読書日記 2011年3月
読書日録2011年3月
(月刊『すばる』2011年5月号掲載)
テーブルの上の植木鉢を押さえているのが精一杯だった。
激しい横揺れが三分以上は続いたような気がする。
揺れが静まり、壁や天井を見上げ、ひび割れが起きていないことを確認。
一まず安堵し椅子に腰かけたが、あっと思い振り向くと隣の部屋の本箱が崩れて書籍が床一面に投げ出されている。
三月十一日午後二時四十六分、東北関東大震災が発生。
時折、東京を揺らす大きな余震にビクつきながら、メディアが次々と伝えてくる悲惨な現実を目のあたりにする。
地震と津波による未曽有の被害と、それに続く原発事故の危機的な状況を、テレビ、ラジオ、ネットで追いかけながら暮らす日々が始まった。
三月某日
気持ちが高ぶり何も手につかなくなっていたが、とりあえず床に散らばった本の整理を始めた。
床の上で積ん読本と、すでに読み終えた本がすっかり混ざってしまった。
この、北杜夫『どくとるマンボウ青春記』は未読か既読か、どちらに分類されるだろう。
栞紐が一九八頁と一九九頁の間に挟まっている。
記憶が蘇る。
この本は二人の人物に薦められて読み始めた。
一人は父で、もう一人は以前の職場の取引先の方だ。
ところが文体が自分の体質に合わなかったのか、ここまで読んで中断。
別の本に取りかかってしまったため、それきりになっていた本だ。
場面は、松本の旧制高校を卒業、仙台の医学生となったマンボウ氏が今まさに文学に目覚めるところである。
トーマス・マンに心酔、自分も詩人か小説家になるしかないと思い詰め、同居人が寝静まった下宿で大学ノートに文字を書きなぐり始めるマンボウ氏。
当時のノートから実際に書かれた短文が引用されている。
「嘘を書くなと嘘を書いているその嘘さ加減。」
「笑ってくれ。笑われているうちは、まだいい」
「今は、錯覚にすら、すがりたい」
「一切への不信が、僕をかえって信仰へと駆りたてる」
まるでネットのツイッターだ。
私もライトユーザーだが、フォローしている人の約半数は、優れた論考や鋭い一言をつぶやくタイプの人たち。
もう半分は、ギャグや謎ポエムで和ませたり笑わせてくれるタイプの人たちなのだが、この数日は深刻なつぶやきでタイムラインは埋め尽くされている。
久しぶりの謎ポエムに微笑んでしまった。
その後、マンボウ氏はカストリ雑誌へユーモア小説やコントを投稿し始める。
酒に酔い痴れたりキャバレーの女性に夢中になったりしながらも、初の長編小説を完成させるのだが、気がつけば最終三一八頁まで読み終えていた。
これはちゃんと読もうと考え直し、最初の章へ戻ると、そこにはギラギラした太陽と玉音放送、あの終戦の日の光景が映し出されていて慄然としてしまうのだった。
三月某日
テレビからは、被災した妊婦の感動的な出産シーンが流れてくる。
ネットを覗くと、救援物資が届かない避難所で餓死している人がいるという不確かな悲劇が語られている。
余震に揺さぶられ、数多の情報にも翻弄され、何もかもが揺らいでいる。
今こそ、この本の出番だろうか。
佐々木俊尚『キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる』を読む。
キュレーションとは、元は美術館の学芸員などが作品展示を通して芸術の新たな文脈を生み出す行為を意味する言葉だが、ここでは情報の断片を「収集し、選別し、そこに新たな意味づけを与えて、共有する」技術のことを指している。
著者は言う。
「事実の真贋をみきわめること」は難しいが「人の信頼度をみきわめること」ならば容易だと。
現在ではネットのアーカイブを遡れば、その人物の過去の発言や行動履歴は幾らでも検索可能だからだ。
著者のキュレーションの実践の場でもある公式サイトでは、救援活動中のNPO代表の話として、水があれば被災地で餓死が起きる可能性は低いが、津波で衣類が濡れたため凍死する危険は極めて高く、着替えと燃料の重要性が説かれている。
私はこの情報を信用しようと思う。
三月某日
福島第一原発の事故は依然として注意深く見守られねばならない状況のなかにある。(※注)
一方、孤立していた被災地とは陸路や通信が繋がり始め、震災被害の全貌が明らかになりつつある。
曽野綾子『貧困の光景』は、著者自らが立ち上げた組織「海外邦人宣教者活動援助後援会」(JOMAS)の貧民救済活動を中心に、発展途上国における貧困の実態を描いたエッセイ集。
頁を繰るごとに現れる悲惨な〝光景〟に、このタイミングで読み始めたことを後悔したくなる。
ここには、支援が実を結び、人々から感謝され、やりがいを感じるような分かりやすい物語は存在しない。
アフリカの荒れ放題の病院に使い捨ての注射器を渡しても、意に反して使い回され、逆にエイズを拡散してしまわないか心配しなければならない。
ホスピスに霊安室を寄付すれば、次々と運び込まれる遺体を見て、効果的な投資ができて良かったと思うべきか否かを悩まなければならない。
発展途上国が抱える構造的な貧困と、我が国を襲った自然災害を重ねてみることに意味はないのかもしれない。
援助を必要とする場所にはただ、そこが世界のどこであろうと、それぞれの事情に即した支援が速やかになされるべきである。
避難所では、まだ水と情報が不足しているらしい。被災地へラジオを送る活動があると知り、小型ラジオを都内の受付所まで持っていくことにした。
この本には、ユーモアはあっても気晴らしになる話は一篇も載っていないはずだ。
はずというのは、実はまだ読み終えていないのだ。
栞紐を挟んでいったん閉じるが、積ん読本にはしないつもりだ。
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