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長編小説『モルトモルテ』

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新人賞受賞後1作目、初の長編小説だったが、ひたすら難航した。というのも、プロットを練っている最中にある重大な出来事が起きてしまったからだ。東日本大震災である。地震。津波。原発事故… もっと読む
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記事一覧

モルトモルテ Molto Morte 其の壱①

モルトモルテ Molto Morte 其の壱①




病に問ふ病は答えず病をゆき 病のこころをいまださとらず
     
いまの世をいかにか思ふ かく問へどヒトにあらねばノ餌は答えず

  吉井勇の歌を捩った二首    枠林幹延


1.ドはドンビのド
 午後の鐘が鳴り出した。
 沼崎六一郎はキーボードを叩く指を止めた。
 ちょうど「序文」(1)が書き上がったところだった。
 沼崎は〈千里眼CHIZCO〉(2)を手に取った。静かに窓を開き、

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モルトモルテ Molto Morte 其の弐②

モルトモルテ Molto Morte 其の弐②



3.ドはドンビのド
 無洗米3合を鍋に入れ、卓上型浄水器から水を注ぐ沼崎。
 液化石油ガスのカートリッジに星型の五徳を取りつけ、鍋を載せて着火した。
 米を炊くことにも随分と慣れた。今ではもう鍋を焦げつかせることもなくなった。
 沼崎六一郎にとって、週に二回の炊飯は自炊のためではなかった。
 訓練。
 これは都市インフラストラクチャーが壊滅した場合を想定したサバイバル・シミュレーションの一環な

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モルトモルテ Molto Morte 其の惨③

モルトモルテ Molto Morte 其の惨③



5.ドはドンビのド

 西暦1986年────────
 沼崎六一郎は、二十歳で新潟県佐渡島から上京した。
 
 実家は内海府に古よりつづく旧家であり、家の庭には縄文時代の遺跡まであった。
 東京へ来て最初に住んだ部屋が、西機家と棟つづきの風呂なしアパート〈にしはた荘〉だった。
 途中、一階から二階へ移ったり、半年ほど留守にしたことはあったが、東京での暮らしのほぼすべてをこのアパートで送ってき

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モルトモルテ Molto Morte 其の屍④

モルトモルテ Molto Morte 其の屍④



7.鬱血織り姫と血色悪い王子
 世良彌堂曰く。
「不幸な女は前から見てもわからない」
 二人は東京駅から東海道本線を下ってきた。
 鎌倉にあるというイトマキ症専門病院を見学するためだ。
 チホと世良彌堂は連絡を取り合っていた。
 これからはそうしようと、先週純喫茶で決めたのだ。
 と言っても連絡は世良彌堂からしかできない。
 この男はスマートフォンも所持していなければ連絡場所もないからだ。
 

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モルトモルテ Molto Morte 其の悟⑤

モルトモルテ Molto Morte 其の悟⑤



10. 白糸お蚕様と鬱血織り姫
 チホと冴は五号棟と六号棟の間にある芝生のベンチに腰かけていた。
「冴に会ったら、これだけは訊こうと思っていた。何で何も言わずに消えたの?」
「シニハタ……あんた、やっぱ容赦ないわ」
 冴は得意の呆れ顔で言った。
「病人にいきなり核心突くとか」
 芝生に一か所だけタンポポが咲いていた。モンシロチョウやその他の蝶がそこを目指して飛んでくる。
「昔話とかする気はない

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モルトモルテ Molto Morte 其の労苦⑥

モルトモルテ Molto Morte 其の労苦⑥



14. 鬱血織り姫と血色悪い王子
 京浜急行電鉄久里浜線・YRP野比駅を降りると野比のび太の家があるという。そんな馬鹿な。
「おれの二十四番目の女・アンジェラがそう言ったのだ。いつか確かめようと思っている」
「アンジェ……日本人よね?」
「ああ。岡山出身でclubシャングリラのナンバー2だ」
「YRBって?」(1)
「寄る辺なき、野比のび太。この世で最も無力で惨めな存在」
「真面目に」
「知ら

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モルトモルテ Molto Morte 其の死地⑦

モルトモルテ Molto Morte 其の死地⑦



17. ドはドンビのド
 沼崎六一郎は千葉みなと駅で京葉線の快速電車を降りた。
 千葉へ来たのは何年振りだろうか。
 西船橋より東に来たのはおそらく初めてのことだ。
 駅ビルを出た沼崎は、まずあたりにうっすらと漂う異臭に気づいた。
 肥やしに似たオーガニックな臭いだった。
 沼崎は念のため防塵マスクを取り出し装着した。
 駅前を歩く人、建物、車、すべてが薄茶色のフィルターがかかったようにくすん

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モルトモルテ Molto Morte 其の破血⑧

モルトモルテ Molto Morte 其の破血⑧



23. 鴨川死医悪土
 二人は廃墟の中を進んでいった。
 薄暗く埃臭い空間に空の水槽が並んでいた。
 魚の写真も色褪せていた。
 水を抜かれた水族館は族の館でもあるらしく、至る所に落書きもされていた。
 その中で数体のドンビが亡霊のように蠢いていたが、別に襲ってくることもない。
「ずいぶんと退屈なアトラクションだな……」
 世良彌堂がつまらなそうに呟いた。
 展示物の残骸が途切れ、外が見えてき

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モルトモルテ Molto Morte 其の糾⑨

モルトモルテ Molto Morte 其の糾⑨



27. 鬱血織り姫と血色悪い王子
 試してみましょうか、と言って吉井はナイフを取り出した。
 チホが軽く身構えると、吉井は手を上げて他意がないことを示した。
 テーブルの上にあったウィスキーでナイフの先を消毒すると、吉井は平然と左手の指先に切っ先を突き刺した。
 無表情の吉井が指先を二人の前に差し出すと、小さな切傷から透明なジェル状の物質が染み出してきた。
「これは線虫が出す粘液です。ぼくの体

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モルトモルテ Molto Morte 其の十⑩

モルトモルテ Molto Morte 其の十⑩



30. 血戦ニザエモン島
 世良彌堂は電話を切って、スマホをチホへ返した。
「どこにかけたの?」チホには宅配ピザか何かを注文したように聞こえた。
「今、助っ人を呼んだ。十五分でいい。持たせろ」
 チホが木の陰から少女剣士が伏せている藪のほうを窺っていると、灌木の林の奥から音楽が聞えてきた。
 世良彌堂によれば、「アクアマリンのままでいて」という曲で、24人の彼女の中の一人のカラオケの十八番らし

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モルトモルテ Molto Morte 其の十一⑪ 最終回

モルトモルテ Molto Morte 其の十一⑪ 最終回



32. 鬱血織り姫とその母、聖なる戦士の帰還
 母親はチホの顔を見るなり訊いてきた。
 この前連れてきたあの男の子、もうお国へ帰っちゃったの?
 チホが、うん、とっくに、と言うと、あら残念、すごく可愛い子だったわよね、と母親はさも懐かしそうに言った。
 チホは母親が麦茶を用意している間に部屋を観察した。
 前に来た時より何となくすっきりしている。
 アコーディオンカーテンを少し開いてキッチンも

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