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モルトモルテ Molto Morte 其の弐②


[あらすじ]
多くの人命を奪ったあの震災は、その後もボディーブローのように日本社会にダメージを与えつづけ、私たちが被っていた仮面をはぎ取り真の姿をあらわにさせた
あなたたちの正体は────
ゾンビ
幽霊
異星人
そして、私は────
吸血鬼
疫病が蔓延し、混沌の極みへ向かう世界で、吸血者・チホと吸血少年・世良彌堂せらみどうの旅が始まる……

文芸誌に発表するも、批評家に「こんなもの載せるな!」と酷評され、封印された幻のSFカルトノベル

関係者に数々の災厄ヒゲキをもたらした禁断ヤバメ喪の騙りモノガタリ
ノロいの奇/鬼書キショ、ここに黄泉ヨミがえる……

初出:早稲田文学⑥(2013年発行 通常版/特装版)
note版 横書きに改稿




3.ドはドンビのド


 無洗米3合を鍋に入れ、卓上型浄水器から水を注ぐ沼崎。
 液化石油ガスのカートリッジに星型の五徳を取りつけ、鍋を載せて着火した。
 米を炊くことにも随分と慣れた。今ではもう鍋を焦げつかせることもなくなった。
 沼崎六一郎にとって、週に二回の炊飯は自炊のためではなかった。
 訓練。
 これは都市インフラストラクチャーが壊滅した場合を想定したサバイバル・シミュレーションの一環なのだ。
 沼崎はそもそも自炊などしない。元来はココイチと吉野家を往復するだけで生きられる男だった。
 真空パックに入れた無洗米が180キロ
 ポリタンク、ペットボトル、酒瓶などに詰めた水道水が2000リットル
 アウトドア用の液化石油ガスのカートリッジが60個
 ほかにもトイレットペーパー、携帯トイレ、粉塵マスク、ゴーグル、医薬品など一通りのものはそろえられている。
 沼崎の五・五畳の部屋の約五分の三はサバイバルで占められている。
 〈〉〈食料〉〈エネルギー〉〈生活物資〉と書かれた大小ふぞろいの段ボールが積み上げられ、膨れ上がった山椒魚のように、飯を炊く沼崎を見下ろしていた。
 沼崎は危機に備えていた。
 彼の危機とは、突然、地が裂け崩れて、ココイチと吉野家が地の底へ沈んでしまうとか、エターナルフォース(1)・シュープリームサンダー(2)・ゴッチ式(3)・ハイパーインフレーションのビッグボンバー(4)が炸裂して、通販生活(5)と無印良品(6)が消滅、キャンドゥ(7)とダイソー(8)が99万9千円均一になり、チキンにこみカレー(9)が一杯630万円になることではなかった。
 みんな忘れている。
 今は土を食べているドンビは以前、肉を食べていたことを。
 日本人ならよくわかっているはずだ。食のトレンドはある日突然イワシの群れのように向きを変えるのである。
 ドンビが再び肉食に目覚めた時、一番身近にあるフレッシュな肉塊とは何であろうか。
 ドンビ覚醒
 ドがゾになる日
 日本各地で「」と書かれた筵旗むしろばたが揚げられ、ゾン百姓ビャクショーがゾ一揆イッキ……沼崎が考える危機とは、かようなものだった。
 飯が炊けた。
 沼崎は「食料」と書かれた段ボールから〈スパム(10)の缶を取り出した。角が丸いレンガのような青い缶詰を開け、薄いピンクのランチョンミートをスプーンでえぐった。それをおかずに鍋から飯を食べ始めた。
 沼崎はふとスプーンを口へ運ぶ運動を止めた。
(これがあれば生き延びられる……)
 食べかけの青い缶を手に取り、そのずっしりとした感触を確かめる。
 沼崎とスパムのつき合いは、約半年まで遡る。もちろんそれまでもスパムは食べていた。ただの缶詰として。だが、その朝のスパムは一味違った。
 ドンビによる人的資源、社会資本の蚕食さんしょくはすでに進行しており、日本経済の崩壊も近い、と考えた沼崎は余分な現金を〝金(ゴールド)〟に換えようと思っていた。当面の生活費を除いた金は15万円。1オンスのメイプルリーフ金貨が当時のレートでちょうど1枚買えた。
 朝のゴミ出しの時だった。部屋のゴミ箱に転がっていたスパムの空缶を手に取ると、青い缶だと思っていたものが、実は缶に青い帯を巻いてあるだけだと気づいた。缶はアルミのリサイクルゴミ、包装紙はプラスチックゴミとして別々に出す必要がある。
 沼崎は栄養成分などが記してある青い帯を剥がした。缶本体の鈍い金色が露出した瞬間、インスピレーションが走った。
 ────スパム・イズ・ゴールド────(11)
 塩味のきつい肉の缶詰だと思っていたものは、食べられる金塊だった。
 確かに市場が麻痺してしまえば、純金もただの重すぎて柔らかい金色の石ころ。おれたちサバイバリストにとって、この缶こそが真の黄金。
 綿密な調査の結果、スパムは340グラムの減塩タイプが、一番安いスーパーで一個370円。沼崎の買い占めが始まった。沼崎がレジを通過したあとには缶詰の棚が一列空になるのだ。15万円は瞬く間に約400個の青い缶に替わっていた。
 食事が済むと、残りの飯で手早くお結びを握った。これに薄切りのスパムを載せれば、ほら夜食のスパム結びだ。
 沼崎は飯粒で粘つく手を水道で洗い、浄水器「BRITA」(12)から直に水を一口飲んだ。
(さて作業に戻るとしよう)
 広げられた新聞紙の上に鉄鋸やドリルやサンドペーパーなどが置かれていた。
 沼崎は最新のサバイバルガジェットの製作中だったのだ。
 計算では三年分にあたる食料・物資の備蓄を終えた彼にとって、そのガジェットはサバイバルライフの仕上げの一品と言ってもよかった。
 まだ板切れにアルミ管をはめ込んだだけだが、グリップはすでに取りつけてあった。
 グリップを握り、板切れを窓のほうへ向ける沼崎。まだない引き金を(カチッ)と引いた。
 生き延びるために必要な最後の道具、それは〝武器〟だ。
 

(1)
Eternal Force 一時期、沼崎の口癖だった言葉。必殺技の頭に置くと、なんとなく威力が増すような気がするのは沼崎だけではあるまい。
(2)
『美少女戦士セーラームーン』保護の戦士・セーラージュピターの必殺技。髪が茶色でセーラー戦士の中で背が一番高い子。
(3)
プロレスの神様カール・ゴッチ。ゴッチ式トレーニング、ゴッチ式パイルドライバーが有名。
(4)
 スーパー戦隊シリーズの第一作「秘密戦隊ゴレンジャー」の後番組「ジャッカ―電撃隊」で使われた合体技。

(5)
沼崎「別に嫌いじゃないです」
(沼崎がパーソナリティーを務めたネットラジオ『トーキョーシティープレッパー・六一がロックイチローのときめきサバイバル』よりリスナーの質問に答えて。番組は2012年3月~2012年6月まで5回放送された)
(6)
沼崎「直角靴下がオススメです」(同)
(7)
沼崎「よく行きます」(同)
(8)
沼崎「近所にあったら行くと思います」「何か欲しいものがあれば、まず百均に行ってみる。サバイバルの基本じゃないでしょうか」(同)
(9)
 大手カレーチェーン・ココイチの人気メニュー。
沼崎「カレーと言えば、昔高円寺にカシミールという店がありよく通いました。未だ、ここのチキンカレーに勝る味に出会っていません。具は鶏肉とジャガイモだけ、独特の酸味と辛みが癖になる、シンプルでサラサラしたカレーでした。自分の舌を頼りに失われた味を再現しようとしましたが無理でした。この危機を生き延びられたら、是非もう一度食べてみたいものです」(同)

(10)
スパムとは────」と沼崎は書いている。
「スパムとは、一言で言えば、いのちの食べものだ。
 野崎コンビーフを始め肉の缶詰はほかにもある。
 だが、人に生きる力を与える強さで、米国生まれのスパムに勝るものはない。
 この青い缶には、精肉には及びもつかない様々な〝パワー〟が詰め込まれている。
 食えばわかる。
〝アメリカの独立と開拓の精神〟
〝大量生産大量消費社会の悪夢〟
プレッパー*と呼ばれるサバイバリストたちの強迫観念〟
プレッピー*と呼ばれる良家の子女たちの含羞と冷笑〟
〝沖縄の不屈の抵抗心〟
〝全米ライフル協会の哄笑混じりの咆哮〟
 この偽りの寄せ集めのゴミ屑のような肉と脂の塊は、噛みしめるごとに食する者の心に何かを思い起こさせるのである。
 生命維持に必要なものはカロリーだけではない。
 息が鼓動が途切れるか途切れないかの瀬戸際で、いのちを繋ぐものは閃光のような精神の炸裂だ」
(非公開ブログ『白昼の生存者』「SPAM、あるいは私服警官の午前」より)

*【プレッパーPrepper】
 一言で言うと「やがて来る世界の終わりを信じて水、食料、武器弾薬などを溜め込んでいる人」のことである。人間がこのような強迫観念に襲われる理由は様々だろう。東西冷戦時代なら核戦争の恐怖があっただろうし、地球規模の自然破壊、経済危機、宗教的な終末思想、マヤ文明の暦やノストラダムスの予言といったオカルティズムなど妄想の種は無数にあるが、たどりつく場所はほぼ一致している。「備蓄」と「孤高」である。行政に不信を抱いたりマスコミを敵視して、大量の生活物資と独自の情報収集・分析によって安心を得ようとする態度だ。
 沼崎もこの特徴を備えているが彼などはまだ序の口と言える。本場アメリカのプレッパーの実態についてはナショナルジオグラフィックの特集番組「プレッパーズ~世界滅亡に備える人々~(原題:Doomsday Preppers)」が詳しい。全12回の副題を見るだけでも雰囲気は伝わると思う。(「大量の弾丸」「自分は変だと信じたい」「石器時代に逆戻り」「崩壊の序曲 」「生き残るための代価」「昨日の友は今日の敵」「地下のスパイダーホール 」「悲観論者たち 」「扉を閉めて弾を込めろ 」「災害は待ってくれない 」「逃げるが勝ち 」「究極のプレッパーズ」)  
 また書籍についてだが、これぞプレッパーのバイブルというものを一冊だけ挙げろと言われたら、齊藤令介さいとうれいすけ原始思考法 Blood Thinking』(1991年 講談社)を選ぶ。サバイバル技術を伝える書物は数あれど、サバイバル精神まで説いて傾聴に値するものは翻訳ものを含めても少ないのが実情だ。著者、齊藤令介はプロのハンターであり、村上龍むらかみりゅう愛と幻想のファシズム』の主人公鈴原冬二すずはらとうじのモデルになったと言われる人物。漫画家北条司ほうじょうつかさに銃器のレクチャーをしたことから『シティーハンター』の主人公冴羽獠さえばりょうの人物造形に影響を与えた可能性もある。
 齊藤が提唱する原始思考法とは、人間にも動物と同様の本能が宿っているはずであり、生き延びるためには動物の目で世界を見ることが必要だとする極めてシンプルな思想である。
 齊藤は言う。日本で生き延びようと思ったら皇室の動きに注意せよ。皇室の誰かが常に海外に滞在しているのは不測の事態に備えてのことなのだ。皇室は日本で最も生き延びることに敏感な一族に違いない。日本で生活する者にとって最大のリスクは地震である。即ち皇室の動きを観察することで地震を予知することも可能なのだ。皇室も当然日本最高の情報と備蓄で大地震に備えているはずだ。原始思考法から導き出された驚くべき結論と言えよう。

*【プレッピーPreppie】
 アメリカの伝統ある寄宿制の私立進学校プレパラトリー・スクールPreparatory schoolへ通うエリート中高校生について庶民が憧れと嘲りを込めて投げかける俗称だが、日本では彼らが好んで着るブレザーやセーター、ポロシャツなどそのファッションのみが注目されている。

(11)
 沼崎はスパムから様々な妄想を引き出している。これは極めつけの一節。
「いのちの缶詰〈スパム〉を開発したのはホーメルフーズ社
 ホーメルフーズ社の創立者はジョージ・A・ホーメル。
 ジョージ・Aと言えば、普通はロメロ……この奇妙な一致に、おれは戦慄を覚えた。
 そして、創立者ホーメル氏の写真を見た瞬間の驚愕────。
 ジョージ・A・ホーメルH・P・ラヴクラフトと瓜二つの不吉な紳士だったのだ。(同一人物ヵ)
 SPAM of the Dead
 闇の生きものの肉を食らっても生き延びたければ青い缶詰を開けろ。
 サバイバル沼崎でした」
(非公開ブログ『白昼の生存者』「SPAM、あるいは私服警官の午前(補遺)」より)

(12)
ドイツの浄水器メーカー・ブリタ社。沼崎が愛用しているのは現在同社のポット型浄水器で使用されているマクストラフィルターカートリッジ(日本で発売開始は2007年)ではなく、旧式のクラシックフィルターカートリッジを用いたモデル。旧式はすでに浄水器本体の生産は終了、カートリッジのみの販売となっている。沼崎の部屋には約五年分(カートリッジ一個で二か月×30個)のストックがあった。


4.鬱血織り姫うっけつおりひめ血色悪い王子けっしょくわるいおうじ


 巣鴨の喫茶店で世良彌堂せらみどうと二時間半、話をした。
 チホは当然のようにコーヒー代を払わせられて、彼と別れた。JRを乗り継ぎ、京葉線千葉みなと駅で降りて、自宅のマンションへ向かった。
 駅前のロータリーでは個人タクシーの運転手とドンビが小競り合いを演じていた。
 客待ちをしている車両へ足を引きずりながら向かってくる青年のドンビを、年寄りの運転手が毛バタキを振り回して追い払っていた。
 ドンビはどうしてもそのタクシーに乗りたいのか、追い払ってもまたゆっくりと向かってくるので、老運転手はついに根負けして車を移動させてしまった。
 しばらく進むと今度はチホの前にも現れた。歩道にドンビが四体、鎖でつながれた囚人のようにこちらへ向かってくる。
 車道へ降りて避けようとすると、ドンビの一体も歩道からずり落ちて車道を歩き始めた。
 行く手を塞がれドンビたちの五メートル手前でチホは立ち止った。
 向かってきた車が急激にスピードを落としドンビの横を徐行してまた加速していった。
 ドンビは道路の真ん中を歩くほど馬鹿ではなく、ドライバーも下手にクラクションを鳴らして興味を引きたくない。
 チホはバッグからドンビ用忌避きひスプレー(1)を取り出した。レモンの香りのスプレーを振りまきながら歩道を進んだ。
 土気色をして土臭いドンビたちは全員車道へ滑り落ちてくれた。
 忌避剤がないと千葉の街は歩けない。
 千葉県では保健所の予算が足りないのか、野良ドンビが半ば放置されている。
 早朝、一斉に市のトラックにピックアップされ市街地の外れにできた「特別土地改良地区」へ運ばれる。
 そこに造られた鹿沼土と赤玉土、二つの土の山で腹を満たすと、昼には元の場所へ戻ってしまう。
 行政はそれ以上の対処をしてくれない。対応しないと明言している。千葉県庁は良くも悪くも正直な仕事をする役所だった。
 根元千葉県知事に言わせるなら「県にも出来ることと出来ないことがあります。ない胸は揺れません」だし、ルカ千葉県執行知事なら「デキゴコロ、ユルス、デキナーイ。デキワルイ、ユルス、デキナーイ」だ。
 コンビニの駐車場では店員が業務用の噴霧器で三体のドンビを追い払っていた。レジの合間にこれもやらされて千葉のバイトは大変だ。
 店員に追い払われたドンビが歩道へ逃げてくる前にチホは駆け足でコンビニの前を通りすぎる。
 マンションの入口横の花壇に植えてある高さ四、五メートルの樹木の前で、管理人が脚立に乗って作業をしていた。
枠林わくばやしさん、こんにちは」
 チホは管理人を見上げて挨拶した。
西機にしはたさん、いいところに」
 脚立から降りて地面に立った男をチホはまだ見上げていた。
 枠林は真っ白い髪を角刈りにした歳の割に元気な管理人だった。普通の管理人と違うところは身長が190センチを超えている点だ。
「何してるんですか?」
「どこから飛んできたのか、ほら、レジ袋」
 枠林が木の天辺を指さした。あらためてチホが見上げると、小さな白い袋が引っかかっていた。
「あれ、格好悪いでしょう? なかなか取れなくて」
 枠林は頭を掻きながら笑った。
「それで、お願いできないかと……」
「えっ、またですか」
 チホは枠林の横に立ち、しばらくレジ袋を見上げていた。海からの風もなく穏やかな空だった。
 枠林はマンションの管理人だが宇宙生命体でもあった。宇宙生命体はチホたち吸血者と友好関係にある。面倒だが断るわけにもいかない。
「どうですか? できそうですか?」
「何か、タマになるもの、あります?」
「これ、どうでしょう?」ポケットから何か取り出した。「さっき、そこらで拾ったものですが」
 チホのてのひらに、ころころっ、と木の実が転がった。
シイの実です。これは……マテバシイですね。普通のドングリよりも形がちょっと細長いのですが」
「やってみます」
 二人は誰か見ていないかあたりを窺った。
 チホは肩幅に足を開き、椎の実を左手に載せ、視線の先に袋を捉えると、右手の人差指で弾いた。
 袋の手前の枝が「ざっざ」と撥ねあがった。
「惜しい」と枠林。
 梢を通り抜けた椎の実が、青い空へ突き刺さって消えた。
 吸血者は肉体のリミッターが外れるという。内攻する生命エネルギーが沸騰して体のどこかから噴き出す、とも言われている。
 チホの場合は右手の筋力ということらしい。
 二発目。
 狙いを定め、弾いた。
 椎の実が「ばっばしゅっ」とチホの指先で粉々に砕け、白い粉が舞い散った
「だ、大丈夫ですか? 爪、割れませんでしたか?」
「ちょっと、力んでしまいました」
 三発目。
「ばっふ」という音とともに、白い袋が空へ飛んだ。
「ナイスショット」手を叩く枠林。
 椎の実を包んで落下傘になってゆらゆら落ちてくる袋を、長い腕を伸ばしてキャッチした。
「西機さん、ありがとうございます。さすがですね」
「いえ、じゃあ」
 チホは愛想笑いを浮かべ、立ち去ろうとした。
「待たれよ……女性吸血者……ぼくらからもお礼を……」
 チホは機械で読み上げたような高く無機質な声で呼び止められてしまった。宇宙生命体の本体が現れた。無下に断ることもできない。チホは諦めて宇宙生命体の話を聞いた。
 吸血者協会と宇宙人のグループはある同盟を結んでいて、吸血者が潜むマンションの管理人がだいたい宇宙生命体なのはそのためだというが、百年も前に上のほうで決まったことなのでチホも詳しい経緯は知らない。
 宇宙生命体は吸血者を自分たちが何万年かけても成しえなかった地球征服に成功した種族と捉えているようだ。
「……ぼくらは失敗した。体が大きな生物に寄生すれば惑星の侵略に有利に働くと考えた。大きな生物のほうが強そうに見えたのだ。だが、大きな生物は小さな生物の集団に滅ぼされてしまった。ぼくらは失敗した。今度は小さな生物に寄生することにした。小さな生物は社会を形成していた。どの個体に力があるのか見極めて寄生しなければならない。学校や神殿や工場など大型建造物の施設管理者、清掃員、警備員は有力な個体に違いないと考えた。彼らは建物から他の個体が姿を消してから活動を始める。また、そばに他の個体がいても気配を消して自由に行動できる。建物全体に対して特権的な立場にあるように見えたのだ。ぼくらは失敗した。この個体は、こんなに体が大きく、しかも五百二十五人が暮らす集合住宅の管理人だ。ぼくらの失敗の標本のような個体だ」
 宇宙生命体は高音の早口でまくし立てた。
「枠林さんはいい管理人ですよ」
「女性吸血者よ。あなたにそう言われる度に、ぼくらは敗北感を新たにしている」
 失敗談はつづく。
 宇宙生命体との友好は吸血者の責務(2)なので、前と同じ話だと思っても聞くしかないのだ。
「五十万年前、ぼくらの祖先は隕石型宇宙船に乗ってこの星へやってきた。ぼくらの偉大な指導者は船内の庭師兼掃除夫兼警備担当者だった。ぼくらの失敗は抜き差しならない歴史の必然だった……」
 枠林の体の一部は、宇宙フナクイムシの一種「ヒトノエ(3)と入れ替わっていた。
 枠林は人生のどこかで体の一部を宇宙生命体に乗っ取られて、大型建造物の管理者=支配者になるべく研鑽を積んで現在に至っていた。
 枠林に憑いたヒトノエはとにかくネガティブな心の持ち主。二言目には「失敗した」と言う。地球を侵略できなかったことが彼に強い劣等感を植えつけたようだ。
 今からでも遅くない。先進国の大統領とか大企業のCEOといったこの星の真の有力者に寄生し直して再挑戦してみては? チホは世間話のつもりで提案した。 
「この星では失敗は成功の母って言いますから……」
「人にはそれぞれ『』というものがある。ぼくらがこの惑星で学んだことだ。この部分的には大きく退化を始めている地球文明で、『分をわきまえる』という宇宙の真理を発見できたことは、ぼくらにとって地球征服に勝るとも劣らない価値を持っている」
 ややポジティブになってきたが、話はまだつづきそうだ。
「ぼくらは大型建造物の管理者として分を弁える生き方を選択した。宇宙に偏在する大型建造物の保守点検・整備・清掃は宇宙生命体であるぼくらの使命……ちょっと、すいません」 
 ヒトノエの早口が途中から、枠林の低く落ち着いた響きへと切り替わった。
 頭越しにチホの背後へ厳しい表情を向けると、枠林は大股で離れていった。
 正面のゲートを越えてエントランスへ向かってくる人影があった。
「大変申し訳ございませんが、当マンションへのご訪問はお控えくださるようお願い致します」
 言葉遣いは丁寧だが、枠林はゴールキーパーのように大きく手を広げて立ちはだかり、決してそれ以上進ませようとはしない。
 頭をやや傾げて立ち止った男の肩を掴み、慣れた動作で回れ右をさせ、柔らかく背中をトンっと歩道のほうへ押し出した。
 男は振り向かずにゆっくりと、去っていく。
 二人はドンビの背を見送った。
「まだ記憶が残っているのでしょう」
「知っている人ですか?」チホは尋ねた。
「以前ここにいらした方ですよ」
 管理組合の副理事長を務めたこともあるという。
「奥様に、元奥様に頼まれているのですよ。来たら追い返せと」
 チホの脳裏に父親の顔が浮かんだ。
「こんなことぺらぺら喋っちゃダメでした。個人情報ですものね。またヒトノエに怒られますな。あれは、こういうことには会社の上司よりも厳しいのですよ」
 巨大な好々爺に戻った枠林は顔をくしゃくしゃにして笑った。目のあたりの三本の深い皺のどれが本当の目かわからなくなった。
 チホは枠林に会釈して、ようやく建物の中へ入った。
「ぼくらからも、さようなら」
 背後でヒトノエの声がした。チホは慌てて振り返り、もう一度会釈した。
 十四階建てマンションの十四階。
 東の角部屋がチホの住居だ。
 オーナーは「九才」の双子の女性で、チホは同居人という立場になる。
「ただ今……」
 玄関を入ってすぐ右の扉が双子の姉「理科斜架リカシャカさん」の部屋、正面の扉は妹「蜘蛛網クモアミさん」の部屋。チホは廊下を渡ってリビングルームへ出た。
「疲れた……」
 朝一番に東京へ向かって、今帰りついたら、午後四時だ。ソファに突っ伏したまま、チホは動かなくなった。
 テーブルの上に立ててあった単三の電池が不意にことんと倒れた。
 テーブルの端まで転がって床へ落ちる寸前で止まった。
 反対側へ転がり出した。
 チホはむくりと起き上がると、冷蔵庫へ向かった。
 作り置きの麦茶をコップに注ぎ、一口飲んだ。
 冷蔵室の大部分は一回分120mlの血液パックが占めていた。チホは今朝一パック開けて飲んだが、毎週宅配で三人分送られてくるので溜まる一方だった。
 冷蔵庫の隅にプラスチックのケースがあり、中に単三の電池が入っていた。
 チホはそれを一本取り出しリビングへ戻ると、まだ転がりつづけている電池の横に立てた。
 電池が止まった。
 立てた電池の頭に青白い炎が灯り、それが波打ちながら青白いヒト型へと伸びていった。
「お帰り」
 身長が35センチくらいの半透明の少女が言った。顔も目も髪もカチューシャも青白かった。服も青く透き通っている。彼女が死んだ時に着ていた高校の制服だった。
「何かあった?」チホが訊いた。
「何も。理科斜架さんも蜘蛛網さんも変化なしだったよ」
「そう」
「どうだったの? 本部は」
「いろいろありすぎて死んだ」
「あ、まだ生きてる人が言っちゃダメなんだよ。死んだとか」
 少女がチホを睨んで青白い頬を膨らませた。
 少女は、隣の部屋〈1419〉に監禁されていた「歌野潮里うたのしおり」の1/5スケールモデルになる。
 本人は約十年前に殺されている。現在は半実在の女の子で、平たく言うと霊だ。
 テーブルの上から青白い炎が飛び降りると、電池も床へ転がり落ちた。
「あのさあ、充電する電池って、パワー弱いね。アルカリのやつ、ないの?」潮里がチホの足元を回りながら言った。
 チホが自分の周りを転がる単三電池を足で踏んづけようとすると、察した電池がさっと足元から離れた。
「じゃあさ、充電でいいから、せめて電池二本にしてよ」潮里が不服そうにチホを見上げていた。
 電池二本で潮里の身長は約70センチ、三本で105センチになる。サイズが変わっても青白く半透明なことに変わりはないのだが、潮里的には大きな違いらしい。(4)
 

(1)
 成分はフロンガスR22とレモンの香料。オゾン層を破壊し地球温暖化の原因とされ、わが国では段階的に生産が廃止されているフロンガス。R22もわが国では二〇二〇年に生産が廃止されたが、SES患者がフロンガスを嫌う性質があるため、千葉県では希望する県民に無料でスプレーを配布している。この措置に県外から非難が集中、国も行政指導を行っているが今のところ改められる気配はない。

(2)
「ヒトノエはわたしたちにとってまったく無害な生物です。そればかりかわたしたちの暮らしを陰で支えてくれる有益な存在だと言えるでしょう。可能な限り仲良くしてください」日本吸血者協会発行『救血ハンドブック』「救血の心得③ 宇宙生命体との交流について」より

「ヒトノエは、形態が魚類の寄生虫であるウオノエに似ていることから命名されました」
同ハンドブック「ヒトノエひと口メモ」より

(3)
 約五十万年前、太陽系付近を通りかかった小惑星型輸送船(船籍不明)の船体を住処としていた宇宙フナクイムシ数百匹が駆除を怖れて地球へ降下。マンモスや北京原人、ネアンデルタール人などに寄生を開始するがいずれも宿主が滅亡。ワニに寄生した六匹とホモ・サピエンスに寄生した十三匹のみが生き残った。その後、ホモ・サピエンスに寄生したグループはヒトノエに進化。現在はノルウェーを中心とした北欧に約五百匹と日本に約二千匹が生息している。ワニに寄生したグループもワニノエに進化したが生息数など実態は掴めていない。
(日本吸血者協会調べ)

(4)
このつづきは千葉電力少女シオリが語るよ             
「つまり、金髪のかわいい男の子と、デートしてきたんだ」
「はあ? ちゃんと聞いてた?」
「いーなー。喫茶店でお話ししてきたんでしょう? 差し向かいで。目の保養だったね」
「どこが。あいつ、あの餓鬼、あの金髪のセラミド小僧」
 チホは麦茶をがぶがぶ飲みながら東京での出来事を話しつづけた。
「ドトールに入ろうとしたら、これ庶民の店じゃないかだって。よくわからない商店街の外れまで歩かされて、純喫茶に入ったの。純喫茶だよ。庶民は不純なのかよ。コラーゲンみたいな名前してさ。世良彌堂は、庶民を馬鹿にするな―。で、人に高いコーヒー奢らせておいて、飲まないのよ。一滴も。それ、お香じゃないから」
「セラミド君か、おもしろそうな子」
「飲まないなら、普通のブレンドにしておけって。ブルーマウンテンだ? わたしも同じのにしたら、やっぱクリスタルマウンテンにするわだと。おれは人と同じものは飲まない主義だ。飲んでねえじゃん」
「楽しそう。今度ここへ連れてきて」
「記憶の男の子と全然違うのよ。見た目は、まったく同じなのに。ショックでかいよ。美しい思い出がコッパミジンだよ」
 こんな興奮したチホを見るのは久しぶりだった。失礼な男の子に怒っているふりはしているけど、実は機嫌がいいのだ。その証拠にセロテープで電池を三本直列に繋いであたしを大きくしてくれた。身長はやっと一メートルを超えた。あと二本あれば元の大きさになれるかも。
 同じ吸血者の友だち? ボーイフレンド?ができてうれしいのだろう。相談相手ができたのだから。あたしは半実在で話を聞くことしかできない。一六歳で死んだから、成長もここでストップだ。これ以上頭もよくならない。よいアドバイスもできない。この世界で、まったく無駄な存在だ。
 この部屋〈1420〉には、もともと双子の吸血姉妹が住んでいた。理科斜架さんと蜘蛛網さんだ。人形みたいな服を着て変てこな名前だけど、見た目は幼い女の子だけど、本当はそうじゃないのはすぐわかった。二人は最低百年は生きている。もしかしたら二百年。小さな体の中に、大木みたいな年輪のある人物だ。
 二人がどんな人生を送ってきたのか、とても興味があった。二人に霊感はないからあたしは見えなかったみたいだけど、ずっと気配は感じていたらしい。あたしは曇った窓ガラスとかに字を書いて筆談もできるけどやめておいた。下手に接触するとお祓いとかされてしまいそうな、ちょっと怖い雰囲気もあった。霊にも怖いことは普通にあるって、なってみないとわからないかも。だから、チホが来る前まで二人とは話したことはなかった。
「理科斜架さん、蜘蛛網さん、この部屋なんかいる」チホの第一声はこんな感じだった。
 チホは吸血者協会の斡旋で二人と暮らすことになった。吸血者は集団で暮らすと血液の宅配料が格安になるのだ。吸血者とは、簡単に言うと吸血をやめた吸血鬼。そうなった経緯は世界史的に複雑すぎて覚えるのやめた。あたしもう受験とか関係ないし。吸血者協会は赤十字社と深い関係にあるらしいけど、あまり追求すると怖い人が来るとか来ないとか。
「蜘蛛網さん、感じませんか? この気配は……蜘蛛網さん? ……あの、さっきから全然しゃべってくれないんですけど。わたしのこと、気に入らないとか?」
「蜘蛛網はそういう人よ。気になさらないで」理科斜架さんはよくしゃべる。「わたくしが見る限り、あなたのことは気に入っているわ」
「本当ですか? 睨まれているようにしか見えないんですけど」
「まあ、慣れることね。慣れたら微妙な変化が読み取れるようになるから」
「微妙な、ですか」
 赤っぽい服ばかり着るほうが、理科斜架さんで、黒っぽいのが、蜘蛛網さん。ドレスとかレースがひらひらした服が多い。部屋の中でも帽子を被る。あと、靴。あたし、部屋の中で靴履く人、初めて見たよ。二人とも同じ長さのおかっぱの髪をして、目は茶色、鼻の孔が開いているのが不思議なくらい上品な顔立ちだった。
「それよりも、この部屋に何かいるって言ったわね? あなた、見える人なの?」
「感じる程度ですけど」
「女の子でしょう?」
「たぶん」チホはそう言って、あたしのほうを見た。ああ、見つかってしまった。というか、見つけてくれた。
「そこに、いるのね。ふむ。その子の面倒はあなたに任せるわ」
「面倒って? 何をすればいいんですか?」
「それはご自分で考えましょう。楽しくなりそうね、蜘蛛網さん」理科斜架さんは同じ顔の妹に告げた。
 蜘蛛網さんが口を開いた。何か言いそうになった。
「ハフゥ……」息が漏れただけだった。
 じっと見守っていたチホが、前のめりにこけた。あたしもこけた。
 吸血者は幼いうちに成長が止まってしまう人が多いんだとか。成長が止まったところから半永久的に生きられるらしい。病死はしないので、事故か自殺か他殺でしか死ななくなる。老衰についてはよくわからない。老衰した人がまだいないから。
 吸血者協会は、そんな吸血者の不自然な人生の辻褄合わせをしている。血液の配給から始まって戸籍の改竄、吸血者でも大丈夫な仕事を探してあげたり、チホみたく住む場所がない吸血者に部屋が余っている吸血者を紹介したり、吸血者が吸血者らしく生きる手助けをしてくれるようだ。
「これもすべて、アンリ・デュナンさんとナイチンゲールさんのおかげよ」と、チホ。
 この二人は生粋の吸血者で偉人らしい。あたしが習った歴史とはちょっと違っているけど。
「そうね。国際赤十字というアイデアはたいしたものね。あれができたから、吸血者は近代社会を生き延びられた」理科斜架さんはバラの紅茶を飲みながら語った。「でも、わたくしたちには、消え去る道もあった。鬼を抱えたまま、滅びる自由は、もうないのよ。どちらがよかったのかしらね。わたくしはもう五十年くらい考えているけど、結論は出そうにない」
 理科斜架さん蜘蛛網さん姉妹には、吸血鬼として生きた過去があった。
「ぶっちゃけ、誰の血がおいしかったですか?」当然だけど、チホは直吸の経験がない。彼女にとって血と言えば、生理の時と怪我した時に流すもので、毎週クール宅急便で送られてくるあれはあくまでも「赤汁」なのだった。
「そうね。わたくしは、平塚らいてうかしらね。まろやかでコクがあって、酸味はあまりなくて、その分鉄味がどんっと力強くて。あれは血液のシャトーものね。
 珍品というなら、北里柴三郎。うまい、というのとはちょっと違うわね。いろいろな成分がうじゃうじゃ入っていると言えばいいのかしら。本当に漢方薬みたい。
 スポーツ選手の血は、飲むとハイになるの。意味もなく活動したくなる。アドレナリンのせいかしらね。大掃除の前に飲むとはかどるわよ。
 別に有名人ではなくても、昔の人は総じて血に個性があったわね」理科斜架さんは紅茶の香りを嗅ぐように目を閉じた。理科斜架さんと蜘蛛網さんは、昔の社交界で「フラワーチャイルド」をしていたという。たぶんマスコットキャラ的な何か。子役タレント版叶姉妹、みたいな。
「ノグチ……」ずっとカップを口につけて、延々と熱い紅茶を啜っていた蜘蛛網さんが口を開いた。
野口? 英世? あれはダメよ」理科斜架さんが片目を開けた。「劇不味だったじゃない」
「チガウ。ウジョー」
「ああ、野口雨情! あれは、まあ。まあまあだったわね。音楽家とか芸術家って、一見おいしそうじゃない? イメージ的に。でも、ダメなのよね。パンチがない。意外と見かけ倒し」
「えっ、そうなんだ」これ、あたし。「あの、推理作家とか、どうでした?」
「文士か。あれもダメね。ほら、ヒロポン打つでしょう。ヒロポン、知らない? 麻薬よ。血の味か薬の味か、知らないけど、嫌なえごみがあったわ。わたくしは物書きや詩人より牛の血のほうがましだった」
「牛……そうですか」あたしはがっかりした。
エドガワ・ランポ
「あ、知ってる。怪人二十面相の人」チホが身を乗り出した。
「すごい。人間椅子。黒蜥蜴」あたしも嬉しくなった。
「乱歩? 蜘蛛網さん、あなた、いつ知り合ったの? わたくし、知らないわ」
「ランポノ、チ。ウマカッタ」蜘蛛網さんは目を閉じた。少し笑ったような気がした。                                   
 あたしはいつの間にか吸血者たちと仲よくなっていた。チホのおかげだ。乾電池の電力で、霊が実体化できることを発見したのは彼女だ。
「おいしい血か」チホが麦茶を飲みながら呟いた。彼女、実はカフェインも炭酸も苦手だ。「わたしは飲んでも違いがわからないんだろうな。協会の血しか知らないし」
「あなたはそれでいいのよ。もう、血に質を求める時代は終わったから。飲めるだけありがたいと思わなければ」
「でも、もうすぐ血液自由化じゃないですか。また、美味い不味いの時代が来るんじゃないですか」
「どうかしらね。協会が会社に変わるだけで、本質的には同じだと思うのだけど」
 その年の秋から血液が自由化しちゃった。それまで吸血者協会が独占していた血液配給事業に民間の会社も参入できるようになった。出入血分離と言って、血液を集めるのは今まで通り赤十字社なんだけど、小売のほうはサービスで差別化して大競争時代になるのだとか。要はガソリンをどこで入れるのか、エネオスにするか出光にするか、セルフサービスがいいのか窓は拭いたほうがいいのか、みたいな話。
「やっぱ、B&Bブラッド&ビルド社かMolto Rubato社のどちらかだと思うんですけど……」チホは送られてきた吸血企業のチラシを広げて、どこと契約しようか理科斜架さんたちと話し合っていた。
「モルト、何?」
「Rubato……これ、何て読むんですか? ルバート? へー、イタリア語。〈もっと、自由に〉って意味みたいです」
「もっと自由に社。名前はいいわね」
「協会系の㋠日本血液販売って、名前が、ちょっと」
「センスが皆無ね」
「もっと自由に社にしちゃいましょうか?」
「そうね。ファミリープランだと、結局どこも同じようなものなのよね」
「じゃあ、もっと自由に社に決定」
 この「もっと自由に社」が、実際フリーダムなことになるんだけど、それはまたいずれ。
 あたしは自分の部屋には帰らず、〈1420〉に入り浸っていた。だって、あたしの部屋にはあたしのことを知らない若い夫婦が入居してきて、しまくっていたから。もうすぐ子供も生まれる。おめでとう。だから、お隣に引っ越したのだ。
 チホは毎朝、事務の仕事をしに会社へ行った。会社はよく変わったが、やることはだいたい同じ。紙を分けて、数えて、パソコンで入力。チホはそれを一日七時間半もやる。あたしには到底無理そう。大人になる前に死んでよかった。
 理科斜架さんと蜘蛛網さんはお昼に起きてきて、お茶を飲む。ときどきお菓子を食べる。血はそれぞれの部屋で飲んでいるみたい。人前でパック入りの血液を飲むことにためらいがあるようだ。元吸血鬼のプライド? チホなら、出勤前に牛乳飲むみたいにゴクゴク飲んで、臭い消しをシュシュッとやって、「行ってきまーす」だけど。
 夜、チホが帰ってくると、部屋はにぎやかになった。チホは外で見たことや、会社の話をして、理科斜架さんが意見を述べる。それを、蜘蛛網さんがたった一言でまとめたりひっくり返したり。それは楽しかったけど、あたしは姉妹だけの永遠のような静かな時間も好きだった。
「中华精制血液公司」から手紙が来たのが、確かこのあとだった。全部漢字の手紙。書き下し文にして現代語訳してくれないとわからないよ、これ。
「チューカ・セイセイ・ケツエキ・コンス」蜘蛛網さんが小首を傾げた。
 チホたちが契約した「もっと自由に社」は営業開始から三か月足らずで他社に買収されちゃった。
「ふむ。そういうわけで、われら公司がモルト・ルバートの業務を引き継ぐことになった、日本のみなさん、よろしく。つまり、これは、挨拶ね」理科斜架さんは年の功で漢字に強いので内容がわかるみたいだった。だいたいだけど。
「入会金とか、どうなるんですかね?」チホは会社を名前で選んだことを後悔しているみたいだった。六万円は彼女にとっては大金だ。
「入会金はそのまま。料金プランは一年間据え置き。と、読めるわね」理科斜架さんと蜘蛛網さんが同時に紙面から顔を上げて、頷き合っていた。
「もう。自由化ってこういうことなんだ。自由って自分勝手。面倒くさい。そう思わない?」チホがあたしのほうを見て言った。電池は使ってなかったからチホにしか見えないあたしだった。
「時代の流れね。自由化の波は押し留めようがないわね」理科斜架さんは他人事のように呟いた。「飲めるだけありがたいと思わなければ」
 でも、理科斜架さんは中国から送られてきた「精制血液」を一口飲んでブーッと吐き出しちゃうんだけどね。
「チホさん、ごめんなさい。わたくし、もう飲めないわ」理科斜架さんは会社が変わって一週間目に音を上げた。
「ムリ。コレ、ムリ」余程不味くて我慢していたのか、蜘蛛網さんもちゃんと渋い顔になっていた。
「え、そうですか……」血を薬だと思って飲んできたチホだから、どこの血だろうと不味くて当然なのだった。
 中国では富裕層の吸血者が上等な血液を独り占めして、余った屑血液で商売をしていた。「精制血液」は濃縮還元ジュースみたいな製法で人工的に作られた血液らしい。チホは被害者の会でその実態を知るんだけど、ずっと先だったね。
「入会金はわたくしたちが出すから、別の会社にしましょう」
 三人は次にデンマークの会社と契約した。ここはお試し期間があった。
「むむ。ちと脂っぽい血ね。バタとチーズの薫りが強すぎる」
「イマイチ」
「普通、ですけど……」
 結局最後は日本へ戻ってきた。
「コ、レ、ハ」蜘蛛網さんはサンプルに浸した指先をペロッと舐めた瞬間、目をパチクリさせた。
「ふむ。日本人の血ね」理科斜架さんはうっとりしていた。「やはり、日本人の血よ。美味しい……」
「へー。そうなんだ……」たぶんチホにはここまで全部、同じ「血」だったよね。
「男性。年齢は二十五歳から三十二歳。血液型はA型ね」
「そ、そこまでわかるんですか!?」
「嘘。わからないわよ」理科斜架さんは片目を閉じた。「さすがに、ストレートではないわね。でも、これは日本人だけのブレンドだわ」
 理科斜架さんによると、日本人の血は塩分が濃くてお魚成分が多いからすぐにわかるんだとか。
「これは美味しいわ……同じ日本人でも協会の血より断然美味しい……」
 双子はこの会社の血に夢中だった。チホは相変わらずだったけど、この会社に切り替えるのに異存はなかった。
 三人は美味しい日本人の血が飲める、ブラッドウィル社と契約した。そこは例の㋠日本血液販売が名前を変えた会社だった。最初からここにしておけばよかったのに。これって、あたしもよく言われた。あんな男のところへ行かなかったらって。でも、そうなってしまう状況が先にあるんだよ。チホたち吸血者も初めての自由化に翻弄されていたんだ。
 純度の高い日本人の血を味見して、満足げな双子と、それを見て嬉しそうなチホ。あたしが覚えている、この部屋で見た一番幸せそうな絵だった。
 チホと双子とあたし、四人で暮らした二年半、思い出はほかにもあるけど、後半はあまりよくなかった。

 セラミド君の話が一段落つくと、チホは黙り込んでしまった。あたしも思い出したくないことを思い出してしまって黙っていた。
「あ、電池……」チホの目があたしに焦点を結んでいた。
 気がつくとあたしの体が青いシマしまだった。一瞬ごとに薄くなったり濃くなったり、今にも消えそうだ。あたしはかなり電気を食う。記憶を蘇らせたりすると余計に食う。電気が足りなくなると、動きも鈍り、瞼も重くなる。電気がたくさんあると元気。生きてた頃もこんなに単純だったらね。
「タイム。ちょっと、待ってて」
 途切れ途切れのあたしが、新しい電池を取りに冷蔵庫へ向かうチホを黙って見ていた。

(つづく)


その1

その3




物を書く 物を読むとは 鳥葬の 屍肉を屠る ハゲワシの如し(静哉)

早稲田文学⑥裏表紙(通常版)
小説家・仙田学氏(後方)と筆者(撮影:篠山紀信氏)


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