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金馬賓館殺人事件|フォルモサ台湾ショートストーリー(栖来ひかり)

この連載フォルモサ台湾ショートストーリーは、現地在住の文筆家・栖来ひかりさんが台湾を舞台に紡いでゆく短編小説集です。第2回は、台湾南部の港湾都市・高雄が舞台です。日本統治時代から積み重なる歴史の地層のうえで、過去と現在が複雑に乱反射して織り成す親子の儚い物語とは──。

「犯人はあなたですね、チョウ美鏡メイチンさん。いや、かど鏡子きょうこさん」

シェ刑事の目はまっすぐ鏡子を射抜いた。もう逃げることはできない。不思議な安堵感に満たされながら、鏡子は軽く目を閉じた。

「ふふ、どうしておわかりになったの?」

トンビの聲が頭上とおくに響き、海に近いことがわかる。北回帰線を越えた台湾南部のつよい日差しが廊下に並ぶ細い柱の隙間から差し込んで濃い影をつくる。貧血を起こしたときのように日陰のコントラストがギラギラと鏡子の眼前に迫り、廊下の壁に貼ってある「検挙匪諜 人人有責(スパイの検挙は一人一人の責任)」という標語が黒っぽくぼやけた。

「気づきませんでしたか? 被害者が、最後にメッセージを残していたのを」

謝刑事はそう言って、手元の時計に目をやった。

「頃合いですね」

謝刑事は上階へ上がるよう、鏡子を促した。3階の小さな部屋にふたりが足を踏み入れると、床には白いチョークで描かれた人型があった。刑事は一枚の写真を、人型のちょうど右手にあたる部分の先に置いた。部屋には他に小さな書き物机と椅子があるだけだった。刑事が床に置いた写真には、被害者の血で描かれた小さな丸、そして脇にちいさくアルファベットの「k」のような文字が見える。

1920年代より敵対関係にあった中国国民党と中国共産党は、第二次世界大戦終結によりふたたび武力衝突を開始した。一方で、1895年の下関条約より日本が50年のあいだ領有していた台湾および澎湖諸島は、日本の無条件降伏により、1945年8月15日をもって戦勝国である中華民国の統治下に組み入れられた。1947年からは、蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党の国共内戦が本格化。1949年には共産党が中国大陸を掌握し、敗北した蔣介石の国民党は台湾に撤退する。これより蒋介石の中国国民党は台湾を拠点として、アメリカの支援を受けながら中国大陸を奪還する「大陸反攻」を最終目標にすえた。そうした冷戦下で、対共産圏の最前線となったのが金門と馬祖である。

1958年8月23日、中国の人民解放軍より5万発を超える砲弾が金門に発射された。第二次世界大戦以降、中国と台湾のあいで起きた最大の武力衝突である。金馬賓館がここ高雄のシンに建設されたのは、そんな年のことであった。金馬賓館は緊迫した戦時下、物資も少ない苛酷な金門と馬祖に送られる兵士たちのための施設で、ここで愛しい人々と最後のひとときを過ごした兵士たちは戦地の離島へ旅立っていった。

1965年、この金馬賓館で若い女性が殺された。馬祖への配属が決まっていた若い兵士、李一雄の婚約者であった。事件は内々に処理され、李一雄は第一容疑者として秘密裡に軍に逮捕された。しかし、その死には不審な点が多く、軍の要望で内々に事情を探っていたのが謝刑事である。謝刑事は人がよさそうに微笑んだが、目の奥は笑っていない。

「最初は、“O.K”という風に読めたんです。殺されて“O.K.”だなんておかしいでしょう、はは。ここで、何日も何時間も過ごしました。それで、ついに見つけたんですよ」

「あ」

鏡子はちいさく呻いた。

コンクリートの壁に四角く切り取られた窓から、西陽が差し込む。西陽は白い壁に囲まれた部屋の四方にプリズムのように複雑に反射しあい、そのひとつの光が机の脚を支える金具を捕えている。小さく四角い銀色の金具に更に反射した光は白く輝いて床に落ち、そこにちょうど置かれた謝刑事の写真を小さく照らし出している。

明るく白く長方形に縁どられた光の真ん中に浮かぶ赤い丸。懐かしく慕わしい、しかし自分から遠く隔っていった日本の象徴がそこにあった。

日本統治下の台湾で生まれ育った鏡子は、終戦も近い1943年に本島人(台湾籍)の男性と結婚した。1945年、日本の敗戦により台湾が中華民国に編入されると、日本人の引き揚げが始まった。1947年には中華民国への帰化を条件に台湾人と結婚した日本人のみ台湾に留まることをゆるされ、約250人の日本女性が日本国籍を放棄した。鏡子もそんな日本女性のひとりだった。台湾で生まれ育ち台湾人の夫をもつ鏡子にとって、一度も訪れたことのない内地に渡るより、そのまま日本国籍を放棄して台湾に留まるのは自然なことだった。鏡子は夫の姓を取って名前を「邱美鏡」に変えた。

「捜査しているうちに、李とかつて恋人関係にあったあなたが浮上してきました。“元・日本人”のね。そしてあなたのかつての日本名、“キョウコ”の頭文字は“k”」

鏡子が35歳のとき夫は病気で死んだ。228事件では多くの台湾エリートが政治的にあらぬ疑いをかけられ拷問を受けたり殺されたりした。鏡子の夫は228事件でこそ難は逃れたものの、その後1949年より再び戒厳令下になると数か月間行方不明になり、ある日からだじゅう痣だらけになって戻ってきた。命に別状はなかったが、それ以来、口数すくなく病気がちになった。夫はそれなりの財産を鏡子に残して亡くなったので、生活には困らなかった。しかしその後、鏡子は15歳以上も年下の李一雄と出会って恋に落ち、気も狂わんばかりの恋愛のすえ別れを告げられたのだった。

「許せなかったんです。一雄が馬祖に行く前に、最後のときを過ごすのが私でないなんて。でも、おかしいわね。国籍を放棄したあのとき、もう私は日本を捨てた、日本人ではなくなったと思っていたけれど、他の人はそう思ってなかったのね」

春風に触れた氷が溶けていくように鏡子は饒舌だった。謝刑事はその様子を見ながら、金色の小さな蝶が飛び交うように咲き終えてはらはらと花を落とす台湾特有の文心蘭を思い出した。文心蘭は謝刑事の母親が好きな花で、居間によく飾られていた。花を落とすギリギリまで、華やかさと可憐さをこの花は失わない。

「人は、国籍にだけ属しているものでありませんよ。かといって、血だけがその人を決めるわけでもない」

「そうね。次に生まれてくるときは、もっと違った生き方があるのかしら」

そういうなり、鏡子は素早く走り窓に飛び乗り、下界に身を投げた。謝刑事が止める暇もないあっという間の出来事だった。階下でどさりと鈍い音がした。

* * *

「カーット!!!オーケー!」

監督の声が建物全体に響き渡る。

「お疲れ様でーす!鏡子役の神座かんざすみれさん、これでオールアップでーす!」

日本人の助監督がそう言いながら花束を持ってきて監督に手渡し、監督からすみれに贈られると撮影現場は拍手と笑顔に包まれた。抱きかかえるほどの大きな花束をのぞき込むと、黄色の文芯蘭が小さな花弁をほころばせている。監督が労いの言葉をかけ、すみれの今回の現場におけるマネージャー兼通訳の「ナナちゃん」が逐一日本語に訳す。ナナは日本と台湾のミックスで、今年40歳のすみれよりは随分と年は下だ。

すみれは20代のころテレビドラマで人気を博し、その後は数々の映画作品に出演して派手ではないが着実に存在感をみせる女優である。『金馬賓館殺人事件』という、日台合作で製作される歴史ものサスペンス映画の主演の話が、キャスティングで揉めに揉めた末にすみれのところに転がり込んで来たのは4か月前だった。クランクインまで時間もなく、言葉も出来ないし、しかもこれまで余り経験のない海外ロケ。戦後の台湾という設定に面白みがあるとはいえ、一昔前の「よろめきドラマ」のような陳腐な脚本に最初は気乗りしなかったが、セリフの華語部分はアフレコ、しかも映画の舞台が台湾南部の都市、高雄の哈瑪星と聞いて引き受ける気になった。

哈瑪星は日本統治時代に日本人の居住区として形成された港湾の埋め立て地で、隣接する塩埕埔えんていほと共に戦前まで高雄の中心だった。すみれの祖父はかつて台湾総督府の土木局水道課に勤めており、高雄に赴任していた。すみれの父親・神座次郎も高雄生まれで、終戦により7歳のときに日本へと引き揚げた、いわゆる「湾生」である。

すみれは神座次郎の二度目の妻とのあいだに生まれた子供だったが、すみれが中学校に上がるころから父母は不仲になり別居を経て離婚した。すみれも最初は父親の一人住まいを時おり訪ねることもあったが、そのうち関係がぎくしゃくするようになった。思春期だったこともあるが、父親がその後、最初の妻と再婚したことで不協和音は決定的になった。父親が長いあいだ母と自分を裏切っていたのを許せなかった。

それから25年以上の月日が過ぎ、父親の危篤が知らされたのは台湾で撮影が始まる数日前である。クランクインを控えたすみれにとって、疎遠になった父親のために仕事を調整する選択肢など無かった。いとこを通して父の容態を知らせてくれたのは、殆どこれまで意図的に接点を持とうとしないできた父の前妻で再婚相手だった。すみれの母親が60代後半なので、相手はもっと年上で70代後半だろうか。

すみれにとって、父と具体的な関わりをもつことで自分の心情より気にかかるのは、母を傷つけないかどうかである。出国の前日、すみれは母のもとを訪れた際にさりげなく父の危篤を告げた。母は少し考えてから言った。

「ね、すみれちゃん。パパのこと、ママにはもう終わった関係だけど、パパがあなたのパパであることは変わらないのよ。すみれちゃんをこの世に授けてくれたことだけは、ママもパパに感謝してるんだから」

「でも……」

すみれはなにかを言いかけたが、やめた。大好きな母は、そう思うことで人生における自分の選択を受け入れようとしているのかもしれない。家に戻ってからすみれは台湾行きの荷物をまとめたあと、父の再婚相手とLINEを交換した。

* * *

「すみれさん、すぐホテルに戻りますか?」

控室で着替えを済ませ、メイクを落として身づくろいをしているすみれにナナが声をかけた。

「ここの建物、今は現代アートの美術館になってるんですよ。ロケに使ってない部屋の展示は見られるから、せっかくだし最後に見ていきませんか?」

ナナに連れられ、すみれは展示室に入った。

広い展示室にはいくつもの台が置かれ、その上に色とりどりのネックレスや指輪、オーナメントが並び光彩をはなっている。よく見ると、ひとつずつの作品を形づくっているのは何かの部品、いや球面レンズだ。ナナが説明を加える。

「これね、ドイツに住んでる日本人ジュエリーデザイナーの作品らしいんですけど、アンティーク・カメラのレンズを組み合わせてるんですよ。面白くないですか?」

仔細にみるとなるほど、ジュエリーは作品ごとに一眼レフカメラのレンズを丸く切り取って組み合わせたもので、薄膜をまとった球面は虹色に反射する。アンティーク・カメラということは、このひとつひとつのレンズにかつて異なる持ち主がいたのだろう。

「ってことは、このレンズたちは、色んな場所で色んな風景を切り取ってフィルムに焼き付けてきたってことだよね」

玉虫色にきらめく眼前のレンズ製のジュエリーに、すみれの心は吸い込まれた。この一枚一枚のレンズはどんな景色を見てきたのだろう。山頂からの景色、四季の彩り、家族たちの肖像、それとも、あたらしく世界に生まれた命。

「もしかしたら、殺人事件の現場を映したレンズもあったりして」ナナが悪戯っぽく笑って言う。

「これヒントにして脚本を練ったら、もうちょっと面白いトリックになったかもね」

「えっスミレさん、キビシイ!誰かに聞かれたらどうするんですか!」

焦って展示室の入り口を一瞥するナナの様子がおかしくて、ふたりは目を見合わせて笑った。それから、すみれはまた再び作品に向きなおり、レンズが包みこむ見知らぬ記憶の襞に沈んでいった。すみれの父親もアンティークのカメラが好きで、すみれが小さいころはよく写真を撮ってもらった。カメラの前で愛らしくポーズを取ると父が喜んでくれるのが嬉しくて、鏡をのぞき込んではポーズや表情の研究を重ねたものだ。思えばそれが今の仕事をする根っこになっているのかもしれない。雑誌モデルから女優になって、ちょうど今年で20年が経つ。

あの頃、父親の台湾時代の写真もよく見せてもらった。特に印象的だったのが、神社の前で幼い父が祖父母と映っている写真だった。すみれの知る限り、台湾は沖縄よりずっと南にある外国だった。それなのに、日本と同じように神社があるなんて。喉の渇きだろうか、口のなかがじゃりじゃりする。そんな感触をかき消そうとするように、すみれは口を開いた。

「ねえ、ナナちゃん。たしか高雄に神社あったよね」

すみれがそう尋ねると、ナナから意外な答えが返ってきた。

「え、このすぐ裏の山の中ですよ。この金馬賓館をでて右にある通りをずっと山手に行った高台にあって展望台にもなってます。今は、神社じゃなくて忠烈祠ですけど」

「忠烈祠?」

「殉職した中華民国の軍人さんを祀ってるんです」

「そっか。ということは、金門や馬祖で亡くなった兵隊さんも?」

「うん、そうかな、多分ですけど」

記憶のなかの古い写真でみた神社と、撮影を終えたばかりの映画作品が奇妙にシンクロしていく。点としてぽつぽつ心に浮かんでいた台湾への印象が、自分の“いま・ここ”を通してつながり、線や面になっていく不思議な感覚が背中を押した。

「歩いて行ってみようかな、神社」

すみれが言うと、ナナは手を振った。

「え、危ないですよ!すぐ裏って言っても結構高さも距離もありますし」

「大丈夫よ。日暮れまでまだまだだし、グーグルマップもあるし。ほら、こっち来てからホテルと現場の往復で、全然台湾の風景みてないもん。明日の飛行機って朝の便でしょ」

「だったら、車呼びますから」

「平気だって、ちょっと運動もしたいしさ。ナナちゃん打ち合せでしょ。ほら行っていいよ、大丈夫だから」

「じゃあ、何かあったらすぐ電話かLINEしてくださいね」

スニーカーにサングラス、帽子。オフのときひとりで散歩やハイキングに出るいつもの地味な運動服で、神座すみれだと気づかれたことは滅多にない。台湾に積み重なる古い記憶が父親を媒介にすみれを手招きしている気がして、冒険心に駆られたすみれは金馬賓館の脇にある「壽山公園」と書かれた中華風の大きな白い門をくぐった。中華風とはいえ、どことなく神社の鳥居のようで、かつては高雄神社参道の入り口だったかもしれない。金馬賓館の後ろを抜けてどんどん山手に向かっていく。

なるほど、ナナの言っていた通り、忠烈祠までは直線距離で1キロほどにも関わらず、辿り着くまでの道は布を折り畳んだように曲がりくねり予想より遠さを感じる。道路わきの白骨のような土留めはサンゴだろうか。海の底に積み重なったサンゴの死骸が隆起してこの山が出来たのだ。道の両際の森は熱帯の気候を反映して緑濃く鬱蒼とはしているが、あたりは明るい。しかし時おり、どこからか犬の吠える声が近づいたり遠のいたりするのが薄気味悪い。野犬だろうか。小さいころ、野犬に追いかけられて転び怪我をした経験のあるすみれは野犬が大の苦手である。

(やっぱり、車呼んでもらったほうがよかったかな……)

怯みつつも足を前に進める。かつて転んだ時に口に入った砂のじゃりじゃりした感触がよみがえる。記憶の端がもう一つの記憶の端にさわり、その振動に弾かれて蘇ったのはじゃりじゃりしたホウレン草のおひたしである。別居していた父親の家を訪れた最後の日、一度だけ父親が夕食を作ってくれた。お味噌汁とか卵焼きとかごく普通の家庭料理で、もうその頃は父親への不満で心がいっぱいで美味しかったかどうかよく覚えていない。ひとつだけ、ホウレン草の根っこのところがよく洗われてなかったのか、おひたしを噛んだときのじゃりじゃりした砂の感触がやけに鮮明である。父親を思い出すと何処かじゃりじゃりした感覚を感じていたのはこのホウレン草と関係があったのだ。すっかり忘れてしまっていた。

パチンコ玉のように記憶から記憶へ次々に飛び回っているうち、左手に銀色の柵のついた門が見えた。門には「台湾省自来水公司」と書いてあるから水道局だろう。グーグルマップには、「打狗水道淨水池」という表記がある。それでまた思い出した。父が高雄神社の話をしていたとき、この浄水池のことを話していた。祖父が水道課で働いていた関係で父も何度かここに来て、そのあと神社にお参りして帰ったのである。浄水池の建物は白い西洋のお城みたいだったと父は言っていたが、今もその建物は残っているだろうか。柵から中をのぞくと、草地に青いポンプのようなものが並び、向こうの木陰に白い洋風の建物の丸い頭がみえた。お城というには小さな建物だが、幼い父にはさぞ大きく見えただろう。もう少し中を見てみたかったが、門は固く閉じられていた。

浄水池を通り過ぎ、道なりに大きくカーブしたところで、青い梅のマークを載せた大きな塔が見えてきた。

「やっと着いた…」

大きな塔ふたつに挟まれた階段の向こうに鳥居のような形をした、しかし小さな瓦屋根がついた白い門が三つ並んでいる。階段の下の大きな塔はおそらくかつての日本式の灯篭で、頭の部分だけすげ替えたのだろう。現代の風景なのに、その下にかつての景色が地層のように見え隠れし、初めて来た場所が既視感という膜につつまれている。展望台から、高雄の街を見下ろす。視界いっぱいに広がる台湾随一の発展した港町。左手に高いタワービルがいくつもそびえたっている。右手には今すみれがいる寿山のすそが海のほうに長く伸び、その先の海岸線に濃いオレンジがかった陽が近づこうとしている。85年前、すみれの父親はここで生まれた。

その時、携帯電話のLINEメッセージの通知音が鳴った。父親の最初の妻で再婚相手の女性からだった。開けてみると、父親が今日の午後に病院で息を引き取ったとあった。

携帯電話から目をあげるとルリマダラが一頭、ひらひらとすみれの頭上に飛んできた。ラピスラズリの色をしたその蝶は、それからまたオレンジ色の鱗粉のような空気に、瞬く間に溶けていった。

文・絵=栖来ひかり

撮影:Atsushi Tanabe

栖来ひかり
台湾在住の文筆家・道草者。1976年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。台湾に暮らす日日旅の如く新鮮なまなざしを持って、失われていく風景や忘れられた記憶を見つめ、掘り起こし、重層的な台湾の魅力を伝える。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(2017年、西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路~記憶のワンダーランドへようこそ』(2019年、図書出版ヘウレーカ)。


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