3.ドはドンビのド
無洗米3合を鍋に入れ、卓上型浄水器から水を注ぐ沼崎。
液化石油ガスのカートリッジに星型の五徳を取りつけ、鍋を載せて着火した。
米を炊くことにも随分と慣れた。今ではもう鍋を焦げつかせることもなくなった。
沼崎六一郎にとって、週に二回の炊飯は自炊のためではなかった。
訓練。
これは都市インフラストラクチャーが壊滅した場合を想定したサバイバル・シミュレーションの一環なのだ。
沼崎はそもそも自炊などしない。元来はココイチと吉野家を往復するだけで生きられる男だった。
真空パックに入れた無洗米が180キロ。
ポリタンク、ペットボトル、酒瓶などに詰めた水道水が2000リットル。
アウトドア用の液化石油ガスのカートリッジが60個。
ほかにもトイレットペーパー、携帯トイレ、粉塵マスク、ゴーグル、医薬品など一通りのものはそろえられている。
沼崎の五・五畳の部屋の約五分の三はサバイバルで占められている。
〈水〉〈食料〉〈エネルギー〉〈生活物資〉と書かれた大小ふぞろいの段ボールが積み上げられ、膨れ上がった山椒魚のように、飯を炊く沼崎を見下ろしていた。
沼崎は危機に備えていた。
彼の危機とは、突然、地が裂け崩れて、ココイチと吉野家が地の底へ沈んでしまうとか、エターナルフォース(1)・シュープリームサンダー(2)・ゴッチ式(3)・ハイパーインフレーションのビッグボンバー(4)が炸裂して、通販生活(5)と無印良品(6)が消滅、キャンドゥ(7)とダイソー(8)が99万9千円均一になり、チキンにこみカレー(9)が一杯630万円になることではなかった。
みんな忘れている。
今は土を食べているドンビは以前、肉を食べていたことを。
日本人ならよくわかっているはずだ。食のトレンドはある日突然イワシの群れのように向きを変えるのである。
ドンビが再び肉食に目覚めた時、一番身近にあるフレッシュな肉塊とは何であろうか。
ドンビ覚醒。
ドがゾになる日。
日本各地で「肉」と書かれた筵旗が揚げられ、ゾン百姓がゾ一揆……沼崎が考える危機とは、かようなものだった。
飯が炊けた。
沼崎は「食料」と書かれた段ボールから〈スパム〉(10)の缶を取り出した。角が丸いレンガのような青い缶詰を開け、薄いピンクのランチョンミートをスプーンで抉った。それをおかずに鍋から飯を食べ始めた。
沼崎はふとスプーンを口へ運ぶ運動を止めた。
(これがあれば生き延びられる……)
食べかけの青い缶を手に取り、そのずっしりとした感触を確かめる。
沼崎とスパムのつき合いは、約半年まで遡る。もちろんそれまでもスパムは食べていた。ただの缶詰として。だが、その朝のスパムは一味違った。
ドンビによる人的資源、社会資本の蚕食はすでに進行しており、日本経済の崩壊も近い、と考えた沼崎は余分な現金を〝金(ゴールド)〟に換えようと思っていた。当面の生活費を除いた金は15万円。1オンスのメイプルリーフ金貨が当時のレートでちょうど1枚買えた。
朝のゴミ出しの時だった。部屋のゴミ箱に転がっていたスパムの空缶を手に取ると、青い缶だと思っていたものが、実は缶に青い帯を巻いてあるだけだと気づいた。缶はアルミのリサイクルゴミ、包装紙はプラスチックゴミとして別々に出す必要がある。
沼崎は栄養成分などが記してある青い帯を剥がした。缶本体の鈍い金色が露出した瞬間、インスピレーションが走った。
────スパム・イズ・ゴールド────(11)
塩味のきつい肉の缶詰だと思っていたものは、食べられる金塊だった。
確かに市場が麻痺してしまえば、純金もただの重すぎて柔らかい金色の石ころ。おれたちサバイバリストにとって、この缶こそが真の黄金。
綿密な調査の結果、スパムは340グラムの減塩タイプが、一番安いスーパーで一個370円。沼崎の買い占めが始まった。沼崎がレジを通過したあとには缶詰の棚が一列空になるのだ。15万円は瞬く間に約400個の青い缶に替わっていた。
食事が済むと、残りの飯で手早くお結びを握った。これに薄切りのスパムを載せれば、ほら夜食のスパム結びだ。
沼崎は飯粒で粘つく手を水道で洗い、浄水器「BRITA」(12)から直に水を一口飲んだ。
(さて作業に戻るとしよう)
広げられた新聞紙の上に鉄鋸やドリルやサンドペーパーなどが置かれていた。
沼崎は最新のサバイバルガジェットの製作中だったのだ。
計算では三年分にあたる食料・物資の備蓄を終えた彼にとって、そのガジェットはサバイバルライフの仕上げの一品と言ってもよかった。
まだ板切れにアルミ管をはめ込んだだけだが、グリップはすでに取りつけてあった。
グリップを握り、板切れを窓のほうへ向ける沼崎。まだない引き金を(カチッ)と引いた。
生き延びるために必要な最後の道具、それは〝武器〟だ。
4.鬱血織り姫と血色悪い王子
巣鴨の喫茶店で世良彌堂と二時間半、話をした。
チホは当然のようにコーヒー代を払わせられて、彼と別れた。JRを乗り継ぎ、京葉線千葉みなと駅で降りて、自宅のマンションへ向かった。
駅前のロータリーでは個人タクシーの運転手とドンビが小競り合いを演じていた。
客待ちをしている車両へ足を引きずりながら向かってくる青年のドンビを、年寄りの運転手が毛バタキを振り回して追い払っていた。
ドンビはどうしてもそのタクシーに乗りたいのか、追い払ってもまたゆっくりと向かってくるので、老運転手はついに根負けして車を移動させてしまった。
しばらく進むと今度はチホの前にも現れた。歩道にドンビが四体、鎖でつながれた囚人のようにこちらへ向かってくる。
車道へ降りて避けようとすると、ドンビの一体も歩道からずり落ちて車道を歩き始めた。
行く手を塞がれドンビたちの五メートル手前でチホは立ち止った。
向かってきた車が急激にスピードを落としドンビの横を徐行してまた加速していった。
ドンビは道路の真ん中を歩くほど馬鹿ではなく、ドライバーも下手にクラクションを鳴らして興味を引きたくない。
チホはバッグからドンビ用忌避スプレー(1)を取り出した。レモンの香りのスプレーを振りまきながら歩道を進んだ。
土気色をして土臭いドンビたちは全員車道へ滑り落ちてくれた。
忌避剤がないと千葉の街は歩けない。
千葉県では保健所の予算が足りないのか、野良ドンビが半ば放置されている。
早朝、一斉に市のトラックにピックアップされ市街地の外れにできた「特別土地改良地区」へ運ばれる。
そこに造られた鹿沼土と赤玉土、二つの土の山で腹を満たすと、昼には元の場所へ戻ってしまう。
行政はそれ以上の対処をしてくれない。対応しないと明言している。千葉県庁は良くも悪くも正直な仕事をする役所だった。
根元千葉県知事に言わせるなら「県にも出来ることと出来ないことがあります。ない胸は揺れません」だし、ルカ千葉県執行知事なら「デキゴコロ、ユルス、デキナーイ。デキワルイ、ユルス、デキナーイ」だ。
コンビニの駐車場では店員が業務用の噴霧器で三体のドンビを追い払っていた。レジの合間にこれもやらされて千葉のバイトは大変だ。
店員に追い払われたドンビが歩道へ逃げてくる前にチホは駆け足でコンビニの前を通りすぎる。
マンションの入口横の花壇に植えてある高さ四、五メートルの樹木の前で、管理人が脚立に乗って作業をしていた。
「枠林さん、こんにちは」
チホは管理人を見上げて挨拶した。
「西機さん、いいところに」
脚立から降りて地面に立った男をチホはまだ見上げていた。
枠林は真っ白い髪を角刈りにした歳の割に元気な管理人だった。普通の管理人と違うところは身長が190センチを超えている点だ。
「何してるんですか?」
「どこから飛んできたのか、ほら、レジ袋」
枠林が木の天辺を指さした。あらためてチホが見上げると、小さな白い袋が引っかかっていた。
「あれ、格好悪いでしょう? なかなか取れなくて」
枠林は頭を掻きながら笑った。
「それで、お願いできないかと……」
「えっ、またですか」
チホは枠林の横に立ち、しばらくレジ袋を見上げていた。海からの風もなく穏やかな空だった。
枠林はマンションの管理人だが宇宙生命体でもあった。宇宙生命体はチホたち吸血者と友好関係にある。面倒だが断るわけにもいかない。
「どうですか? できそうですか?」
「何か、弾になるもの、あります?」
「これ、どうでしょう?」ポケットから何か取り出した。「さっき、そこらで拾ったものですが」
チホのてのひらに、ころころっ、と木の実が転がった。
「椎の実です。これは……マテバシイですね。普通のドングリよりも形がちょっと細長いのですが」
「やってみます」
二人は誰か見ていないかあたりを窺った。
チホは肩幅に足を開き、椎の実を左手に載せ、視線の先に袋を捉えると、右手の人差指で弾いた。
袋の手前の枝が「ざっざ」と撥ねあがった。
「惜しい」と枠林。
梢を通り抜けた椎の実が、青い空へ突き刺さって消えた。
吸血者は肉体のリミッターが外れるという。内攻する生命エネルギーが沸騰して体のどこかから噴き出す、とも言われている。
チホの場合は右手の筋力ということらしい。
二発目。
狙いを定め、弾いた。
椎の実が「ばっばしゅっ」とチホの指先で粉々に砕け、白い粉が舞い散った
「だ、大丈夫ですか? 爪、割れませんでしたか?」
「ちょっと、力んでしまいました」
三発目。
「ばっふ」という音とともに、白い袋が空へ飛んだ。
「ナイスショット」手を叩く枠林。
椎の実を包んで落下傘になってゆらゆら落ちてくる袋を、長い腕を伸ばしてキャッチした。
「西機さん、ありがとうございます。さすがですね」
「いえ、じゃあ」
チホは愛想笑いを浮かべ、立ち去ろうとした。
「待たれよ……女性吸血者……ぼくらからもお礼を……」
チホは機械で読み上げたような高く無機質な声で呼び止められてしまった。宇宙生命体の本体が現れた。無下に断ることもできない。チホは諦めて宇宙生命体の話を聞いた。
吸血者協会と宇宙人のグループはある同盟を結んでいて、吸血者が潜むマンションの管理人がだいたい宇宙生命体なのはそのためだというが、百年も前に上のほうで決まったことなのでチホも詳しい経緯は知らない。
宇宙生命体は吸血者を自分たちが何万年かけても成しえなかった地球征服に成功した種族と捉えているようだ。
「……ぼくらは失敗した。体が大きな生物に寄生すれば惑星の侵略に有利に働くと考えた。大きな生物のほうが強そうに見えたのだ。だが、大きな生物は小さな生物の集団に滅ぼされてしまった。ぼくらは失敗した。今度は小さな生物に寄生することにした。小さな生物は社会を形成していた。どの個体に力があるのか見極めて寄生しなければならない。学校や神殿や工場など大型建造物の施設管理者、清掃員、警備員は有力な個体に違いないと考えた。彼らは建物から他の個体が姿を消してから活動を始める。また、そばに他の個体がいても気配を消して自由に行動できる。建物全体に対して特権的な立場にあるように見えたのだ。ぼくらは失敗した。この個体は、こんなに体が大きく、しかも五百二十五人が暮らす集合住宅の管理人だ。ぼくらの失敗の標本のような個体だ」
宇宙生命体は高音の早口でまくし立てた。
「枠林さんはいい管理人ですよ」
「女性吸血者よ。あなたにそう言われる度に、ぼくらは敗北感を新たにしている」
失敗談はつづく。
宇宙生命体との友好は吸血者の責務(2)なので、前と同じ話だと思っても聞くしかないのだ。
「五十万年前、ぼくらの祖先は隕石型宇宙船に乗ってこの星へやってきた。ぼくらの偉大な指導者は船内の庭師兼掃除夫兼警備担当者だった。ぼくらの失敗は抜き差しならない歴史の必然だった……」
枠林の体の一部は、宇宙フナクイムシの一種「ヒトノエ」(3)と入れ替わっていた。
枠林は人生のどこかで体の一部を宇宙生命体に乗っ取られて、大型建造物の管理者=支配者になるべく研鑽を積んで現在に至っていた。
枠林に憑いたヒトノエはとにかくネガティブな心の持ち主。二言目には「失敗した」と言う。地球を侵略できなかったことが彼に強い劣等感を植えつけたようだ。
今からでも遅くない。先進国の大統領とか大企業のCEOといったこの星の真の有力者に寄生し直して再挑戦してみては? チホは世間話のつもりで提案した。
「この星では失敗は成功の母って言いますから……」
「人にはそれぞれ『分』というものがある。ぼくらがこの惑星で学んだことだ。この部分的には大きく退化を始めている地球文明で、『分を弁える』という宇宙の真理を発見できたことは、ぼくらにとって地球征服に勝るとも劣らない価値を持っている」
ややポジティブになってきたが、話はまだつづきそうだ。
「ぼくらは大型建造物の管理者として分を弁える生き方を選択した。宇宙に偏在する大型建造物の保守点検・整備・清掃は宇宙生命体であるぼくらの使命……ちょっと、すいません」
ヒトノエの早口が途中から、枠林の低く落ち着いた響きへと切り替わった。
頭越しにチホの背後へ厳しい表情を向けると、枠林は大股で離れていった。
正面のゲートを越えてエントランスへ向かってくる人影があった。
「大変申し訳ございませんが、当マンションへのご訪問はお控えくださるようお願い致します」
言葉遣いは丁寧だが、枠林はゴールキーパーのように大きく手を広げて立ちはだかり、決してそれ以上進ませようとはしない。
頭をやや傾げて立ち止った男の肩を掴み、慣れた動作で回れ右をさせ、柔らかく背中をトンっと歩道のほうへ押し出した。
男は振り向かずにゆっくりと、去っていく。
二人はドンビの背を見送った。
「まだ記憶が残っているのでしょう」
「知っている人ですか?」チホは尋ねた。
「以前ここにいらした方ですよ」
管理組合の副理事長を務めたこともあるという。
「奥様に、元奥様に頼まれているのですよ。来たら追い返せと」
チホの脳裏に父親の顔が浮かんだ。
「こんなことぺらぺら喋っちゃダメでした。個人情報ですものね。またヒトノエに怒られますな。あれは、こういうことには会社の上司よりも厳しいのですよ」
巨大な好々爺に戻った枠林は顔をくしゃくしゃにして笑った。目のあたりの三本の深い皺のどれが本当の目かわからなくなった。
チホは枠林に会釈して、ようやく建物の中へ入った。
「ぼくらからも、さようなら」
背後でヒトノエの声がした。チホは慌てて振り返り、もう一度会釈した。
十四階建てマンションの十四階。
東の角部屋がチホの住居だ。
オーナーは「九才」の双子の女性で、チホは同居人という立場になる。
「ただ今……」
玄関を入ってすぐ右の扉が双子の姉「理科斜架さん」の部屋、正面の扉は妹「蜘蛛網さん」の部屋。チホは廊下を渡ってリビングルームへ出た。
「疲れた……」
朝一番に東京へ向かって、今帰りついたら、午後四時だ。ソファに突っ伏したまま、チホは動かなくなった。
テーブルの上に立ててあった単三の電池が不意にことんと倒れた。
テーブルの端まで転がって床へ落ちる寸前で止まった。
反対側へ転がり出した。
チホはむくりと起き上がると、冷蔵庫へ向かった。
作り置きの麦茶をコップに注ぎ、一口飲んだ。
冷蔵室の大部分は一回分120mlの血液パックが占めていた。チホは今朝一パック開けて飲んだが、毎週宅配で三人分送られてくるので溜まる一方だった。
冷蔵庫の隅にプラスチックのケースがあり、中に単三の電池が入っていた。
チホはそれを一本取り出しリビングへ戻ると、まだ転がりつづけている電池の横に立てた。
電池が止まった。
立てた電池の頭に青白い炎が灯り、それが波打ちながら青白いヒト型へと伸びていった。
「お帰り」
身長が35センチくらいの半透明の少女が言った。顔も目も髪もカチューシャも青白かった。服も青く透き通っている。彼女が死んだ時に着ていた高校の制服だった。
「何かあった?」チホが訊いた。
「何も。理科斜架さんも蜘蛛網さんも変化なしだったよ」
「そう」
「どうだったの? 本部は」
「いろいろありすぎて死んだ」
「あ、まだ生きてる人が言っちゃダメなんだよ。死んだとか」
少女がチホを睨んで青白い頬を膨らませた。
少女は、隣の部屋〈1419〉に監禁されていた「歌野潮里」の1/5スケールモデルになる。
本人は約十年前に殺されている。現在は半実在の女の子で、平たく言うと霊だ。
テーブルの上から青白い炎が飛び降りると、電池も床へ転がり落ちた。
「あのさあ、充電する電池って、パワー弱いね。アルカリのやつ、ないの?」潮里がチホの足元を回りながら言った。
チホが自分の周りを転がる単三電池を足で踏んづけようとすると、察した電池がさっと足元から離れた。
「じゃあさ、充電でいいから、せめて電池二本にしてよ」潮里が不服そうにチホを見上げていた。
電池二本で潮里の身長は約70センチ、三本で105センチになる。サイズが変わっても青白く半透明なことに変わりはないのだが、潮里的には大きな違いらしい。(4)
(つづく)
その1
その3
早稲田文学⑥裏表紙(通常版)
小説家・仙田学氏(後方)と筆者(撮影:篠山紀信氏)