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モルトモルテ Molto Morte 其の十一⑪ 最終回

【主な登場人物】

チホ 千葉に住む女性吸血者。24歳。世良彌堂せらみどうと二人で吸血者の奇病・イトマキ症の謎を追いかけ、ほぼ解明することに成功した。自身もμ吸血線虫マイクロきゅうけつせんちゅうに感染しているが、まだ生きている。

世良彌堂(せらみどう) 日英ハーフの吸血少年。12歳にしか見えない24歳。24人の彼女から血をもらっている吸血ジゴロだが、肉体をμ吸血線虫に侵され、半分死んでいる。

理科斜架蜘蛛網(リカシャカ、クモアミ) チホと一緒に暮らしている双子の吸血姉妹。見た目は10歳、実年齢は100歳以上。イトマキ症で繭になっている。おそらく、二人ともすでに死んでいる。

冴(サエ) 一時期、チホと暮らしていた女性吸血者。明治大正昭和平成をファッショナブルに生きてきたが、イトマキ症を発症する。

歌野潮里(うたのしおり) チホが住むマンションの隣の部屋に監禁されていた高校生。死後、浮遊霊となりチホと友達になる。電気があると立体映像化する。本人は成仏する気なし。

沼崎六一郎(ぬまざきろくいちろう) 東京都杉並区でチホの実家が経営する風呂なしアパートに住むサバイバリスト。かつてマルチ商法で故郷、佐渡の村に被害を与えたがこの度和解した。47歳。

ドンビ SES(土食症候群)患者のこと。




32. 鬱血織り姫とその母、聖なる戦士の帰還


 母親はチホの顔を見るなり訊いてきた。
 この前連れてきたあの男の子、もうお国へ帰っちゃったの?
 チホが、うん、とっくに、と言うと、あら残念、すごく可愛い子だったわよね、と母親はさも懐かしそうに言った。
 チホは母親が麦茶を用意している間に部屋を観察した。
 前に来た時より何となくすっきりしている。
 アコーディオンカーテンを少し開いてキッチンも覗いてみた。
 いつか世良彌堂が言っていたマッドサイエンティストの実験室は小皿やガラス瓶が撤去されて普通のキッチンに戻されていた。
「お母さん。今日ね、病院のパンフを持って来た」
 母親が麦茶を持って来ると、チホは切り出した。
 「鴨川にSAS治療の第一人者がいるんだけど、知ってる?」
 母親は、SESでしょうと訂正した。
 渋い顔で、あなた本当に昔から英語がダメよねと余計な一言もつけ加えた。
 チホはちょっとカチンと来て、英語だけじゃないよ、ピアノもテニスも水泳もダメだったよと言った。
 母親は、あとお習字も、そうよ、あんなにやらせたお稽古ごと、すべて身につかなかったと情けない顔で娘を見つめて嘆いた。
「でも、ボートは漕げるようになったよ」チホは自慢げに言った。
「ボート? ボートはお父さんでしょう。あなたが漕いでどうするの」にべもなかった。
「お父さん、どうしてる? 何か変化あった?」チホは訊いた。
 母親と娘は奥の部屋へ向かった。
 窓を開け、中庭を見た。
 町内のSES患者は現在十一名。
 この前来た時は六名だったから、この二か月弱の間に倍近く増えていた。
 父親は生垣の前にダンボールを敷いてボートを漕いでいた。
「もしかして、前に磨いていた板が、あのオールになったの?」
「そうなのよ。立派でしょう。さすが職人よね」
「お父さん!」チホは漕ぎつづける父親に声をかけた。
「お父さん、チホよ!」
 二人が呼びかけると、オールをゆっくりと動かす手が止まり、首を傾げるような動きがあった。
「何か前よりも反応がいい」チホは興奮気味に言った。
「でもね、あれがやっとなの」と母親。「もうこれ以上は恢復かいふくしないのかもね」
 父親はまたボート漕ぎ運動に戻っていった。
 どこへもたどり着かないボート漕ぎをつづける父親。ほか十名はSES患者特有の腕を前に伸ばした姿勢でゆっくりと動いていた。
 二人は鉄塔の下で思い思いの動きをつづける患者たちを見守った。
「どこまで増えたら気が済むんだろう?」チホは溜め息を吐いた。
「よくわからないけど、いずれ、みんな、なっちゃうんじゃないかしらね。わたしもチホも」母親も溜め息を吐いた。
「そのほうが何か幸せに思えて来るのよね」
「えん……」縁起でもない、と言いかけてチホはやめた。
「そうかもね」
 二人が黙って窓の外を見ていると、父親がオールを地面に置いて立ち上がる体勢に入った。
 チホが凝視する前で父親は鉄塔の支柱に寄りかかるようにして立ち、ゆっくりと支柱に頭突きを始めた。
 ごーん、がーん、ごーん
 チホは初めて見る光景に驚き、母親に、いいの? あれ、止めなくていいの? と慌てて言った。
「あれがお父さんの役目なの。見ていなさい」
 母親は動じなかった。するとほかの患者たちも四本の支柱にそれぞれ集まってきて、父親と同じ動作を開始するのだった。
 ごーん、がーん、ごーん。がーん、がーん
 十一人が支柱に頭をぶつけて奏でる鐘の輪唱だった。一本の木に群がって一斉に鳴き始めたセミのようでもあった。
「皆さん、お腹がすいていたのね」
 母親はそう言って、昼の「土」の準備をし始めた。
 チホは、また見てはいけないものを見てしまった気がした。考えてみれば、見てはいけないものを見て、知りたくないことを知り、また考えざるをえなくなるばかりの半年間だった。
 ライフ・イズ・ブラッディー……このキャッチフレーズも出来ることなら更新したいものだ。
 父親の病気は治らないかもしれないが、鴨川の病院へ入院させるのが最善の道に思えた。
 母親はチホの勧めに、考えてみる、と答えた。
 千葉へ帰る時間になり、見送りの母親と一緒に表に出ると、通りの彼方から黒雲が降りてくるのが見えた。
「何か、夕立が来そうだよ。お母さん、傘貸して」
 チホが言うと、母親は、どこが? よく晴れているじゃない、と答えた。
 確かに空は晴れているのだが、低く黒い雲が迫っているのも本当だった。
 あの黒い雲だよ、見えないの? とチホが訊くと母親は、あれ、沼崎さんだ、と言った。
 巨大な土埃つちぼこりのような黒い雲を背負って、駅のほうから緩い坂道をこちらへ下って来る男がいた。
 男は小ざっぱりとした麻のスーツを着て旅行鞄をぶら下げていた。
 首でリズムを取りながら、鼻歌を歌っていた。
 チホは子供に返ったように母親のうしろへ回り込んでいた。
 母親の肩越しに男を見た。
 今まで見たことのない図だった。
 一杯いすぎて何だかわからないのだ。
 イナゴの大群。
 じゃなければ、何かの大群。
 沼崎が何か黒くて大きいのを連れてきた。
「チホ、沼崎さんよ。ちょっと、失礼じゃないの」
 母親はたしなめるが、チホは母親のうしろに隠れたまま無言でお辞儀だけした。
「大家さんの奥さん、それに娘さん。ご無沙汰してます。沼崎です。沼崎が故郷佐渡からただいま帰ってまいりました」 
 沼崎は陽気だった。(1)
 沼崎はそのまま鼻歌のつづき(2)を唸りながら、二人の前を通り過ぎ、アパートのほうへ歩いていった。
 そのうしろから黒い炎のような塊もついていく。
 沼崎がアパートの二階の部屋に入ると、黒い塊もアパートへ入り込み一瞬アパート全体が黒い炎に覆われた
 炎は沼崎の部屋に収まって小さくなると消えていった。
 何も見なかったことにしたいのだけれど、これは無理だな、とチホは思った。


(1)
 沼崎は帰りの新幹線の車中でエチゴビールを3本飲んでいた。

(2)
 この時、沼崎が口ずさんでいたのは、川本真琴「DNA」。沼崎は京王線桜上水駅で下車してからアパートまでの間に同じく川本真琴の「1/2」と「ギミーシェルター」をも口ずさんでいた。沼崎はかつてDJを務めたネットラジオの中で川本の「ギミーシェルター」をサバイバリストのテーマ曲と絶賛したことがあった。
*本作初出後に気づいたことだが、川本真琴は2012年9月に『川本真琴 and 幽霊』というユニットで同名のミニアルバムをリリースしていた。「人生には驚異としか言いようのない偶然の一致が起こって、髪の毛が逆立つほどである」と言ったのは確かエドガー・アラン・ポーだった。



33. Molto Morte(もっと、死ぬ)


 潮里は鉄塔の上のほうに座って、脚をブラブラさせながら、黒い炎を見下ろしていた。
 炎の中からシンクロナイズドスイミングの団体競技みたいに何本もの腕や足や顔が飛び出すのが見えた。
 もっとみんなでシンクロさせればちょっとはましに見えるのに。
 自分は絶対あんな合体霊にはならないぞ、と潮里は思った。
 チホとチホの母親が、潮里の真下の路上に立ちつくしていた。
 今日のチホは全然自分に気づいてくれなかった。
 目の前で手を振っても見えないようなのだ。
 アコーディオンカーテンに爪を立ててがりがり音も出してみたが、聴こえないようだった。
 鉄塔の下ではドンビたちがまだ動きつづけていた。
 潮里はつまらないので、千葉へ帰った。
 電線の上を忍者のように走ったり、ケーブルからケーブルへオランウータンになった気分で渡っていった。
 東京の杉並区から千葉みなとのマンションまで五分もかからなかった。
 本線から枝分かれしてマンションへ向かう電線にぶら下がっていると、庭で芝を刈る管理人の姿が見えた。
 潮里が苦手な説教じいさんだった。
 ついこの前も成仏することの大切さを説かれたばかりだ。潮里には本来帰るべき場所があるといういつもの論理だった。
 どいつもこいつもこの世から自分を消したくてしょうがないようだ。
 潮里は管理人に寄生している宇宙生命体はいつになったら自分の星へ帰るのか、とやり返した。
 管理人が困った顔で白髪の頭を掻いていると、管理人の入れ歯を抉じ開けて白くて長い宇宙生命体が顔を覗かせた。
 ぼくらは説得に失敗した、と一言感想を述べてすぐに引っ込んでしまった。

 潮里は枠林に見つからないように〈1420〉の部屋に入った。
 リビングへ向かうと、テーブルを囲む四脚の椅子に四人が大人しく腰かけていた。
 潮里は天井から四人を見下ろすように部屋の中に漂っていた。
 一秒が永遠に感じられた。
 ふと、潮里は壁かけ時計の下のボードの写真の中に見慣れない一枚を見つけた。
 間近で見ると、それは先々月行われたイベントの写真だった。
 いつから飾ってあったのだろう。
 チホったら全然言わないんだもの。
 潮里は口を尖らせた。
 写真はイベントの最後に全員で写した集合写真だった。
 チホと世良彌堂の二十四人の彼女たちだ。
 彼女といってもみんな中年のおばさんばかり。
 写真を見る限り、保険外交員の慰安旅行みたいだ。
 都内の創作料理の店を借り切って行われた───

〈第一回血鬼血鬼チキチキさよなら彌堂君の夕べ〉


 発起人はチホで、二十四人がそれぞれ世良彌堂にどんな仕打ちを受けたかをみんなの前で披露し、話し終わったら「彌堂君人形」を一発殴って忘れるという趣旨だった。
 被害を話すところまではよかったが、人形を殴る段になって抱き締めて泣き崩れる女性が続出し、チホのもくろみは見事に外れたが、世良彌堂は満足していた。
 実はこの時まだ彼は生きていて、会場の隅に置かれたポリタンクの中で彼女たちの様子を窺っていたのだ。
 潮里はベースドラムそっくりの重低音で笑ったり、鼠みたいに高く舌打ちしていた二個のポリタンクを思い出した。
 潮里はテーブルのほうを見た。
 椅子の一つには、このイベントで使った「彌堂君人形」が座っていた。
 会に参加した彼女たちは自分たちが抱き締めていたのが、本物の世良彌堂の皮だと知ったらどうなっていただろう。
 壮絶な争奪戦が起きていたかもしれない。
 セラミド君、もうそろそろ死んだかなと潮里は思った。
 会が終わると、世良彌堂は安堵したのか急激に衰えていった。
 ポリタンクの中でイトマキ症の症状が現れていた。
 世良彌堂はチホと潮里に言った。
 おれはおまえたちの前で死ぬことはできない。
 死に場所は自分で決めたい。
 世良彌堂はあれほど嫌っていた日本吸血者協会に入会し、協会の施設に入る契約をした。
 やがてリムジンがマンションの前に横づけされ、世良彌堂が入ったポリタンク二個は白い手袋をした運転手の手で鄭重ていちょうに車内へ運ばれた。
 チホは見送りには出ずに、部屋の窓から去っていくリムジンを見送っていた。
 セラミド君、無事に死んだかな。
 潮里は世良彌堂の空気人形の前に立ち、じっとその顔を見つめた。
 温泉村で見た時はもっと大人びた子供だったが、これは細部が省略されてずいぶん子供っぽい顔になっていた。
 世良彌堂だけではない。
 隣に座る理科斜架リカシャカ蜘蛛網クモアミも生前より子供だった。
 世良彌堂が部屋を去ると、チホは包丁とキッチン鋏を持って、理科斜架の部屋へ向かい、繭を切り裂き始めた。
 潮里はチホが狂ったのかと思ったが、そうではなかった。 
 蜘蛛網の部屋でも同じように繭を切り裂いた。
 チホは色違いの服を着た人形の姉妹を綺麗に拭いて、髪を梳かし、椅子に座らせた。
 切り裂いた繭は箱に詰めて、協会理事長宛てに送った。
 着払いだった。
 もう一体、つい最近この部屋にやってきた「サエ」は大人の女性だが、マネキンのように整いすぎていた。
 今、チホと潮里はこの四体の空気人形と一緒に暮らしていた。

「紅茶を淹れてちょうだい」理科斜架さんが言った。
「ダージリンにバラの花びらを二つ浮かべたいつものやつをお願い」
「ふん。貴様、誰に言っているのだ。この部屋に使用人はいないはずだが」とセラミド君。
「わたし、れてきましょうか……」冴さんがおずおずと言った。
「よせ、新入り。それよりも、ルールを決めよう。集団生活に規則は必要だ」セラミド君らしい提案だ。
「ワタクシノモノハ、ワタシクノモノ」蜘蛛網さんが口を開いた。
「ミンナノモノモ、ワタクシノモノ」


 潮里は思った。
 蜘蛛網さんはこうじゃない……どんなだっけ?
 チホがいない時間、暇つぶしに潮里はこうして空気人形の中へ入ってモノマネをして遊ぶのだ。
 理科斜架と世良彌堂の真似が得意だった。
 冴は生前を知らないので想像でやっていた。
 一度チホの前で四人を演じて見せた。
 今度やったら殺すと言われた。
 四人のモノマネも五周もすると飽きてしまった。
 潮里は思った。
 チホ、早く帰って来ないかな。



その10

その1



1420(千葉県千葉市中央区)


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