モルトモルテ Molto Morte 其の死地⑦
17. ドはドンビのド
沼崎六一郎は千葉みなと駅で京葉線の快速電車を降りた。
千葉へ来たのは何年振りだろうか。
西船橋より東に来たのはおそらく初めてのことだ。
駅ビルを出た沼崎は、まずあたりにうっすらと漂う異臭に気づいた。
肥やしに似たオーガニックな臭いだった。
沼崎は念のため防塵マスクを取り出し装着した。
駅前を歩く人、建物、車、すべてが薄茶色のフィルターがかかったようにくすんで見えた。街全体にかすかに土埃が舞っているのだ。千葉では不穏な空気とは鼻で感じ目で見てわかるものらしい。
沼崎はサバイバル7つ道具・その5〈昭文社ライトマップル関東道路地図〉を開いたまま歩き始めた。
タクシー乗り場で運転手が客と揉めていた。
羽箒を振り回して乗り込もうとする客を追い払っている。客の動作が鈍い。
ドンビだ。
ロータリーをざっと見渡しても、五、六名がゆっくり動いていた。もしかするとサバイバル7つ道具・その3〈六一式串刺銃〉の出番もあるのだろうか。
横断歩道の前で沼崎はもう一度メモを広げ、現実の風景の中で目的地であるマンションの位置を確認していた。
気配を感じて振り向くと、近寄って来る者がいる。
老婆だ。
歩みは亀より少し早いくらいで、目はあらぬ方角を向いていた。
沼崎は道を避けた。
おおよそ建物の見当がつき、そちらへ歩き出そうとすると、避けたはずの老婆が向きを変えてまた自分のほうへ向かってくる。
沼崎はまたその場を離れた。
すると、老婆が亀からヘビにスピードアップしてついてくるではないか。
さすがは千葉。
東京よりもドンビの足が速い。
沼崎は少し驚きながらも、先を急いだ。
まだ数百メートル向こうにあるマンションを見上げたまま歩いていると、沼崎の横にピタッと寄り添って同じ速さで進む物体があるのに気づいた。
「あなた様は神についてどうお考えですか?」
ドンビがしゃべった。
「本当の神についてお話しさせてください」
老婆のドンビは先ほどの振る舞いが嘘のようにきびきびと動き、語りつづけている。
しかも、満面の笑顔ではないか。ずいぶんと人懐っこいドンビの老婆だ。
「そろそろ神について真剣に考えるべき時が来たとは思いませんか?」
「思いません」沼崎はまっすぐ前を向いたまま答えた。
やっとわかった。
老婆はドンビじゃない。
この街の宗教家だ。
ドンビのふりをして説教する相手を物色していたのかもしれない。
老婆を振り切ろうと、沼崎が早足に替えると、向こうもギアチェンジしてきた。
沼崎はさらに早く歩いた。
靴から煙が出そうな勢いだ。
沼崎と老婆は、歩道を並んですごいスピードで歩いている。
「あなた様は知っていますか? 神には二種類います。神は良い神だけではありません。悪い神もいます。良い神と悪い神の違いは……」
沼崎は走り出した。
五十メートル六秒九の逃げ足をここで使うとは思わなかった。しかも老婆相手に。
必死になって引き離した。
距離は十分すぎるほど取ったつもりだが油断はできない。
角を曲がって、建物の塀の陰からそっと覗いた。
老婆の姿はもうなかった。
喉を潤そうと、ナップサックからサバイバル7つ道具・その6〈死霊のしたたり水〉を取り出した。
沼崎はペットボトルに詰めた水道水を一気に半分ほど開けた。
一息ついてふと傍の建物を見ると、目標の十四階建てのマンションだ。
神の配剤か。
いや、そんなことより重大な事実がある。
沼崎は塀から下がってマンションの外観をよく見回した。
見覚えのあるマンションだ。
以前ブログで取り上げたことがある。
ここは、あの「千葉女子高校生秘書・監禁!緊縛!飼育事件」(1)の現場だった。
18. 鬱血織り姫と血色悪い王子
二人は安房鴨川の駅前でタクシーに乗り込んだ。
行く先はもちろん「きりこし総合病院」である。
車が走り出して間もなく、チホは釣り具店の看板を見つけた。
「おい。南房総が磯釣り師の楽園だったとしても、冗談がきついぞ」
世良彌堂に構わず、チホは釣り具店でナス型オモリの6号を二袋購入して車内へ戻った。
「オモリだけか。竿は? 釣り針と釣り糸はどうするのだ? ふん。どうせ、弾丸にするのだろう」
チホの指弾は蜘蛛網に仕込まれたものだ。
制御し難い腕の力を抑えるには、封じるより鍛えたほうがいい。腕に別の役割を与えるのだ。奇しくも双子は、手にアンバランスを抱え込んだチホと同じタイプだった。
最初は理科斜架が裁縫を仕込もうとした。
理科斜架は超絶技巧を持つお針子だった。
彼女はあり余る指先のパワーをミクロの領域をも細工する情熱へと転換していた。「半導体を縫う指先」と評された刺繍作家として活動していた時期もあったが、チホと出会った時はもう人形の衣装のような赤い服と黒い服しか縫っていなかった。
チホは慣れない縫い針やら裁ち鋏を持たされ、竹尺でぴしぴしと扱かれたが、苦行以外の何物でもなかった。
「無駄な努力は、この辺にしておきましょう」
理科斜架は呆れて指導教官から降りてしまった。
「チホさん。あまり言いたくはないのだけれど、こんなにぶきっちょな子は初めて見たわ」
代わって蜘蛛網が「お弾き」を教えてくれた。これはしっくりいった。チホは有効射程が約十二メートルの「指弾使い」に急成長した。
これでもう自分は馬鹿力の壊し屋じゃなくなった。キーボードに怖々と触れる癖も治って、タイピングも上達した。
「吸血事務員さんよ。ぢっと手を見て、どうした? 何だ、それは? 外反母趾のサポーターか?」
これは、理科斜架が作ってくれた黒革の「指あて」。これを右手の人差指にはめると硬い弾でも思い切り撃てるのだ。
「ほう。のび太の空気ピストルよりは使えそうだな。頼んだぞ、平成の没羽箭張清(1)」
タクシーが急ブレーキで停まった。
体重の軽い世良彌堂は前のめりに運転席の裏へぶつかっていた。チホは右手をシートに押しつけて慣性の法則に耐えた。
「すいません。大丈夫ですか?」
運転手が平謝りしている。前の車がやはり急に停止したため仕方がなかったようだ。
「ドライバー。気をつけてくれ。子供が乗っているんだ」
世良彌堂は座席にぶつかった金髪の頭を擦っている。
「何だ? 南房総名物、当たり屋か?」
チホが前を覗くと、道路をゆっくりと横切る人影が見えた。中年女性のドンビが一体、道の真ん中で考え事でもするように立ち止っていた。前の車がクラクションを鳴らしているが効き目はない。
「お客さん、少々お待ち下さい。すぐに片づけてきますんで」
運転手が車を離れて、ドンビに近寄っていった。手にスプレーを持っている。しかし道の真ん中から忌避剤で追い払うのは大変そうだ。
チホが見守っていると、運転手がスプレー缶を激しく振って道路の向こう側へ噴射し始めた。黒い霧が反対車線へ流れていくとドンビおばさんは急に生き返ったようにすたすたとそちらへ歩き始め、忽ち道を渡り切ってしまった。忌避剤とは明らかに違う反応だった。
チホは車内へ戻ってきた運転手に訊いた。
「ああ、これですか。ルカあーすですよ。良く効きますよ」と運転手。「南房総のドライバーの必需品です」
世良彌堂は車内に貼ってあるステッカーを指さした。
〈ルカあーす〉の広告(2)だ。
ドンビの誘引剤。
忌避剤とは逆の作用の商品がすでに開発されていたようだ。チホと世良彌堂はほぼ同時に顔を見合わせて悟っていた。野沢温泉村で二人に吹きつけられた液体の正体はどうもこれらしい。
「念のため、おれたちも用意しておいたほうがいいかもな」と世良彌堂。
「これ、どこで売っているんですか?」チホは運転手に訊いた。
「ホームセンターでもスーパーでも、どこでも手に入りますよ」と運転手。
「一本、幾らぐらい?」
「二万円です」
「に、二万!?」
チホは世良彌堂の顔を見詰め、首を横に振った。
「安い類似品もありますが、蝦蟇田興業のルカあーす、これが一番効きますね」
ステッカーにも〈蝦蟇田興業〉のロゴが入っていた。
保守王国千葉の「房総ハリケーン」、政界を引退して実業家になった蝦蟇田幸助、通称「ガマコー」の会社だった。
19. ドはドンビのド
オペラグラスでマンションを観察する沼崎。
口をもぐもぐ動かしているのは少し腹が減ったのでサバイバル7つ道具・その7〈チョコの実〉(1)を一掴み口へ放り込んだからだった。
オペラグラスの中で〈1420〉の窓はカーテンに閉ざされている。隣の〈1419〉のベランダには洗濯物が干してある。ハンガーに赤ん坊の服がかかっていた。
住人は知っているのだろうか。
知らないわけはない。
事件から十一年たったとはいえ、調べればすぐに出てくる怪事件だ。
世の中には縁起を気にしない人間もいる。あんなことがあったせいで、このマンションは相場よりも割安なのかもしれない。
しかし、こんなことがあっていいのだろうか。事件の現場となった部屋は、西機家の娘の部屋のすぐ隣ではないか。
建物の裏からの観察を終えると、沼崎は正面に回った。
オートロックの玄関の前で待機、出入りする住民に紛れて屋内へ入り込もうというのだ。
個室の鍵がディンプルキーなどの特殊なシリンダーでさえなければ、サバイバル技術を駆使して部屋の中まで侵入することも可能だ。しばらく待ったが、こういう時に限って住人も宅配業者もやって来ない。
マンションの正面は、高さ一・八メートルほどの厚い生垣が邪魔になってオペラグラスでは観察できない。
沼崎は潜望鏡に切り替えた。
ナップサックから〈千里眼CHIZCO〉を取り出し、パイプを最大限に引き延ばして生垣の隙間に突っ込んだ。
潜望鏡は〈1420〉のドアを捉えた。
ドアが開いてあの少年が顔を出さないだろうか。勘の鋭い少年のことだ。潜望鏡で隠れ見ている、こちらの熱い視線にすぐに気づくに違いない。鋭い眼光で睨みつけてくるに違いない。いや、こちらの視線に気づいても気づかないふりをつづけるかもしれない。ふと気まぐれを起こして、己が放射するこの世ならぬ美しさに惑わされる人間の存在を許す気になるかもしれない。
沼崎が妄想を逞しくしていると、円い視界が急に闇に包まれてしまった。
「何かご用ですか?」
作業着を着た白髪角刈りの老人が生垣の上から沼崎を見下ろしていた。潜望鏡の先を大きな手で押さえている。このマンションの管理人のようだ。
「ええと、ですね……」
沼崎は老人を見上げ、笑顔を浮かべた。
老人も一応笑顔だ。生垣の上からじっとこちらを覗き込んで、沼崎の返答を待っている。
「決して、怪しい者では……」
沼崎は次の瞬間、潜望鏡を引き抜いてダッシュしていた。
やれやれ今日はよくよく老人に捕まる日だった。こういうこともあろうかと、〈千里眼CHIZCO〉の先端部分は着脱式でトカゲの尻尾のように切り離せるのだ。
マンションの管理人というものは、だいたい午後四時か五時には勤務を終える。それまで、どこかで時間を潰すとしよう。
沼崎はマンションの敷地に沿った歩道を八分のスピードで走りながら、ふと生垣のほうを見上げた。
沼崎は驚いて、もう一度よく見た。
さっきの老人の顔がまだそこにあった。
老人の首が生垣の上を自分と同じ速さで動いているのである。
脚立に乗って作業していたと勝手に思い込んでいたが、老人は異様に身長が高いようだ。
しかも相当な健脚だ。
沼崎はもう全力で走っているのだが、老人はまだついてくる。
逃げ足には自信があった沼崎だが、さすがに息が切れてきた。
持久力はないのが、自宅スポーツマンの哀しさである。
だが、逃げ切れそうだ。
もうすぐ生垣が切れるのである。
歩道はつづくがマンションの敷地はそこで終わりだ。
ラッキーサバイバル!
生垣の先へ出て逃げ切ったと思った途端、何かに足を引っ張られ、沼崎は路上へ倒れ込んでいた。
全身を襲う打撲と摩擦。
声にならない声を上げる沼崎。
うっすらと目を開けると、足が宙に浮いていた。
両の足首に白いロープが巻きついて、ピンと張り詰めているのだ。
ロープの元をたどると生垣の隅にさっきの老人が顔を出していた。ロープはその老人の口の中から伸びていた。
老人はカメレオンのように舌で自分を捕えているのだ。巻きつけていた足首を放し、ゆっくりと沼崎の喉元まで伸びてきた白い舌の先に、生きものの眼球らしきものが開いて睨回していた。
白くぬらぬらした巨大なミミズかアシナシイモリのような生きものが沼崎の目前で、とぐろを巻いたり捻じれたり鎌首を上げたりしていた。
見開いた生きものの眼いっぱいに真っ赤な虹彩が拡がっていた。その光彩には、もはや死相を浮かべている沼崎自身の顔がはっきりと映し出されていた。
銀色の鋭い歯が並ぶ深く裂けた口から〝声〟が響いてきた。
「……ぼくらは成功した。怪しい人間を一名、確保した。繰り返す。怪しい人間を一名、確保した……」
うしろに控える老人の腹話術にしてはやけに高く機械的な音声だった。
20. 宇宙船喰蟲ヒトノエ
沼崎が目を覚ました。
彼の意識は朦朧としており、自分がどんな状況にあるのかわかっていなかった。
ただ体の自由は奪われているらしいことだけは理解できた。
彼は中華テーブルのような丸い台の上に四肢を縛りつけられていた。
大の字になった沼崎を囲むように三人の男が立っていた。
いずれも身長190センチ級の大男でしかも年寄りだった。
老人たちの口からはそれぞれアサリの出入水管のように寄生生物ヒトノエがはみ出していた。
ヒトノエたちは時折沼崎の顔や体のすぐ傍まで白く長く伸びてきた。
赤い眼で沼崎を睨回すと、また老人の口元近くまで収まっていくのだった。
三匹のヒトノエが沼崎の体の上でメルセデス・ベンツのエンブレム「スリーポインテッドスター」を描くように集結した。
三匹は互いに顔を見合わせ会議を始めた。
「この男をどう見るか」
「この男が聖なる戦士(1)か、否かという意味か」
「然り」
ヒトノエたちは声のトーンがみな同じで、三匹のうちどれが話しているのか判別がつかない。
「この男はぼくらを追ってこの星までやって来た聖なる戦士なのであろうか」
「聖なる戦士はぼくらと敵対する者。対にして敵となることを運命づけられし者」
「この男が聖なる戦士なら、古式に則り鄭重に処刑せねばならない」
「この男がただの人間である可能性も否定できない」
「ただの人間を処刑することはできない」
「ただの人間はぼくらと共にある宿となりし者」
夢うつつの沼崎の中へ三匹の会話が流れ込んで来る。
何やら紛糾していることはわかるが、原因が自分だとは知る由もない沼崎である。
「この銃は聖なる銃に似ているとは思わないか」
「機構も動力も実に原始的だ。この銃でぼくらと敵対しようなどとは笑止」
「この鎖状の甲冑は聖なる戦士のものだろうか」
「ぼくらには聖なる甲冑についての伝承はない」
三匹は沼崎の体の横に置かれた7つ道具や週刊誌など、ナップサックの中身について互いに捩れたり巻きついたりしながら活発に議論していた。
背後の老人たちは立ったまま目を瞑り微動だにしない。
寝ているようだ。
「聖なる戦士が、このような低俗な刊行物を所持する理由とは」
「もしや伝承にある聖なる戦士の聖典『宇宙船喰蟲虫下し読本』ではないのか」
「否。この星の低俗な定期刊行物の一種であることは明白だ」
「聖なる戦士にも俗なる欲望があるという証拠ではないのか」
「聖と俗の間を移ろう者はただの人間であろう」
「然り」
「だが、この銃の形状は伝承にほぼ忠実だ」
「ぼくらにはこの男が聖なる戦士であると断定し得る情報が決定的に不足している」
「然り。では決を採ろう。ぼくらはこの星で多数決を学んだ」
「処刑に反対するぼくらは挙手を」
沼崎は夢うつつのまま腕を上げようとした。台にがっちりと縛りつけられた腕はびくともしなかった。
「面妖な。何故反対で決を採る」
「ぼくらは骨の髄まで否定的感情に支配されている」
三匹の動きが止まった。
言葉を発するのをやめ、互いに顔を見合わせている。
「待て。挙手。挙手とは何だ」
「然り。ぼくらには腕がない」
「骨の髄。ぼくらには骨も髄もない」
三匹はほぼ同時に鎌首をもたげた。
何かに気づいたようだ。
「ヒトノエジョークだ!!!」
悲鳴のような歓声が上がった。
耳の奥まで突き刺さってくる高い音に、沼崎は反射的に耳を塞ごうとしたが、その手は台に固く縛りつけられている。
「高度な文化だ!!!」
「ぼくらはこの星でユーモアを学んだ!!!」
三匹は感極まったのか一つに絡まり合いソフトクリームみたいな螺旋を描いていた。
やや頭がはっきりとしてきた沼崎が呆然とその様子を眺めていると、螺旋がこちらを向いてドリルのように回転しながら迫ってきた。
思わず顔を背ける沼崎。
捩れて頭部を寄せ合った三匹が順に告げていく。
「東京へ去れ、都民沼崎」
「二度と千葉へ来るな、都民沼崎」
「都民沼崎。振り向くな、都民沼崎」
徳川の家紋のようなヒトノエの三つの顔を見つめているうちに、抗い難い感情が沼崎の中に溢れ出し、自ずと口が開いていた。
「……OK、サバイバル」
21. 鬱血織り姫と血色悪い王子
タクシーできりこし総合病院へ乗りつけると、二人は受付へ向かった。
チホは受付係に霧輿総病院長への面会を申し出た。
受付係にアポイントメントの有無を尋ねられ、言葉に窮した。
病院のホームページ経由で一応メールを打っておいたが、返事はなかったのだ。
このままでは一般の外来患者と同じ扱いになりそうだった。
パーカーのフードを目深に被った世良彌堂がチホの前に出た。
「ブラッドウィルについてお尋ねしたいことがある。おれの名は世良彌堂。怪論文の執筆者である」
受付係の態度が変わった。
慌ただしくインターフォンで連絡を取り始めた。
間もなく鎌倉の療養施設の広報と同じ人かと思うほど雰囲気がよく似た秘書が現れた。
「総病院長が、是非お会いしたいと申しております」
午後の診療があと小一時間で終了するという。
「よろしい。待たせてもらおう」
子供に慇懃に接する秘書の姿に、周囲の患者たちが何事かと注目していた。
病院側の変わりように憮然としながらもチホは世良彌堂に従った。
二人は庭に出た。
広い芝生とローズガーデン、ロックガーデン、二階建の温室まである本格的な英国式庭園だった。
色鮮やかな花々の間をルリタテハ、キアゲハ、ベニシジミなどこれまた華やかな色合いの蝶たちが舞っていた。
花々と蝶たちを見下ろすように七本のビルが建っていた。
きりこし総合病院は、敷地内に医療技術大学と看護専門学校と歯科衛生士専門学校、タワーマンションのような学生寮、職員寮まで合わせ持つ東日本随一の医療センターだった。
「これだけ広いと、〈万物を丸裸にする目〉(1)でもスキャンするのに半日はかかる。ここは、大人しく向こうの出方を見るとしよう」
手入れの行き届いた芝生の上を世良彌堂はフードを外し金髪を靡かせて歩いていく。
「怪論文って何? 聞いてないんだけど」
チホは纏わりついてくる小さな羽虫を追い払いながら言った。
「うん? 言ってなかったか? やつらに食いつかせる餌だ」
世良彌堂がネットカフェに籠って書き上げた衝撃的な論文で、序論から結論まで100000字の大作だという。世良彌堂はそのダイジェスト版を総病院長宛てにメールで送ったのだ。完全版は彼の二十四人の〝女〟に預けてある。自分の身に何かあれば然るべき場所へ送る手筈だという。
「やつらが幾ら強大でも、互いに面識のないおれの女を全員押さえるのは不可能。どうだ、良い策だろう……」ほくそ笑む世良彌堂。
「彌堂君、ちゃんと前見てる?」
世良彌堂は気づかずに芝生から外れて花壇の中まで踏み入ろうとしていた。チホは右手で世良彌堂の襟首を摘まんだ。フードがリードのように伸びた。思わず空を仰いでぱたぱたと足踏みしている世良彌堂。
「で、論文の内容は?」
「序論からか?」
世良彌堂が不機嫌そうに振り向いた。
「100字で」
ブラッドウィル社は、吸血者に添加物の入った血液を供給、その結果吸血者の間でイトマキ症が蔓延したが、吸血者の繭には、ある高い価値があるため吸血者協会は黙認、ブラッドウィル社と協会は利益を山分けしている。
「どうだ、100字だぞ」得意げに言った。
二人は芝生の中の小道を海のほうへ歩いていた。
「添加物って?」
「増量剤だ。生血を水増しする人工血液の類だ」
「ブラッドウィルの血は混じりっ気のない日本人の血でとっても美味しいって、理科斜架さんが言ってたけど」
前を歩く世良彌堂から舌打ちが漏れた。
「ねえ、大丈夫なの? 早くも論が崩れたじゃない」
「ほかは? もっと訊きたいポイントがあるはずだ」
「繭には庶民にはとても理解できない高い高ーい価値がある、でしたっけ?」
「高い価値だ」碧い三白眼がチホを睨んだ。
今、医薬品業界が血眼になって探している物質がある。
ドンビに効く薬だ。
世良彌堂はSESとの関連が疑われていたある脳炎に目星をつけた。
繭の成分はその難病の特効薬の原料になる。
改良すればドンビにも効くだろう。
捏造した実験データを添え、そう結論づけた。
鎌倉と野沢温泉村を見て回った結果、世良彌堂は仮説に自信を持つに至った。
野沢温泉村のフェンスに隠された建物は、重篤なイトマキ症患者専用のホスピスではなかったのだ。
世良彌堂の目にまず飛び込んできたのは、温泉プールから溢れそうに浮かぶ繭、繭繭繭、繭から釣り堀みたいに糸を紡ぐ繰糸機の群れ。繭がすべて巻き取られ、露わになった患者たちは、作業員たちに衣服を剥ぎ取られ、俎板のような台に載せられた。電動鋸が回転して、頭から股まで真っ二つにされる患者たち。断面から溢れ出すジェル状の液体。大きなゴミ箱に放り込まれる吸血者の皮。
「思い出したくもないことだ。あれは、吸血者のリサイクル工場だった」
最初、世良彌堂から工場の様子を聞いた時、チホは漠然と吸血者の繭がカシミヤのストールとかペルシャ絨毯みたいな高級織物にされるイメージを持った。
何かピンと来ないものも感じていたのだが、今改めて繭は医薬品の原料と聞くと納得するところがあった。
「おまえにはひねりというものがないな」
ひねる必要などなかった。イトマキ症の背後で霧輿兄弟が暗躍しているのだとしたら、鎌倉の病院も患者を集めて繭を確保するためのインチキ病院ということになる。
悪事の確証が得られたら、その足で鎌倉へ飛んで冴を連れ帰るつもりだった。
「連れ帰ってどうする? それであの女の病気が治るわけではあるまい」
イトマキ症自体が協会と企業の陰謀で流行っているのだとしたら、理科斜架と蜘蛛網の仇討ちもせねばならない。
「ほう。霧輿を殺るつもりか」
世良彌堂はうすら笑いを浮かべた。
「勇ましいことだな」
「彌堂君だって、メグミンさんの仇、討ちたいでしょう?」
「やつらがそこまで悪党なら、おれたちはとっくに消されているさ。やつらの余裕のなさはおれたちと五十歩百歩。ただ状況をコントロールするのに必死なのだ。〈万物裸にする目〉はそう告げている」
「じゃあ、どうすれっていうのよ」
チホは立ち止まった。
「彌堂君は真実を知ってどうするの? 霧輿兄弟を脅してお金をせびるの? それが目的? そういえば、詐欺師だったよね」
「庶民の苛立ちは尤もだ」
世良彌堂も立ち止まった。
振り向くかと思ったが向こうを向いたままだった。
「真実がわかったところで、どうしようもないかもしれない。この先には、絶望だけが待っているのかもしれない。おれは前に進むが、おまえはどうする? 帰っても構わんぞ」
「行くわよ。はっきり絶望できるならそのほうがいい」
二人が歩く小道は庭園を越えてさらに海へ向かって降りていく。
つるバラのアーチを潜ると小道は終わり、幹線道路とぶつかった。
道路の向こうは海だった。
白波が打ち寄せる太平洋が覗いていた。
激しいブレーキ音が響いた。
見ると百メートルほど向こうで人が撥ね飛ばされていた。
運転手がドアを開け、倒れている人を見下ろして頭を掻いている。
被害者をそのままにして、運転手は慌てて逃げるでもなくただ走り去ってしまった。
「ほう。南房総名物、轢き逃げか」
「ほう、じゃないでしょう。通報しようよ。彌堂君、車のナンバー見える?」
チホはバッグからスマホを取り出した。
「まあ、待て」
倒れていた人が、両手をついて起き上がった。
片脚を引きずりながら道路を渡っていった。
道路の反対側には閉鎖された建物があった。
水族館のようだ。
被害者は入口に張られたロープに引っかかりつつも、その中へ入ろうとしている。
よく見ると、入口付近に他にも二名いた。
皆ゆっくりとした動作だった。
世良彌堂は「な?」と無邪気にチホを見上げた。
チホはばつの悪さを紛らすように、取り出したスマホで徐にメールをチェックしてからバッグに仕舞った。
「気になるな……廃墟に何の用だろう?」
「たださまよっているだけでしょう」
「いや、何かある。中は案外、ドンビの遊園地になっているのかもな」
世良彌堂も道を渡り始めた。
「ちょっと、彌堂君! 総病院長を待つんじゃなかったの?」
チホは道の反対側へ行ってしまった世良彌堂に呼びかけた。
「まだ時間はあるさ。南房総名物、イルカショーでも見物するとしよう」
チホは水族館のほうへどんどん吸い寄せられていく世良彌堂の小さな背中を見つめていたが、溜め息を吐くと道を渡り始めた。
22. 宇宙船喰蟲ヒトノエ
「死神、死神、待てーぇ、死神、待てーぇ」
沼崎は杖を振り上げ鬼の形相で追いかけてくる老婆から逃げていた。
やっと振り切ったかと思って安堵していると、前から別の老婆が向かってきた。
沼崎はびっくりして、また逃げ出した。
「本当の神についてお話しさせてください」
懲りない笑顔をうかべてこの老婆もどこまでも追いかけてくる。
「……死神、待てーぇ」
最初の老婆の声がまた聴こえてきた。
「……死神」
こちらも負けずに執念深い。
「神には二種類います……」
二番目の老婆も諦める気はないようだ。
「良い神と悪い神の違いは……」
老婆も二種類。
前門の死神老婆、後門の神老婆だ。
沼崎はふらふらになりながらどことも知れないぼんやりとした風景の中を逃げつづけた。
闇雲に逃げているうちに徐々に狭い場所へ追い込まれているような気がした。
T字路に突き当たってしまった。立ち止り、どっちへ逃げようか思案していると、右から「……死神」と声が聞えて来た。左へ逃げようとした。
「本当の神についてどうお考えですか……」左もダメだ。
T字だと思っていた道がいつの間にかI字になっている。これでは逃げようがない。
両手を同時に掴まれた。
両手に老婆。
「……死神」
「本当の神……」
ああ!! ……叫びながら目を覚ます沼崎。
そこは中華テーブルのような円い台の上だった。
沼崎は台に縛りつけられたままだった。
天井のライトが煌々と輝いている。
沼崎は目を逸らした。
自分の横にトレーが置かれていた。
その上に置かれた注射器や鉗子が目に入った。
よく見ると、そこは手術室に似ていた。
体温が一挙に二、三度下がった気がした。
幸いあの奇妙で不気味な老人たちの姿はない。
沼崎は自宅スポーツマンの腕力を振り絞って、抜け出そうとした。
このままでは絶対に良くない手術を施されてしまう。
何も悪くない場所にメスを入れられてしまう。
不思議なほど力が湧いて、右腕を縛った紐がじりじりと伸びていく。
遂に右側の紐を引きちぎってしまった。
火事場の馬鹿力、リコールマシーンのシュワちゃんだ。
左手の紐を解いた。
脚を抑えてあったベルトも取り外した。
逃げよう。
沼崎は台から飛び降りて白い部屋から出ようとした。
ドアがなかった。
白い壁には継ぎ目がどこにもない。
まるで卵の内側にいるようだった。
試しに壁を叩いてみる。
硬い金属だった。
沼崎は叫んだ。
開けろ! ここから出せ! 叫んでいるうちに、だんだん喉がつまってきた。
苦しい。喉元を抑えて耐えていると、口が内側から押し開けられていった。
白い舌が飛び出して、どんどん長くなっていった。
口から数十センチは伸びてしまった。
唖然としていると、舌の先がぐにゃりと曲がって自分のほうを向いた。
赤い眼に驚愕と苦痛に歪んだ沼崎が映っていた。
「都民沼崎」
白い舌が言った。
「振り向くな、都民沼崎」
ギザギザの歯が並んだ口を大きく開けて、自分の舌が自分の鼻にかみつくような仕草をして見せた。
沼崎は叫んだ。
舌を奪われているため、叫びは声にならなかった。
舌を突き出したまま声にならない叫びを上げて、沼崎はまた目を覚ました。
堆く積み上げられたダンボール箱が汗をびっしょりかいた自分を見下ろしていた。
自分の部屋の中だった。
ここは杉並区の〈にしはた荘〉だ。
沼崎は恐る恐る自分の舌を出してみた。普通の長さのピンクの舌だった。
窓の外で、ごーん、がーん、ごーんと鐘が鳴り出した。
「はい、お父さん……」
西機夫人の声が小さく響いていた。
何の変哲もない日常だった。
(しかし────)
おそらく、記憶を書き換えられている。
そうとしか思えない。
騙されないぞ、と沼崎は思った。
(つづく)
その6
その8
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?