相手のことを「全て理解できない」ことがわかったら楽になった件について
ワードプレスでサイトの内容を一時的に公開できると思って
勢い余って公開ボタンを押してしまったみげです。
ちゃんとメンテナンスモードにできたので一安心(泣)
もうちょっとメンテナンスができたらネットの海にダイブさせてやろうかと模索してます♪
さて、今日感じた気づきについて書こうかと思います。
それは
他人の考えを知るには”完全にその人自身になれるまで”はわからない
ということ
ここ最近”ヨーガ・スートラ”というヨガの教典を読んでいます。
ざっくり言えば
「ヨガについて書かれているすごく読みにくいけどすごいためになる本」ですかね!(おい
今は現代人のためのヨーガ・スートラなるものがあるので
そっちを読んだ方が読みやすいのかもしれません。
その中身を読んでいくと、初めはヨーガについての話ですが
読み手にも理解できるような例も入っているので
「ヨガとは何か」を知ることができます。
その中では「神」というワードが出てきますがその話は置いといて•••
読み進めていくとこのようなワードがありました。
私を完全に理解したかったら貴女は私自身にならなければならない
でなければ
あなた自身の能力に応じたわたしを理解するに過ぎない
(ヨーガ・スートラ143頁より)
至極当然な文章であるがこれがまた深い。
***
人間、お互いを好きと感じて関係を持って過ごしていても
何かの拍子で”疑うこと”って少なからずあるかと思います。
例えば「ふと目に止まった携帯の相手」だったり
「PCで調べていた内容」とかその他もろもろ•••
疑うことって全てが悪いわけではないと思うけどあまりしたくないです。
でも、その”疑う”って動作は
自分の中にある”過去の傷ついた事柄”を引っ張り出してきてくっつくことで
はじめて”疑う”という動作が初めて生まれるのではないか、と思うのです。
特にその疑うことから裏切られたり傷ついたりしたときは尚更感じるかと思います。
相手へメールを送った理由、この検索をした理由
その深意を本当は知りたいけれど
相手が全てを話してくれるかはわかりません。
それに話している内容が”真実かどうか”なんて疑った側もわかりません。
***
ヨーガ・スートラに書いてあったことを元に
”相手の考えを完全に知るためには相手そのものにならなければわからない”
と考えてみると
何を相手は考えてそれをやったのかなんて
考えても仕方がないってことなのかぁ〜
と思いました。
(気づいたときはなんだかガクッと膝から滑り落ちそう感じでした笑
でも同時に「その場の感情に左右されずに消化できたことでもあるのか」と
自分を褒めたくなりました。
相手のことなんかわかりっこ出来ないんだから
だったら今目の前の相手を見て判断しよう!
ダメならダメでいいやぁ〜くらいのところまで今日はたどり着きました!
疑うってとても寂しく感じるけど
いい意味で自分が成長できた気がするので
成長させてくれてありがとうな!!くらいの気持ちでいます。
ありがとう自分!ありがとう起きた出来事!
自分の内面を知ってさらに成長していきたいなぁ!
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