせるOLの横、コックがふぅんと楽しげに呟いてチケットの写真と解説文に目を落とす。つい先日までは立ち入りが禁じられていた国有地で、浮き世立った美しさが評判の丘陵庭園。真っ白な小さい花が一面に咲くのだそう。

大昔に絶滅したその花の原種は、人工物のように精緻な立方体の花を咲かせていたらしい。
別名、『神の角砂糖』。
花言葉はーー『来世での幸運を願う』。

会計を済ませて店を出ていく老人に、二人は深々と頭を下げて礼を言った。
カランとドアベルが鳴る。

***

ーー話は、誰も数えることのできないほど、昔にさかのぼる。
世界でたった一人。
土地神、その人だけを除いて。

真っ白な丘に一本立つ、真っ白な『大樹』。
長い枝葉や太い幹は多くの鳥獣や精霊たちの棲家となり、豊潤な果実や花蜜は彼らの糧となる。

そうとも知らず、無知な狗は・・その大樹を折ったのだ。いつもの食い意地で、白い牙でその太い幹にかじりついた。

最初に、花虫たちが一斉に亡くなった。真っ白な大地にぼとぼとと死骸が落ちて、その鮮やかな体色はしばらく地表と舞う立方体とをまだらに、異様な色に染めた。
それからしばらくののち、彼らを餌とする中型の生物たちがいくつか力尽きた。
白の丘一帯に、暗い影と腐臭と死臭が漂った。

狗はただひたすらに慟哭した。狩りは好きだが、弱い生き物を追い回すのは快感だが、こういうことを望んだわけではないのだと。死にゆくものたちを前に、ただ嘆くことしかできなかった。

永い眠りについていた土地神が事態に気づいて、その丘に神使を遣わせてくれるまで、ずっと。

均衡を保つ役目の神使が、その強すぎる狗の力を少し奪ってほかの生物に分け与え、狗の額から突き出た猛々しい黒い角を奪い、その痛ましい・・・・記憶をも・・・・奪って自らのものとするまで、ずっと。


再訪のポーンハブ(Pornhub Revisited)

暴力と破滅の運び手

 

 ディエゴが感電死したと親から連絡が来て、おれは数年ぶりに地元に帰った。
 両親の家でぎこちないハグを済ませると、ディエゴの家で亡骸と対面した。五十ボルトの電気で感電して死んだとは思えないほど安らかな顔をしていた。足を悪くして町のケアホームに入っていたディエゴの祖母はぼくのことを覚えていて、あのバカ、涙も出ないよ、と言いつつしゃくり上げていた。
 教会で葬式が行われた。神父さんは、余計なことは何も言わなかった。棺に、町にあるだけ持ってきたのではないかと思うほどの白い雛菊が抛げ入れられた。
 ディエゴの死は事故として片付けられた。
 感電の原因となった電極は、牛や羊を強制的に射精させるための機器だった。ディエゴはそれをパソコンにつないで、ライブチャット中に行われた投げ銭の額に連動した長さや強さで電流が流れるようなプログラムで制御していた。プログラムはオープンリポジトリに入っているもので瑕疵がなく、問題は機械のほうにあった。電圧制御の部品が破損して、入力がある閾値を超すと一気に最大出力が出るようになってしまっていた。
 ディエゴは、ローションでしどどに濡れたアナルから50ボルトの電流を浴び、痙攣しながら死んだ。グーグルで調べて、「42ボルトは死にボルト」と労働者に向けて書いているサイトを見つけた。

 ディエゴの牧場には、ネルシャツとリーバイスという出で立ちの季節労働者たちがたくさんいた。入れ替わり立ち替わり現れる彼らを、町の人々はカウボーイと呼んでいた。
 ちょうど父親が町役場の農政課にいたのが縁で、同い年だったおれとディエゴはつるんでいた。学校も、プライマリースクールから高校まで、ずっと一緒だった。牧場で動物と戯れて、農場に行って果物をガメて、それにも飽きると町はずれの湖に行って、服を脱いで泳いだ。
 ディエゴは祖母から牧場を継いで、おれは遠くの州の大学に行った。
 大学の最初の学年が終わって地元に帰ると、いつものようにディエゴのところへ行った。執務室で眉根を寄せていたディエゴはおれに気付くと驚いたような顔をし、カウボーイの一人に意味深なアイコンタクトを送ってから立ち上がった。
 湖で泳ごうと服を脱ぐと、ディエゴの首筋に赤い痕が残っていることに気付いた。それを指摘すると、頬を紅潮させて俯き、やがて意を決したように顔を上げた。
「ぼく、ゲイなんだ」
 思わず、さっきのカウボーイと寝てるのか、と訊いていた。ディエゴはまた俯いて、ゴニョゴニョ言った。聞き返すと、不必要に大きな声で言いなおしてきた。
「ハメ撮りを見てほしい」
 あまりに埒外すぎることを言われると逆に冷静になるものだ。
 真意を問い質すと、要は誰かに見せたくて撮ってるけど他の奴に見せるのは怖い、だから私に見てほしい、できればコメントもほしい、ということらしかった。
 承諾した。
 おれは共有のPornhubのアカウントを作った。ディエゴはそれに何重にもプロキシを噛ませてアクセスし、非公開の動画をアップロードする。授業が終わって家に帰ってくるなりPornhubを確認するのが日課になった。新作があれば見る。カウボーイであろう男たちがディエゴにのしかかっているのを見ては、「いいね」とか「後掃除が大変そうだ」とか「コンドームをきちんと付けろ」とかそういうことを送ってやる。すると、「ありがとう」とはにかむ様子が見えるようなメッセージが帰ってくる。
 それが続いたある日、突然ディエゴはサブスク型のサイトであるOnlyfansに登録した。顔を隠してはいたが、部屋が一緒だったのでわかった。
 実家から電話が掛かってきたときにそれとなく様子を尋ねると、ディエゴの祖母が大病を患った、と聞かされた。ディエゴの牧場に手術代があるはずもない。
 ディエゴは瞬く間に人気の投稿者になった。定点、もしくは手持ちで撮られたホームビデオで、相手も自分も顔がうつらないようになっている。少年のような体格をしていること、異様な頻度で投稿が行われること、相手がいかにも一般人であること、時には首絞めやスパンキングといった暴力的なプレイが映っていること。そういう諸々の要素に人々は引き寄せられていた。
 ライブ配信もするようになった。リアルタイムでの課金が可能なサイトだ。他配信者とのコラボもやっていたし、一人でも配信をした。課金と連動するグッズを装着しての配信は珍しくはないが、カウボーイのコスプレをして搾精用の電極を刺すディエゴはとりわけ人気だった。
 ディエゴは、サブスクや配信もつぶさに見るようにおれに頼んできた。なぜ、と問えば、怖いから、と返ってきた。それで、ヘルプサインを決めて、ディエゴが動画中でその動きをしたら地元の警察に連絡をすることになった。そんなことで何かが防げるとは思わなかった。そう伝えると、電話口の向こうでディエゴがうつろな笑いを漏らした。
「わかってる。死んだらきみが犯人を捜してよ。ぼくのビデオをずっと見てましたって、警察に全部言いたいなら別だけど」
 そんなことを言われてしまったせいで、どんなに見るに堪えない配信でも目を離せなかった。
 亡くなったときの配信も、見ていた。
 いつもの電流配信は正直演技、とディエゴは言っていた。でも、その日は何か様子が違った。最初の課金で、いつもならあり得ないほどに腰が跳ねた。苦笑いをしながら取り繕うディエゴ。しかし、少額の課金が続く間も、透明人間に殴られているような動きをしていた。はっきりとおかしい、と思ったのは、巨額の課金が入ったとき。背骨が折れるのではないかと思うほど反った。
 手が、グーとパーを繰り返す。
 おれは携帯を探し、番号を二秒くらい考えて、実家に電話を掛けた。
『はい?』
「母さん、ディエゴが大変なんだ……救急車を呼んでくれ」

 事故ではない、と思った。事故の数日前に、このまえ媚薬盛られてさ、とディエゴは言っていた。そのまま眠っちゃったんだよね。
 それはいつのことなのか。誰に。
 大学の寮に帰ってきて、暗い天井を数時間眺めたあと、おもむろにPornhubを開いた。
 セックステープは、サブスクを始めたあとも相変わらずアップロードされていた。ここからモザイクや音声の編集をなされたものがサブスクのほうに投稿される。投稿前のチェックもおれの役目だった。
 前回の電極配信から死の前日までにアップロードされていた動画は三人分。順繰りに見ていくと、ひとりに見覚えがあった。薬指の指輪。下反りのペニス。タトゥーのない、毛深い身体。タイトルに「married man with ring」とある。
 何となくの直感で、そいつを選んだ。
 その男が出ていたビデオを、全部見る。ディエゴも撮影技術が進歩していて、顔が映らないような撮り方を駆使してあまり編集が要らないようにしていた。髭の濃いたちだったことだけはわかる。
 教師あり学習とかを駆使して、その男のペニスを同定する機械学習のプログラムを作った。それから、大学の研究用コンピュータに接続して、Pornhubでmarried manのタグが入った動画をダウンロードしては片っ端からそれに通した。あの町に居ないときはどこが本拠地なのかを突き止めたかったのだ。
 複数の動画がヒットした。おれはそれらの投稿者を調べて、居住地域を把握した。そして、動画に写っている壁などからホテルやショッピングセンターなどを特定し、壁に張った地図にシールを付けた。
 おれはその地域に引っ越して、グローリーホールを開いた。
 Home Gloryという製品のサイトには、ドアノブを握るスポーティな男の写真とともにこう書いてある――彼はあなたの家に入ろうとしています。もしあなたが彼に最高の体験をさせたいなら、まさしく最高と言えるグローリーホールを設置しなければなりませんね。誰にも知られず一人で設置でき、快適な使い心地で、一度きりの体験にさせないための優れた機能が満載です。彼をまた来たいと懇願させてやりましょう。
 とにかく手軽そうだったのでそれを百三十ポンドで買い、借りたマンションの入り口に設置した。それからTwitterとOnlyFansに登録し、頑張ってアカウントを大きくした。どう頑張ったかは書かずともよかろう。おれが水飲み鳥になるのと犯人が見つかるのはどちらが先だろうかと思った。
 そして、Twitterのフォロワーが五千を超えるころに、やっと現れたのだった。鍵アカウントのフォローリクエストを通すと、何度動画で見たかわからない下反りのペニスがDMで送られてきた。
 訪れてきた男に初手から声を掛けるような愚は犯さなかった。その男をここまでの労苦の結晶であるところの技術を駆使して合目的な結果に至らしめると、彼はそそくさと立ち去った。おれはそいつが合目的になっている動画を投稿し、あらゆる方法を駆使して伸ばした。すると果たして男は(懇願するとまでは言えぬまでも)繰り返し来るようになった。
 その男のTwitterアカウントのリツイート欄などを見て好みの体形などを把握し、それに合うように徐々に容姿を改造していく。ビルダー体系とかではなく、どちらかといえばTwinkな感じが好みなようだった。それは才能の問題だと思ったので、とにかく背が低いように見える薄ぼやけた自撮りを投稿した。
 それで、ブロウジョブ以外のこともしたい、とメッセージが来た。 
 Home Gloryを撤去して、玄関口で男を迎えた。隠し撮りしたビデオを見てはいたものの、いざ対面すると妙な気持ちになった。
 まずバスルームに誘って服を脱いだ。早くも目的を達しようとしてくる男を躱して、バスタブがなくて、と言いながら排水溝に栓をし、シャワーの栓を捻る。男がバスライトの横に置かれたシャンプーやボディーソープを見て微笑む。
「家と同じソープだ。助かるよ」
「それはよかった。奥さんに、ちがう匂いさせて帰ったりしたら、大変だろ……」
 もちろんドラッグストアに行くところを尾行して同じものを買った。
 男の本日の目的であるところの部位に触れようとしてくるのをそれとなくいなし、しゃがみ込んで技術を駆使する。彼はうめき声を上げ、おとなしくなる。ウッドストックになったと思って無心になっていると、男のくるぶしまでお湯が溜まった。
 頃合いだった。
 バスライトの覆いを外し、隠していた電極を持って立ち上がる。外から電源を引くための偽装だった。本体はリビングにある。
 男は血相を変えて、ドアを開けようとするが、開かない。閉じた瞬間につっかえ棒が入るようなからくりを準備していた。問題なく機能したらしい。
「何なんだ、きみは」
 目的に合わせて変形したペニスが情けなく揺れる。
「お前はおれとここで死ぬんだよ」
「あの子の仲間か」 
 答えなかった。電極を近づけると、男はドアに背中をぶつけて大きな音を立てた。
「あの子に動画を盗み撮りされて勝手にアップロードされたことも、性病を伝染されたこともどうでもいい。もう死の病でも何でもないからな。でも、あの子は強請ってきた。私は悪くない」
「へえ」
 だいたい想像していたとおりだった。男はメーカーで機械の設計をしていた。
 狂ったように風呂のドアを叩く男を強引に振り向かせ、ディエゴに何度も口づけた唇にキスをする。その顔が恐怖に凍りつくのを見て嬉しくなり、思わず言うはずではなかったことを言ってしまう。
「おれ、あいつのこと好きだったんだよ。送られてくる動画見て、毎回泣いてた。でも毎回吐くくらい興奮したし、どいつもこいつも顔と所在が分かるもんなら殺したかったし、それがお前なら最高だろ」
 手を離す。現実にスローモーションはない。電極はあっけない速度で、温かい水に向かって落ちていく。 

 湖でディエゴと泳いでいる。水も、頬に当たる風も、温かい。太陽は雲に隠れては縁を白く輝かせる。
 ディエゴは犬掻きしかできないのだった。溺れかけたところを助けたことが何度もある。ひとりで湖に入るなよ、と言ったら、怖いからおまえとしか入らない、と返された。
 ディエゴが水中でキスをしてくる。水中へと引かれていくおれの髪で、表情はあまり見えない。
 溺れるぞ。
 口の形だけでそう叱りつけると、ディエゴは寂しそうに笑い、おれを水面の方に押し出した。

 全身に酷いやけどを負って生き延びた。男も同様に。
 配信していたのだが、即死するものと思って油断していたら善意の視聴者がここを通報したらしい。親は泣いていた。警察とか医者にもめちゃ怒られたけれど意識がもうろうとしていたのであんまり覚えていない。
 体に痺れが残った。痛みが走るたび、ディエゴのことを思い出した。
 大学は放校処分になったが、機械学習を駆使していろいろやっていきたい、みたいな曖昧な目的を持った会社に雇ってもらって何とか食いつないでいた。社長が、ディエゴのファンだった。そういえば、おれの弁護士も、ディエゴのファンの一人だ。執行猶予で済んだのは、彼らがついてくれたおかげだと思う。
 リモートワークが主体なので、ほとんどの時間をディエゴの座っていた執務室に座って過ごしている。家畜たちはすでに手放していたし、牧場の管理をしているわけではない。ぼーっとしているだけとも言える。
 たまに、帽子を目深に被ったカウボーイたちが、雛菊を持ってくる。
 それをディエゴの墓に持っていくのが、唯一おれに残された役目だった。


虹の夢

あまるん

 そのウェディングドレス工房は現実と電子の幻想の合間にあった。

 室内はB G M代わりの電子的ハミングが流れている。

「このドレス注文したいな」と相談するチャットを捉えて、電子音の呼鈴が鳴った。ベテランのお針子というと聞こえはいいが、老年期に近づいたビラールは手に持つ針をとめて、拡張現実に一部接続した。

 今時、白いウェディングドレスを選ぶなんて、どんな花嫁だろうと思ったのだ。

 ビラールの工房を架空の窓越しに見ていたのは、素顔を晒した二人の若者だ。友人なのかパートナーか不明だが親密な空気を纏っている。服装も白いカフタン(羽織り)にスルワール(ふくらんだパンツ)の上下だ。頭には白いヴェールを纏っていた。

てっきり華やかな民族衣装の男女(かつてはその組み合わせがノーマルと言われた!)だと思っていたビラールは色のない二人に失望を隠せないまま針を片付けて立ち上がった。

このドレスは、人気メゾンからブランド提供を受けて作成しているものだ。『彼』(『これら』ではなく)は独自のプラットフォームで提携作品を公開し、売れた時にデザイン料を貰っている。

『彼』、又は”金曜日“ことジュマァが現実主義者に企画を提供する珍しいデザイナーだったおかげで、こうやって彼女もお針子という昔ながらの仕事を失わなくて済んでいた。夫亡き後、息子たちを学校に送った自慢の腕だ。

昔々、疫病も戦争も知らなかった美しい時代、ビラールが中東の小さな工房で民族ダンス用の衣装を縫っていた頃、彼女はどんな小さなスパンコールも簡単に縫い付けていた。しかし、簡易蓄電ライトを繊維の中に組み込めるようになってからは、衣装の柄は布の色やスパンコールや、熱で貼り付けるクリスタルではなく、電子部品を埋め込むことで表現されるようになった。そのため、ビラールはダンスの衣装を作るのはやめたのだ。

(電飾のタイムスケジュールを組み込む必要がなければ、まだまだ作り続けられたんだけどね。足踏みミシンじゃプログラムできないもの)

 柄を自由に変えられるその布もまた、拡張現実化された衣装に取って変わり、今流行ってるのは音楽をそのまま衣装にすることだ。拡張現実を切った目には大きめの白い布を纏って殆ど肌も見えないダンサーは、電子的幻想の上では白い液体が舞い散る華やかな拍動を纏っていたりする。

衣装に使う音源は一番容量が大きいと言われる民族楽器バンドだ。電子音は一度に一音しか出せないためどうしても音の空白があり信号が粗くなってしまう。そのため、弦楽器のウードやヴァイオリン、打楽器のタブラ(太鼓)を始めとした無電源楽器とレコードなどの音楽設備が復活していた。一時期ハイレゾと呼ばれていた容量の重い音楽でも普段着なら十分着飾れる。

 便利な仕組みだがしかし、ビラールのような現実主義者は視界機能の一部をシャットアウトして、昔ながらの布や糸の飾りがある民族衣装を纏っている。

 誤解が無いようにいうと、現実主義者は「電子的幻想のせいで現実が失われつつある」という主張でメタバースへの接合も拒否する者もいる過激さが報道されることが多いが、ビラールは色や布などで飾りのある服を絶やさないように作る位だ。

 同年代の者にすら時代遅れの服と言われるが、かえって今の若い人には無電源でも色柄が無くならないと感心される。

ビラールは二人がドレスを見られるように現実のマネキンに纏わせて、回転台で360度回転させた映像をアップした。デザイナーに連絡すれば完成予想図を送信することもできるだろうが、なんとなくこの面布をつけず素顔を晒した二人は『実物』を見たいのではないかと感じたのだった。

現実の一部がメタバースと溶け合った時代にうまれた今の人は相手の気持ちを察するための拍動数や視線誘導が視界に映るらしい。でも、ビラールは昔ながらの商売人としての『勘』で行動からお客様の意図を汲み取りたい。

彼女の予想は当たったらしく、二人は笑顔を見せた。

「綺麗な色。虹みたい。」

「波が見えるね。美しい物語だ」

「どうやって記憶と接合してるのかな、見当も付かないね」

二人の会話に、ビラールは己の縫ったドレスを見直した。

このドレスは、一色の雲のように拡がるチュールやアラベスクを思わせるロマンチックなレースを縫い付けている。現実上に集まり実際の飲食物を分け合いながら、結婚式を行っていた時代のデザインだ。白絹布が光に反射してるのだろうか……。ビラールは少し霞む目を凝らした。

 このドレスシリーズは貴重な絹布や絹糸を使いビラールが一人で創るというのが、デザイナーが出したコンセプトだった。もちろん拡張現実の要素は埋め込んでいない。彼女にその技術がないのだ。相手方のプログラムエラーだろうか。出来上がりに違いがあっては困るのだが……。

二人は満足したようで共通通貨でビラールのタイムラインにアクセスした。これで期限内に仕上げることができればビラールの仕事は保障される。

期限も十分だったのでビラールはデザイナーにメッセージを送り彼に念のため売買契約の伺いを送信した。更に依頼主に追加デザインの有無も確認したが、顧客となった若い二人が送ってきたのは昔の歌手のオリジナル音源だった。

 昔ながらのデザインドレスだからとビラールは断ろうとしたが、このデザインの売買契約には曲の送付が含まれている、と契約に表示されるので、端末の判断でエラーもなく契約手続きが進んでしまう。

 止めようもなく手続きが終わりチャットとの接続が切れるとビラールは困惑しつつもとりあえずその曲を流してみた。昔風に布や素材をそのまま棚に置いて、ペルシャ絨毯を敷いた小さな工房に豊かな歌唱が響く。

「東洋の星、『ウンムクルスーム』の『エンタオムリ』ね。また流行したのかしら」

彼女が生まれた時点でもかなり古い時代の歌手だった。美しい標準アラビア語で紡いだ歌唱と民族音楽楽器バンドでの演奏が特徴で、送信容量から見るに、レコードの原盤から取ったに違いない。この歌手の歌は一曲で一時間以上の長さがある。

白い衣装に流行りの歌での飾りをつけたいということだろうか。曲を止めてビラールは考え込んだ。

「これをどうやったらデザインに組み込めるの?」

気が進まないながらも、『彼』から貰った電子端末である『シャドウ』に聞いてみたが、『更新してください』としか言われない。

ビラールは止むを得ず忙しいデザイナー本人を呼び出すことにした。

彼女の影に接続している端末のシャドウに先ほどの会話メモリーを作ってもらい、ジュマァに送ってもらう。もちろん曲も一緒にだ。

送信はうまくいったらしい。ビラールのシャドウは自分の作業に満足したのか、ビラールの縫針の動きにあわせて楽しそうにハミングをしている。シャドウは他から電磁的な干渉を受けないように起動時はハミングするものとジュマァから聞いていた。

最初は影でしかない端末が苦手だったビラールは今やそのハミングでシャドウの機嫌がわかる、と考えている。針を持つ手が動くと彼女の脳裏にまた昔の思い出が浮かんだ。拡張現実を見なくてもビラールには沢山の記憶があるのだ。

「やあ、母さん。あなたに神の御加護がありますように。」

「ジュマァ、貴方にも神の御加護がありますように」

微かなバックミュージックと共に懐古主義者らしいムスリムの挨拶をして、デザイナー“金曜日“こと息子のジュマァは木曜日の日が沈む少し前に工房に訪れた。日が沈めば彼の名前の通りイスラム暦で祝日の金曜日になる。

赤に見える複雑な柄の絨毯を敷いた入り口に、現実に彼は、訪れていた。あの二人と同様に白いカフタンとスルワールに、白い帽子を被っている。

「あぁ、ここは本当に良い香りだ。」

ジュマァはビラールの薔薇水やアラビアゴムを香料と共に加工した練香が好きだったので彼女はいつもより濃厚に香を炊いたのだった。

日が沈んだら久しぶりに現実で逢えた息子を迎えて家族と過ごそうとビラールはご機嫌で腕を開く。

しかし、ジュマァは腕に飛び込まず母越しに満足そうに白いウェディングドレスを見ている。

「これは素晴らしいね、母さん。私がつけた虹の夢というタイトルが合いそうだ。どうせならこの工房の薔薇の香りも、再現したいなぁ」

ビラールは彼の独り言が長いことを知っているので、割って入った。

「ああ、このドレス気に入ったのね。嬉しいわ。私には最高の白いドレスに見えるけど」

「そう?いや、まさしく七つの色を纏ったという表現が似合うと思うけどなぁ」

ビラールの言葉にジュマァは首を傾げた。懐古主義者らしい昔風の仕草をするのをみるとビラールも笑ってしまう。彼は今でも朝夕祈る時は、仮想空間ではなく実際の絨毯の上で祈るタイプだ。

「母さん、ちゃんと端末の更新してる?」

ジュマァの言葉にビラールは大分前に彼から来ていた、重要!メッセージを放っておいたことを思い出した。

ジュマァは彼女の拍動をまさしく見たらしい。肩を竦めて掌を見せる。

「母さんが曲を送られてきたけど、使い方がわからないと言っていた意味がようやくわかったよ。ちょっと更新していい?」

ビラールが言い訳する前に、ジュマァはビラールの影の中を見た。筋肉のしっかりついた腕や腰を踊るように動かす。

彼は保護者設定なのでビラールの端末設定ができるのだ。やがてビラールの視界が変化した。切っていた拡張現実が再接続したのだ。

そうするとジュマァの姿はスルタンのような豪華な衣装に代わり、彼の周囲の空間に音楽的な動きをみせる炎や水の滴がゆらゆらと揺れている。

「まさか、視界補助もなく薄暗い電灯の明かりで縫い物ができるなんて……」

呆れたのか感心したのかジュマァの後ろでランプの魔人のような影が大袈裟に首を振っている。

「当たり前よ。昔は直ぐ停電したから、間に合わせるためにランプで縫ったの。目を瞑ってたって縫えるわ」

ビラールは急に光り輝く色合いになった己の手を軽く振って見せる。拡張現実の色合いはやはり苦手だ。

「母さんが凄腕なのは知っているけど、でも、ろくに機能チェックもしないで端末を使うのはどうかと思うよ」

「……全部時間がかかりすぎるのよ。それよりも、早く説明して」

痛いところを突かれたビラールは、小言になる前にと息子を促した。彼は炎を指の形にして、彼女のドレスの方向を示す。ビラールは後ろへと振り返った。

工房に広がる拡張現実の中で、彼女のドレスはもう絹布の白い輝きだけではなかった。

七色の揺らめきーーそう、かつてビラールが見た記憶で彩られていたのだ。

 石積みの池がある庭園で見た薔薇の赤や砂嵐が止まった日の透明な空、夫と二人で過ごした銀の月照らす砂漠、大きすぎて海と呼んだ川の静かな時の揺らぎ、昔貰った裾に飾りのあるスカーフ、ダンサーたちの華やかな衣装……。

シャドウは先ほどまでのハミングの代わりに曲を奏で始めた。ビラールには最初の一音でわかる、顧客にリクエストされた『エンタオムリ(あなたは私の命(我が人生))』だ。ウードの弦の音が響き、他の楽器の音が重なっていく。音が構成の妙を捉え、揺らめきのリズムを形としてビラールのかつて見た景色がアラベスク柄の一つとして繰り返し浮かぶ。

そう、まだ世界に輝きを見出していた頃のビラールが見ていた全て。

そして、ジュマァがデザインしてくれた拡張現実のプログラムが優しくドレスを象っていた。

感極まったビラールは、ザガリート(裏声)を響かせた。その音に反応してまたドレスが輝いた。

ジュマァは満足そうに微笑んだ。

「大成功だ。今の拡張現実の色はどれも想像した以上のものにはならないから、本当の色を見たことのある人が必要だったんだ。」

『脳の電磁的な記憶から色にかかる部分を引き出して、音楽に合わせて造形する新技術』とジュマァは説明してくれたがビラールはよくわからなかった。

ただ分かったのはシャドウのハミングはビラールの脳内の電磁波を他の電磁波から隔離し、布に定着させるものだったのだという。ビラールが拡張現実の一部を切っていなければ、糸を紡ぐように自然と色が布に織られていく様子が見えたらしい。その電子がつくる幻想を見てみたい、と初めてビラールは思った。

「ああ、さぞ美しいんだろうね」

ビラールの言葉にジュマァは頷きながら熱をこめてドレスを眺めた。

「この命そのままの荒々しい色を未来に残せて良かった。今は原料も限られてしまったから、もう現実には再現できない色もあるんだよ。」

「そう、私は皆に何度もそう言ったの。もう忘れられていくだけなんだと思っていたのに」

過去の色が未来の色になるとは。

ビラールの前で虹の夢と言われたドレスが工房を流れるウードの弦の音に合わせて美しく揺らめいている。揺らぎの中に彼女の人生が彩られていた。


最終章 世界は滅びなくて、くまの惑星になればいいな♪
《PLANET OF TEDDYBEAR, I wanna be changing OVER-HUMAN.》

M☆A☆S☆H

 お母さんへ。

 今年の十月二十三日、イギリスのグラスゴーで起こった出来事を、世界のメディアは事実を正確に伝えるのを躊躇った、と聞いています。あるメディアは集団失踪事件が起きたと伝えて、別のメディアは極秘裏の化学兵器もしくは伝染病を齎す生物兵器が誤って使用された、と伝えていましたね。神の奇跡が起こった、人類滅亡のカウント・ダウンが始まった、と伝えたところもあります。これらの表現は抽象的かもしれませんが、本質を的確に表しています。だって、十月二十三日の夜、僕はそこにいたのですからね。

 僕が尊敬する人物――と言うよりも、存在、と言っておきますね――が、こんな一節を僕に教えてくれました。僕は、それを、今でも覚えています。

 昔、大きな街があって、そこはとても栄えていたそうです。でも、人々の生活はだらしなくなって、道徳面もめちゃくちゃになっていました。ある日、神様が、その堕落した状況を嘆いて、その街の全てを消滅させてしまったそうです。そして、人は「塩の塊」に変化してしまいました。そうです。お母さんが仕事でよく使う、調味料の塩のことです。それを具体的に考察すれば、人間を構成するDNA構造や化学物質が、人間以上の大きな力を持った存在が要因となって―― それはダーウィンの進化論を超えて――突然変異を遂げたのです。変異した人間は、最早、人間ではありません。そのような姿になった者は、生きているのか死んでいるのかは明確に定義することはできませんが、確かに「私は人間だ!」と誇らしく告げる存在では無くなっているのです。その大きな力を孕む存在、俗に言う「神」と呼ばれる存在が、人間を、人間で居続けることに終止符を打たせたのです。それは仕方の無いことだなと僕は思います。だって、そうするしか、長い間に積み重ねてきた人間の犯した過ちを償うことができなかったのですからね。この事実は、真摯に受け留めなければならないでしょう。

 その尊敬する存在が僕に告げた言葉こそ、今、ここで、グラスゴーで起こった出来事の本質だということを、どうかご理解して下さい。それは、少しづつ、広がっています。ここから始まって、白くて淡くて、優しい、光が、ゆっくりと、大きく、広がっているのです。その光に包まれると、人間は人間で無くなります。

 でもね、お母さん。これだけは言わせてくださいね。

 去年のあの時、僕が一人で、海の向こうにある最北の地グラスゴーへ留学をしたいとお母さんに言った時、世界が認める一流の喫茶店経営の極意を習得したいから、この地にあるグローバル・カフェ経営学科で勉強をしたいとお母さんに伝えた時は、正直に言えば、親不孝をしているのかなと思っていたのです。ごめんなさい。でもね、僕は、今の僕の年齢でなければ味わえない男の子の夢を、どうしても実現させたかったのです。そんな、ささやかな僕の勇気を認めてくれた、お母さんの思い遣りに感謝しています。僕が高校生だった頃、故郷の雑居ビルで一年間も秘密の喫茶店経営をしていたことも含めて、そして、今回の出来事と併せて、これらの全ては、僕の人生にとってとても大切なことだったんだなと改めて思っています。それを、蔭ながら見守ってくれたお母さんに、本当に感謝の思いを伝えたいのです。どうもありがとう。

 お母さん、どうか、心配なさらないでください。と言っても難しいかもしれませんね。それでも、僕は、大丈夫です。あの事件が起きた後でも、僕は、死んではいません。だって、このように、手紙を書いているのですからね。そうそう、僕は死んではいないけど、塩になった訳でもありません。ここは旧約聖書に記されたソドムとゴモラではなくてグラスゴーですからね。僕は生きています。元気です。でもね、お母さん。悲しいことを言うけど、暫くの間は、お母さんに会えないかもしれません。それだけは許して下さい。ごめんなさい。申し訳無いけど、今は、その理由は言えないんです。でもね、ひょっとしたら、時が経てば、僕はお母さんに再会できるかもしれません。お母さんの自慢の手料理を食べに、元気に帰国することができるかもしれません。上手く伝えられないけど、そんな予感がします。

 世界は滅びるんでしょうか? 僕はよくわかりません。でも、僕は、今、自分の身の回りに起こっている出来事を、真摯に受け留めて、生きていきたいと思っています。悲観はしていません。どんな状況になっても、僕は一生懸命、生きていこうと思っています。そして、そういう生き方が、僕にとっての「幸せ」なんだなと思っています。

「ふう……」

 わたしは、少しだけ溜息をついて、読み終わった手紙から目を離した。
 息子のマサユキが、イギリスの北方にある場所の、そこだけにしかない世界でたった一つの「喫茶店の専門学校」に行きたい! と言ってきた時は、確かに驚いた。日本の学校とか、良くてもアメリカとかにある音楽とか芸術を勉強する学校に行くっていうのならわかるんだけど……「喫茶店の専門学校」というのがね……うさんくさーい! って思ったのが、わたしの正直な想いだった。
 でも。息子の自由を尊重しようと思った。
 何故なら、息子は、この世に生まれなかったかもしれなかった、からだ。
 わたし自身も、妊娠をして時間が経つにつれて、原因不明の重度の妊娠中毒症に罹り、下手をすると息子を死産すると同時に、自らの命を失うかもしれなかった。わたしは幼い頃に両親と死別している。両親に宿っていた「生命のエネルギー」が、子供のわたしに充分過ぎるくらいに注ぎ込まれたからこそ、お父さんとお母さんは亡くなってしまったんじゃないかなと、今でもわたしは思っている。お蔭でわたしは、両親のエネルギーを思う存分に吸収して元気いっぱいに育って、大人になって、そして結婚をすることもできた。そんなわたしが、今度は、わたしの息子に「生命のエネルギー」を与える「運命」が訪れたのかなぁ、と、妊娠中毒症に罹り病院のベッドに寝ていた時に、わたしはそう思った。でも、意外とわたしは呑気でいたなぁ、と思い返した。死ぬなら仕方無いかもしれない。でも、生きられるなら頑張って生きていたい。そんな想いだった。

 まあでも、旦那の必死の看病の甲斐もあって、運良く、二人とも死ななかった。こうして無事に産まれた息子に、男の子だけどちょっぴり女の子っぽい気持ちも与えたかったから、「マサユキ」と命名をした。「ユキ」は「雪」だからね。そしてマサユキは、そんなに大事には至らないで……小学校に入る前にちょっぴり喘息っぽくなったけど、それも何とか完治して、すくすくと育っていった。まあ、住んでいる場所が山があったり川があったりしたからね、そんな所で無邪気に遊んでいたら、野生児みたいになって元気に育つでしょう!
 特に過保護にもせず、かと言って無責任に放ったらかしにもせず、ただ、息子の自由を尊重する、という気持ちだけで、一心に育てていった。だって、お互い死ぬかもしれなかったけど、生きていられたからね。だからね、神様って訳じゃないけど、何かね、わたし達人間を見守る存在がいたらね、その方に感謝したかった。ただ、生きているということを、それだけを、感謝したかった。それって、自由を尊重することに繋がると思う。そんな子育てだった。悪くはなかったと思う。
 そうそう、息子が十六歳の頃、一年間だけ、行方不明で家出状態な時があったっけ。実際は旦那の友人が突然現れて、その人、ミュージャンとして成功してアメリカに住んでいるはずなのが、何故かわたしの住んでいる日本の田舎町にまでやってきて、「私が息子さんのいる場所を知っています、見守っているから大丈夫です」と伝えてくれたから、ちょっと安心した。まあでも、結局一年も家出状態を許しちゃったけどね。なんか息子は家に帰りたくなさそうだったし、オママゴトみたいな喫茶店経営に夢中だったからね。わたしもその友人と一緒に、蔭から息子を見守ったり、観察したりしてたんだけど、「僕は喫茶店のマスターだから」と豪語して、イッチョ前に創作料理なんかしよーとしたから、調理師のわたしとしちゃあその姿が頼りなくて、蔭からレシピや食材をこっそり贈ってあげたんだ。まあ、社会勉強にもなるからいいかなと思った。大人になりかけている息子が、やりたいと思って決めたことだから、やっぱり自由を尊重しないとね。高校には家庭の事情ということで一年間、休学扱いにしてもらった。

 その時のことがあったから、今回も、そんなに心配はしないでいよう、と思った。

 確かにね、TVのニュースは、色々な情報を伝えてくる。原因不明の集団誘拐事件が発生したとかね。何よりもグラスゴーに住む人々の姿が、ことごとく消え去っている、というのだから……。
(正直に言えば……心配だよ……)
 でもね。だったら、なんで、この手紙は届いたのだろう?
 確かに送り主の住所はグラスゴーになっている。英語で書いてあるけど、グラスゴーぐらいだったら、わたしでも読める。だからさ、ニュースで「人が消えている」と伝えているってことは、グラスゴーの郵便局の職員さんも消えているってことでしょ? それでも、グラスゴーの消印で手紙が届いたんだよ!
 それに、この文字は明らかに息子の筆跡だよ! 忘れる訳ないじゃん、このわたしがさ! 文面も「僕は死んでいない」って、息子自らが宣言しているからね。
 そう。息子は生きているんだ。
 少なくとも誘拐はされていない。何処かに隠れて暮らしているんだ。……よく考えれば、それってなかなか変ちくりんなんだけど……まあいいか♪ ……ひょっとしたら、変なカルト集団のコミューンに入って集団隠遁生活でもし始めたのかな? って思ってきたけど、人殺しさえしなければいいんじゃない、って思った。……そんなことを平気で考えちゃうわたしって、やっぱり、世間の主婦の規準に比べて「器が大きい」のかなぁ、とまで思ってきたから……。

「テヘ♪」

 と独りごちて、照れ笑いした。

 相変わらず我が家のTVは付けっ放しで、突然、こんなニュースが、わたしの耳に飛び込んできた。

「昨年九月十一日の同時多発テロ以降、テロリスト集団に支援をしたと思われるアラブの国家に対して、アメリカ合衆国は制裁と称して空爆を続けていますが、先日行われた空爆が失敗した模様です。ある民間筋の情報では、『爆撃機から投下された爆弾が、全く異なる物体に、突然、姿を変えてしまった』と伝えています」

 そしたら。TVの映像、アラブの国に住む女の子に変わった。

「爆弾じゃないの。やわらかい、ぬいぐるみ、だったんだ。こんなに可愛いものを落としてくれるのなら大歓迎よ」

 その女の子は、胸に、テディベアを抱きしめていた。

「いいんじゃない♪」

 わたしは、思わず、そうつぶやいたよ。
 だってさ、非現実的に捉えられるかもしれないけど、でも、傷付くってことだけじゃなくて、微笑んでいられるのが、たとえそれが「奇跡」と呼ばれるものだとしても、そーいうことが起こるのは、良いことなんじゃないのかなーって。マジに、わたしは、そー思ったよ。

「なかなかテロも戦争も無くならないよねぇ……。テロじゃないけど、どっかの国では誘拐拉致事件の事実をやんわりと否定してたりするけど……怖いよね、そういうネガティブな事実が隠されて、それが水面下でずっと続いていく現実ってのは……」

 わたしの独り言、止まらなくなってしまった。

「でもさ。爆弾がテディベアになる現実なら、そーいうのを隠さないで、表立たせたほうが楽しいよね。真実を知れば知るほどに、許せちゃうかもしれないしね」

 独り言が止まらないまま、TVから離れて、そろそろ晩御飯の準備をしようと思った。

 ……ふと、ね。思い出したよ。
(マサユキって、男の子の癖に、ぬいぐるみ、好きだったな。ちっちゃい頃、よく買ってあげたっけ。それって今でも覚えているのかしら?)
 そんなことを思い出して、そして、返す刀で想像力が膨らんでしまったわたし、こんなことまで思ったりした。
(マサユキって、本当に「塩」になったのかしら? 塩じゃなくてね、「ぬいぐるみ」だったらいいのにな。爆弾がテディベアになったみたいにね。そんな現実だったら、お母さん、許しちゃうぞ!)
 ……ちょっと想像力を膨らませ過ぎたかな? って、思わず微笑んでしまった。

『うん★ そのとおりだよ、おかあさん♪』

「……え?」

 なんか……息子の声が聴こえたみたいだった。……あぁ、でもきっと、空耳だよ。ちょっと離れて暮らしているから、暫く会っていないから、息子の声を思い出しちゃったんだろう。案外、わたしは寂しがっているのかもしれない……。
(しっかりしろ、サナエ!) 
 そうやって、わたし自身に渇を入れたら、簡単に化粧をして、財布の入ったバッグを持って買い物に出かけた。
 ……あぁ、想像力が止まらないわ。マサユキが、もし、テディベアになっていたら、御飯は食べないのかしら? それだったら、お母さん、料理の作り甲斐がないなあ……。

『だいじょうぶ。はちみつ、なら、たべれるよ、ぼく♪』

 また空耳が聴こえてきたな★

 ――世界は滅びなくて、テディベアだらけの、くまの惑星になればいいな♪―― 
 そんなこと思う、お母さん、だった。

END.


パイナップルの船

化野夕陽

 祖母は、台湾で生まれたのだという。当時、軍に物資を卸していた曾祖父は、そこで財を成していたらしく、暮らしぶりは悪くなかったのだとか。末っ子であった祖母に、当時の記憶はないということだが、長姉の大伯母は当時のことを少し覚えているのだそうだ。食べ物のことと言えば、あれこれと南国の果物が溢れるように湧いて出た。また聞きで大して知りもしない他者の記憶に乗っかって、子供の頃に聞いたその話は異国の風物として最初に刷り込まれたものだった。港に屯する軍人たち、積み荷を動かす現地の役夫たち、大小さまざまな船の影。其処此処に積み上がった青いバナナの巨大な房やマンゴーの火照るような夕焼け色。頭ほどもある黄色と緑のパパイヤ。とげとげした皮の大きな果実。それが何だったのかは、記憶が怪しいと大伯母は笑う。ずうっとパイナップルだと思ってたけど、もしかしたらドリアンだったかもしれない、と。

 つわりがひどく、身動きするのも苦痛だという妻の代わりに買い出しに行った私は、スーパーの青果売り場でごろごろと積まれているパイナップルを目にして、色々と思い出した。

 私は早くに母親を亡くした。生活力のない父親は途方に暮れるばかりだったそうだ。見かねた祖父母に引き取られ、私は殆ど祖母の手で育てられた。近くに住んでいた大伯母という人は、夫に先立たれ、子供たちが皆家を出てしまっていたので、しょっちゅう訪ねて来ては一日でも祖母と話し込んでいた。半分家族のようなもので、祖父も混じって、私の幼少期は一世代超えた人々の価値観にどっぷり浸かりこんでいた。参観日や運動会などで若い親たちの中に、いささか老け込んだ祖母の姿を見る時は、さすがに少し寂しいこともあったが、普段はそれほど感傷的になることもなく、老人とはいっても、六十前後くらいの年齢だった彼らはそこそこ元気で、独りきりの孫だった私は、十分に甘やかされており、なかなか愉快な暮らしだった。

老人の常で昔話はよく聞かされたが、子供の頃は何でも面白く聞こえたものだ。昔話なんてものは、かなり遠い世界のものだったから、本の読み聞かせと変わらなかった。中でも、大伯母の異国の話は好きだったらしい。成長するとうんざりしてしまう同じ話の繰り返しも、小さい子供にとっては、お気に入りの絵本を何度もねだるのと変わらなかったのだろう。

 いっぱい果物を載せた舟が行き来してたのよ、と耳に残る。バナナやマンゴー、そしてパイナップルの船。なぜそう思ったのか分からないが、その頃、缶詰のパイナップルではなくて生の大きな硬い葉のついた丸々一個の実を初めて見たのだろう。他の果物は、それらが乗せられた船、だったのに、パイナップルだけは、なぜか縦に真っ二つに切られ、果肉を抉られた殻のようなそれが、ぷかぷか水に浮かんで浮いている様を想像していた。

 自分がどこで生のパイナップルを見たのかは覚えていないが、ちょっと前まで丸ごとのパイナップルなんて売っていなかった、と誰かが言うのを聞いたような気はした。もっとも、その「ちょっと前」は何十年も前だったりするのだが。やはり、どこかで貰ったらしい、丸ごとのパイナップルを前に「どうすりゃいいの、これ」とぼやいていた祖母の顔は覚えている。今は、芯をくり抜く専用のカッターのようなものがあるらしいが、そんなものは当時なかったし、今だって、おいそれと一般家庭に備えられているようなものではないだろう。うちにもない。パインと言えばまず缶詰が普通だ。

やはり、こんなもの突然渡されたら困るよなと胸の中で独り言ちる。目の前にはパイナップルをはじめ、種々のトロピカルフルーツが山になっている。夏が近いからだろう。殆どが輸入だろうに、わざわざ夏場に山積みにするのもおかしい。缶詰は年中あるのに。

「篠田先生」

 不意に、下の方から声がした。振り返ると、男の子がこちらを見上げていた。担任をしている三年B組の暁斗だった。

「おうっ」と目を見開きながら声を上げる。

「先生、買い物? 今日の晩御飯? 何作るの?」

 暁斗は大きな目をくりくりさせて、立て続けに喋りまくる。いつも元気な子ではあるが、こんな場面でも同じ様子なのは珍しい。教室では賑やかで遠慮のない子供も、学校の外で教師に会ったりすると、大抵は一緒にいる保護者の前だからか、何となく黙りこくって恥ずかしそうにしたりするのが普通だ。こちらが声出して話しかけても、頷くくらいしかしない。後ろで保護者が「いつもお世話に……」を繰り出し、ささっとその後ろへ隠れる、というところまでがセットだ。そこへいくと、暁斗は珍しい。そうした妙な様子見のようなところはかけらもなかった。

「パイン? パイン買うの?」

 えっ、と思わず声に出していた。確かにパイナップルの山の前に突っ立ってはいたのだが、それを買う気は毛頭なかった。

「入れたげる!」

 いや、買う気は――という間もなく、籠の中にはピカピカした大きめのパイナップルが入れられていた。

 アキト、と背後から女性の声がした。

「あ、先生」と、ようやく気付いてお辞儀をする。母親だ。よく似た親子だった。やれやれと、何だか安堵する。そんなもの、先生は買うって言ってないよ、とか言ってくれるのだろうと、無意識に期待したのだ。ところが、相手はそうは言わなかった。

「あら、パイナップル買われるんですね」

 今度は「え」も出なかった。言えばよかったのに、ああいや、みたいな音を口の中でもごもごさせてしまっていた。先生がこんなザマでいいわけない、と私は焦った。

「あ、いや、たまたま……」

 なんとか言い繕おうとしていたら、暁斗と同じく、母親も人に喋らせてはくれなかった。

「少し柔らかいのがいいですよ。これ、放っておいても熟さないので」

「え、そうなんですか」

「そうなんですよ」と言いながら、他人の買い物カゴの中に手を伸ばして、グイっとパイナップルを押し始めた。「うん、いいですね。葉もしゃんとしてるし」

 びっくりして、また言葉に詰まったところに、暁斗がさらに問いかけてきた。

「何作るの? 酢豚? 先生、酢豚にパイン入れる派? オレ、入れる派!」

「アキト、行くよ」

 今度は息子を追い立てて連れていく母親に、ほっとしながら、軽く会釈する。「頑張ってねー」と手を振る暁斗に手を振り返し、溜息をついた。

 

「そういうわけで、今夜は酢豚」

 いきさつを聞いて、妻は中途半端に歪んだ笑いを浮かべた。

「それで、いきなり生パイン買ってしまう?」

「だって、店内でもう一回出くわさないとも限らないしさ」

「……酢豚、作ってくれるの? 作れんの?」

「〈素〉みたいなの買ってきた。冷凍の。既に揚げられてる肉が入ってるやつ。野菜と合わせて、タレ入れて、混ぜるだけ? かな」

 実際作ってみると、野菜の下処理だけでも結構面倒で、にわか主夫業はなかなかに大変という認識をさらに上書きすることとなった。あまりにもたもたしているので、見かねた妻も手伝ってくれたが、夕食の時間は随分遅くなった。

「今頃言うのもなんだけど、酢豚とか、食べられた?」

「ほんと、今更だよね」妻は笑った。「大丈夫。パインあるし」

 酸味がいいのだという。ただ、このパイナップルは十分甘かった。酢豚だけでは多すぎるので、結局、デザートとして生食したが、それでもまだ余ったので、翌日に回したのだ。

 皮に張り付いていた産地表示を見ると、〈フィリピン産〉とあった。それを見て、私は唐突に思い出した。たしか暁斗はフィリピン系のクォーターだった。つまり、あの母親の親のどちらかがフィリピン人なのだ。児童の家庭に関する書類に、同居家族以外の報告はないが、何かしら注意事項や特筆事項があれば、申し送りされる。そこにそういう記述があったことを思い出した。見た目は殆ど普通の日本人と変わらないので、わざわざ申し送らなくてもいいようなものだが、暁斗本人が、そうしたことをペラペラ喋るので、学校でいじめとか外国人差別とかに対する配慮が必要かもしれない、ということだったのだ。幸い、学区はのんびりした雰囲気の地域で、そういう陰湿な類の問題が起こったことはなかった。ただ、家庭内では何を言われているか分からないので、気は抜けない。

 何となく『パイナップル』をググってみたら、最も多く日本に来ているのがフィリピン産だった。だからというわけでもないのだろうが、一個丸々のパイナップルを躊躇いなく放り込む暁斗の動きは、何だか関りがありそうに思えた。少なくとも、母親はそう見える。

 そんなことを思いながら、私はまた祖父母や大伯母の話を思い出していた。

 祖母が生まれて間もなく戦局は怪しくなり、一家は早々に日本に引き上げてきたと聞いていた。それも、曾祖父が軍に顔が利き、密かに内実を知らされていたからできたことなのだと。実際にどのくらいの期間だったのかは知らないが、ほどなくして帰還は叶わなくなったのだということだった。同じ町に住んでいた多くの日本人が、帰れないまま終戦を迎え、中には悲惨な運命を辿った者もいたはずだった。

「だから、ちょっとズレてたら、あんたも生まれてなかったかもしれんのよ」

 祖母はさらっと言ってのけた。きっと祖母本人が何度も聞かされたのだろう。そんなふうなことが山ほどあって――。実は今でも気付かないだけで、今生きている人間はみんなそうやって、際どい偶然の上に繋がってきた者たちなのだと、世代の感覚はけっこう刷り込まれていた。

生まれて、なんて言葉は、今の自分たちにはガンガン響く。妻はわりと鷹揚な性格だが、何しろ初産だ。神経質になっていて当たり前だ。出産は病気ではないが、いつどこで異変が起きるか分からない、と医者は言った。人が一人生まれるのは、普通なようでそうでもないのかもしれない。

「その船にもね、いっぱい果物載せてたんよ。そろそろ物も無くなってきた頃だのに、バナナとか食べさせてもろてね。一緒に帰ってきたんやねえ」

 大伯母はからから笑ってそう言っていた。船いっぱいの果物と一緒に。生き残れなかった子供たちのことも知ることなく、実は命からがら戻ってきたのだと。バナナやマンゴー、パパイヤ。そして、パイナップルの船。転覆しそうな船だった。

「先生、酢豚上手にできたぁ?」

翌日、暁斗はさっそく大声で話しかけてきた。できたできたと答えると、他の子たちがわらわらと寄って来る。何の話? 酢豚? あたしも好きー! 暁斗はべらべらと昨日のことを話しまくっている。

「オレんちさ、パインとかごろごろあるからさ」

「えー、なんで?」

「ばあちゃんが送ってくんだ」

 耳が反応していた。口を挟もうかどうしようかと思うより早く、暁斗は語り切った。

「ばあちゃん、フィリピン人だから」

 へえー? と声が湧いた。フィリピンてどこ? オレ知ってる! 沖縄くらいよなあ。え、もっと向こうじゃん? 向こうって? 波が盛り上がり、魚が跳ね上がっているような子供のお喋りが幾度か山を作る。谷間を狙って声をかけようとしたところへ、チャイムが鳴った。

「はい、もう席について」

 次は図工で、何か物語の絵を描く予定だったが、ふと気を変えた。まあ、テーマは違うけれど、想像するのを楽しんでもいい。

「昨日、先生はパイナップルを食べたんだけど。みんなも食べたことあるよね」

あるー、の声を頷きながら待つ。

「それで、ちょっと調べてみて、初めて知ったんだけど。パイナップルの実がどんなふうに生るか知ってるかな」

 一瞬「しっ……」という声が漏れかけたが、続く数秒、驚くほど静かになって各々頭を巡らせていた。そして次の数秒、全員が暁斗を見遣った。暁斗はびっくりしていたが、すぐにブンブンと首を振った。知っている者は一人もいなかった。

「よし。じゃあ、今日はそれを描いてもらおうと思います」

 ええ~、と声が漏れる。

「みんなが考えるパイナップルの実の生り方を描いてみてください。本当はどうなのかは、後のお楽しみで。知らないんだから、勿論ぜんぜん違ってていい」

 ええ~、がもう一回。本当はどうかなのかが気になって描けるかどうか、という境目あたりの年頃だった。

「むしろ、ぜんぜん違ってる方がすごい! って思って描いて下さい」

ええ~、が三度。しかし、その後は騒然だった。なんとか描き始めたものの、やり直す者は多く、新しく紙をもらいに来る者がかなりの数になった。この画用紙代は自腹だ。

提出された絵を見て、知っているのに知らないふりをしていた子もいなかったらしいことがわかった。一番近いのは、カボチャのように地面に転がっているもので、一番多かったのは、やはりリンゴのように大きな木に沢山ついているものだった。もっとも上下はばらばらである。頼りない茄子や胡瓜みたいな茎に小さく生っているものもあれば、大根みたいに半分地面に埋まっているもの、トウモロコシのように、強い茎から何個も突き刺さるように出張っているものもあった。

パイナップルの実は、地面からぐいっと伸びた噴水のような大きな葉の間から、一つの茎の先に、引っかかったボールみたいにニョキッとついているのだ。一株に一つずつである。実のつき方というのは意外と知られていない。自分も全く知らなかった。知らないことは多い、というか、世の中知らないことだらけだ。

暁斗は自信満々と言った顔で画用紙を持ってきた。そこには葡萄のように高く作った棚からぶら下がった大きな実が、いっぱいに描かれていた。

思ったより逞しくやっていけそうだと思って、何となく頬が緩んだ。どこででも生きていける。もっとも、こんな授業はあまり褒められはすまい。一年生ならいいけれど。しかし、現実との折り合いの付け方も色々あるのではないか、と思えた。

その日の放課後、『みんなのパイナップル』というタイトルを付けて、それらを壁に貼った。なかなか壮観だった。

里帰り出産をしたいかと尋ねると、妻は首を振った。遠方でもあるし、実母といるとイライラするばかりだという。しかし、当面何もできなくなるし、やはり心細いのではないか、と訊くと、彼女は顎を上げてこちらを見た。

「それはあなた次第よね」

 なるほど、と頷く。息子を預けて、そのままだらしなくフェイドアウトしてしまった父親のことが、頭を過る。父が唯一まともな判断をしたのは、子供を託す先に母方の家を選んだことだった。それきり現れないでいてくれれば、それでいい。その血を思い出したくはなかった。それでも仕方ない。世の中には反面教師などという言葉もあるのだ。

妻の腹は、もうかなり膨らんできている。そっと手を触れ、ひそひそと話しかけた。

「できれば、土日にしていただけると助かります」

 妻は笑い声をあげた。大伯母のようなからっとした笑い声だった。

祖父母はまだ存命で、なんとか二人でやっている。大伯母は体が動きにくくなったので、介護施設に入っていた。いずれ、祖父母の身体も衰えていくだろう。その時には、近くにいてやりたかった。できれば、ごく近くに引っ越そう。まあ、まだ先でいいけれど。そうだ、パイナップルを丸ごと買っても、分けて持って行けるくらいがいい。スープの冷めない距離じゃないが、パイナップルを分けられるくらいの距離だ。真っ二つに切って、実を抉って。それは船にして、その中に入れて持って行く。船は水に浮かべて子供と遊んでやろう。

それを聞いて妻は笑った。

「それって浮かぶの?」

「浮かぶだろ?」

「え、知らない」

「いや、俺も知らんけど」

 妻は笑いこけた。いや、浮かぶだろう。果物なんて、大抵は水に浮くのではないか。それは切っても同じだろう。それとも、水を含んで沈んでしまうのだろうか。実を抉ってしまえば尚のこと怪しい。

――でも。今にも沈みそうな船に乗って、祖母はぎりぎり日本へ帰って来た。

きっと、パイナップルの船は浮かぶ。沈みそうになっても、きっと持ち直してぷかっと浮かぶのだ。


あべこべな場所で


アオ

「今日、ハンバーグ食べられた……」

 私がそう言うと母は入院着に身を包んだ私の背に腕を回して、

「良かった……」

 と言いながら抱きしめてくれた。油っ気のない母の黒髪が鼻先にこすれてくすぐったい。

「ずっと食べたいって言ってたもんね」

 私は『ハンバーグが食べたい』という言葉は子供みたいで、母にそう言われるのは恥ずかしいと思ったものの思いっきり頷いた。私はずっとハンバーグが食べられなかった。難病に罹ってから。今日食べたのは豆腐ハンバーグだけど、それでもやっぱり嬉しい。

低残渣食、腸に負担をかけない食事ばかりを今まで食べていたから、こうしてハンバーグを食べられるというのは戸惑うけれど喜びもその分ひとしおだ。手術から一週間たった時に、固形の術後食が出てきたときは驚いたけど。久しぶりに口から入れた食事の味は、とても濃く感じて、口の中が痛いんじゃないかと錯覚してしまうほどだった。

食物繊維たっぷりのサラダなんかは、腸に刺激が強すぎるからまだ食べられないらしいけど。好きなものがまた食べられるようになったというのは、ありがたいことだ。

「本当に無事、手術が終わって良かった。大きな手術だし、術後の経過が悪い人の話なんかも聞いてたから……本当に良かった。でも……」

 母は目を潤ませながら、私を見ていた。私は母が『健康な体に産んであげられなくてごめんなさい』と夜中こっそり言っていたのを知っていたから、

「お母さん、心配しすぎ! 手術が上手くいったからこそ、ハンバーグ食べられるようになったんだし」

 と努めて明るく言った。手術費だって、母が出してくれている。シングルマザーで収入も多くないのに、娘が難病に罹った費用を捻出するのは容易なことでは決してなかっただろう。この一年、母が一気に老けたような気がする。

窓からさす三月の柔らかな光がカーテンに影を作り、伸びた薄い影が母を覆っている。母はかさついた唇の隙間から、

「璃々ちゃんが好きなもの、退院したらいっぱい食べようね」

 薄く涙の張った目を擦りつつ、そう言葉を零した。

「うん、早く退院してたくさん食べたい!」

 私は精いっぱい子供らしく言ってみせた。せめてそう振舞っていないと、潰れてしまいそうだった。でもあと数か月して、人工肛門を閉じて、自分の肛門から排泄するようにすれば元の生活に近いものに戻れるはずだ。

 そう信じて明るく振舞うこと、それが私を支えていた。

私はカミュの『ペスト』を閉じて、読書灯を消してから、体を横たえた。母が図書館で借りてきてくれたものだ。学校へはいつ行けるか分からなかったし、何度も入院が原因で延滞してしまっているので、学校の図書館の本は借りないようにしている。

母はあまり本を読まないので、私が借りたいと言った本がどこにあるか分からず、この本を借りてきたらしい。なんでも『話題の本』の棚にあったのだとか。最近、感染症が蔓延しているからだろう。この本は中学生には難しすぎるけれど、暇なのでゆっくりと読むにはとても良いと思う。

内容としては、フランスの植民地であるアルジェリアのオラン市をペストが襲う。それに苦しみ抗う人たちの話であるらしい。本当……病人が病院のベッドで読む本としては不向きだなと思う。でも普段、読むことがないような世界観と雰囲気の物語だ。すごく生々しいから、ノンフィクションかと思えばフィクションらしい。おまけにナチス・ドイツを始めとするファシズムの諷喩と解釈されている、と本の説明書きに書いてあった。

なるほど、病気というのは体の中で戦争が起きているようなものだと思っていたけど、逆に戦争や政権を病気に例えるなんてすさまじい発想の転換だ。他にもそんな発想で書かれた小説なんてあるのかな……そう思いながら、ベッドの上で体をぐっと伸ばしてから、そっと腹部に手を当てた。ここに人工肛門がある。これは私と病気との闘いの末、此処にあるものだ。

大腸摘出後は小腸の末端を折り曲げて作った便をためる袋と肛門をつなぐ口側の小腸で人工肛門を作る。人工肛門を作る理由は、回腸嚢と肛門の吻合部分は縫いたての段階では脆く安静させる必要があるためだ。別の部分から排泄するというのは、術後日が浅いと慣れない。あと一か月弱で閉じる予定とはいえ、肛門が体の正面にあるのは違和感が大きいし、早く閉じたい気持ちでいっぱいだ。パウチの交換も初めてした時は、失敗ばかりで本当に大変だった。おまけにパウチは一枚毎に結構お金がかかるのだ。永久的ストーマなら補助金が受けられるけど、一時的なものだとそうはいいかない。

一時的なストーマでさえ、人工肛門から出る排液の処理が大変だと感じる。これが永久ストーマだとなおさらだろう。オストメイト対応トイレをもっと増やしてほしい、と術後色んな人のブログを読んでいて切に願う。そんなことを思いながら部屋全体に目をやった。

白い天井、シーツ、壁。全てが殺風景だ。時々話し声、足音、寝言が聞こえる程度でまるで静寂が纏わりついてくるようだ。今まで病院に入院していた時は、周りのことを気にする余裕なんてなかったけど、安定しているとやはり夜の病院が怖い。乱雑ながらも温かみのある色彩に囲まれた自宅へ今すぐに帰りたい。それは怖さや退屈さだけでなく、貧しさも大きな理由だ。

入院するのは金がかかる。実を言うと、お金さえあればもう少しだけ病院にいたい。決して家が恋しくないわけじゃない。ただ退院してから再燃して入院する、というのを何度も繰り返した身だと、家への恋しさよりも有事の際の頼もしさをとってしまう。それで本当に大丈夫だという確信を持ってから家に帰りたい。今まで長期寛解をしたことがないので、その感覚が抜けないのだ。『一応、症状が落ち着いたようだし、家に帰ってみましょう』という医師の言葉も大腸をとる直前は信じられなかった。病床から追い出したいだけなんじゃないかと思えた。

ゴホンゴホンという咳き込む音で思考が中断された。咳き込んだのは、糖尿病を患っているおばさんだ。未だに医師の目を盗んで、みかんを食べたりしている。そんなことしてたら、良くなるものも良くならないよと思いながら私は目を閉じた。

……ああ、目を閉じてから、この病で死んでしまうんじゃないかと思い煩うことがなくなったのは、なんて幸せなことなのだろう。そのために払った代償は決して大きくはなかったけど。

私は水を買うために一階にあるコンビニへ足を伸ばした。数日前は歩くのもやっとだったけれど、リハビリの甲斐もあって、点滴棒を支えにすれば多少自由に行動できるようになったのはありがたい。

棚に置いてある常温の水と漫画を手に取って、コンビニから出ようとしたところで人にぶつかりそうになった。そこには黄色地に青色の星が描かれたパジャマを着た男の子がいた。

「あ、ごめんね。ケガはない?」

 その子は恐る恐るといった様子で頷いた。それから恥ずかしそうな表情のまま、看護師と思しき人の足にしがみついている。

「けいくーん」

と呼ばれると、声のした方に顔をパッと向けた。その視線の先を目で追うと、なるほど両親と思しき人が透明なパネルの向こうで手を振っていた。マスクをつけていても笑顔なのがよく分かった。看護師は私に頭を下げると、その男の子と一緒に両親のもとへ歩いていった。

こんな小さな子でも病気と闘ってるんだ、そう思うと胸が締め付けられるようだった。この水色のニット帽を被った幼い男の子がどんな悪いことをしたというのだろう、そんなことを私はふっと考えてしまった。

慌ててその考えを振り払った。禍は不条理なものなのだ。『日頃の行いが悪かった』から、なんてことはないのだ。私たちはただ運が悪かったというだけ。でもそんな理由で納得することなんてできはしない。長年弱音も吐かずに病と闘い続けている強い人々もいるけれど、私の人生の一部を返してほしいと私は思う。

私の青春を返してほしい。だってもう時間は帰ってこない。私だってみんなと一緒に卒業式に出たかった。入学式に出られないのだって辛い。はじめてクラスが決まって、緊張しながらも色んな子と話すということができない。ともに入学しているのに転校生のようだという、浮いた存在になってしまう。それに病弱というレッテルを貼られてしまう。もう実際に貼られてしまってはいるけれど、新しい環境に身を置くのだからリセットしたかったのだ。

「今の子、可愛かったですね」

 そう言われ、私がぼんやりと考え込んでいたことに気づく。慌てて声のした方に目を向けると、車いすに座った青年がいた。今、流行りの俳優に似ていてかっこいい。左足だけサンダルを履いているけど、骨折か何かだろうか。

「ああいう子を見ていると、癒されますよね」

 という言葉に私は、

「そうですね」

 と相槌を打ったけど、癒されるというより同情してしまって私は辛かった。尚も青年がじっと私の方を見ているので、何かと思ってドキドキしながら同じように見返していると、

「服のタグ、ついたままですよ」

と言われた。慌てて視線の先にある首元をさぐると、固い紙の感触があった。私は恥ずかしさから、顔が真っ赤になるのを感じた。

私はエレベーターで、自分の部屋に戻った。急いで服のタグを取ってから、恥ずかしさを紛らわすために携帯を開いた。すぐに後悔して、画面を閉じた。

卒業式で撮影した写真がたくさん送られてきていたからだ。

「ばーか」

と言って、私は折り畳まれた布団を踵で思いっきり蹴った。

報告をしたい、喜びを分かち合いたい、同じ気持ちになってほしいというのは分かるけれど。でもそれってエゴじゃない? 

修学旅行後に写真を友達に貰った時もそう思った。悪意があるのではない。それでも同じ時を過ごすことが出来なかった自分を発見して悲しみを覚えた。

修学旅行先で私は体調を崩したのだ。あまりの痛みから入院も考えたけど、先生に懇願してバスで待機することにした。だって折角の修学旅行なのだから、みんなと一緒に美味しいものを食べたかったし遊びたかった。私は奈良の鹿に鹿煎餅をあげるのを本当に楽しみにしていたのだ。貧しくて旅行になんて行くことが出来ないから。

でも結局は、すさまじい痛みと腹痛によって、緊急入院をすることとなった。どうやら自己免疫の異常な活動を抑えるために飲んでいる薬の副作用で、免疫力が弱り感染性の腸炎を起こしたらしい。その時は病院の小さな布団の中で広い世界を恨んだ。なんでこんな目に私が合わなければならないのかと世界を呪った。私は世界一不幸な女の子だと思わずにはいられなかった。それは今もそうだ。

涙が込み上げてきたから、慌てて布団をかぶった。

ああ、早く元の生活に戻りたい。私しか知らないひっそりとした場所で流された涙を、誰も拭うことなんてできはしない。

それでもこの涙を、誰でも良いから優しく拭ってほしかった。

あと五日で退院できるらしい。それを知って私はとても嬉しかった。だから奮発しようと思って、一階のコンビニにドリンクを買いに行った。

入ってすぐレジ横に有名なコーヒーチェーン店の期間限定のドリンクがあった。目を引く桜色でとても可愛い、春が来たというのを感じてうきうきしてしまう。

「あれ、また会いましたね」

 低い場所から声がして、顔を下に向けると、この前の車いすの青年だった。

「こんにちは」

 私がそう返すと、微笑んで、

「こんにちは」

 と言ってくれた。良く聞くと声も素敵だし、本当にかっこいいな。紺色のチェックのパジャマも良く似合っているし。私が少し見惚れていると、

「そのドリンク新作のやつ?」

「はい」

 私がどぎまぎしながら答えると、

「申し訳ないんだけど、見てたら欲しくなっちゃったから取ってもらってもいいかな。車いすに乗ってると届かなくて」

 そう言われて私は慌ててもう一つ取った。

「ありがとう」

 とその人はふんわりと微笑んで、受け取った。その指先の細さとか、首筋の白さが入院生活の長さを表しているようで私は少し悲しくなった。

「じゃあ、一緒に払ってください」

 と青年はレジの人に言うと、慣れた手つきで財布を取り出す。

「そんな、いいですよ」

 私が栗鼠の顔をした小銭入れを取り出そうとしたら、蝶のように手をひらひらと振って

「いいのいいの、奢られてよ」

 と言ってさっさと払ってしまった。こんな高いものをさらっと奢ってもらえるということに私は驚きと戸惑いを隠せなかったが、何よりも長い入院生活の中でもはじめてだったから胸が温かくなった。こういった施しを受けられるなんて。

でも、

「そんな高いものでもないからさ」

 という言葉で私の気持ちは一気に落ちた。私がお小遣いをやりくりして必死で買うドリンクはこの人の中でとても安いものなのだ。見れば、その黒い財布は有名なブランドの財布だった。私は急に腹が立ってきた。この人に悪意がないのは分かっている。でも、悔しくてたまらなかった。金持ちめ。

 私はお礼を一応言うと、目を合わせないようにしながら足早に立ち去った。そしてさっさと自室に帰った。

枝が風で揺れて、病院の窓が小気味よい音を立てた。もうそろそろ桜が咲く季節だと思いながら、膨らんでいる蕾を眺めていたが、真っ赤な車が目に入った途端落ち込んでいたのもあって卑屈な気持ちになった。

あの真っ赤なランボルギーニは私の母のお金で買われたものだ。健康でお金もあって羨ましい。別にあの医者が憎いとか嫌いというわけではなく、世間全てが羨ましかった。幸せそうにしている人たちが、妬ましかった。自分より恵まれている人たち全て。だって同じ世界で、同じ人間として生きているとは思えない程に差がある。私は自棄になって、ツイッターを開いた。

私はタイムラインをさっさと辿っていく。芸能ニュース関連のツイートも多いけど、同じ病気に関連するツイートも多い。なぜなら私が他の人の経過を見るために、同じ病気の人をフォローしているからだ。主な目的として、どれぐらいしんどいのか、どんな治療をしているのかを知るためである。それだけでなく、気の合う人とは病気の話をしたりすることもある。

でもそういう同じ病気の人だって羨ましい。

 『寛解しました』『補助金が下りました』『寄付金ありがとうございます』……そんな言葉を呟いてみたかった。そう思いながら、仲いい人のツイートを次々とミュートにしていく。

『難病の息子に寄付を』と言って寄付を募り、治療費を得られた子供と……母が借りたお金で治療をしている私と、何が違うのだろう。同じ難病なんだから、私も助けて。

シングルマザーだとか、病気だとか、お金がないとか私たち家族が訴えても誰も助けてくれないじゃん。友達が募金箱持ってくれても全然ダメじゃん。テレビの中ばかりずるいよ。『地球を救う』よりもすぐそばにいる私を助けてよ。ああいう募金なんかが私を助けてくれたことなんかないよ。言葉ばかりじゃん。

『難病の子に支援を』『苦しんでいる子供たちがいます』『このイベントの参加料の三パーセントは寄付されます』……そんな言葉見たくないよ。

私はチャリティーイベントの内容を流してくるアカウントを指先で力強くブロックした。

きっとこういう人たちは甘い言葉をかけるだけかけて、それでいいことをしたと思ってるんだ。コンビニの横にある募金箱に一円を入れ、『募金しました、病気の人が良くなりますように』とツイートをする自分が間違いなく善人であると信じてやまないんだ。

痣だらけの子供が隣の家から出てきたら通報する、隣の家から出火していたら通報する、家の前で誰かが蹲っていたら通報する……そういうことをせずに、自分に関係がない場所での施しばかりしている気がする。だって動物を平気で捨てるような三軒隣の人だって、募金箱にお金いれてたんだよ。みんな、ずるいよ。

安全圏から偽善者たちが、自分の良さをアピールするためだけに日の当たる場所で他人に施しを行っている。自分のエゴで正義を振りかざし、正義のヒーローになった風に振舞うのはやめてよ。

本当のヒーローに、誰かなってよ。それで私たちを助けてよ。

「あれ、また会ったね」

 私は会いたくなかったけれど、黙って頷いた。今日は病院に移動図書館が来ていて、そこに本を返却しに来たのだ。市で借りた本がここで返却できるとは知らなかったから、来てみたけど、こんなことなら退院しているんだし図書館に行けばよかった。

 退院手続きを済ませた後に、病院のロビーの隅で行っていた移動図書館に来たばっかりに遭遇してしまった。

「本、好きなの?」

 私の手もとを覗き込みながら、その人は問うた。

「それなりに読みます」

「いいよね、本は」

 ニコニコしながらその人は頷いた。私が内心、気まずいなと思いながら職員に本を渡していると、

「本がたくさんあるといいですね」

 そう言いながら四十代ぐらいの男性が現れた。赤い眼鏡が印象的だ。

「本を読むと、心だけでも色んなところに行けるのがいいですよね」

 青年がそう言うと、男性は、

「そうなんですよ。自分の病気のこととかも忘れて、そこに没頭できるというのが。没頭している時って、そこだけに目が行きますし」

 と朗らかに言いながら、本の置かれたスペースをうろうろしている。置かれている本はどれも古く、色褪せ、手あかがついている。それでも綺麗なブックコートフィルムが全てに貼られている。

「どんな本を読むんですか?」

 青年が車いすを動かしながら、その人に尋ねると、

「実は病気になってから読む習慣が出来て……どのジャンルが好きだとか、あまり分からなくて」

「自分が好きなものを探していっているところなんですね」

 その言葉は、なんだか素敵な言葉だなと私は思った。それはその男性もだったらしく、穏やかな顔で頷いた。

「そうですね……こうして時間が出来たから自分のことを見つめなおしているというか。この病気になったから、こうして見つめ直せてるのかもしれないです」

 そんな考えがあるんだ、と私は驚くと共に満ち足りた気持ちになった。そんな風に私も思うことが出来るのだろうか。他人に優しい言葉をかけ、隣人に施しを与えられる人に。

そして男性と青年が早く良くなることを心の端で願いながら、背を向けてロビーを抜けようとしたところで、

「あの本のところにいる人さ、なんとかっていう大臣の息子らしいね。ずっと入院してるって話」

「あのチェックのパジャマの?」

 見るとコンビニの前で五十代ぐらいのパーマをかけた女性たちが囁いていた。疲れと苦労の滲んだ皴が深く顔に刻み込まれている。二人は肩を寄せ合うようにしている。

「私なんかさ、この前入院したとき……すぐに出て行けって言われたのよ」

 大仏のような頭をした女性が自分の胎を指でさしながら、

「あたしも、子宮全摘した時ふらっふらなのに追い出された。一か月ぐらい、腰に力が入らなくて家事が全然できなかった。でもそれって、なんか病人を長く入院させてると、国から厳しく言われるかららしいね」

 と咎めるような声音で言った。

「そう、それよ! 偉い人の息子だからってことで、あの人……ずっと個室で入院させてもらえてるんだって。足の骨折ぐらいで、病院をホテルにできるなんて。お金も権力もある人は違うわよね、私たち庶民とは。私たちの苦しみなんて、あの人たちには分からないのよ」

 二人は青年がこちらにやってきたので、そそくさと立ち去って行った。青年はそんなこととは露知らず、呆然と突っ立っていた私に対して和やかな笑みを浮かべて手を振った。

 でも私はそれを無視して背を向けた。だってその人はもう、私の知らない人だったから。

 病院から出ると、温かな風が吹いて桜のたくさん咲いている枝をゆっくりと揺らしていた。


コンビニエンスストアの宇宙飛行士

倉数茂

 宇宙服のヘルメットがしっかり締まっているのを確認したあと、エアロックを減圧するボタンに手を伸ばす。みるみる気圧がゼロに下がっていく間、あなたは船外活動ユニットの機能を点検する。ライト、よし。通信、よし。酸素、よし。カメラ、よし。気圧が0になったのを視認して、ハッチを閉鎖しているレバーを押し下げて静かに内側に引く。ハッチはゆっくりと開き、星々のちりばめられた宇宙空間がその向こうに見えてくる。あなたはハッチの縁を掴んで、慎重に外の深淵へ乗り出していく。まずはセイフティフックをステーションの外壁のワイヤーにつなぐ必要がある。外壁には他にも移動用の手すりが設置されている。あなたはフックをワイヤーに繋ぎ止めると両手を離して軽く壁を蹴る。全身がゆっくりとステーションから遊離する。眼下に広がる地球はまだ夜で、漆黒の大地のところどころで光の網が輝いていた。あの光の帯はニューヨークからワシントンへ続く地域だろうか。星々の冷たい光とは違う、柔らかな輝きがゆったりと息づいている。


 二月の夜風はひどく冷たかった。ヒロアキは思わず身震いしながら駐車場の隅に並べられたボディバッグを見た。昼間でも日のあたらないその一角は一週間前に降った雪がまだ残っている。バッグの表面も雪と泥でまだらに汚れている。センサーが反応して野外照明がつき、雪の表面がぎらりと光った。

「六体もあるのかあ」と配送スタッフの男が情けない声を出した。「今積めるのはせいぜい三体だね。悪いけど残りは次の便にお願いして」

「そうですか」

 ヒロアキも不機嫌に応答する。この季節だから腐臭は気にならないが、死体がいつまでも敷地にあるのは気持ちが悪い。死んだ人には申し訳ないと思うものの、早く引き取ってもらいたいと思ってしまうのだった。

「じゃあ確認しますね。兵士が三名に民間人が二名。身元は?」と言いながらスタッフの男は死体袋(ボディバッグ)についたタグを確認した。「民間人の方は身元不明?」

「誰が持ってきたかもわからないんです。気がついたらここに置いてあって」

「ふうん、そう」と呟きながら彼は手元のタブレットに何かを入力した。次にリーダーを取り出して、バッグに印刷されたQRコードを読み取った。

「じゃあ、このうち四体だけ預かります。荷台に積み込むの手伝ってくれる」

 ヒロアキはバッグの足側を受け持った。バッグは濡れていて指先が冷たい。リヤドアを開放したトラックの荷台に一体ずつ積み込む。周囲の棚には、別のコンビニに運ぶパンや弁当の入ったプラスチックケースが収められている。

「ちょっと待って。ジッパーが開いている。なんか挟まってるみたいだ」

 男がジッパーを勢いよく引きあけると中から緑色のものがこぼれ出た。ヒロアキも男も一瞬たじろいだが、よく見てみるとそれは緑の野菜のようなものだ。

「これ、ズッキーニだよ。ほら」

 迷彩服姿の兵士の唇と目元から短い茎が伸びてその先にズッキーニがついている。二つのうち一つには薄黄色の花までついていた。

「植物爆弾だね。最近増えてるらしい」

 男はズッキーニを力任せにもぎり取るとアスファルトに落として踏み潰した。

「そちらも見てくれる」とまだ地面に置いてあったボディバッグを指さす。

 ヒロアキがジッパーを下げると、兵士は実のいくつも付いたトマトの蔓に巻かれていた。だいぶ熟れていたらしく、トマトは手の中でぐしゃりと潰れた。

「爆弾の閃光を浴びると身体中から植物が生えてくるんだ。どうも幻覚剤の作用らしいけど」

 ヒロアキは無言でティッシュで指を拭った。様々な化学兵器が使われているとずいぶん前から噂されているが、潰れたトマトの感触は、幻覚にしてはあまりにリアルだった。それでも、以前に一度見た赤ちゃん爆弾と比べれば遙かにマシだと思う。あの時は、肩や胸元に幾人もの赤ん坊の上体を生やした兵士が大声をあげながら店内に駆け込んできたのだった。兵士は手に持ったナイフで、赤ん坊を体から切り離そうと必死になっていた。裸の赤ん坊も痛みのせいなのか大声で泣き喚いていた。兵士は明らかに錯乱していた。血塗れの赤ん坊の首や手足が、湿った音を立てて床に落ちていくのを見るのは辛かった。ヒロアキでさえ頭がおかしくなりそうだったので、あの兵士のメンタルはズタズタになったろう。

 トラックの赤い尾灯が敷地を出て行ったあと、ヒロアキは店内に戻った。

 非常時が始まってから、コンビニ店員の作業は前よりシンプルになったと店長は言う。商品の数が大幅に減って、季節ごとのセールや新商品の売り出しもほとんどなくなった。売り場の棚に並ぶのは食品と飲料品、包帯やガーゼのような簡単な医療品、電池やバッテリーといった実用品ばかり。売り上げ目標や在庫管理もあってなきが如くになった。毎日商品がきちんと入ってくれば幸運で、搬入スケジュールさえわからないようでは計画など立てようがない。

 ヒロアキも以前の華やかだったコンビニの様子をぼんやり覚えている。レジ前の棚にはおしゃれなスイーツが何種類も並び、お菓子の棚も色とりどりだった。今では破壊された戦車や鹵獲された敵車両の映像しか流さないレジ前のモニターも、呑気にミュージックビデオか何かを映していたはずだ。

 冷凍食品の品出しをしていると、客の入店を告げる電子音が鳴った。振り返ると迷彩服姿の数名の兵士たちが入ってくる。ヒロアキは一瞬ガラスドアの向こうに目をやって、軍用車が停車していないのを確かめた。おそらく歩兵だろうが、本隊とはぐれて転々としている小グループは、休養も補給も足りてなくて攻撃的になっていることが多い。兵士たちは通りすがりにプラスチックカゴを手に取ると、弁当売り場に直行し、銘々に物色し始めた。選びもせず調理済み食品を放り込んでいくものもいる。ヒロアキは急いでレジカウンターの内側に入った。気が立った兵士はちょっと待たされただけで声をあらげる。店長が変わってくれないかとカウンター裏のバックヤードを覗き込むが見える範囲には誰もいない。もしかしたら死角に隠れているのではなかろうかと考えてヒロアキは暗くなった。妻が亡くなって以来、老いた店長はますます事なかれ主義になって、目の前の厄介事から逃げることしか考えていない。

 すぐに大柄な男性兵士がレジの前に立った。片手にライフル、肩に大きな対戦車砲。全身から泥と汗の匂いがする。兵士は疲労を隠せない様子で、プラスチックカゴをカウンターに投げ出す。

 中には十数個のおにぎりが転がっていた。これ全部一人で食べるのだろうか、それとも仲間たちと分け合うのかと考えながら一つ一つバーコードリーダーを当てる。

 袋をおつけしますか、と尋ねると、当然だというように兵士は頷いた。迷彩柄のビニール袋を一枚取り出しておにぎりを入れながら、ヒロアキは男の視線が気になって仕方がない。どういうわけか、兵士は先ほどからずっとヒロアキから視線を離さない。寝不足なのか、うっすら膜が張ったようでいて充血もしている兵士の眼球が気味悪かった。軍事関係者にだけ支給される電子通貨で支払いを済ませておにぎりを受け取るとき、男は「あんた、幾つだ」と低い声で尋ねた。

 ヒロアキは戸惑い、視線を泳がせた。答えたくないという思いが今更聞こえなかったふりもできないという諦めと混ざり合う。

「なあ、あんた幾つだ」と兵士は繰り返した。ヒロアキは後ろに並んだ女性兵士も悪意のある眼差しでこちらをじっと見ていることに気がついた。

「十九です」

「どうして軍隊に入らないんだ。地域防衛隊でもいい。こんなコンビニでちまちまレジ打ちしてるんじゃなくて、もう少し世の中の役に立ちたいとは思わないのか」

 ヒロアキは一歩後ずさった。しかし狭いカウンターではすぐに背後の壁に背中がつかえてしまう。

「体が弱くて…。自分は小さい頃から喘息の持病があって…」

 ヒロアキはうわずった声でいう。証拠を見せようと尻ポケットの吸入器をまさぐるが、今日に限って家に忘れてきたようだった。店長がタイミングよく顔を出してくれないかと左右に目を配るがどこにもいない。ヒロアキは以前から兵士と一人きりで対面するのが苦手だった。

「徴兵検査は受けたのか」と兵士が聞くのでヒロアキは無言で頷いた。検査ではねられた時の屈辱と安堵が入り混じった気持ちはこの体格のいい男には決してわからないだろうと思う。中学高校と何の疑問もなく運動部に所属し、結婚すれば大型ワゴンを買って家族でキャンプに出かけるタイプの男だ。

 兵士は相変わらずヒロアキを睨め付けている。他人をストレスの捌け口にするなと言いたかったが、男の厚い胸板や盛り上がった肩の筋肉を見るとそんな言葉も胸の内で泡のように流れて消えてしまう。

 兵士はまだ言い足りないように口を開いたが、背後から肩に手をかけられて振り向いた。ヒロアキと同年配の若い兵士が立っていた。

「もうそれくらいにしとけよ。コンビニはロジスティックの重要施設だと決められているじゃないか」

 大柄な兵士は気勢を削がれた様子で黙り込んだ。最後にもう一度ヒロアキを睨むとおにぎりの袋を持って立ち去る。続いて女性兵士の会計をする間もヒロアキは手元に意識を集中して相手を見ないようにした。先ほど兵士に問い詰められたときの不快感は消えないが、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。

「マルボロを五箱」と言われて顔をあげる。さっき口を挟んでくれた若い兵士だ。彼は一瞬相手の顔を見つめてしまってから、急いで背後のタバコの棚に振り返った。

 

 船外活動はどんな時だって複雑だ。工具はワイヤーで宇宙服に留めておかなければたちまちどこかに漂っていってしまうし、宇宙服のグローヴはとても分厚いので、細かな作業を行うのは骨が折れる。今回のあなたの使命は、ステーションの先端に配置されたアンテナの配線基盤を最新のものと交換することだ。周囲に目を配りながら壁を伝ってそろそろと移動する。複数の素材を重ねた宇宙服でも、どこかに引っ掛けてかぎ裂きでも作れば命を失うリスクは跳ね上がる。フックが外れて宇宙空間に放り出されれば、どれほど足掻いてもステーションには戻れない。あなたは笑い出したくなるような緩慢さで、目的箇所までの旅路をたどる。アンテナのところまでたどり着くと、電動工具を使用してボルトを外し、金属板を取り去って基盤をあらわにする。

 時間だから上がっていいよ。そう言われてバックヤードで帰り支度をしていると、店長がビニール袋を捧げるみたいに両手で持って近づいてきた。

「これ、持って帰っていいよ。皆期限切れのものばかりだけど」

 覗き込むと、パックされた卵焼きやポテトサラダが入っていて気持ちが高揚する。好物のサラダチキンまであるのが嬉しかった。最近ではほとんどの店がシャッターを閉めたままで、毎日の食材を手に入れるのだって大変だ。スーパーが開くのは週に二日程度。開店日には行列ができて、一時間もすれば全て売り切れになってしまう。

 さっき店長はどこかに隠れていたのだとヒロアキは確信している。このおみやげだって、自分の後ろめたさを打ち消すためのものだ。そうわかっていても笑みが浮かんでくるのを止めることはできなかった。礼を言って自分のリュックサックにしまう。

 店外に出て夜道を歩き出す。体の芯まで寒さが染み入ってくる。空を見上げ、雲が切れて星々が輝いているのを見て少しほっとした。三ヶ月前隣の家屋が砲撃を受けて倒壊し、爆風のためにヒロアキの家の東側の窓も粉々になった。ありあわせの木の板を打ち付けて隙間風を防いでいる状態だが、屋根瓦もだいぶ吹き飛ばされたために、雨が降ると天井から雫が落ちてくる。だから天気が悪くなるとそれだけで気が沈む。

 時計を見ると午前十二時十五分だった。ヒロアキは足を早めながら父親はもう寝ているだろうかと考えた。最近、父はいつ寝ていつ起きているのかよくわからなくなった。小さい頃から、ヒロアキにはどこか得体の知れない存在だった父だが、このところろくに口さえきかず、いつ見ても黙然と茶の間の隅に座っている。まだ呆ける年齢には早いとはいえ、世の中の激変についていけなくなっているのかもしれない。

 父がまだもう少し元気だった頃、おまえは軍に志願しなくていいのかと言われたことを思い出した。テレビが戦争の報道一色で塗りつぶされ、芸能人やスポーツ選手が毎日のように銃をとってカメラの前でポーズを取っていた時期だ。ヒロアキは逆上してしまい、俺の体が弱いことは知ってるだろうと言い返すこともできなかった。昔から、一人息子の心を汲み取ることの下手な親だった。母親が死んで以来、楽しい時期なんて少しもなかった、と考える。

 先ほどレジで兵士に言われた言葉にまだこだわっているのだと気づく。だから、こうして嫌なことばかり思い出すのだ。小学校の時、夏休みに無理やりサマーキャンプに行かされた。大自然の中で思い切り運動して体を鍛え、友情を育むという謳い文句のキャンプだったが、人より体力のないヒロアキは、トレッキングが辛くてべそをかきかけたのを年上の男子たちに揶揄われ、いびられ、挙げ句の果てに大部屋で一緒に寝ていた布団から蹴り出され、冷たいバンガローの床に頬をつけて寝た。あの夜の悔しさを今でも忘れられない。

俺の人生はぬかるみにはまってしまった。先のことを考えても明るい展望はひとつもない。これも戦争のせいだ、と思いかけ、しかし戦争がなくてもどうせ自分は陰鬱な毎日を送っていたのではないかと想像して苦しくなる。あの頃はむしろ、戦争でもなんでも起きて何もかもメチャクチャになればいいなんて思っていたのだ。ところが実際に戦いが始まってみると、ただただ惨めで見窄らしい日々が続くだけだ。

大きなマンションの廃墟の前にさしかかった。五階から上が無惨に崩れ落ち、その下も醜く焼け焦げている。ベランダの手すりが高熱で溶解しぐにゃぐにゃに歪んで固まっているのが夜目にもわかる。ヒロアキはこの前を通るたびになんともやりきれない気持ちになった。どれほどの犠牲者が出たのかわからないが、あの黒い空洞のように見えるベランダの一つ一つに家族の生活があったはずだと思う。

手前の歩道にも瓦礫やコンクリート片が落ちているので、気をつけながら歩かなければならなかった。車道の瓦礫はさすがに撤去されたが、昼でも走る車の数はがっくり減った。一時期はこの辺りまで都心の方からの避難民で溢れかえったこともあったが、今ではそうしたものたちも消えてしまった。

戦いが何ヶ月も長引くにつれ、自分たちが誰と戦っているのか段々と曖昧になってきた。情報を得るのは主にネットだが、スマホで見るニュースでは何を信じたらいいかわからない。

テレビが勇ましく戦果を報道していたのはごく短期間で、すぐに画面が映らなくなった。放送局が占領されたのだとか、電波塔が破壊されたのだとか言われていたが、それだって本当かどうかわからない。そのくせ、いつまでも続く砂嵐が途切れ、突然番組が流れることもあった。何十年も前のニュースやワイドショー、世界の主要都市に円盤がやってくるモノクロの古い映画など。人々は真実のかけらがそこにあるように惚けた顔で何時間もそうした番組を眺め続けた。

 SNSには次々に真偽の定めようのない情報が流れてきた。東京中枢はもう占領されている。もうすぐ外国の軍隊が救援にやってくる。敵の背後にいるのは宇宙からの侵略者だ。いや、味方は高次元存在からバックアップを受けているのだ。秘密兵器の投入によって明日にでも戦況が一変して勝利するという噂が繰り返し流れ、翌日には今や全面降伏は避けられないという噂が伝わってきた。もう政府がどこにあり、誰に率いられているかもわからなかったし、敵がどこから来ているのかも確信が持てなくなった。動画ではタイトなビキニパンツ一枚の各国首脳が、オイルまみれで格闘しており、これはAIで作成されたフェイク動画ですという字幕がついていた。SNSの情報はすべて敵のプロバガンダだ。さもなければ敵を装った味方のプロバガンダだという言い方が流行した。皆本当にそう思っているのかもしれなかった。

 ヒロアキが灯りの消えた大きな建物の前を歩いているとき、どこかで低い雷鳴めいた音が響いた。数秒のうちに、その音は巨大になり、空を引き裂く轟音となって近づいてきた。ヒロアキは飛行機だと直感し、路面のコンクリートのかけらを飛び越えて建物の側に寄った。どこかに身を隠す必要があった。空っぽの建物の庇の下に入り、頭を抱えてうずくまった。冷たい汗が脇を伝うのがわかった。口の中が乾いてカラカラになった。

 飛行音は遠ざかって微かになり、やがて消えた。ヒロアキは顔を上げた。建物の奥の暗がりでポッとタバコの火がともった。それから、ヒロくん、ヒロくんだよね、と声がした。

 闇の中から人影が現れた。ヒロアキは一瞬警戒して身をすくめた。出会い頭に発砲されたなどという話はいくらでもある。それが敵であれ、味方であれ。

 けれども彼はすぐに、それが先ほどコンビニで兵士の詰問に割って入ってくれた若い兵士であることに気がついた。そればかりか、その兵士が古い知り合い、昔の同級生であることも認めた。

光樹? と彼は尋ねた。

「そうだよ。斎藤光樹だよ。何年ぶりだろうね。中学の時以来だから六年くらいかな」

ヒロアキと光樹は、中学一年の四月に席が隣だったことから親しくなり、やがて一緒に遊ぶようになった。ヒロアキは教室の隅でじっと科学読み物を読んでいるのが好きな大人しい生徒だったが、光樹は明るく、スポーツだってよくできたのに、なぜだか二人でいると話がはずんだ。光樹には繊細で相手の気持ちをたえず慮るところがあった。その年頃の男の子にありがちな粗暴な振る舞いや自覚のない身勝手さがないのも好ましかった。

「さっきさ、コンビニで見かけてあれって思ったんだ。そうだよね、ここ地元だもんね。あれヒロくんじゃないかってあとで気がついて」

 先ほどヒロアキの記憶の裡でも何かが動いたのだ。それなのに自分の屈辱感に囚われて、はっきりと意識できなかった。

「この辺りに来るの久しぶりなの」とヒロアキは尋ねる。

 光樹は指に挟んでいたタバコを一口吸い込んでから煙を吐き出した。周囲をゆっくり見渡して言う。

「そうだね。全然変わってないね。俺、中二の時に橋本の方に引っ越しちゃったから。電車で来ようと思えばいつでも来れたのに来たことなかった。ここ、ドラッグストアだったよね。今でもやってる?」と手のひらで軽くシャッターを叩く。

「最近はずっと閉まってる。今は暗くてわかんないだろうけど、この辺も結構変わってる」

「そうか」

 考えてみれば、光樹と一緒にいたのはせいぜい一年弱だったのだと気づく。

 喘息で学校を休みがちだった彼は、小学校のころから友達付き合いが苦手だった。男の子同士で駆け回って遊ぶことができなかった。それだから、中学校で初めて親しくなった光樹は貴重な存在だった。

「あのさ、中二の頃からいろんなことがどんどん変わっていったよね。もうすぐ戦争が始まるって誰もが言うようになって、街のあちこちに避難所や防空壕ができて、体育の時間が軍事訓練になって──」

 ヒロアキはそこまで言って言葉につまった。まるでカレンダーがちぎり取られるたびに風景が変わるように、一ヶ月単位で世の中が変わっていったのだ。あれからずっと奇妙な時間が続いている。

 そうだね、と光樹は静かにうなずいた。

「それ以前のことってきちんと覚えてる? 俺、昔のことをうまく思い出せないんだ」

 どういうこと? とヒロアキは尋ねた。

「なんていうか、夢の中の出来事だったような気がするんだよね。あれ本当に俺だったのかなって。まだ普通に家族と暮らしていて、毎日学校とか行って、サッカー部に入ったりして」

 そしてライフルの柄に軽く触れた。

「まさか自分が将来銃を撃つことになるなんて思ってもみなかったよ。迫撃砲を操作するとか、装甲車と人の身体が一緒に燃えていく匂いを嗅ぐとか」

 光樹はそう言って笑顔を作ったが、その笑い声は掠れて聞こえた。

「ねえ、うちら、勝ってるの、負けてるの? この戦争はいつか終わるの」

 咄嗟にそう聞いてしまってから、自分の口調があまりに切羽詰まっていることに驚いた。若年の一兵士に過ぎない光樹にそんなことを尋ねても仕方がないという考えと、それでも軍人なんだから何か教えて欲しいという気持ちが両方ある。

 けれど光樹は何も答えず、まず自分のタバコをにじり消してから、もう一本取り出して火をつけた。そして苦笑するように唇を歪めた。

「わかんないな。通りの先まで行ってあの建物を確保しろとか、あの橋を渡る車両があったら攻撃しろとか、具体的な命令が降りてくるだけで、全体がどうなっているのかはちっともわからない。そもそもどこから命令されてるのかだってよくわかんない。ただ目の前のことをやって、あとは今日の分の糧食と寝床を確保するだけで精一杯。ごめん、役に立てなくて」

 二人の間に沈黙が落ち、忘れていた寒さが戻ってきた。光樹が間の悪さを埋めるためかおかしなことを話し出した。

「死んだ人間が戻ってきているっていう噂があるんだよな。聞いたことない? 俺は何度も聞いた。確かに戦闘で死んだはずの人間が、数日経つとまた小隊に戻ってきて銃を取っている。最初は死亡というのがまちがいで、野戦病院にいたのかと思うけど、傷跡もないしなんだかおかしい。敵が撹乱のために送り込んだんだとか、元々クローンだったんだとか言われているけど、そんなことあるんだろうか。俺は信じられない」

「やめてくれよ」

 ヒロアキは思わず叫んだ。

「そんな気持ち悪い話聞きたくないし、そもそも馬鹿馬鹿しい」

「そうだよね。ごめん」と光樹が謝罪した。本当に済まないと思っているらしく、軽く頭を下げる。ヒロアキは久しぶりに再会した光樹にきつく当たってしまったと後悔する。

「そろそろ行かなくちゃ。さっき一緒にいた連中とこの近くで野営してるんだ。あまり帰りが遅いと敵襲にあったんじゃないかと思われる」

 手持ち無沙汰になったのか光樹が呟いた。ヒロアキは、また会えるかなと尋ねたかったが口にできなかった。今回だって僥倖が重なったに過ぎない。戦いが終わるまで先のことなんて誰にもわからない。

 ヒロアキは息苦しくなって空を仰いだ。雲はすっかり吹き払われ、青白い空に無数の星々がちりばめられている。街の灯がすっかり減ったため、星だけはよく見えるようになった。今日もオリオン座のベテルが瞬いているのがはっきり見えた。

 ヒロアキにつられて、光樹も大きく首を逸らす。ああ、と吐息が漏れる。

「いいなあ。空を見ることなんてずっと忘れてたよ。ねえ、ヒロくんちに泊まったことあったよね。獅子座流星群を見ようって」

 そうだった。珍しく息子の友達が来るというので母親は食べきれないほどのご馳走を準備し、なんだか恥ずかしく感じたことを覚えている。二階のヒロアキの部屋の窓際に天体望遠鏡を据えて部屋の灯りを消し、おしゃべりをしながら深夜を待った。流星を幾つ観測できたのか、そこまでは覚えてない。それなのに胸の高鳴る時間であったことだけは記憶に残っている。

「あのとき、いつか宇宙に行けたらいいなって話したよね。宇宙飛行士になりたいって」と光樹が笑う。

 そういえばそんなことも話したかもしれない。本気でそんな大それたことを考えていたんだろうか。

「結局なれなかった。大学さえ行けなかったし」とヒロアキが苦笑すると、光樹は真顔で大きく首を横に振った。

「そんなことない。なれるさ。俺たち、まだ若いんだ」

鍵を出して玄関の扉を開け、中に入って照明をつけた。

 室内はしんと冷え切って、物音ひとつしない。

 ヒロアキは声をかけたものか迷いながら茶の間を覗き、電灯のスイッチを入れた。父がいつものように部屋の隅ではなく、手前の壁に向かって立っていたので思わず恐怖の声が漏れてしまう。

「なんだよ、おどかすなよ」

 そう呟いても父はこちらを見なかった。まるでお化けじゃないか、という言葉は飲み込む。真冬だというのに、薄っぺらい長袖シャツにスウェットパンツ、足に至ってはなんと裸足だ。暖房もつけないのに寒くないのか不思議だが、父親はもはや寒暖さえ感じなくなっているのかもしれなかった。

 ヒロアキはリュックから今日受け取った食料を取り出すと、適当に皿に並べて食卓に置いた。自分の分は別に取っておく。

「ここに食いもん置いておくから。好きな時に食べて」

 父の目の色がちらりと動いたが、意味までわかっているのか怪しかった。それでも二、三日経てば、食べ物はきれいに消えているのが常だった。

 ヒロアキは一緒に暮らして二ヶ月経つ今でも、この父親の形をしたものにどう対したらいいのか決められずにいた。隣家が砲撃された時、父はたまたま庭にいて飛び散った建材に当たってその場で亡くなったのだった。ヒロアキは死を確認して、所定のボディ・バッグに収めて自分でコンビニまで運んでいった。死体を運ぶ時だけは、無人タクシーを優先的に使えることになっている。

 ところが、三週間後のある日、家に戻ると生前と何一つ姿の変わらぬ父が家に座っていたのだった。ヒロアキは自分の精神がおかしくなったのかと思った。しかしおかしいのは明らかに世界の方だった。何もかもがあるべき姿を外れて錯乱していく。だったら一緒におかしくなってしまった方が気楽だ。ヒロアキは何ごともなかったかのように生活することにした。父親の形をしたものを追い出したり暴力を振るったりは、心情的にも、ご近所の手前もできない。結局のところ、素知らぬふりで息を潜めて一緒に暮らしていくしかない。

 彼は二階の自室にあがった。東側の壁がやられたせいか、一足ごとに階段がぎしぎしと鳴る。いつか崩れ落ちるのかもしれないがとりあえず今はまだ大丈夫。

 一度ベッドに寝そべってから思い出して押し入れの中を捜索した。どこかに使わなくなった天体望遠鏡が埋もれているはずだ。結局天袋にそれを見つけ、段ボールの箱を開けると数年分の埃が舞い上がった。それでも機能に問題はないだろう。彼は三脚を組み立てて望遠鏡を取り付けると、窓ガラスを大きく開けた。

 

やがて視界に微かな銀色の弧が浮かび上がる。地球の縁が白く輝いている。夜明けが来たのだとあなたは悟る。今、目の前で、地球が新たな朝を迎えようとしている。体の向きを変えて視界いっぱいに地球が広がるよう位置を変える。やがて黄色く強い光がまっすぐにあなたの目に届く。あまりに眩しくて思わず片手をヘルメットの前にかざす。光はますます大きさを増し、同時に色も澄んだ白に変わっていく。虹色のハロウがくっきり大きな環を描いている。あなたは視線を落とす。大地も赤く燃え上がっている。地球が目覚めとともに色彩を取り戻す。海の青、雲の白、大陸の茶色、そして銀色に輝く大河。あなたは一段と高まった静けさを感じる。何の物音もしない。何ものも動かない。天に栄光、地には平和。あなたはただ息を呑んでその光景を見つめている。


人灯

川咲道穂

 とある世界に一つ、深い深い海がありました。陸もふたつみっつはあったでしょう。
 その海のとある海底の町に人魚ルミーロが住んでいました。そのルミーロは幼い頃から、遥けき彼方に光るおぼろげな人灯に憧れていたのです。
 ようやく人灯のもとへ旅立つ決意ができたのは、ルミーロが五十五歳になる今年のこと。
「次の大波が町に着いたらここを起つ。楽しい旅になるだろう」
 ルミーロは呟いた後、旅立ちに備えて眠りました。
 大波が町の駅を吹き上げたのは明くる夕方のことでした。皆それぞれに家族や友人に別れを告げて大波に身を委ねます。なかには荷物を飛ばされて慌てる者もいますし、駅から染め昆布を打ち上げて盛大な見送りをする者もありました。ウィーディー記念駅は今日も盛況です。
「温かいな」
「そうだな、こりゃいいぞ」
ルミーロはというと見送りをしてくれる者がいないものですから、侘しくも見慣れた町の景色と佳き友人に別れを告げて、大波にひとり身を寄せます。
 大波は他の乗客たちとともに、ルミーロを上へ上へと運びました。駅を起ってからしばらくは座板が激しく揺れるので飛ばされないように彼らは支え合います。十分ほど経った頃からでしょうか、吹き上げる激しさは和らぎ、乗客たちの間で軽い挨拶が始まっていました。ルミーロの耳にもそれは聞こえていましたが、挨拶よりも遠くなりつつある故郷のことを思ってぼんやりとしていたのです。
 故郷を離れるのは初めてのことでしたから、眺めているだけでどことなく寂しい気持ちになりました。先ほどまで暮らしていた町の屋根は既に微かな色を映すのみで、町が小さく、遠くなっていくのを感じます。
 けれどもルミーロは下を覗いてばかりではありませんでした。心がくらくなったときには上を向いて、遠くにゆらゆらと照るオレンジ色や緑色、鮮やかな赤色の灯りに心を躍らせたのです。
「人間というのはどうやってこんな灯を作ったのだろうか。きっと海深くまで届くように優しい気持ちで作ったのだろうけれど」
 考えている間にもルミーロたちはどんどんと昇っていきます。
「そこの人魚さん。おらぁ色んな海を渡り泳いできたけどよぉ。美味しそうなものには絶対手を出してはいけねえ。人間というのは怖ろしい生き物だ。娯楽で生き物を傷つけるなんてぇまったく怖え奴らだよ」
 口がボロボロと欠けたクロアジが話しかけてきました。
「はは、私をあまり怖がらせないでくださいな。こんな老いぼれをからかっても楽しくはないでしょう。そんなのは昔話でしょう? 」
 ルミーロが話をこれっぽっちも信じないので、クロアジはため息をついて去っていきました。
 次にタイマイが寄ってきてルミーロに話しかけます。
「僕は人間と一緒に泳いだことがあるんです」
「なんと! 人間というのはどのような生き物でしたか? 姿は、話はしましたか? 」 
 ルミーロは興奮した様子で尋ねます。
「まあまあ落ち着いてください。時間はたっぷりあるんですからね。それは僕が南の海で泳いでいるときだったと思います。晴れた日差しがとても心地良くてのんびりと波に揺られていたのですが、いやあ気持ちの良い日だったなあ。それでなにか視線を感じて振り向くと僕のことを遠くからジーっと眺めている人間がふたり。僕もね不思議に思ってその人間たちに近づいてみると、ふたりとも嬉しそうに泳ぎはじめたのです。友好的な生き物ですよ、人間というのは。泳ぎは下手でしたがね、でも一緒にのんびりと泳ぐだけで喜ぶのですからおもしろい」
 その話を聞いたルミーロはたいへん喜びました。やはり自分の考えていた通りだったのだと。
 ルミーロは案内役に尋ねます。
「海面まではあとどのくらいでしょう」
「およそ三時間です。しばらくはゆっくりとお過ごしくださいませ」
 まだまだ時間はあるな。ルミーロはタイマイともう少し話していようと考えました。
「一緒に泳いだ後はどうしたのですか? 」
「僕があまりにのんびりしていたので、振り向いてみたときにははるか遠くに姿がありました。その姿を僕もジッと見ていると彼らもそれに気づいて手を振ってくれました。それからまたジッと僕のことを眺めているのです」
「よかった。攻撃などされていないのですね」
「そんな! 全くですよ。あんなにのんびりとした生き物と暮せば楽しいだろな。泳ぎが上手だったらサンゴの里に案内したいくらいだよ」
 喜びのあまりルミーロはシワくちゃな手で何度も拍手をしました。そうして白髪ばかりの長い髪を揺らすのです。
 タイマイに他の質問をしようとしたとき、シオマネキが近づいてきて言いました。
「いいや人魚さん。その亀の言うことを信用してはいけない。サンゴの里に案内するなんて以ての外だ。すぐに真っ白になる。それにな、人間ってのは臆病で卑怯な生き物だ。俺がハサミを向けただけで驚いて逃げやがる」 
「そんなに攻撃的ではいけませんよ」
「なにも俺ばかりが攻撃的だったわけじゃないんだ。俺が砂浜を散歩していると、奴ら指で背中を突きやがるからハサミを向けただけで」
「そうですか……。どうして人間はそのようなことをしたのですかね」
「知らねえ。俺をからかって遊んだだけだろう。それかイラつかせるためにしたんじゃないか」
 ルミーロは少し人間という生き物に対して不信感を抱きましたが、カニの口調があまりに乱暴だったので話半分で聞いていました。
 それにからかったりイラつかせるために背中を突く、なんてことは嘘のように思えたのです。だってそんなことをして人間に何の得があるのでしょうか。ルミーロはいくら考えても分からなかったのです。
「しまいには俺を砂浜から投げて海に落としやがったんだ。海町で金貯めてようやく帰れるんだ。次に会ったらただじゃおかねえ」
 まだ海は続きます。冷たい海が広がっています。そうして海はどこまでも続くのです。

 ルミーロが人生を振り返るときは髭を触りながら。
 母に連れられ星見に出かけた夜のことです。
 星見の丘は多種多様な生き物たちで賑わい、祭りの真っ只中でした。普段は真暗で隠されたような町でしたが、星見の日は別です。
 チョウチンアンコウの群舞、貝たちの打ち付けるリズム、荒波を起こすほどに激しさを増す長老ティクターリクの歌声。
 『月の溜まり』の発表が終わり皆が熱狂を鎮めていく中、ルミーロは母に連れられて町の外れへと行きました。
「どうしたの」
「もう子どもじゃないから大切な話をきちんと聞けるね? 」
「もちろんだけど」
 母は際立って煌めく星を指さして、「あれはあなたの父親が住む町よ」と言いました。赤く鋭い灯りでした。
 ルミーロはよくわからないままでした。あんなところに生き物がいるとは思いませんから。
 でもルミーロはその町へ行って父に会ってみたいと訴えました。 しかし母は首を縦には振りません。ルミーロにはその理由が理解できないので、「なぜ? どうして父親に会うことが許されないの? 一度でもいけないの? 」
 ルミーロは疑問が渦となり、母の不誠実な態度にイライラとしてきました。母もそんな様子を見てため息をつきます。
「いい? あの町に行けば恋をしてしまう。傷ばかりつくる危険な、馬鹿馬鹿しくなるほど愛の無い恋を。行きたがるかもしれないとは考えたけど、そんなに興味をもつならまだ話さなけりゃよかった」
「人間は悪い生き物? 今話してくれなくたっていずれ聞いたはずだよ。どうして人間の町に行ったらいけないの。やっぱり悪い生き物なんだね」
「決してそうじゃないけれど私たちには理解できないわ。いつも嘘ばかり」
「お母さんは前に言っていたでしょ? 嘘をつくことは悪いことだって」
「人間は他人を喜ばせたり自己犠牲のために嘘をつくこともあるの。彼らはそれを良い嘘と言っているけれど私には理解できない。もういいから祭りを楽しんでおいで。ほら」
 ルミーロが広場に戻った時には既に『日の溜まり』も半ばに差し掛かっていました。
それから母は二度と星見をさせませんでした。ルミーロの興味を少しでも削いでおきたかったのです。
 母がついた嘘? 
「今年は仲間が死んだから不謹慎だよ」
 けれど一度焼きついた光は頭から離れることはありません。母の言葉が嘘だと気が付いたときには火は赤く燃え。恋に落ち子が生まれ、家族が離れていくときも……。
 子どもたちは大人になり北の湖、西の海にそれぞれ旅立ちました。ルミーロの愛した伴侶は子どもたちが去った半年後、夜の明けぬうちから影のみの手に牽かれて家を出て行きました。
 家族よりも星のことばかり考えている自らに愛想を尽かした、ルミーロにもそれくらいのことは気付きました。私は愛するということを知らない未熟な奴だったのだ、情けない。というのがそれからの口癖になったのです。
 後悔する日々が続いても家族が帰ってくることはありません。長い間共に愛の無い暮らしを送っていたのですから。
 ルミーロは後悔と諦念の中で薄れかけていた星、人灯への好奇心を思い出しました。僅かに残る童心を抱き出かけました。だれも死んじゃいない。それにもう仲間などいない。
 星見の丘までは一駅です。

「愛を失った、愛を失った。私から愛を奪ったのは人灯のせいだ。元々あったのか、それは分からない。だが起たねば何のための人生だったかそれも分からないじゃないか」
 そう呟きながらルミーロは丘に立ちました。星見の丘は廃墟の町になっていました。過ぎた時間のなかで星見という文化が既に廃れてしまっていたのです。
 その廃れた町の中ほどの、全盛期には手品師やら劇団、バンド、酔ったまま独唱する者、狂い踊りをする者などで繁盛していた広場も、石造りの壁も崩れた石像も藻ばかりでありました。
 ルミーロは石像の台座を星見の丘へと運び腰を下ろしました。それから二日間何も考えることなく人灯ばかりを眺めていたのですが、彼を心配する者は一人としていません。
 ようやく疲れに気がついたときにはルミーロの髭にも藻が生えてしまっていましたが、それはあまりに動かなかったためでしょう。けれどルミーロは藻を払うことはしませんでした。
 次第に髪の毛にさえ藻が繁茂し、元々長かった白髪が二晩のうちに背中の中ほどまで縮れて伸びていきました。
 
 ルミーロは誰にも話しかけられたくはありませんし、誰かに話しかけようとも思っていませんでした。けれど行き場を失った孤独感は他者を攻撃してしまうのかもしれません。
 サクラエビは最期まで名前を明かしませんでしたがルミーロにとっては無二の友でした。
 三日目の夕、ルミーロの座る台座の亀裂に隠れてサクラエビは脚を動かしていました。わずかな波にさえ負けてしまいそうな姿でありました。
 ルミーロはそんなサクラエビを見て哀れに思ったのか、「お前みたいにせわしなく生きたってどうしようもないのに。みっともない」と呟きます。声はサクラエビにも聞こえましたが彼はなにも言いません。
「あの灯は私たちの心を癒してくれるが、お前は岩やら魚やらに付いている藻を必死に食べているだけじゃないか。同じ生き物として情けないよ。必死すぎる。必死すぎるよ」
「何かを褒めるために他を貶す君よりか? 」
 サクラエビは動かしていた脚を止めて静かに言いました。まさか返事がくるとは思ってもいなかったので、ルミーロは焦りを隠せません。
「悪かったよ。でも仕方ないだろう辛いんだ」
「辛ければ辛いと言えばいいじゃないか。と、分かっていながら僕を貶めたんだね? そういうときもあるだろう。でも話なら聞くからさ。もうよしなよ」
「ひどいことを申しました。私はこんな風に後先考えず生きてしまい後悔を……。大小様々なものを失ったのです。つい先日家族までも失いました」
「家族を? 」
「ええ。子どもたちは成人したので巣立ち、別の家族を作って去りました」
「それは残念なことで……。だけど生きていれば機会がくるかもしれない」
「生きてさえいれば、ですね。ふふ、あまり期待はしていませんよ。愛することを知らなかったのですから。サクラエビさんのご家族はどちらに? 」
「ぼくは家族ををつくらないんです。誰も好きになれないし好かれない。恋をしたこともないんですよ」
「それはどうして」
「さあ。でも悲しくも寂しくもない。変わり者扱いを散々受けてきたけれどもう慣れっこでね」
「そういうものですか」
「そういうものなんでしょう。残念ながら神もひとりひとりの心までは作れないようで」
「ずっとおひとりで生きてきたのですね」
「ぼくを哀れだと思いますか? 」
「とんでもない! 」
 その後もサクラエビは波に抗いながら、ルミーロは藻ばかりの髭を揺らして人灯をひとりで眺めていました。飽くことはありませんよ、人灯は日夜色を変えて輝くのですから。
 それでも時々はふたりで会話をしたりするので次第に親近感が湧いてきます。そうするとお互いに顔をちらちらと覗いてみたりして、毎日旅人が道を尋ねてくるばかりの廃墟も、ふたりにとってはとても居心地の良い場所になっていきました。
「ずっとそこにいて飽きないの? 」
「飽きるどころか居心地が良くなってきましたよ。動くのが面倒なのかも」
「そろそろ藻をとりなよ」
「海になったようで嬉しいんです」

 ふた月ほど経った頃でしょうか。サクラエビの手足は以前ほどなめらかに動かなくなり、同じ場所に留まることが増えてきました。
「こっちにおいでよ」
 そう言ってルミーロはサクラエビを胸元まで運びます。
「ああ、波が無くて楽だ。なあ君はどうしてここに居座るんだ? どこへだって行けるじゃないか」
「どうしてって……。大切な友達だからかな。まさか見捨てるわけにはいかないだろう? 」
「なんだ。ちゃんと他人を愛せるじゃないか」
「……。もちろんだよ」
「ぼくのことはいいからさ、早く人灯のもとまで行ってきなよ。僕も話を聞きたいから」
「おいて行けるはずないだろう! ふたりで行こう、ね? すぐ元気になるさ。そしたら大波に乗ってふたりで旅をするんだ。楽しいよ、きっと」
「君はいいやつだな。でもぼくはずっとひとりで生きてきたんだ。もう離してくれ。ずっと一緒になんて嫌だね」
 ルミーロは波のやってこない岩陰にサクラエビをそっと運び、海藻と自らのひげで隠してあげました。

「うわ人魚だ! 気持ち悪い、と石を投げられました」
「それで? 」
「いや、その人間たちを追いかけるつもりはありません」
「なんだ。てっきり復讐するのかと思ってたよ。憎くはないのか? 」
「多少は。なぜ人魚がいけないのか分かりませんが」
「ならその足でどこへ行くのさ」
「町をみて回ろうかと」
「怒りはないのか? 」
「この旅を楽しみにしてきたんです。もったいないじゃないですか」
「へえ、そうかい」
 レジグナチオはルミーロの尾びれから腰までを一直線に切りました。
「痛くはないか? 」
「痛いに決まってるじゃないか。意識が飛びそうですよ。」
「まあ安心しろよ、俺はこれまで何人もの人魚に足を作ってやったんだ。見ろ、最近仕入れた墨色糸で縫い付けてやるからな。高いんだぞ」
 レジグナチオは墨色糸をルミーロに見せました。墨色糸はレジグナチオがいくら引っ張っても切れる様子はありませんでしたが、ルミーロはそんなことよりも早く手術を進めてほしいと願うばかりです。
「おっと骨を入れねえとな。肉だけの足になっちまうところだった。それも面白そうだ。噓だよ、ちゃんと義足を作るさ」
「勘弁してくれよ……」
 レジグナチオは錆色の箱から水の滴る骨を二本取り出します。その骨を振って水気を払いルミーロの眼前に。なにをするにしてもレジグナチオはいちいち見せつけてから始めるのでした。
「これはな最近ここらでよく獲れるんだ。もう使わないらしくてな、見つけたらすぐ拾って綺麗に洗うんだ。感謝して使うよ。だが無尽蔵に湧いてくるから困りゃしない。これの良いところはな……。」
 レジグナチオはお茶を濁して続きを話すことはありませんでした。
「関節だって付いてるぞ。何色がいい? 」
 レジグナチオは緑色や赤色、青色、黒色など見せてきましたがルミーロは、どうせ見えなくなるんだからどうだっていい、と白色の関節を選びました。
「なあ、このギザギザはなんだ」
「さあ」
「さあって……」
「だけどギザギザのおかげで関節が動くんだ。文句はいうな」
 ルミーロも既に尾から腰まで切られている身ですから、この期に及んでこれ以上文句は言うまいと覚悟を決めました。
「筋繊維と繋ぐのはクモ糸をつかうからな」
 ルミーロは何も言いません。が、あからさまに不安な表情をしていたのでレジグナチオは大笑いしました。
「大丈夫! 大丈夫だから! ははは! いずれお前自身の組織が補強してくれるさ。じゃあ、ここから先は痛くなるからな、この葉を鼻に詰めて精一杯息をするんだ。スーハースーハー。そうそう、ゆっくりとな」
「今から痛くなるって、もう耐えきれないぞ」
 けれどルミーロの意識は次第におぼろになり始め、痛みも感覚も薄れてきます。視界にはレジグナチオの呑気な顔が。耳からは石を打つ音。レジグナチオの野太い声が聞こえたようでしたがルミーロは眠りの底に落ちていきました。
「あ、眠る前に聞いとかなきゃいけなかったな。うーん、足のウロコはどうすっかなあ。まあすぐに海に帰りたがるだろうからいいか。めんどうだし」
 レジグナチオは眠りに就いたルミーロを見て、早速石ナイフで尾骨を切り取り、透明な筒に繋げていきます。小枝の鋭い先端は筋肉や神経を新しい骨と結びつけます。海水と貝殻を焼き砕いた粉を混ぜ、煮て冷ました液体を骨肉に荒くかけ流し、皮膚の端と端を墨色糸で縫い合わせていきました。
 それは五時間ほどで終わりました。いまだに目を覚まさないルミーロと集中力の途切れたレジグナチオは浜辺の夕暮れに、寝転ぶばかりでした。
「こんなことをしても失った命は戻らないけどね。なにをしているんだろうな。ぼくは。今に地獄が迎えにくるだろうな」
 ルミーロが目を覚ましたのは潮も黒々とした夜中のこと。しゃっくりをするように起き上がったルミーロは「あああああ痛い! 」と叫びました。その手で横に転がるレジグナチオを叩き起こします。
「お、起きたか。じゃあ行くぞ」
「待ってください。痛くて動けない。こんな状態じゃ無理だ」
「ふふ。冗談だよ」 
「変なことを」
 レジグナチオは木に寄りかかり頭を前後左右に動かします。
「近頃眠れなくてね、一日中気だるいんだ。ずっと眠たいんだ。そうだ陸へ上がってきたときのことをもっと話してくれ。お前が眠るまででいいからさ」
 そう言いながらルミーロの口に鎮静薬を含ませます。ルミーロはこの薬をレジグナチオも飲めば眠れるのではないかと思いましたが、この激痛のなかで眠られては困るという考えが過り、上陸時の話をすることとしました。
「駅を出発した大波は浮上するにつれて勢いがなくなってくるんです。それでまあ乗客は思い思いの場所へと散っていくんですがね、
上陸するには大波の力だけでは叶わないのです。私は海面まで十五分くらいでしょうか泳いだのです。その時に太陽の眩しさというものを知りました。あれほど輝いているとは思ってもいませんでしたし、見れば見るほど目が焼けるような感覚がありました」
「そりゃそうだ。太陽なんか直接見ちゃいけねえ」
「知らなかったものですから。それでこの浜辺を見つけて辿り着いたときには長旅の影響もあってか息もできず。やっとのことで陸へ上がったのですが、ちょうど居合わせた人間の家族に姿を見られてしまい、石を投げられていたのです」
「人魚なんて見ないからな」
「でも先ほどは人魚は珍しくないと」
「あ~、女はよく上がってくるぞ」
「なるほど。この身なりですから驚かせてしまったのでしょう。」
「そうかも知らんな」
 ルミーロはレジグナチオと話をしながら辺りを見回します。あまりに暗い夜でしたから、目指していた人灯にはたどり着けなかったのではないかと不安になったのです。
「ここは本当に人灯のある陸なのでしょうか」
「ここにはなんでもあるさ」
「本当になんでもあるんですね? 」
「あるさ。でもユストューロの話は信じちゃいけない。ありゃ善かれと思って他人を危ない目に遭わせるからな。仕入れてきた情報を考えなしに信じるんだ。だいたい木の皮と落ち葉を練り合わせた丸薬で物忘れが無くなるなんてあり得ないんだ。でもユストューロは家々にそれを配って歩いてやがる。そんなやつなんだ。ぼくが居合わせなけりゃやつに歩けるようになる、くっさい粉末を飲まされるところだったぞ」
 ルミーロとレジグナチオはユストューロの小屋を覗き、窓からツートントンと照射される光を見て首を傾げました。
「あれはなんです? 」
「誰かと話をしているんだとさ」
「そんなことができるんですね。不思議な方だ」
「相手がいるかわかんねえけどな」 
 レジグナチオは笑って言いました。笑ってはいましたが、ユストューロの家を見つめる目はどこか憂いを帯びていました。ユストューロの家からはミルク色の燻ぶった煙があがっています。
 夜はひそかに流れます。星ばかりが光るのではありません。二人が振り向くと白波が月を泳がせているのです。
「痛みが治まったらどこへ向かうんだ」
「山伝いに歩いて町を探そうと思っています」
 ルミーロは黒洞洞とした塊を指さします。
「そうか。それだったら北上するといい。近いからな。足がうまく動くといいが……」
「きっと動きますよ。今に走れるようになります」
「そうか」
 レジグナチオはそう言った後なにか考えていたのか沈黙しました。鎮静剤が効き始めたルミーロは、コクリココクリコと頭を揺らします。
 苦痛から放たれて心地よさそうな寝息に気づくと、レジグナチオはルミーロの肩を抱き、その身を横たわらせました。

「おい目が覚めたか! お前には申し訳ないが脚は切断するしかなかった。だがお前を襲った奴らはもういないから安心しろ。銃弾も全て取り除いたはずだ。痛いよな、ああそうだろうな。これを口に入れるんだ。すぐに痛みが無くなる。ああ落ち着くさ。そうだゆっくりと呼吸をしてくれ」
 意識朦朧とした眼に映る血まみれのレジグナチオと地面、ルミーロは手を腰に次に尾びれに触れようと手を伸ばします。腰部の約二六センチより先は空でした。肉の焼ける匂いが辺りに漂っているばかりです。
 一体何が自身に起こっているのか一切理解の余地もなく、力を失った四肢への接続、いえそれも叶わないルミーロは為す術も無くだらりと在るばかり。けれど全身を薙いで往く痛苦に気が付いた時、再び身体の在り処を認識したのです。
 慟哭するルミーロは肩ばかりが息を呼吸をし、起き上がろうとした彼はレジグナチオに抑えられます。悶え苦しむルミーロの口元に薬液を含ませたガーゼを当てて「大丈夫、大丈夫」と繰り返します。と、ルミーロは落ちるように気を失ってしまいました。
「また激痛と薬でせん妄を起こすだろう。自分の脚を見て変な気を起こすかもしれない。ユストューロ! その前に片づけるぞ」
 明くる日いいえ幾つか日を経たでしょう、目映い陽駆りの中で目覚めたルミーロは下半身にひどい熱感をおぼえました。うろこの付いた両脚は動きが鈍く、痛みは鋭く。関節を動かすと血肉の擦り切れるような刺激が脳まで貫きますが、痛がって動かさなかったらお荷物になるぞ、という言葉を思い出してユルりと股関節を動かしました。
 苦痛に耐えかねて地面に伏せると、ユストューロの家へ向かうレジグナチオの姿が目に映ります。ふと木陰を見ると大量に置かれていたレジグナチオの生活用品やら手術道具やらがさっぱりと無くなっていました。
 やがて家から出てきたレジグナチオはルミーロに声をかけます。
「起きたか。どうだ、痛みは」
「まだ歩けそうにはありません」
「そうか。それはそうだろう」
 そう言うとレジグナチオはユストューロに手招きをします。
「レジグナチオさんは何を? 」
「まあな。あ、薬を飲んでおいてくれ」
 その不明瞭な返答を訝しがったルミーロでしたが、問い詰めるようなことはしませんでした。ルミーロは渡された粉薬を飲みながら縫合した創部に軟膏を塗布しているレジグナチオの顔を眺めていました。何故だか傷だらけです。
 ユストューロの家からは掠れた笛の音が響いてきます。まだ朝のことですから、家々からは「またか! 」という怒号が聞こえてきます。
「皆さん笛の音に怒っておられますね。家で眠っている人々が顔を出しています」
「ありゃ家じゃないただのテントだよ。笛の音は避難の合図なんだ。もう聞き飽きるほど聞いたからな、もうこの生活にもこりごりなんだよ、みんな」
 それから笛の音は止まり、荷を背負ったユストューロが階段を降りてやってきました。
 ユストューロの体からはやはり燻ぶったミルクの臭いがします。
「二人してどちらへ行かれるのですか」
「ここももう居場所がないのでな。次の住処を探そうとしていたところなんだよ」
「変なことをしすぎなんだ。おかげでぼくまで根無し草さ。」
「人のせいにしたらいけない」
 ユストューロは鼻の頭の汗を拭きながらレジグナチオに突っかかります。
「ぼくらは、いやここの住人たちもいずれは去らなくてはいけないだろう。ルミーロも一緒に来るんだ」
「なぜ去る必要があるのでしょう。私はまだ歩けませんし」
「ここにぼくらが住む場所はないからさ。歩こうなんて思うなよ、出血はなんとか止まっているが重傷には変わりないんだ。それに足が無けりゃ歩けるはずもない。荷車を用意したから歩けるようになるまで乗っていればいいよ」
 ユストューロは荷車をガタガタと音立てながら運んできます。ルミーロが集落の方を覗くと確かに人々が荷物をまとめて歩いているのです。誰が指揮するでもなく同じ方向へ無言で。
「まだ余裕があると昨日の知らせでは書いてあったんだがな」
「仕方ないさ」
 ユストューロとレジグナチオは有無を言わさずルミーロの体を持ち上げ、荷車に乗せると人々が進む方向に歩きはじめました。
 ガタン、ガタンと揺れる度に痛む下肢と足先と。ひとつふたつ向こうの山から立ち昇る白煙。風が焼けた土の臭いを運びます。
「ところで人灯はどこにあるのでしょうか」
 ふと思い出したようにルミーロは二人に問いかけますが、二人は何のことだか分からないという顔をして聞き流すだけでした。
「それにしても悪い時期に来たもんだね」
 ユストューロが言います。
「どういう意味でしょうか」
「腹いっぱい飯食べて、踊って歌って、恋をして。暖かいところで安心して眠れるような時にさ、来たらきっと楽しかったろうに。と思っただけだよ」
「珍しいものばかりで鼓動が止みません」
「人魚さんに珍しいって言われるとは不思議だな。生きていると思わぬこともあるもんだ」
 ユストューロは笑いながら言います。一方でレジグナチオは険しい表情をしていました。
「あれが人間……。確かに二足で歩いて手を自由に動かしている。人灯をつくったのは彼ら……」
「人灯って何のことなんだ? 」
「あれ、レジグナチオさんにはお話ししたと思っていましたが……。海の町まで届いていた光のことですよ。人間が作り出したから知っているはずなんですが」
「海の町っていうとつまり海底だろう? そんなもの造れるかね。ぼくは知らないねえ」
 ルミーロは少しガッカリしました。
 それにしても人々はやけに咳ばかりをしていました。皆が口元を隠しているのはそういった風習のためだとルミーロは考えましたが、そんなのは最近のことさ、とレジグナチオは話します。
「みんな質の悪い布ばかりだよ。穴の空いたね。あんなのじゃ意味ないさ。おっと」
 レジグナチオが話し終わる前に前方で一人の男性がよろめき倒れました。とっさにユストューロが駆け寄り肩を貸すと、男性は喘ぎながら、「もう無理だ。終わりが見えない。先に終わらせてもらうよ」と言い力なく再び地に伏せます。ユストューロは彼の体を揺するのですが、ハハ、と笑うだけでそれ以上の反応はありませんでした。
「レジグナチオ! おれは彼をあそこの木陰まで運ぶよ。ゆっくり行っておいてくれ」
 ユストューロは鼻に汗をかいたまま男性を担ぎ、砂浜から離れた黒松の木陰まで走っていくのでした。
「あいつが変なことしなけりゃな」
「変なこと? 」
「こないだ見たろ、薬と激痛とで記憶がごちゃ混ぜかもしれないが。光を使って会話するのを。あれが軍事施設からの照射だと勘違いされたみたいなんだ。じきにさっきの場所はバーンだ。本当に危なっかしいやつだ」
「光? 覚えていないです……。爆発するのですね」
「それにしても一人で荷車を押すのは骨が折れる。早く戻って来いよあいつも」
 レジグナチオは不満げに呟きます。木製の車輪はガタリガタリと鳴ります。
 ルミーロの目線の先には、男性に脱がせた上着を顔に被せてやるユストューロの姿がありました。彼はウロウロした後でポケットからコインを一枚取り出して、男性の胸ポケットにしまうのでした。
「せっかく海から来たんだろ? 海のことを話してくれよ」
「海はそうですね、うーん、陸よりは暑くなく体も軽いですよ」
「なんだそりゃ。それくらいならぼくらでもわかる」
「と言われましても、とにかく暑くてたまりません」
「しばらくは辛抱だな」
 するとユストューロが走って戻ってきました。手には一枚の紙切れを持っています。
「紙幣か。火事場泥棒とは見損なったな」
「違う。違うんだ。おれの持ってた硬貨と替えてやったんだ。紙幣は髭のおっさんだが、硬貨は中世の女王だぜ。花束みたいなもんだ」
「そうかい」
「お二人や逃げている他の人々は私のような人魚を見て驚かないのですか」
「人魚さんに驚いているほど暇な命じゃないのでね。それに尾びれがなけりゃ人魚だと分からんよ」
「そんなものですか」 
「義足を作るにしてもどうしたらいいかな」
 晩になると人々が野営をするのに合わせて三人もテントを張りました。テントと言っても穴がいくつもある布を木に通して組み合わせただけの簡易的なもので、砂粒混じりの風はあまり防げません。それでもあるだけマシで、荷物を持たない人は火のそばでうずくまるか、見知らぬ人に入れてもらうよりほかありません。
 母乳が出なくなった女性は名の知れぬ母親に乞います。
 ルミーロは言います。
「これが火というのですね。風に揺れても耐えている。人の作り出す灯はやはり美しい」
「触るなよ、火傷するからな。一体いつまでこの暮らしに耐えられるだろうか。おれは不安で仕方がないよ。あれだけ嫌だった農作業も今では恋しいよ。なあ光やら灯とやたら口にするのは何故なんだ? 」
 ユストューロが尋ねます。
「私が住んでいた町には星見という文化がありました。今はとっくに廃れてしまっていますが、ありとあらゆる生き物が海の遥か上に輝く星々を見ようと星見の丘に集まるのです。そうしてどんちゃん騒ぎ。みんな知っていたのです、それが人の作った灯であることを。ですから人灯と呼びます。海の底にいても陸からの光を楽しむことができるなんて、人間はなんて良いものを作るのだと思っていましたし、一生に一度くらいは陸に上がって人灯を直接見てみたいと夢見ていたのですよ。ですからたびたび口にしてしまうんです」
「ふーん。海の中にも町があるなんておとぎ話みたいだ。どこかで聞いたウラシマタロウの話も事実だったかもしれないね」
「それはどんなお話ですか? 」
「浜辺で子どもたちにイジメられていたカメを助けたお礼に竜宮城ってとこへ連れてって貰う話だ。だがウラシマタロウはお土産の箱を開けた途端おじいさんになってしまうんだ」
「それは興味深いですね。カメが助けられるお話は私の町にも伝承されていました。ウィーディーシードラゴン伝説というものです。      
あるとき遊泳していたカメの姫は波に乗ったまま、うたた寝をしてしまいました。気が付いた時には浜辺に辿り着いてしまっていたのです。まだ陸に空気の無い時代でしたから姫は呼吸も出来ず命を失いかけていました。
そこへ偶然通り掛かった神の子ウィーディーは憐れに思い、海の街まで帰してやることにしました。姿を持たなかったウィーディーは溶岩流を切り取って自らの体にします。見事に姫を送り届けたウィーディーは姫の住まう宮殿であらゆる饗応を受け、誰もが婚約を結ぶものと思うほどふたりは仲睦まじく暮らしました。三日経ったとき姫はこのまま宮殿で共に過ごしたいと想いを告げます。けれどウィーディーはやるべきことができてしまった、と断り挙句街をもうすぐ去るというのです。
悲嘆に暮れる姫は、いずれ戻ってくることを祈っています、とウィーディーに告げ宮殿の奥へ姿を消しました。陸へ戻ったウィーディーは命の大半を消耗し、空気を生み出しました。これで姫も海のみんなも自由に上陸できる、と喜びましたが、再び姫の元へ行くほどの余力は残っていませんでした。
姫の涙を思い浮かべたウィーディーは自らの姿に似せた生物を海の中に生み出し消えてしまいました。その後長く引き籠っていた姫はどうしても見てもらいたい、と執拗に言う家来たちに籠へ入れられて運ばれます。籠が開いたときそこにはウィーディーの姿によく似た色鮮やかな景色が広がっていました。
今ではそれはサンゴと呼ばれています。姫はサンゴに飛びつき抱きしめて、その喜涙のあまり息絶えたのでした。
この原初のサンゴ礁はサンゴの里として神聖視され、とても大切にされています」
「愛だねえ。でもウィーディーは何故シードラゴンと付けられるようになったんだ? 」
「詳しくは私も知らないのですが、陸と海との交流が盛んになって、ほらその陸にはドラゴンって生き物がいるんですよね? ドラゴンを知った海の学者が尊称として付けはじめたようです。でもわたしたちはウィーディーと呼ぶのが普通ですね」
「なるほどな、でもドラゴンは実在しないぞ。いや人魚がいるならいてもおかしくないな。なんだか子どもに戻った気分だ。もっと話を聞かせてくれ」
 そのとき地響きのような轟音が人々を驚かせました。悲鳴と子どもたちの泣き声。
「大丈夫。近くはない」
 眠っていたレジグナチオが呟きます。
「これは一体何の音ですか」
「砲撃だよ。この辺りじゃ珍しくもない。食い物でも飛ばしてくれればいいのにな、住む場所も人もぶっ飛ばしやがって。当たるなよ、死ぬから」
 レジグナチオは再び目をつぶります。
「死ぬからって……。海の中でも戦争はありましたが相手に対する敬意は必ずありました。目を見ながらでなければ卑怯者と罵られます。戦いが終われば生涯にわたって殺した相手の幸福な来世を祈るのです。見えない場所から攻撃するなんて卑劣な……」
「あーあ、せっかくの陸海交流も興覚めだな。見ての通り陸はそういう風にできているんだ。それにこれは戦争じゃない。民族間の敬意が底尽きたがゆえに殺し合っているだけなんだ。誰が何のために、どこの軍や思想の違いかなんてものはここに存在し無い。もはやどちらかの民族を根絶やしにするまで終わらないのではないかとさえ考えちまう。命だけ大量に失って掲げた目標を忘れてしまっている。地獄だよ。みんなが武器を降ろせばいいと思ったか? その瞬間に撃たれてお終いさ。兵士たちも武器を捨てて家族と抱き合いたいだろうよ。だが敵を信用できる日は来ないだろう。何もかも失って残ったのが命だけだ。命が続く限り争いも続くさ」
 ユストューロもそう言ったあとで横になり、「ほんと馬鹿馬鹿しいなあ」と呟き、そのまま眠りに就きました。
 風には砂が混じります。鳴り終わった煙は空に向かい、ルミーロはその様子を見届けながら辺りを見渡します。
 赤ん坊の口元を押さえて泣き声を鎮めようとする者、家族を失った哀しみから砲撃の煙に向かって走り去る者、空腹で動けぬ者、陰で集団に強姦される少女。
「これが人間。人灯を作った生き物……。信じられない」

「久しぶりに夢をみたよ」
 ユストューロのその声でルミーロは目が覚めました。体を起こして辺りを見渡すと水平線には太陽が浮かんでいます」
「子どもたちが銃を手にしていた。互いに撃ち合っていたんだ。七、八歳ほどの子どもたちがだ。みんな必死に戦って、仲間が傷つけば助けに走り、血に濡れた手で銃口を向ける。粗暴な叫び声が辺りに響いていた。ルミーロ、子どもたちがどうして殺しあっていたか分かるか? 」
 ルミーロは分からないという風に首を横に振ります。
「彼らの違いは人種や国籍、言語、思想なんかじゃなかった。互いの服装が違うというだけだったんだ。子どもたちは目隠しをして引き金を引かされる。目隠しを外せば血を流して死んだ、己が殺したであろう遺体が横たわっている。そうやって罪悪感をあっけなく奪われた子どもたちは、あの服を着た人間を撃て、と言われてその通りにしていただけだった。敵味方の識別方法なんてそれしか教えられていなかったのに、隣の子どもが撃たれ友達が死に、自らも命の危機に瀕すると途端に憎悪、怒り、焦燥感、悲愴、そして煮えたぎる恐怖と狂気が敵を識別しはじめるんだ。純粋な殺意がそこにあったんだ。おれはひどく恐ろしかった」
「逃げだせば母親が殺されるって話だろ、やめてくれ。もう思い出したくない」
 レジグナチオはボソリと言いました。ユストューロは夢を、あるいは過去を思い出し、目頭を押さえて昇る太陽に背を向けていました。

 それから三日が経つとルミーロは体重を支える練習を始め、義脚を装着する時間も作るようになりました。けれど歩けるようにはまだ程遠く、荷車の上でうつらうつら過ごすのがほとんどでした。
「ルミーロの義足? 」
「いずれは歩けるようにしてあげたいだろ」
「でも下半身の骨は人間の脚みたいに分かれていない」
「そこなんだよ。なにか思いつかないか」
 ユストューロは一本脚の義足と松葉杖ではどうか、と提案した結果レジグナチオが夜な夜な作りはじめました。
 レジグナチオが即席で製作した義足には誰が持ち主であったのか今では分からなくなってしまった大腿骨が使われ、隠すように隠すようにと幾重にも布が巻き付けられていたのです。ソケットを伝ってくる振動はルミーロを苦しませました。
 三人を含むこの集団は北上を続けています。
 次々と底尽きていく物資に焦燥感を抱きつつ、彼らは進むよりほかありませんでした。
「あそこに村がありませんか、ほら。食糧を分けてもらえないか行ってみましょう」
「死にたければ行ってくるといい。この辺りはまだ激戦地からさほど離れていないんだ。どこぞの軍隊かが出迎えてくれるだろうよ。銃口を向けて」
 レジグナチオの言葉にルミーロは意気消沈しました。
「人が増えたね。西から引き返す人々が合流しているんだろう」
 確かに以前にも増して歩く人々は密集しています。西から来た人々はわずかな荷物も持たず、いや既に底尽きてしまっており痩せ細って骨の飛び出た者がほとんどでした。ユストューロは前を歩く人を指さしながらルミーロに話しかけます。
「彼らのキャンプは土砂崩れで無くなったんだ。仕方ないさ。砂地に無理やり居住地を並べたんだ、嵐が来ればどうなるか彼らも分かっていたはずだよ。あのキャンプ地あたりの村落にはよく遊びに行ったな、珍しい物を仕入れてくる爺さんがいたんだ。街で稼いだ金で二胡を買って帰ったら、米の収穫時期にどこへ行っていたんだと兄さんに怒られちまった。でも演奏は褒めてくれたから良しだったけどな。爺さんは生きているんだろうか」
 ユストューロはそのお爺さんを探して、しばらくキョロキョロと首を回していましたが結局見つかることはありませんでした。
 辺りは沼地が続いており狭い道を通らなければなりません。体は泥でまみれ、乾く間もなく川に差し掛かり泥水で汚れ、ハエやらがまとわりついて皆不愉快でした。何よりも行く当てのない旅は精神を酷く疲労させました。
「北に行く以外の道は? 」
 ルミーロが尋ねます。
「西は今ユストューロが話した通り、東はフェンスを張って僕たちの受け入れを拒絶している。南は戻ることになるし首都近辺を通らないといけない。北の国に入れば空路は無理でも、海路、陸路でこの国から逃げられるかもしれない。ぼくらはその可能性にかけるしかない」
 とはいえレジグナチオが話した北の国もとても貧しい国でありました。その国は昔と言うにはまだ時間の経っていない頃、長年の被から解放されて、いくつかの国と共に独立を果たしました。しかし国の線引きと資源の分配を巡って紛争が発生。多くの血が流れ多くの人が身の安全を求めて逃げまどいました。
 難民や国内避難民に対して世界中から支援がありましたが、逃れてきた人々自体を受け入れるのはやはり周辺の国々でした。
 いま三人が居るクプローザという国も、その時に難民を多く受け入れ世界各国からの支援のもとで彼らの生活環境を整えてきました。その難民たちの故郷に今度は難民が流入するのです。
「痛い! 痛い! 」
 悲痛な叫び声が響きました。少女の喉が破れるほどの叫び声でした。
 やがて少女の周りに人の輪ができ、ああかわいそうに、これは酷い、医者はいないよなあ、と皆口々に言います。
 するとレジグナチオはその輪の中に駆け入り、少女の体を隅々まで診ていきました。
「火傷が酷いな。これはどうした」
「兵士達に代わる代わる弄ばれた後、火のついた木切れで何度も殴られました。もう楽にしてくれませんか、ナイフか何かあれば。」
「待ってろ。火傷の苦しみは多少和らげてやる。ユストューロ! その鞄を持ってきてくれ! 」
 ユストューロはレジグナチオの言う通り荷車に積んであった鞄を運びます。するとレジグナチオは鞄の中からプラスチックのケースを取り出し、ルミーロの顔を見ました。
「これを患部に貼る。いいよな? 」
「え、それが何だか分かりませんが私なら構いませんよ」
 レジグナチオがケースから取り出して少女の患部に貼布した、それ、を見るとルミーロはレジグナチオが言質をとった理由を理解しました。
「レジグナチオさん、それは私の皮膚ですね」 
「魚の皮は火傷に効く。医療品が不足しているからな。変だと思うだろうが、ルミーロの皮は脂肪が厚くて嬉しいよ」
「はは……」
 少女の体にはルミーロの皮がみるみるうちに貼られていきます。痛みと叫び声はすぐには止みませんでした。レジグナチオとユストューロは荷車に少女を乗せます。少女はベオという名でした。
 ベオは揺れる荷車の上で悲嘆に暮れていました。膝を三角に折り何を見るでもなく瞳を動かさずにいたのです。彼女を見る人々の目も既に輝きを失っていました。
 ルミーロは陸に上ってきたことを今更後悔していました。夢の国ではなかったのですから。それでも目に映るもの全てが好奇心をくすぐりユストューロとレジグナチオ、共に歩く人々に訊いているのです。
 そんなルミーロの姿をベオは不思議に思いました。
「変な恰好。この国の人じゃないよね」
「海から来たのですよ」
「嘘」 
「嘘じゃありません。ほら、脚を見てください。ウロコがたくさん付いています」
 ルミーロはシャツを捲りあげて青緑に光る脚を見せました。
「その傷、痛そうだね」
「痛いです。確かに痛いのですが、それより私の皮膚が役に立ってよかったです」
「うん。ありがと」
 ベオは抱えた膝の内に顔を隠しました。
「海のこと何かお話して。どうせ嘘でしょ」
 そう言われてルミーロは話し始めました。
 
 それはまだルミーロが青年の頃でした。
 初恋の熱にうなされていたルミーロは何とかして好意を伝えようと街の長老ティクターリクのもとへ相談しに出かけました。
 ティクターリクは深い海の底、ゴウゴウと響く唸り声をあげて眠っていました。四億年生きていると噂する者もいましたが、彼の深遠な知識と経験は確かに長生きによるものだとルミーロも考えていたのです。
 ルミーロは眠っているティクターリクのヒレに触れると、彼が目を覚ますまで一時間程待ちました。急いてはいけません。
「実は恋をしたのです。生まれて初めてのことですからどうしたら良いか、まるで見当がつかないのです。教えてください。どうしたら好かれるでしょう、私の好意を伝えられるでしょう」
「どのような方じゃろか」
「いつもサンゴの里で心地よさそうにうたた寝しています。その幸せそうな姿に一目惚れしてしまいました」
「そうかそうか」
 ティクターリクはそれから二十分ほど考えこんで、
「素直に好きと言えば良いだろう。くれぐれも物で釣ろうなど考えるでない」
 そう言うとティクターリクは再び深い眠りに就いたのです。その返答を聞いたルミーロはがっかりしました。長い時間をかけて出た答えがあまりにありきたりなものだったからです。
 ルミーロは少しイライラしながら家路を泳いでいると、道中の宝石店に目を奪われました。陳列棚には真珠や黒玉、アンモライトなど煌びやかな装飾品の数々にルミーロは、これだ、と思いました。
 しかしあろうことかルミーロはサンゴを研磨し繋いだネックレスを選んでしまったのです。
「いつもサンゴの里にいるからきっと喜ぶに違いない」
 ルミーロは焦っていたのです。強い恋慕は誰彼問わず過ちを犯させるのです。
 ネックレスを持ったルミーロはサンゴの里に着くと、いつも彼女が休んでいる場所で待ちました。どれほど待ったでしょう、実際にはさほど時間は経っていませんでしたが、数日の時を感じるほどに長く長く感じていました。
「嫌がらせ? 」
 ネックレスを渡したとき彼女は酷く冷たい目でルミーロを見ました。
「嫌がらせなんかじゃありません。私はあなたが好きなんです」 
 必死に話しても無駄でした。彼女はネックレスをルミーロに返し、て、
「私はサンゴが好きなの。けど好きなのは磨かれたサンゴじゃない。それに私がそれを着けてここにいたら皆はどう思う? サイコパスよ」
 それ以降ルミーロはサンゴの里には行くことはありませんでした。
「じゃあどうすれば良かったと思う? 」
 ベオはルミーロに問いました。
「素直に好きと言えば良かったのかも。でも答えは分からない。人の感情は計算問題じゃない。これは確かです」
「愛ってなに」
「私には分かりません。が、取り繕うため削ったり磨いたりしていると小さく小さくなって、いずれは無くなってしまうものなのかもしれません」
 ベオはまた三角に折った膝の内に顔をうずめました。
 ベオは二度ふるさとを失いました。一度目は家族を失ったとき。二度目は心身の崩落したとき。
 彼女の住んでいた村は政府の軍事基地と反政府勢力の拠点との丁度中間に位置していました。そのため日に何度も砲火が鳴り響き、互いの軍事車両、兵士たち、遺体が村の前を通る道路を行き交いました。村人たちは日々戦火に怯えながらも古くからの暮らしを守ろうと耐えていましたが、秩序の乱れは著しく、夜毎に人さらいが始まってからはもはや旧来の文化よりも一人ひとりの生命を如何に守るか、それだけが問題になってきました。 
 ある日、政府の正規軍がべオの村を駐屯地にすることを告げに来た時、村人たちは二日以内の一斉退去を命じられました。命を守るためでしょうか。ですが持ち出せる荷物など限りがあります。それに道中の安全を保護してはくれません。
 命を守るためでしょうか。
 湖を渡る舟は夜明けに発ちました。誰にも見つからないよう篝火も息も潜めていました。日が水平線差し掛かったとき白波は彼らの表情を明るく照らしました。また人生を立て直せば良い。苦しいけれど明日は明るくなるはずだ、そう思っていました。
 航空機の威嚇射撃は彼らを殺傷したばかりでなく、明日へと向かう船体をも打ち砕き、即死の者は抗うことなく湖底に、被弾した者は木片にも掴まることができず家族の名を叫びながら「タスケテ」「イキロ! 」と明日無く沈んでいきました。
 体に傷ができなかった者も沈みゆく舟から離れて藻掻きました。家族たちの血が混じった水を口に含みながら、ああ生きなければ、生きなければ、けれどもう生きたとしてどうなるんだ、けれど岸まで泳がなくてはいけない、ああ生きたとしてどうなるのか。
「ベオ、べオ! ベオ、べオ、ベ」
 父母と一つ上の兄の声が離れません。頭から。いえ声も血肉も混ざった水は体中を巡り巡ってもうベオの心身を構成するのです。
 命からがら岸にたどり着いたのは出発時の半数以下。血だらけの素足でキャンプまで歩いたのです。
 キャンプでの安寧は長くは続きませんでした。
 ベオ達が辿り着いて僅か二日後の昼に連合国軍の爆撃機がキャンプを誤爆、大人三十名子ども五十名の死傷者を出しました。その機に乗じた反政府勢力は人身や物資の乱取りを行い、逃げ遅れたベオは兵士たちに強姦、暴行されました。
 怨嗟にも疲れ果ててベオは茫然自失。その時にはもう故郷の村も家族の叫び声もなにもかも失っていました。
 気が付いた時には避難民に無理やり運ばれていました。気が付いた時には見知らぬ人ばかりでした。気が付いた時には体が焼けるように裂けるように痛み、叫び声が意図せず、まったく意図せず、それは火傷の痛みからか怨嗟と悲嘆の叫びであったのか、とにかくベオは叫ばずにはいられなかったのです。

「ベオさん。ひとつ笑い話をしてあげましょう」
「うん」
「海には長老ティクターリクが住んでいることは話しましたね。彼の住む屋敷には見事に磨かれた岩石の大門があるのですが、その門前にはタツノオトシゴが代々警備に当たることになっていたのです。タツノオトシゴは兄弟でした」
  
  ほらお前たちは栄誉ある警備に任されたんだよ。お酒で失敗し
 たら末代までの恥だ恥。酒なんて飲んでる場合じゃあないよ。。

  そうは言っても半年は飲んじゃいねえ。このまま飲まねえと頭
 がクラクラっときちまうぜ。
  
  そうだそうだ。口にピリリとしたものがねえと体がふらふらっ
 としていけねえ。
 
 まあ、酒も飲まずに酔っぱらってら。んまあ警備に支障があって
 は困るからちょびっとだけだよ。ほれ。
 
 タツノオトシゴの母はグラス一杯ずつのお酒を二匹にだしました。

  こりゃいいや、でもよ一杯だけってのが一番危ないんだ。なぜ
 かって、そりゃ警備中に飲みたくなって暴れちまうかもしれね
 え。
 
  そうだそうだ。暴れて長老を怒らせでもしたら大問題だ。

 母はもう一杯ずつグラスに注ぎます。
  ほほお、体が火照ってきやがった。こりゃいいや。ほろ酔いっ  
 てのが良いよ、体がよく動くな。

  こりゃいいよ。安心して警備ができるよ。

 二匹はそうして長老の屋敷まで向かったのですが、その日は偶然ティクターリクが起きておりまして、二人を晩酌に誘ったのです。
 
  おうおう、こりゃいけねえ。もう頭がヘロヘロだ。

  そうだな。こりゃ仕事になんねえよ。帰って眠りたい。

 けれどもティクターリクの晩酌が終わると二匹は門の警備に戻らなくてはいけません。屋敷から門までの道で何度も横たわりながらようやくたどり着いたのですが、肝心の警備はまるでダメ。二匹とも朝まで門の前まで眠りこけていたのです。
 
 そんな折ティクターリクの加護を得ようと詣でた老人魚が、隣の隣、また隣の遥か隣の町からやってきていました。老人魚はようやくたどり着いた、ああ緊張する、なんせ何億年も生きているんだからこの世の何もかもを超越した力で私を導いてくださるのだ、などと屋敷前までやってきました。
 愛とは何だ、仁とは、義とは、礼とは、智とは、信とは……とぶつくさ言いながら階段を上っていきますと、門の前には二匹のタツノオトシゴが尾を結びあってハートを形作っているではありませんか。
 老人魚は「私の心など全てお見通しでありましたか……! 皆さまこの有難いものが見えますか、こんな素晴らしいもの世紀に一度の奇跡ですぞ……! 」と泡を吹いて倒れました。
 人魚も魚もみな集まってきて、これは珍しいぞと口々にしました。
 タツノオトシゴが泥酔から目覚めたときには仕事をサボってしまったことと何故だか老人魚が倒れている焦りから、二匹も泡を吹いて倒れてしまいました。
 やがてティクターリクの深い声で、
  
  これは酔っぱらった二匹の尾を結びつけた、子どものいたずら  
 じゃ。
  
「こんなことが日常茶飯事でした。そう考えると海の中は愉快でしたね」
「ふふ」
 ベオはかすかに笑って顔を上げました。
「ねえ、どうしてわたしたちが逃げているか知ってる? 」
「いえ、陸に来たばかりなので分からないのです」
「わたしたちが住んでいた国はクプローザっていうの。海から来たルミーロに訊くのは変かもしれないけど、この国にどれくらいの民族が住んでいると思う? 」
「民族ですか、海だとあまりに膨大ですから数えたこともありません。民族というのは生き物の種類ということですか? 今までに見た人間、犬、猫、トカゲ、ハエ、あとは鳥もたくさん見ました。さあどれほどでしょうか……」
「人間の話よ。同じ人間なんだけど古くからの慣習とか歴史、肌の色、話す言葉、宗教、先祖がどこから来たのかとかでね、一三二もの民族に分けられているの。けど割合が高いのは国名にもなっているクプローザ人で、あとは一つの地域に集まって暮していたり点在的に生活してる」
「同じ人間なのに種類が違うのですか、なんとも不思議な話ですね」
「それぞれの生活様式が異なるから仕方ないの」
 ベオはため息を吐きました。ルミーロがそのため息の行方を折っていると、道の左右には青々とした田畑の広がる風景が見えてきました。
「ここは植物が多いですね」
「ようやく乾燥地帯を抜けたの。あそこにある村、ボロボロだよね」
  ベオが指した先には荒廃した人影の無い村らしき場所がありました。
 その村は三か月前に発生した政府軍と反政府勢力の武力衝突の裏で、宗教の異なる少数民族レネロの村をクプローザ人の群衆が襲い、村人は無差別に殺害され、女性は強姦に遭い、金品はことごとく強奪された後、焼き払われたのです。
 事件を政府は反政府勢力によるもの、と発表しましたが反政府勢力であるロホイ民族抵抗運動(RNR:Rohoi National Resistance)は、「民間人は攻撃しない、まして私たちとの交流はいくつか世紀をまたぐほどである。親愛なる民族をこれほど残虐な方法で襲撃するなどありえないことだ」と反論。後に逃れた複数人の証言によってクプローザ軍制式小銃を所持したクプローザ人が大多数であったことから、事件はクプローザ軍によるものとされます。しかし政府は軍の独断として関与を認めませんでした。
 政府によるインターネット利用規制が強化されるまでは、ネット上で一神教徒の多いロホイ族と多神教徒からなるレネロ族の宗教紛争ではないか、RNRの活動に非協力的であったため見せしめとして襲撃されたのではないか、などあらゆる噂が飛び交いました。
 しかしクプローザの問題を掘り下げるには一七世紀までさかのぼらなければいけません。
 
「ベオさんは何という名の民族なんでしょうか」
「わたしはソロツォア族。ほら頬に白粉を塗ってるでしょ。一緒に歩いている人達はロホイ族が多いみたいだけど」
「見分けがつくのですね。わたしにはさっぱり分かりません。」
「ルミーロはいいの、民族の違いなんて」
 そのときレジグナチオが振り向いて、「キャンプにたどり着いたぞ! 」と嬉々と言い放ちました。
 歩き続けていた群衆は安堵の声を漏らし、誰も彼も見知らぬ人なのにまるで家族のように抱きしめ合っています。
「これで助かる! 良かった。本当に良かった! 」
 レジグナチオも荷車から手を離して目頭を押さえました。そんな彼をユストューロは優しく抱きしめます。
 しかしキャンプから一人現れ拡声器を手にします。
「長旅のところ誠に申し上げにくいのですが……」
 そう言ったあと彼は沈黙します。群衆は何だ、何かあったのか、とざわつき始め、「とにかく中に入れてくれ! 」と叫ぶものも一人や二人ではありません。
「誠に申し訳ないのですが、ここのキャンプは収容可能人数を遥かに超えており物資の配分もギリギリなんです。ここから十キロ程行ったところにもキャンプがある。そこならばまだ入れるはずです。山間を往く道です。どうかお気をつけて……」
 そのとき群衆の声は安堵から失望に変わった。
「キャンプなんて信用できない」
 そう言ったのはベオでした。

 移動した避難民たちは山麓の林で一夜を過ごすことに決めて、風はヒューヒュー木々を冷たく叩きます。
「六百人ほどかな。進むペースが落ちてきた。さっきのキャンプで配分された飲料水や食糧ももって数日。奪い合いも起こるかもしれない」
 レジグナチオは野営地をゆっくりと回りながら呟きます。
 ユストューロも頷きます。
「政府もRNRも滅茶苦茶だ。ロホイ人の権利と平等を求めて武装、ロホイの村々を脅して得た民兵で警察の駐屯所や国境警備隊を襲撃すればテロリストと見なされても仕方ないだろう。おかげでロホイ人全体が国を追われるようになってしまった。確かに俺たちロホイには選挙権どころか国籍さえ認められていない。だが数十万人の避難民となってそれが手に入るわけではない。農具で機関銃には敵わない。だがRNRの軍隊はどこから手に入れたのか武器が整っている……」
 ユストューロの熱した口調を引き継いでレジグナチオは言います。
「なんだかよくわかりませんがすごい物なんですね。ですがそんなに愛おしいものなんですか? 」
「まあな。これには家族の大切な写真が詰まっている。写真だけじゃない、息子が歌って踊る動画や家族写真もある。これだけがぼくの宝なんだ……。妻や子どもたちがこの世に生きていたという唯一の証拠。充電もずっと前に切れた。ぼくはもう一度家族の顔を見るまでは生きていたいんだ。みんなロホイの権利を求めて戦おうとしているのに、ぼく一人臆病で情けないだろう。でもぼくはロホイもクプローザもとっくにどうでもよくなってしまったんだ。大切なものは民族や宗教だけじゃない。とっくにみんな気づいているだろう。死ぬのは怖い。ハリボテの思想で暴力に逃げたくなるのは地獄がとっくに空の上に見えるからだろう」
 レジグナチオは力なく呟きます。
「わたしは皆さんと歩きながら時々考えるんです。海での生活は孤独に苛まれて辛いものでした。なにせ孤独が一番の不幸だとばかり考えて、心がいつの日も窮屈なのはそのせいだと。この世で辛苦を味わっているのは私ひとりではないかとさえ。一方では孤独が世俗から離れて艱難辛苦を受け入れることが一等崇高な生き方だと知らず知らず信じていました。彩りに満ちた周囲を切り捨てて誰にも干渉しないことが格好いいとさえ。そうして家族をも冷たくあしらって。ですが違いました。群れに属して生きることこそ大変なんです。なぜこのような老いぼれになるまで気が付かなかったのでしょう、多くの交わりの中で他者を尊重して生きることの困難を。孤独を気取ってそれから逃げていただけなんです。群れにいるからこそ生じる孤独感もある。なにも一人で生きることだけが孤独ではないんでしょう。自己憐憫に浸って生きるのは楽でした。わたしは人灯を間近に見るためだけに上がってきた呑気な人魚です。傷だらけの人々と過ごして、それがいかに空虚な目的だったのか思い知らされました。レジグナチオさん。生きましょう。生きていなければなりません。必ずその板を蘇らせるのです」
 「そうだな。生きよう、な」
 タオルを頭から被ったレジグナチオは脆くも爽やかな笑みを浮かべて、ルミーロの腰部に光るウロコへ手を伸ばし、綺麗だな、と言うのでした。
 ひと時の安らぎ。クプローザも以前は対立が和らぎはじめていた国でした。クプローザ人と他の多民族は歴史的にも社会制度上も格差の激しい間柄ではありましたが、それでも近年は移動手段の発達とスマートフォンがもたらす数多の価値観が自由な交流を促進しました。隔たりの中から眺める外の光は眩くて、SNSという町の片隅では恋人たちが古い人目を忍びながらも、愛を育み始めていました。
 これまでクプローザ人に対して排他的であった村々も観光地への案内に手を貸したり、宿泊地としての働きを提供するなど心を開いて行ったのです。
 もちろん融和していく社会に馴染めない者や怒りと暴力に走る者もいました。 
 崩れたのもSNSが発端でした。
 ロホイ 犯罪率。ロホイ 危ない。スラツ人 不法移民。クプローザ人 女性。ロホイ人 どこから来た。ロホイ人 送還。
 誰しもがネット上で知識を得ようとすると、好奇心を引く記事を書いてアクセス数を稼ごうと、あることないこと無責任に書き連ねる匿名記者。対立が深まるにつれ高まる需要。世間の表情が険しくなるにつれ虚構もたくさん生み出されていきました。
 冷たい風の吹きすさぶ午前二時のことです。
 木々の在る無し関わらず、人々の耳に届けられたのは静かな山林の農村地帯に似つかわしくない軽トラックのエンジン音でした。
 咄嗟にレジグナチオは木陰にルミーロの体を放り、幅広のボロ布を纏って身を隠します。ユストューロもベオも背の低い草に紛れるように地面にうつ伏せました。人々は沈黙してその通過を待つばかりでした。
 エンジン音が近づくにつれ荷台に乗った兵士の荒々しい歌声と眩いヘッドライトが恐怖を駆り立てます。恐怖は地面を伝って体を震わせます。湿気と草気を帯びた土の匂い、顔を這う蟻の六本足。金属同士の擦れる音は夜の草はらで遊ぶ無邪気な表情をして近寄ってきます。
 隠れる人々の息遣いを蹴散らして軽トラックが過ぎようとしていました。土を捲るタイヤの音。Tシャツと短パンの兵士。
 エンジン音が遠のいていく、それは人々を安堵させました。今回もやり過ごすことができたが、次は無いかもしれない。そんな溜息を枕に再び眠るのです。
 が、そのときでした。先ほど口論をしていた男がトラックを追って走り出したのです。人々はみんな体を起こして、呆然としたまま声は出ず、男の後ろ姿を見送るしか出来ませんでした。
 進行を止めたエンジン音。止まる足音。
「おれもRNRに連れてってく……」乾いた銃声が彼の声を軽々と、軽々と声を奪い去って、軽トラックは足早に道を逸れて往くのでした。
 息はありませんでした。しかし悲しみに暮れるものは少なく、遺体を整えて埋葬のため地を掘るのです。
 ルミーロはレジグナチオに尋ねます。
「悲しくはないのですか。人が目の前で死んでも……」
「悲しくないわけがないよ。でも悲しみより疲れが先にくるんだ。何故だろうね。彼は、彼は感情的になりすぎた。ぼくがそれを駆り立ててしまったのだろう……」
 レジグナチオは木にもたれて俯いています。彼にはもう気力というものがまるでありませんでした。
「ぼくさ、村医者だったんだ。人が死ぬなんてよくある話だった。国内で内戦の兆しが顕著になってからは医療品がみんな軍に支給されて、ぼくら一般には、いやロホイは無国籍民だと言われているから一般でもないか。とにかく供給が減ってしまった。そんななか新型感染症が流行して、ただでさえ貧困で死んじまう人が多いってのに皆ばったばったと死んじまった。ウイルスだからな、マスクを掛ければ感染は多少防げるんだ。誰もウイルスの存在を信じなかった。神の裁きだとみんな言った。ぼくは無惨に亡くなっていく人々に何もできず医者という肩書きさえ愚かに思えた。人が死ぬたびに疲弊した。人々がマスクを着け始めたのは半数近くの世帯で感染者が発生してからだった。しかも布製。飾りでしかなかったよ。どうして助けてくれなかったのか、怒鳴られたことも少なくはなかった。内戦が勃発した頃だっただろう、妻も息子も感染した。家にいれば十分回復の余地はあったんだ。熱だって下がって少しずつだがご飯も食べられた。ぼくは恨むよ。非政府のクプローザ私兵団に村からの強制退去か、死を選ばされたんだ。もちろん死ぬことはできない。荷車にありったけの医療品を積んで家族とともに逃げ始めたんだ。人々は密集して避難したから衛生状態なんて悪いったらありゃしない。みんな咳をし始めて道端に果てていく姿を毎日毎日毎日。君が上陸した内海の浜辺近くまで来た時だった。妻は私を置いて逃げろ、と言って、そんなことはできない、ぼくは絶対に離れたくなかったんだ。でも妻の決意は白濁した目の奥にも映っていた。ぼくら家族は電源の切れかけたスマートフォンで最後の写真を撮った。息子が泣いて写真が上手く撮れなかった。それから妻と別れ、息子とともに海岸沿いを歩いた。途中でユストューロに再会したときには家族を取り戻したかのように嬉しかったね。だって同村の幼馴染だからな。だが海岸線を往くのは失敗だった。クプローザ私兵もクプローザ軍も広く展開していたんだ。そこを抜けるのは困難だった。息子は海を見たことがなかったんだ。ずっと山林の農村部に暮していたからな。海を見てみたかったんだろう。二人が制止するのも聞かず浜辺に走っていった息子は狩りのように撃ち殺された。仕留めた獲物を物色するかのような兵士をユストューロは棒切れで撲殺した。ぼくは息子に海を見せてやりたくて、波打ち際に降ろし水平線を一緒に眺めたんだ。綺麗な太陽だった。息子は水と光を浴びてとても幸せそうにきらめいていた。いつまでも水平線を眺めていたかった。ぼくが茫然としている間にユストューロは木で簡便な舟を編み、二人のもとへ運んできた。息子は海に溶けていった。白波の中に愛おしい笑顔が見えた。なあルミーロ、海の町って平和か? 」
「あなたの息子さんならきっと平和な一生を送れるでしょう。」
 そのときレジグナチオの頬には一筋の涙が流れました。
「よかった……。死ぬなよルミーロ」
「もちろんです」

 明くる朝、誰一人としてRNRに参加する者はなく荷物をまとめる音が出立の合図となりました。
 人々は山道を伝って進むグループと、ロフィテス川に沿って北へ向かうグループに分かれました。
 ルミーロとレジグナチオ、ユストューロとベオはロフィテス川沿いを進むこととしました。両グループとも避難民キャンプが第一の到達目標でしたが、人数を考えると分かれるしかなかったのです。
「キャンプったって入れるか分からないよな。おれはキャンプを素通りして進むほうがいいと思うけどな。ね、ベオ? 」
「うん」
 ロフィテス川は清流でした。底が透き通っており山や空を川面に映すのです。波音に懐かしさを感じたルミーロは「ちょっとだけ泳いでみたいです」と言うのです。
「次の休憩で水分補給をするからそのときでいいか? 」
 レジグナチオは汗を書きながら話します。
 出立したのが五時くらいでしたから三時間は歩いたことでしょう。日が高く昇ってきていました。よし、休憩。とレジグナチオが言うと人々はなるべく離散して休憩を始めました。
 ルミーロたちは河原に降りて水に手を触れました。激しくはない川ですが冷たい水がみんなの心を躍らせました。 
「ルミーロさっき泳ぎたいとか言っていたけど冗談だよな? 」
「え? 」
「まあやめとけ。ベオ、火傷の処置をしようか」
「ありがと」
 レジグナチオは川の水で患部を洗浄し、またルミーロの皮を貼り付けました。
「もうあまり痛くない。ルミーロの皮って不思議」
「嬉しいようななんだろうかな」
「ベオ。火傷は治癒しつつある。心はどうだ、こう、無理やり剝がされたことを思い出してフラッシュバックしたりはしないか? 」
「わたしはいいの。女はこういう生き物だって分かっているから。それに諦める以上の逃げ道をわたしは知らない。それにレジーだってそういう目で見ているんでしょ? 」
「そんなことは……。なにかあったら言ってくれ。頼りにならないかもしれないけど。……ユストューロは」
「ふふふ、ユストューロなの? 意外とジョークも言うんだね」
「レアだぞ」
 水を補給した人々は再び歩き始めました。体を洗い流して嬉しそうな人も少なくはありません。魚を獲ろうとして徒労に終わった者もまあ少なくはありません。
 夜は冷たい風が吹くクプローザも今は夏季に入ったばかり。日高くなると熱気が体力を奪います。吹き出る汗を拭いながら祖国から逃れることを夢見てひたすら歩くのです。
「山を往く人々は無事でしょうか」
「どうだろうね、山をあの人数で進むのは困難だろう。でもキャンプへ行くなら山道だ。それに身を隠しやすい。あとは神の慈悲を祈るばかりだよ」
 するとベオは何やらユストューロが顔を隠した人物と話しているのを見つけました。
「レジー、あれは? 」
「わからない。なんだろう」
 その男とユストューロは声を潜めているので会話内容は聞こえません。やがてユストューロは三人のもとへ何食わぬ顔で合流します。
「さっきのはなんだ? 」
「えっ、ただの取引だよ。いつものことじゃないか」
「平時ならそうだが今は逃避行だ。不自然だぞ」
「うるさいな。別におれは君ら三人と行動を常に共にする義務はないだろ! 」
「まあそうだな。すまない」
 ユストューロは不機嫌な面持ちで、いいえ何か不安な表情で荷車を押し始めました。
 歩くのに疲れた人々は荷車に乗るルミーロとベオを羨望の眼差しで見つめます。二人はだんだんといたたまれなくなってきます。
「わたし歩くよ。足が悪いわけじゃないから……」
 ベオは荷車を降りて歩き始めました。ルミーロも降りようとしますがレジグナチオとユストューロに止められてしまいます。が、ルミーロは「こんな老いぼれが楽をしていたら若者に申し訳ない」と無理に降りました。
 一本脚の義足と松葉杖で歩き始めたのです。
「ルミーロ……。無理はだめだよ」
「無理しているような顔に見えますか」 
「ううん……」
 けれど元より不慣れな歩行とでこぼこ道はルミーロを難なく地へ放りなげました。横たわったままの体は打ち付けられた痛みに震えています。
「ルミーロ! 無理しちゃだめだって! やっぱりルミーロは荷車に乗せてねレジー! 」
 ルミーロはユストューロや数人に体を支えられながら荷車へ乗せられます。土に汚れた顔は酷く落ち込んでいます。
「私はなにもできない。一緒に歩くことさえできないんです。皆さんの苦しみも私には抱けない。これじゃまるで御車に乗った愚かな王だ……」
 ユストューロは言います。
「そうだよ、御車に乗った王だ。当事者じゃない。でもそれもいいじゃないか。ルミーロは弱者でも強奪者でもなく、その御車からおれたちを見ていてくれたらいいんだ。君の目にはどう映る? この中に英雄が見えるか? 正義が見えるか? なにが見える? 」
「何が見えるか……。人が見えます。人々が見えます。英雄はまだ見当たりません」
「そうだ。みな人から生まれた人の子だ。ロホイにもクプローザにも英雄はいない。英雄を作り出したときから争いは美化される。この国には人しかいない。美化されてはいけないんだ。君にはその御車から見ていてほしい」
「分かりました……。しかと目に焼き付けておきます」
 そうしてカラカラと鳴る御車は進むのでした。
「見ろ。子どもが一人死んじまったらしい」
「あんなに痩せてしまわれて……。何も出来ない私が憎い」
 子どもは泣き叫ぶ母親の腕から奪われて、ロホイの伝統に則って土葬されようとしています。ロホイ人の神官が亡骸を抱えて川原に掘られた穴に一礼し、亡骸を太陽に掲げたあと葬る、そんなときでした。
 装甲車が対岸を走り去ろうとするのが誰の目にも映ったのです。それはクプローザ政府軍の車両でした。白とグレーの国旗が祖国の歌を思い出させました。
  
  自由はいつまでも我らのもの 取り合った手の色は様々だ
  我らが太陽の下にある限り
  自由が我らを見失うことはないだろう
  決して忘れるな日の出の前の血の流れ
  自由はいつでも我らのもの 太陽の下にある限り
 
 一人が口ずさみ始めるとみんなが歌い始めました。声高らかに自由を歌い上げる、谷間に明日の自由が輝いていたのです。手を繋ぎます。ロホイ人もソロツォア人も誰も彼もが手を繋ぎます。
 みんな白とグレーの国旗を見つめながら歌います。天国も地獄も要りません。
 人々は想像します。
 飢えのないことを。
 苦しみのないことを。
 恐怖のないことを。
 怯えず眠れることを。
 人に人とみなされることを。
 我が子がいつまでも我が子であることを。
 愛する人と共にいることを。
 人々は想像していました。
 歌うことで、自由を謳うことで居場所が鮮明になったなら銃で撃たれることを。 
 けれど装甲車に乗った兵士は遥か上空に発砲するだけで、人々を傷つけることはありませんでした。谷間を反響するのは自由の歌と銃の音。
 装甲車は速度を落として去っていきます。兵士は銃を振りながら。
 人々はまた歩き始めます。何人かはほほ笑みながら、何人かは涙をこぼし、それから何人かは歌い続けて。

 人々は廃村に辿りつきました。夜のことです。
 レンガ造りの家々は焼け焦げて、家具などは炭になってしまっていました。土も黒く車両の通った痕跡がいくつも見当たりました。
 村人はいません。いませんが、独り茫然と立つ老爺が人々を凝視していました。
「入ってくるな。一歩でも入ったなら撃つぞ」
 老爺はライフル銃をその手に抱えています。額から血を流しながら……。
「あの人こわい……」
 ベオは怯えてルミーロの手を握ります。老爺は七十歳くらいでしょうか、眉間に刻んだ皺と白髭がベオには厳めしく映るのです。
「大丈夫ですよベオさん。わたしの顔を見てください、わたしも彼と同じくらい年老いていて、それに髭はわたしの方が多いです。わたしの顔は怖いですか? 」
「ううん、ルミーロの顔は怖くない」
「彼はきっと恐れているのです。怯えているのです」
 するとルミーロは荷車から降りて、老爺が引いたであろう村の境目の線の前に立ちました。
「入るなと言ったが」
「まだ入ってはいません。あなたの怯えた様子を見ていると心配になって……」
「怯えている? この震えは怒りからくるものだ。さっさと立ち去ってくれ。この村にはもう何もないからな」
「怒り? 何があったのでしょうか」
「もう関係ないことだ。ほら線を踏むな! 」
「すいません、一本しか脚が無いもので……」
 ルミーロは左側の松葉杖を上に挙げて、わざとふらついてみせました。
「どっちにやられた」
「どっち? 」
「その脚は政府軍かRNRかどっちにやられたんだ」
「さあ、わたしには分かりません。情けないことにわたしは人魚なので人間の区別がつかなくて……」
「なに馬鹿馬鹿しいことを……。その脚、痛くはないのか」
「こうして立っているだけでも随分と痛いですね。ですがね、わたしは尾びれを失っただけですからいいんです。ほら、この国には失ってばかりの人間で溢れているみたいじゃないですか」
「そうだ。この村も」
「この村は政府軍に? RNRに? 」
「ロホイだ」
 ルミーロは一瞬振り向きそうになりましたが堪えます。平静を装うのは慣れたものです。
「襲われたのですか」
「いや、寝床を貸してやったんだ。後ろの奴らみたいなのにな。奴らは近くにクプローザ軍の宿営地があると言った。確かに廃村を簡易的な軍事拠点にしているとは聞いていた。奴らは一宿一飯の恩返しをしたいと申し出てきた。わしも村人たちも、そんなものは必要ないと言ったんだ。だが奴らは話を聞かなかった。奴らが村を出て半日経った頃だ。クプローザ軍が押し寄せてきてロホイの奴らを見せつけてきた。クプローザ兵は言った。『食糧と武器を盗むよう命令したのは誰だ』。もちろん誰も手を挙げなかった。するとクプローザ兵たちは機銃掃射と残忍極まりない殺戮を始めた。わしは必死に逃げた。村を通る川に潜って橋の下に隠れて村の様子をずっと見ていたんだ。すぐに村は燃え上がった。みな死んだ。だが、わしの目を奪ったのはそれだけじゃない。捕らえられたロホイ人たちは傷もないまま解放されたばかりでなく金銭を受け取っていたんだ。奴らは初めからこの村を破壊するために訪れたんだ。おい、後ろの群衆の中にそいつらはいないだろうな! 」
 ルミーロは振り向いて首を横に振ります。ここでは休めないから早く進めと伝えたのです。
「分かりません。彼らには素早く通過するよう伝えました」
「そりゃあいい。いいか人魚さん。クプローザが悪いとかロホイが被害者とかいう簡単な問題じゃないんだ。誰も信じるな。信じたおかげてユリュ族最後の村が消滅したよ。さ、人魚さんも行きな」
 そういって老爺は村に戻っていきました。
 ルミーロは三本足で荷車へと歩いていきます。渦巻く悲哀が顔を皺だらけにしていきます。後ろで銃声が響きました。ルミーロは振り向きません。血と涸涙の村。焦げ臭い煙はまとわりついたままルミーロを往かせるのでした。
 夜は寒くも人々を歩かせます。

「こないだ海の話をしてくれたろ、今夜はおれがしてやろう」
 ユストューロは既に寝そべっていたルミーロの背に話しかけます。ルミーロはというと寝返りもうたずこう言うのです。
「今日はもう眠りたいのです」
「どうした。今日のことが気掛かりか? 」
「ええ」
「よくあること……でもないか。ロホイが軍と通じてるなんてな。標的はユリュ族。クプローザ政府は少数民族を潰しにかかってるってことか」
「なにが憎くてそこまでするのでしょう……。わたしにはさっぱりわかりません」
 それからルミーロもユストューロも流れてくる色々な考えに、心の中で抗いました。夜は長く、易々とは明けてはくれません。
 河川敷の風は心地よいですが、ルミーロも自分の死というものを考え始めていました。このまま歩めばいずれ銃口が己を向く。が、群れを離れれば生きてはいけぬ身の上。
 ルミーロとてクプローザの情勢を理解しつつありました。もしや上がる陸を間違えてしまったのではないか、とさえ。
「そうだよ。君は間違えたんだ。もっと発展した国に行けばよかったのに。勿体ないことをしたね。尾びれを失うこともなかったかもしれない。でもさ、発展した国だとすぐに捕らえられて見世物にされるかもしれないよ。ここじゃぼくら人間が世界中の見世物さ。テレビじゃ綺麗な顔した奴らがぼくらとクプローザを語るんだ。笑っちゃうね。どうせ死ぬならさ、ずっとぼくらといなよ。もうすぐ皆死ぬさ。砲撃かナイフか知らないけどさ。でもルミーロがそばにいたらベオも喜ぶ。見世物さ。テレビや新聞にぼくたちの遺体が映されて、画面の向こうには無表情でパンを食べるやつがいるだけだ。ぼくらのニュースよりもCMに目を奪われる。またぼくたちのニュース中継が始まればチャンネルを変えるんだ。人は見たいものしかみない。自分の生きている世界が幸せだと誰だって思いたいじゃないか。誰々が死んだとか、紛争が激化しただとか、そんなものからは離れていたいんだ。だって私が住む世界は幸福で満ちていて、どこへだって旅行もできる。どこへ行っても誰かが親切にしてくれる。でもそれは間違いだ。決してそんなことはないんだ。でも耳に入れたくはない。だって! 幸せでいたいから! それか幸せな世界に取り残された私を演じて優しくされたいんだ。ぼくらはな見世物だ。見世物の中でも金を産まない見世物だ」
「わたしは! わたしは決してあなた達を見世物だとは思いません! わたし自身も見世物になるつもりはない。いいですかレジグナチオさん。生き物は見世物でも人間の飾りでもない、各々が生命を宿した尊い存在なんです。その枠組みから外れること、突き放すことを人が許そうが神が許そうが、歴史が許しません。罪は史書に刻まれる。正義は心に刻まれる。行いはニュースペーパーで人々の元に。ですが生きねばなりません。決してここで死んではならぬ。何がこの国の現状か、それを語るのは綺麗な顔した人々じゃない。生き残ったあなた達なんですから。わたしは最後まで見届けるつもりです」
「見届けると言ったな。ルミーロ、君は北の国に入れば救われるとでも思っているのか。北の国に入るのはあくまで逃げ道の確保だ。海か陸か。その先に迎え入れてくれる国が無ければ逆戻りだ。その脚でどこまで付いて来れるんだ」
「最後まで、と言ったではありませんか」
「ぼくらに最後なんてない。最後は死ぬだけだ」
「それでもいい。ふふっ、所詮わたしは海に帰れる体ではありませんから。レジグナチオさん。あなたは錯乱しておられる。休みなさい。さあ」
 ルミーロはそう言うとレジグナチオの目元に布を被せてやりました。
「ごめんよ。さっきのさ、爺さんのさ、死に様を見てから気が動転してしまっているんだ。もう、大丈夫。ルミーロも寝なよ」

 そうして夜は明ける、かと思っていました。
 川から横歩きして来たカニに話しかけられたのです。
「あれ、人魚の方……じゃないですか? 」
「どうも小さいカニさん」
「どうしてこんな内陸部に? 尾びれはどうしちゃったの? 」
「ぼくはぼくが望んで人々と歩いているんだよ。尾びれは取れちゃったけれど」
「どうして尾びれは取れちゃったの? 」
「なんでだろう。怪我をしたからかな」
「そっか」
「カニさんはどうしてここに? 」
「どうしてって、ここがぼくのおうちだからだよ。」
「そっかそっか。おうちは大好きかな? 」
「もちろん大好きだよ」
「ほら、星が見えるかい? 」
「見えるよ」
 そこに不思議に思ったベオが寄ってきて尋ねます。
「ルミーロひとりごと? 」
「いいえ! このカニさんとお話をしているんです」
「カニと? 」
「おかしいですか? 」
「え、うん。でも人魚だから普通なのかな」
「そうかもしれませんね。ねえ、カニさん」
「あの人間はなんて言ってるの? 」
「ぼくらが話せることを不思議に思っているんだよ」
「ねえルミーロ、彼らにも感情はあるの? 」
「しっかりとありますよ。ほら! 」
 ルミーロは恥ずかしそうにハサミを隠すカニを見せて、皺よせて笑いました。
「ごめんよカニさん。おうちにお帰り」
 ルミーロは苔むした石のそばにカニを遣り、さよならを告げました。
「ごめんねルミーロ。楽しそうにお話ししていたのに……」 
「いいえ、でも久しぶりに人間以外と話ができて嬉しかったです。
なにかこう、ふるさとが懐かしくなりました。心がぽかぽかするんです」
「変なこと聞くけどさ、海と陸、どっちが好き? 」
「難しいですね……。私はまだ海のほうが好きです」
「どうして? 」
「どうしてって、陸はまだ来たばかりなので好奇心でいっぱいではあるんですが、それが好きという気持ちに変わるまではまだ時間がかかりそうです」
「そっか。ねえねえルミーロって家族は? 」
 ベオは前のめりになって質問します。
「情けない話ですが、陸のことばかりを考えていた私に呆れ果てて、ついには捨てられてしまいました。私一人の家に私一人が住むんです。家族が離れていくというのは淋しいことですね」
 するとベオはすこし俯いてしまいました。おや、とルミーロが戸惑っていた数秒の後、ベオはまた問いかけます。
「だったらさ……だったらさ! わたしの家族になってよ! わたしが家族を失ったのは知っているでしょう? ひとりきりになったらわたし、どうしたらいいかわかんない。そんなことかんがえてたら淋しくて眠れなくなっちゃって」
「いいでしょう、家族になりましょう! この国から抜けだしたら皆で旅をするんです。レジグナチオさんとユストューロさん、ベオさんにわたし。色んな顔を見に行きましょう。色んな街を歩きましょう。きっと明るい未来が広がっています。ほ~ら、想像してごらん。恐怖からかけ離れた楽しいだけの旅を……」
「ふふ、ルミーロだけいつまでも荷車に乗っている姿しか浮かんでこないや! ねね、今のお話本当でしょう? 嘘じゃない? 」
「本当のことですよ。わたしが嘘を吐くような人間に見えますか? 」
 ベオはひとしきり笑った後、「今嘘ついた! 」と言いました。
 山道を選んだ避難民たちの喜びの知らせが届いたのは、次の日の昼でした。
 必死に走ったそのロホイ人は肩で呼吸をしています。
「今すぐ山道に行くべきだ! みんな無事に国境を超えて、いまはどのあたりだろうか、わからないが善は急げだぞ! 」
 この知らせに一同は湧きました。無事に国を出られる。やっとあの忌々しい故郷を後にできるのだと。
「おい地図を! 地図を出せ! 」
 とみな競い合って山道へ合流する道を探します。ここからだと森を分け入ってしばらく歩くほうが道を探すより早そうです。
「水を汲んだら出発だ。早くしろよ! 」
 準備の出来た人々は草木を分け入って分け入って、山道までの長い距離を歩くことになりました。方向感覚を失ってしまえばすぐさま混乱に陥ることでしょう。
 虫や蛇に噛まれながら歩くこと三時間。ようやく整備された山道へとたどり着きました。何せ国境を跨ぐ山脈ですから麓で一日を費やしてもおかしくはなかったのです。
 彼らは山道を登り始めました。
 一方でレジグナチオ達は川岸を進みます。荷車なしでルミーロを連れていくのは困難、ということが山道を諦める判断理由となりました。
「随分と人が減ったもんだね」
 レジグナチオが振り返ると老人と付いてくる子ども三人。
「隠れやすいからいいじゃないか。」
 ユストューロは言います。
「それもそうだけどね。だけどユストューロ、君は何故行かなかった」
「置いていけるはずないだろう。仲間じゃないか」
「逃亡ルートを確保したんだろう」
「なにを言っているんだ」
「取引していたじゃないか。ルミーロもベオも見てたよな」
 二人して頷くか首を横に振るか微妙な動きをします。
「していた。ああ、していたとも。なにか悪いか? 」
「悪いとは言っていないじゃないか。そうカッカするな。ぼくは何故切符があるのにそうしなかったか聞いただけじゃないか」
 そうだね、と言ったままユストューロは口をききませんでした。
 カラカラと荷車の押す音がゆっくりになります。
「ねえ、そのキラキラしたのなあに? 」
 子どものひとりが問いかけます。ルミーロはその小さな手を取って、「これはね、みんなを守ってくれるお守りだよ。ほうら、きみにもあげましょう」と言って、自らの腰のウロコを一枚めくり取りました。それからレジグナチオに針を借りて穴をあけ、ベオが撚った紐を通すとこどもの首にかけました。
「きれいだね」とベオが言います。 
 その首飾りはまるで深海の秘宝のようでした。揺れるたびに波打つ緑青色。こどもは微笑しました。
 それを見ていた二人の子どもはルミーロの顔をじっと見つめたまま、なにも言いませんでした。ルミーロは「こっちにおいで」と二人を呼び、また腰のウロコをめくり取ると紐を通して二人の首に掛けました。
 すると三人ともが顔をしわくちゃにして笑いました。
「ベオさんも欲しいですか? 」
「ううん。痛いんでしょう、ルミーロ」
「ちょびっとですよ、ちょびっと」
「そう……。無理したら駄目だよ。わたしはいらないからね」
 ルミーロは軽く笑みを浮かべて、会話しながら密かに作っていた首飾りをベオの首に通してやります。そのウロコは黄金色と露草色の混じった親指くらいのものでした。ベオは「いらないって言ったのに……」と言いながらも日に照らしながら、光の加減で変わる色彩の美しさに見惚れていました。
「ルミーロはちょっと身だしなみを整えたらいいのに。わたしが髪を梳いてあげる」
 そう言ってベオはルミーロの長くうねった白髪を指で梳き始めました。陽光が白銀の髪をなびかせます。酷い過去も火傷も一切を忘れたように、日焼けた細い指で何度も根元から毛先へ、根元から毛先へ。 

 それから歩き続けて三日目の晩。
 木陰よりルミーロたちの様子を窺う人影がありました。姿は隠れていても、息遣いまでは闇夜に紛れません。
 一行は子どもたちとアヴォ老人以外はその気配に気付いたので、皆山林の方を注視し、それが野生動物なのか、はたまたそれ以外の何者か、緊迫とした面持ちとなっていました。
 動物であれば仕留めて食糧にしてやろう、そんな楽観的な考えも過りますが、人間であったなら……。
 やがてその者の息が整うと、闇夜は容易く気配を包み隠してしまいました。
 しびれを切らしたユストューロは「そこにいるのは何者か! 」と問いかけます。
 反応はありません。反応が無ければではこちらから、というわけにもいきません。戦える人数よりも守らなければならない者の方が多いのですから。
 ユストューロはルミーロの松葉杖を銃のように構えて再び言い放ちました。
「おい。銃口が見えるか。おれは目が良いんだ。さ、手を挙げて出てきな」
 トスっと音立てて地面に落ちたのは丸められた紙。ユストューロがそれを広げます。

 ーー山道へ行ったものは全滅。誘導したロホイは裏切り者だーー

「なんてこった……! クソったれが。おい、そこのやつおれたちは他人を売るような人間じゃない。安心して出てきな。怪我もしているだろ、ほら」
 緊張を解いた一行は再び休息に戻り、姿を隠していた者はその後二十分ほど躊躇してようやく山林から降りてきました。
「銃があるって言ったか……? 」
「ん」
 そう言って見せたのはルミーロの松葉杖。
「なんだ……。ちょっとは頼りになりそうな奴らかと思ったらそうじゃないのか」
「なに言ってんだ」
「なあ君。背中の傷をみせてみな。ぼくは医者だ。ほらここに座るんだよ」
 痩せ長の男はシャツを脱ぎ座りました。
「必死に逃げたか? 」
「逃げたさ。なにか悪いか」
「いいや、よく逃げ切ったな。痛かったろう」
「……ああ」
「別に惨状を語れとは言わんよ。早く傷を治してくれれば」
 ふと男はルミーロを見て苦々しい表情をしました。
「この人は随分と派手にやられたみたいだな」
「わたしですか? わたしは脚一本分得したようなものです。なんちゃって。人魚なんですよ、わたし」
「ははは。ついにおれの頭は狂っちまったか」
「まあ無理もないよ。ユストューロ、子どもたちは目を覚ましていないか? 」
 ユストューロは首を横に振りました。
「おれぁなあ一人もんだからよかったけどな、家族が死んじまった奴らを見るとやっぱ辛いよな。どんなに辛いかは分かんねけどさ」
「君の名前は? 」
「ティモ。誰が名付けたんだか」
「親無しだったのか」
「そう。気付いたら乞食してたよ。今思うと孤児院にでも入れてくれりゃいいのにさあ。毎日銭と飯の無心してさ。まあいいや。お医者さんは傷の片し方が上手いんだな、医者に掛ったことねえからこんなの初めてだ」
「そうか。まあどうでもいいからさ、包帯巻いたら静かに寝てくれよ」
 レジグナチオはもう暗い話など聞きたくありませんでした。もはや他人の話しなど聞きたくはありませんでした。ですが傷の処置は彼をどうこうしたいなど考えがあるわけもなく、無意識に行ったことでした。
 ティモは静かにと言われても鼻息を荒くしてルミーロに話しかけようとしました。けれどルミーロが子どもたちの頭を撫でているのを見るとバタリと寝転んで空を見上げました。
「別に淋しかないさ。リンリンリンリン鳴いてら」
 翌朝ルミーロたちが目を覚ますと、ティモは子どもたちの間に入って眠っていました。いびきをかいている彼に誰も悪意を感じませんでした。
 やがて子どもたちが起きると、子どもたちはティモの鼻にゆびを入れてみたり、足の裏をくすぐって遊びはじめてしまいました。ははは、と笑うばかりでレジグナチオは止めようとはしません。
「もうやめてって~。や、め、な、いとぉ~……こうだ~! 」
 勢いよく走り出したティモは逃げ回る子どもたちの脇腹をくすぐる、くすぐる、最後の子どもの首元、脇腹、寝っ転がして足のひらをこちょこちょこちょこちょ! 最後には集まってきた子どもたちにポコポコやられてしまうティモでした。
「いやあ~みんな強くてびっくりしたよ。今日からおれの子分だ文句は言わせないぞ~。ついてこい! 」
 そう言うとティモは波打ち際へ駆けていきます。子どもたちもすぐさま追いかけてしゃがみ込んだティモのすぐ近くに寄り添って、同じようにしゃがみ込みます。
「はい、そこの帽子。はいはい立って。きみ名前は? 」
「フェリーチャ」
「よしフェリーチャ、この石ころで魚を捕まえてみろ」
 するとトトトとフェリーチャは川面に向かって駆け出し、「てい! 」と気合のこもった投石を見せつけました。
「むむ! それでは気合が足らん! 次のきみは何という名であるか」
「えっ、タロだよ。お、おさかなかぁ……」 
 タロはティモに背中を押されてトコトコ駆けだしました。駆ける駆ける、子犬のように駆けて川面にポチャん! 
「まだまだ気合が足らんようだ。さあ次のきみは? 」
「ミカエロ。獲ったことあるもんねっ! 」
 そう言うと静かに音を立てず水面に向かいます。刹那、ミカエロは音も立てず石を投げ込みました。子どもたちは魚が浮いてくるのを期待のまなざしで待っていました。
 ですが残念。魚は浮いてはきませんでした。
 そこでベオも挑戦、と立ち上がろうとしたとき、「ベオは火傷してるんだから川には入らないでね」とレジグナチオが離れた距離で言いました。
 ベオはしょんぼり落ち込んでしまって、膝を抱えて三角座り。
 ティモは言います。
「次はベオの番だね」と。レジグナチオは険しい顔で駆け寄ってきます。「大丈夫だよ水には入らない」
「こうやって壺みたいにな石を積み上げていく。出口は末広がりの直線にしような。うんうん、上手い」
 ベオは濡れないようにティモが敷いてくれた小枝の束を踏みながら、段々積んでいきました。
「よし! 完成だ。いいかおこちゃまたち。こうお腹が空いているときにな石なんか投げてても当たりゃしねぇ。こんな風に罠を仕掛けて待つんだ」
「待つと獲れるの? 」
「ああ、獲れる」
 それからレジグナチオの回診をみんな受け、治療の必要な者は悲痛な表情をしながらも痛みに耐えました。
 そうするとあっという間に三十分は経っていました。
「ぼちぼちだな。ミカエロ、ちょっと見てきてくれい」
「はーい」
 ミカエロが石罠の中を覘くとたしかに魚が五匹。それも小魚だけではなく手のひらほどの魚が二匹はいました。 
「いたー! 」
「そうか。よし、御馳走だ」
 ティモは素早く魚を捕獲すると石罠を蹴とばしてしまいました。
「どうして? 」ミカエロは尋ねます。
「みたろ、罠の中。入ったら出られなくなるんだよ。そんな苦しい生活がずっと続くなんておれだったら嫌だね。いいかい? おれたちが使うときだけ作るんだ。魚だって無駄な一生を送りたかないだろう」
「うん! 」
「うんうん。おこちゃまたちは賢いですねえ。よし、そんな賢い子どもは今日からおれの弟子だ」
「やったー! 」
 それから子どもたちはティモにばかりくっ付いて歩くようになりました。後ろを向けば必ず居るものですから、ティモはやれやれ、といった風に後頭部をポリポリ掻くのです。
 道中は明るいものになりました。これまで怪我人とボロ服の一行は会話はするもののきわめて暗く、面白味のないものでしたから。子どもたちの笑い声が聞こえるようになってからは皆の頬にも笑みが浮かぶようになって。
 道を往くこと二日。ルミーロたちは次のキャンプへと辿り着きました。
 キャンプ内は人々がひしめき合って喚く喚く、異臭と鋭い目つき、それから力による小支配。
「これに入るんでしょうか」
 ルミーロは心配そうに呟きます。
「仕方がないよ。いつまでも放浪の旅を続けられるわけでもない。安全な場所があれば早いとこ入っとくのがいいさ。本当はね。」
 レジグナチオはそう言います。
 すると少し離れたところでティモが子どもたちと言い合いをしています。
「いやダメだって言っているだろ~、おれはこんなかにゃ入いれんのんだって」
「どうしてなーの! ってさっきから言ってるの! 」
「おれは悪いものを見てしまったからだよ。人食いドラゴンとか
悪知恵僧侶とかな! こ~わいぞ~、この中に潜んでいるかもしれないなあ。おれは顔を見られちったから怖くて入れねえや」
 子どもたちは怖ろしくなって、わ~! と荷車の陰に隠れました。
 そのまま頭をポリポリと搔いているティモにユストューロが話しかけました。
「入れないってのは、例の件のせいか」
「まあそんなとこさ。おれはこのまま流浪の旅を続けるよ」
「だったら一緒に来い」
 ユストューロはティモの腕を掴んで荷車の方へと歩きます。それから顔を思い切り近づけて言うのです。
「いいか、おれたちは別の脱出手段があるんだ。こんなキャンプにいたって身の安全を確保できたとは言えないだろう。見てみろ、ここがいつ戦場になるか分からない。自力でこの国を脱出するんだ。あの子どもたちだってだ。あの子らの親はもうこの世にはいない。だからこんな所に収容されたって惨めな思いをするだけだ。ティモ、せっかくの巡り合わせじゃないか、一緒に行こう」
 ティモはしばらく考えた後で、大きく頷くのでした。
「ま、子どもに大人、老人それから人魚の旅なんて参加しない手はないよな」
 そう言うとティモは子どもたちに向かって手招きをし、「おまえたちの世話が焼けるから付いててやるんだぞ。まったく、師匠を困らせるなんてとんだ弟子だ」と。
 ごめんなさい、と言いながら嬉しそうな子どもたちの頭を撫でて、一番笑みを浮かべていたのはティモでした。
 荷車を押しながらベオに話しかけます。
「ベオはさ、この国を出たらどうすんの? 」
「考えたことがなかった。でもね家族の墓を建てたいっていうのはずっと決めているの。この人形のね、作り方を教えてくれたのもおかあさんだった」
 ベオは木の枝に紐の束を巻いて作った人形をティモに見せます。
「よく出来たもんだ」
「家族の分作るの。絶対に離れないように強く結んで。ねえ、どうしてルミーロは家族を大切にしなかったの? 今はわたしたちを愛してくれるのに」
「どうして大切にしなかったか……。そもそも大切にしていなかったわけではないのでしょう。では何故? って思うでしょう。私にとっても不確かなことなんですが、私は私をとても大切にしていたんだと思うのです。自分を大切にし過ぎたために家族は物足りなくなってしまったのです。
 おそらく自分一人を真っ当に生きることが出来ていなければ、他者をどれほど大切に思っていても、相手からすると愛を育む用意さえしていないと思われてしまうのかもしれません。
 妻と知り合ったとき彼女は酷く怯えていました。わたしが話しかけようとして近づくと後ずさりするのです。そうして彼女はわたしを手の陰からわたしを見て言うのです。『私は男性が怖いの……」と。ですがわたしは既に彼女の容貌に見惚れてしまっていました。その言葉を聞いてからというもの、なるべく彼女から遠ざかろうと努めました。わたしでは到底その恐怖を解いてやることはできないとすぐに理解したのです。
 ですが彼女は違いました。むしろ彼女の方からわたしを訪ねてきたのです。往路に二日要するであろう町からわざわざお弁当を届けに来てくれたのです。お弁当……不思議なことでした。わたしはとても驚いてしまって。チャイムが鳴って出てみると彼女がいたのですから。
 わたしは彼女もはるばるお弁当を届けてくれるくらいだから、何かしらのお喋りくらいはするものだと思っていたのですが、彼女はやはり怯えるばかりでわたしに弁当箱を押し付けると、すぐに去っていきました。
 文通が始まったのはその直後でした。お弁当箱のなかに住所と宛名のメモ書きが入っていたのです。たわいもない手紙を書いては返信にドキドキしてみたり、届いた手紙の可愛らしい文字に思いを募らせるなど、思えばお互いが愛を享受したのはあの頃でしょう。何もかもに愛を授けられる心地がするのでした。会う約束を取り付けて眠れない前夜を過ごしたのもその頃。
 ある時彼女は言いました。『私、男性が怖いって言ったけどさ、男性を見るだけで嗚咽がするんだけどさ……君からはね何も感じないの。ねえ、どうして? 』どうしてと言われたってわたしにはちんぷんかんぷんです。わたしからしたら周囲の男たちとわたしがどう違うのかまるで分かりませんでしたから。 
 そうして始めは目を合わせるなんて至難の業、という状態だった二人でしたがなんやかんやで結ばれることとなりました。
 二人きり頃は良かったのです。お互いに指を繋いだま星見なんかして、心が通い合うのが心地よかったのです。
 けれど子どもが生まれ、育っていく過程で心の交流が難しくなっていきました。彼女は強い母になり子を育てていきました。私はというと父親のような面はしてみるものの、育てるとは何か、なんて考えるにつれ育っていく子どもたちに付いていくことが難しくなりました。育児のことなどさっぱり分からなかったのです。
 次第に子どもたちは私を他人だと思い始めましたし、妻は優しいので口には出しませんが、役立たず、という目で私を責めるのです。
 結局わたしは部屋に閉じこもることが増えてしまい、明るい家庭という理想も育児も放り投げてしまったのです。
 別に私が家族への愛情を忘れてしまったわけではないのです。けれど口にすれば嘘くさく、何かすればこんなときだけと罵られる。いつも部屋から星や人灯を眺めて、ぼんやりとぼんやりといつまでも焦点の会わないそれらを眺めながら、息を潜めて過ごしていたのです。
 罵られる覚悟があればいつでも妻も子どもも抱きしめられたはずなんです。わたしはわたしなりに家族を大切に思っていました。けれど思うだけで何もできなかったのが生涯で一番の失敗です。
 どうして家族を大切にしなかったか? 大切に思うだけでは不十分だったのです。そして気付くには遅すぎた……」
「じゃあ前に大切にしてこなかったって言ってたのは? 」
「まだ迷っていたんです。当然今も。ずっと悩むでしょう」
「また家族に会いたいと思う? 」
「会えたとしても私が怯えて会話もできず、お詫びのような贈り物や手紙を押し付けて逃げ去るのでしょうから、今は彼女らの幸せを祈るばかりですよ。もう家庭に未練はありません」
「陸も海も変わらないんだね」
 ベオは淋しそうな背中でレジグナチオの元へと行きました。
「ね、火傷はどれくらい良くなった? 」
「う~ん、割と広範囲だったから心配していたけど治りが早かったね。ちゃんと毎日決められた以上の水分も摂っていたもんな。えらいぞ」
 ベオは嬉しそうに次は子どもたちの元へと歩いていくのでした。
 レジグナチオはそばにいたティモに話しかけます。
「こないだ、と言ってもだいぶ前になるけどさ。出会った時にさ雑に扱ってしまってすまなかった」
「うーん。忘れちまったぞ。レジーも昔のことでくよくよしないでおくれ。ほら今日の乾パン」
「ありがとう。ティモも栄養状態が良いわけではないんだからしっかり食べなよ」
「言われなくてもモリモリ食ってる」
「嘘なんてよせよ。子どもたちに自分の分まであげているだろ。言ってくれれば分配量を変えるんだからな、ちゃんと食べろ。ほら見せてみなよ、鶏の脚みたいじゃないか」
「だけどよ、おれは穀潰しだし……」  
「そんなこと口にするな。この旅が明るくなってきたのはティモが来てからだ。それにお喋り上手もこの旅の安全性を保つのに不可欠だ。ティモがいなけりゃ子どもたちはまた暗くなるだろうな」
「えへ、そんなに褒められるなんてさ生まれてから片手で数えられるくらいしかないからさ、ほんとに嬉しいよ。子どもたちに分けているのはさ子どもたちがねだってくるからじゃない。空腹続きの幼少期を思い出してね、この子たちにはあんなひもじい思いをさせたくないって。おれの願望でやってるんだ。あの子たちが頬張っているのを見るとさ最高に幸せなんだぜ」
 ティモは茶けた歯を出して笑いました。
 それから一向は車を押しながら再び旅を始めたのです。 
 
「これから町が幾つか続く。小さいがクプローザ軍はいるだろう。RNRだと思われないようにするから聞いてくれ」
 レジグナチオはそう言うとルミーロは負傷し荷車で運ばれる父、老人はレジグナチオの祖父、ユストューロは弟、ティモはお調子者の三男坊ということに。子どもたちはそれぞれレジグナチオとユストューロのこどもとして振舞うことになりました。
「家族ねえ……」
「不満か? 」
「いや、わしには懐かしい響きだと思うてね。演技でも家族ができて嬉しいよ」
 アヴォ老人はしわしわな手でレジグナチオの手を握ります。思っていたよりも力が強かったのかレジグナチオは「痛いよ爺ちゃん」と口走りました。
「爺ちゃん……」
「いや、あの今のは練習だから、練習。咄嗟の場合に備えてね? 大事なことだし……」
「レジーさんもかわいい一面があるんですな」
 レジグナチオの苦い顔に一向はクスクスと笑うのでした。
 さて一行が目指す海辺までは小都市が三つ続きます。真ん中の都市はロホイ人の多い土地ですから比較的安全ですが、前後二つの都市にはクプローザ人が多いため少々危険です。一向は分水嶺を越え、海に向かって下っていきます。下り坂では荷車を進行方向とは反対に向けて進みます。
「海に着いたら泳げるの? 」
 フェリーチャが尋ねます。
「運が良ければ泳げるだろう。海が好きか? 」
 ユストューロは優しく問いかけました。
「海って入ったことないの。タロもだよね! 」
「うん……」
 遠慮しがちなタロはいつものようにうつむき加減で頷きます。一方でミカエロはフェリーチャの帽子を盗って、「わたしは入ったことあるもん。海ってね冷たくてね塩辛いんだよ! 」と自信たっぷりな表情で言いました。
「もう帽子返してよ」
「いやだ」
「なんで? 」
「なんでも。フェリーチャには関係ないもん」
「関係ないってその帽子はぼくのだもん! はやく返してよ。」 
「ケンカしたらダメっていつもベオお姉ちゃんが言ってるよね! ミカエロは早く帽子を返しなさい」
 ベオはミカエロを叱ります。
「だって……」
「だってじゃないでしょ? どうして盗ったの? 」
「かっこいいんだもん。欲しいなって思ってたんだもん。」
「いくらかっこよくて欲しくても人のものを勝手に自分の物にしたら駄目でしょ! ちゃんと帽子を返して謝ってごらん」
「帽子ごめんね」
「いいよ……」
 ベオは二人の頭をよしよしと撫でました。その後でレジグナチオに余った布がないか尋ねるのでした。

 一つ目の都市ロンザードには明くる日の夕刻に到着しました。もちろんクプローザ軍が駐屯していないはずもなく、幹線道路には検問所が設置されています。
「止まってください。身分証を」
「混乱続きだったもんでね、身分証どころか財布なんかも無くしちまって」
 ティモはポッケもすべて裏返して警官に見せつけます。粉くずポロロと落ちて警官も「もう分かったから」と制止するのでした。
「じゃあ避難ですか。それにしては大人数で」
「一族皆一緒に暮していたわけではないのでしょうがないっすよ。特にこの父。脚を撃たれて切断する破目になったってのに家に残るって聞かなくてね。無理やり連れてきたんす」
「それは大変でしたね……。まあお気をつけて」
 そうして検問所を無事通過できました。町に入るとやはり同じく戦禍を免れてきた人々が多数見受けられます。皆大なり小なり傷を負っている者ばかり。仮暮らしの町に安心感は無いのか暗い表情が道端に蹲っています。
 町の中央を曲がりくねるロコン川は平時であれば市の花ツユクサの盛りですが、このところ埋めつくすのは逃れてきた人々。けれどアヴォ老人の目にはあまり珍しくもないといった様子でした。
「長い年月生きるとな、またか、と思ってしまう淋しい諦めが第一に過ってしまうんじゃ」
 一向にも宿泊地などはないものですから、やはりロコン川の川岸に眠るのが最良だと皆考えました。もちろん市街地に行けば雨風は防げるかもしれません。しかし広くはない道で身の危険を晒しながら眠るのはあまり得策ではなかったのです。
「せせらぎが心地良いですね。わたしはまあ人魚ですから水辺が落ち着くのでしょう」
「雨が降ったらおしまいだ。いつまでもそう呑気だと困る」
「ユストューロさん。こんな状況でわたしは何をあくせく働けばよいのでしょう。むやみに心を働かせて不安を強くするのはあまり褒められたことではないでしょう。静かな夜が甘美な眠りを与えてくれるのを呑気に呑気に待ち続けるのですよ」
 ルミーロがこう言うとユストューロは舌打ちをして寝返りを打ちました。それもそのはず、ユストューロは酷く疲れていたのですから。果てのない逃避行の中、荷車を曳き続け全身余すところなく疼き凍えていたのです。心とて同様です。
 けれどユストューロはそのことに不満を漏らさず耐えました。女神が朝日を吊り上げるまでユストューロの眠りは浅く苦しいものでした。何度夢を見たことでしょう。目の前に現れてはすぐに記憶から去っていく物語。ユストューロは浅い眠りの中で役割を演じ、転々とする舞台に混乱するばかりでした。
 それを解きほぐしたのは暖かな陽光です。いつまでも続く夢を朝日は切断し、ようやくユストューロを深い眠りへと誘ったのです。
 けれどそれは長くは続きませんでした。仲間たちが出立を告げたためで、ものの三十分も甘美な眠りをユストューロは享受できませんでした。
「ユストューロ、ユストューロ。起きるんだ」
 レジグナチオがそう声を掛けたときユストューロは返事が出来ませんでした。疲れ果てていたのです。彼はもう起き上がることができませんでした。声を発する力もありません。
 ユストューロが次に目覚めたとき、その体は今まで自らが牽いていた荷車の上にありました。ガタガタと小刻みする荷車の上で体を起こすと見えるのは小さな村落。すでに日は西に傾き始めていました。
「あれ、どうしてここに乗っているんだ」
「ずっと働かせてしまってすまなかった。疲れているのに早く気付くべきだったんだ。ぼくは医者失格だ。さあ具合が良くなるまで休んでくれ」
「でもこれじゃルミーロが……」
 ユストューロが重たい体を起こすと、ルミーロはアヴォ老人に支えられながらではありますが杖を持ち自力で歩いているではありませんか。
 傷口からわずかに出血はしているもののルミーロの顔には苦しさなどまるでありません。
「この程度平気ですよ。海ではヒレをかじられた友人もいました。わたしは義足があるだけ幸運なんです。わたし反省しているんです。ユストューロさんが倒れるまでわたし一人呑気な旅をしていました。銃口がこちらを向くなんてことはないだろうとさえ考えていました。けれど皆さんは違うんです。銃口を向けられながら命を抱えて逃れてきた、そんな方々ばかりなんです。ですから私も現実を見なければなりません。幻想に逃れるのはもう終わりです。それからいつもわたしは地上に来たことが過ちだったのではないかと抱え込んでいました。お粗末な憧れに誘われて不自由な体になってしまったのだ、すべて地上に来てしまったからだと思っていたのです。ずっと心の隅に置いていました。わたしは哀れなやつだ、なぜこんなに憐れな姿になってしまったのだ、と。きっと憐れな身の上だからこそこの人たちはわたしを助けてくれるのだ、そうであるならばもっと優しくしてもらってもいいはずだ。そんな考えすら過りました。ですがそれは間違いです。この旅の中で分かってきたのです。皆さんはわたしが憐れな身だから助けてくださるのではない、そこに命があるから放ってはおけないのだと。道徳や教義といった言葉にしやすいものでもないのかもしれません。皆さんも命を危険にさらしているのです。そんな人たちの優しさに甘え続けるのは恐ろしいことでした。分かったのです。自己憐憫は甘い汁だと」
「そうか……。だけど無理はするなよ。おれたちは誰もルミーロを責めたりはしない」
そう交わした後、ユストューロはレジグナチオの方を見やりました。
ルミーロが歩くことになって一行の進行は遅くはなりました。けれど急げば助かるという単純な逃避行でもありませんから、なるべく一人ひとりの体力を温存しながら着実に進むのが最善だとみんな考えたのです。
 ユストューロはレジグナチオから粥の缶詰を受け取ると、なんだか申し訳なさそうにフタを開けます。
「いいのか? みんなはちゃんと食べたのか? 」
「ユストューロさん、気を遣いすぎですよ。わたしたちはみんな食べましたから遠慮なく召し上がってください」
 不安げなユストューロにルミーロは穏やかな声でそう言うのでした。
「それにしても思ったより早くロンザードを抜けたんだな。」
 ユストューロは粥をすすりながら尋ねます。
「まだ戦禍をほとんど受けとらんかったからの。おまけに憲兵が少なかった。おかげであの橋の下から一度も止められんかったよ」
 アヴォ老人が伝えます。
「そりゃ助かった。次はどうなるかな」
「ランボールは迂回することにしたよ」
「どうして」
「とっくにRNRのゲリラが占拠したらしいからなあ。なんでもロンザード防衛のために中隊が去った途端に一晩でやられたらしいよ」
「ロンザードで聞いたのか? 」
「そうそう。怪我をしたロホイに聞いたんじゃ」
「どうしてロホイが怪我を。あそこは大半がロホイじゃないか。」
「どうしてと言われたってなあ。わしにもわからんよ」
 ユストューロは頭を抱えました。
 そうこうしながらも一行はロコン川沿いに歩みを進め、山一つ遠回りしてランボールを迂回します。夕方になると暗い森から小鳥の羽音が聞こえてきます。元々悪路だったのにも加えて今はこのようなご時世ですから、自動車などは通りません。運転すると怪しまれるので皆避けているのでしょう。ですから黒々とした森に錆びたガードレールが浮いて物悲しくもあります。
「となるとエミメまではどのくらいだ」
「ロンザードから北に三時間、西に四時間進んだからそうだな、おそらくあと二日はかかりそうだ。ここはきっと地図だとこの辺だ」
 レジグナチオは足を止めユストューロに地図を見せます。
「ピエヌ……。知らない土地だな。ロンザード県北といったところか」
「ユストューロにも知らない土地があるのか」
「あるに決まっているだろう。用事がなけりゃ来ないさ」
 そう言った後もユストューロは地図を指さしながら眺めています。
「本当はユストューロの意見を聞いてから出発すればよかったんだが……。地図読みが得意なやつが倒れちまうと困ってしまうな。とにかく目印を見失わないようにとロコン川からは離れちゃいないが」
「それだけでも助かった。なんにもない山中で目覚めたらどうしようかと思ったぞ」
 ユストューロとレジグナチオは笑いあいました。
 日が暮れる前に一行は野営の準備に取り掛かります。今夜はいつものテントではありません。ティモがロンザードで盗んできた帆布を用いるので、いつもより隙間風が入りません。これを子どもたちのテントにし、普段の布は二枚重ねにしておとなたちで使います。
 テントを川岸の崖近くに設営すると、レジグナチオは怪我人の治療、進路設計と情報収集、ティモは子どもたちを連れ川に罠を仕掛けに走りました。

 一行がエミメに到着したのは次の日の昼でした。ユストューロの発見により舗装された山道を通って近道をすることが出来たのです。
 が、山道から下ることはせず市街地とそこに入る道路の様子を観察していました。
「やけに軍事車両が多い」
「ランボールが占拠された影響だろう。進むのは危険かもしれない」
「待てよ」
「どうしたティモ」
「あいつら山中で見た顔だ」
「誘導殺戮のか」
「そうだよ。そうだ、あの気取ったスカーフを忘れるはずがないんだ。止そう。行けば必ず殺される」
 ティモは小声で言います。視線の先には白色の肌を隠す赤と白のスカーフがありました。ライフル銃を肩に担いだ彼は仲間に話しかけ、煙草の火をもらいます。
「迂回するか? 」
「もう食糧もない。それに迂回できるほどの体力も残っているか」
 その時立ち昇る土煙とともに銃声が響きました。北に八百メートルほど先、その後も数発続きます。
 眼前の哨戒兵は銃声に対し何の反応もありません。むしろ煙草を旨そうに吸うばかり。吸殻を地面に放るとブーツで踏みにじります。
「今ので何人死んだか……。ぼくの国はこんな血煙乱れる場所じゃなかったはず……」
「静かに。こりゃクプローザ軍の銃声じゃないかもしれん。」
 アヴォ老人が目を細めて言います。
 北西一・七キロメートル先、立ち昇る土煙が常時の量ではありません。しかし砲撃や車両の姿は見えず。
「風無し。市街区外からの銃声、これは……」
「RNRか? 」
「いや、RNRなら装甲車くらい保有しとる。」
「じゃあなんだ」
「わしにもわからんよ。ちと地図を見せてくれんか」
 アヴォ老人は地図と街の立地とを入念に照らし合わせます。
「よいか、事が起こったらルミーロと子どもたちを荷車に乗せ覆いを掛けろ。目の前の哨戒兵はわしが何とかする。そのうちにユストューロとレジグナチオは荷車を牽いて北西の郵便局を目指せ。赤い旗が目印だ。それから武器を拾え。じゃが戦おうとはするな。わかったかね」
 アヴォ老人は皆に説明しました。
「何が何だかわからんがおれはどうしたらいいんだ。」
「ティモはわしに付いておれ」
 ティモは黙って頷きました。誰もアヴォ老人の素性を知りませんでしたが、この時誰も知ろうとはしませんでした。皆アヴォ老人の目の奥にある冷静さと業火に恐れ沈黙し、一方では身を委ねるほかないと思わせたのです。 
 アヴォ老人はベオに尋ねます。
「紐があったかね。できれば長いと嬉しいよ」
「これ! たくさんあるよ」
「ありがとうよ」
 アヴォ老人はそう言うと木々に分け入り姿を消しました。
「レジグナチオ、あの爺さんは一体何者なんだ? 」
 ユストューロはそう訊きましたが、レジグナチオは首をかしげるばかり。道中で巡り合ったばかりなので仕方ありませんが。
 事は思ったよりも早く発生しました。十分ほども経ってはいません。北西で始まった銃声は次第に市街中央辺りまで移動。眼前の道路で待機していた軍用トラックも人員を乗せて去りました。残ったのは赤いスカーフの兵に加え二名の哨戒兵。
「行くぞ」
 アヴォ老人は即席の弓と矢を携えて皆のもとへ戻るなり、ティモを従えて坂を中腰で下り始めました。張り詰めた弓と先の削られた矢。風は無し、視界は良好。矢をあてがいアヴォ老人は目を閉じます。深い呼吸の後で鎮めた眼を開き、切っ先鋭き矢を放ちました。
 噴き出す血と沈黙の死。もう一人の哨戒兵は敵襲に怯え、ライフル銃を振り回しています。けれどこちらの姿が見つかることなく次の一矢は死に向かって放たれ、鮮血が地を染めました。
「みんな行くぞぉ」
 一行は荷車を道路に降ろすとルミーロと子どもたちはその上に、ユストューロとレジグナチオは北西に向かって牽き始めました。
 アヴォ老人は哨戒兵のライフル銃を手に取り、ティモにも手渡します。
「撃ったことあるんじゃろ? 」
「どうして」
「きみは元RNRじゃないか」
「違うよ爺さん」
 ティモは首を横に振ります。
「わしは撃ち損ねた相手を忘れはしない。じゃが今はともに旅する友。怯えずともよい」
「なーんだ。知ってたなら最初から言ってくれればいいのにさ。そうだよおれはRNRを抜けてから追われ続けた。いつも奴らに見つからないように凝らしてきたんだ。で、爺さんあんたは何者なんだ」
「教える必要はないよ。さ、この街を切り抜けようじゃないか」
 そう言うとアヴォ老人は先導し荷車を誘導しました。市街はゲリラとクプローザ軍の銃撃戦でひどく混乱しており、逃げ惑う市民たちはみな東へ向かって走ってます。道端には弾丸を受けた人々が蹲っています。けれど一行には彼らに構っている余裕などありません。もちろん医師であるレジグナチオに葛藤がないわけもありません。彼らの苦痛な表情に目を背けずにはいられなかったのです。
「レジグナチオ、しっかり前を見ろ。」
 ユストューロはレジグナチオにそう言います。
 死屍累々の中には子どもの姿もありました。父母を起こそうとする幼児の姿も。幼い弟を背負って立ち尽くす兄。既にその弟はなくなっているというのに。
 銃撃戦は市街の中央、東に向かって移動しているためクプローザ軍にもゲリラにも遭遇はせず、街外れの郵便局前まで来たとき、ベオが荷車の中から飛び出しました。
「ベオ! 何しているんだ、早く戻れ」
 ティモは叫びます。ベオは道端に転がる赤子を拾いに走ったのです。死を恐れず駆けました。ティモがベオの後を追いかけていったその時、郵便局の中に潜んでいた一人のクプローザ兵がライフル銃を構えました。
「ティモ! 十時の方向! 」
 アヴォ老人が言い終わる間もなく、その兵士はティモの放った銃弾に倒れていました。
「ベオ! なぜこんな危険なことを」
「ごめんなさい……。でももう我慢できなくて」
「その子のために命を落とすところだったんだぞ」 
「でもこの子がこの国の未来を創るかもしれない」
 ティモはベオを抱きしめました。

 海岸までの道中は銃を捨てずに歩みました。一行は既に疲労困憊です。エミメでは気付かないうちに無数の傷をつくっていたのです。レジグナチオの応急処置で酷くはなりませんでしたが、既に医療品も底を尽きています。
 それに皆やせ細っています。缶詰も何もないのですから。
 エミメから二日北へ歩き夜も更けた頃、ユストューロが約束した地へとたどり着きました。
夜霧に紛れて出航する船は人々を無理やり詰め込んでいます。溢れかえった人々は息苦しさを訴えます。
血なまぐさい臭気が嘔気を誘いました。岸辺には積み上げられた遺体もありました。きっとここで力尽きたのでしょう。
 ユストューロは人群れの傍らで船主と帳簿の確認をするのでした 
「人が増えた? 前預かった金じゃ足りねえよ。おいおい金はあるのか? 」
「あとはこれだけしか……」
 人数が増えたことで、前に渡した密航料だけでは足りなくなってしまっていました。
「足りない。どんな世の中か理解してんのか。乗りたいやつは仰山おる。あいつもそこのやつも。ここにいる人間の群れは全てそうさ」
「それは……」
 アヴォ老人はユストューロと船主の間に割って入り話します。
「わしはこんな老いぼれ。生き延びたとて先はみえません。むしろここまで共に過ごせたことは僥倖ですよ。どうぞ置いて行ってください。ここであなたたちの無事を祈らせていただきます。どうか船主さんこの方たちを運んでやってください。お願いします、お願いします。どうか……」
 船主は渋い表情を呈するばかり。
「仕方ない、子ども四人はこっちの船に乗ってあんたらはあれに乗んな。ほかの奴には言うなよ」
 ベオと子どもたちは丈夫な船に、ルミーロたちは木製のボロ船に案内されました。誰もいない港を後にして。
「これで安全な場所に辿り着けますね」
「どうなるかと思った。ユストューロありがとう」
 みんな安心していました。いいえ、ひと時の安堵。それがいつ壊れてしまうか考えてはいても口に出してしまえば事実になってしまう。恐れを隠しているのです。おとな達はごく自然に、子どもたちは唇を噛んで。
 船は息の詰まるほど人を詰めて海を航行します。密着する人々の汗や血が吐息に交じり、膿んだ誰彼の傷は異臭を放ちます。船旅とは言っても水平線も潮風もありません。
「これでクプローザからもRNRからもおさらばだ」
「かと言って俺達を受け入れてくれる国があるか分かんねえ。どこに行ったって邪魔者扱いされる気がしてならないな」
 船の揺れは人々を容赦なく惑わせます。
「家族を国に残したまま俺だけ逃げるんだ。もう会うことも叶わないだろう。新しい家族を見つけるか? そうやって俺ひとり幸せになるのもいいだろう。けどなやっぱりな……家族も故郷も愛しているんだ。早く戻りたい。また故郷で過ごしたい」
「もうあの国は無理だろ……」
「今は国を造り直すよりも個々の命が大切だ。おれも自分の命しか考えられない。国なんて自分の命よりずっと優先順位が低いもんなんだな」
 溜息ばかりの船上に旅情などありませんでした。

「ねえねえ、それからどうなったの? 」
「船が沈没してみんな亡くなりました。大きな爆発音の後の記憶はありませんが……」
 けれどルミーロだけは生物として生き延びることはできました。たとえ自力で泳げなくとも、波に漂うだけの生命であっても。幾年月もルミーロは傷だらけの体で海中を漂い続けました。
 幼少イルカがルミーロに尋ねます。
「人灯ってどんなものだったの? 」
 ルミーロは言います。
「人間の血。血が多く流れました。海にも流れ込んで滲んだ。それを太陽は赤い光に取り替えて、美しいかのように海底へ映し出してたんだ。わたしはもう夢をみることはないでしょう。これからの余生はただ悪夢の中で人灯が無くなることを祈るだけです」

 大海原の真ん中で戦闘機や爆撃機が船の上空を飛行し始めました。 
「レジグナチオさん……。大丈夫でしょうか」
「分からない。こればかりは祈るしかない」
 そのとき二艘の船は空からの贈り物によって大破され、溢れる血溢れる血溢れる血。燃える海面、悲鳴の響く、それもまた消え。
「ルミーロ! ルミーロ! 助けて! 」 
「ベオさん……! 今行きますから……」
 ルミーロはそう言いながら藻掻く人間たちに引きずり込まれ海深くまで。海面まで上がろうとしても血に染まった海中では身動きもとれず、それでもルミーロは必死にベオを、仲間たちを助けようと這いあがりました。
「ベオさん、ベオさん……。今行きますからね。どこへ行こうと助けてみせます」
 既にベオが息絶えて沈んでしまったとは気付かずに。
「レジグナチオさん……。酷い出血だ。傷の手当てをしますよ。わたしにしてくれたみたいにね。ほら起きて、起きて返事をしてください……」
 ルミーロはレジグナチオに船の木板に掴ませてまた海中に戻ります。もはや誰も息などしていませんでした。吐いているのは血ばかりです。
 海面まで上昇したルミーロは先ほどの木板のみが漂っている海に激しい絶望を残して、自らも海に沈んでいきました。
〈了〉


 ここまでお読みいただきありがとうございます。このアンソロジーによってひとつでも多くの命が救われることを願っています。本当にありがとうございました。

おわり

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