モルトモルテ Molto Morte 其の破血⑧
23. 鴨川死医悪土
二人は廃墟の中を進んでいった。
薄暗く埃臭い空間に空の水槽が並んでいた。
魚の写真も色褪せていた。
水を抜かれた水族館は族の館でもあるらしく、至る所に落書きもされていた。
その中で数体のドンビが亡霊のように蠢いていたが、別に襲ってくることもない。
「ずいぶんと退屈なアトラクションだな……」
世良彌堂がつまらなそうに呟いた。
展示物の残骸が途切れ、外が見えてきた。建物を抜けると、プールと階段状の観覧席があった。
空のプールの底にはゴミと枯葉が溜まっていた。
「ドンビの一大リゾートになっていると思ったのだが、見込み違いだったか……」
落胆する世良彌堂。
「彌堂君、あれ」
プールのほうばかり見ている世良彌堂にチホは海のほうを示して言った。
観覧席の最上段に人々がいた。
皆、プールに背を向けて一列に並んでいた。
「おお、そこにいたか。さて、何が見えるのだ?」
世良彌堂は躊躇いもせずに階段を上がっていった。
チホは階段の下で腕組みをしていたが、溜め息をついて上がり始めた。
ドンビたちはコンクリートの壁に貼りつくようにして立っていた。
彼らは敷地内の壁の端から端までほぼ隙間なく並んでじっと海面を見下ろしているのだった。
世良彌堂はドンビの背後から爪先立ちで覗き込もうとするが、彼の身長では無理そうだ。
「どけ。庶民……」
ドンビたちのうしろでぴょんぴょん跳ねている世良彌堂を尻目に、チホはバッグからレモンの香りのフロンガス・スプレーを取り出してあたりに吹きつけた。
すぐにドンビが反応を示した。
スペースが開くと、そこから下を覗いた。
「おい、どうした……何が見えるのだ?」
世良彌堂は、目を見開き、口を開けたままのチホの顔を訝しげに覗き込む。
「ただの海岸じゃないか……どういうことだ?」
世良彌堂には何も見えていないらしい。
チホはドンビたちを見渡した。
各々焦点の合わない目で海を見つめているドンビたちの表情は心なし穏やかに見えた。
「おい、どうなっているのだ? こいつら、ここで何をしている?」
「イルカショーを見てるんだよ」
チホはまた海のほう見た。
「イルカショーはうしろだろう。最後の演目が終わって、もう五年はたっているだろうが」
チホの目に、浅瀬を泳ぎ回るイルカの群れと、一回りサイズが大きなゴンドウクジラが映っていた。
もう少し沖でジャンプしているのはツートンカラーのシャチだった。
さらに沖に見える潜水艦のような影。
海面から高く飛沫が上がった。
体長十五メートルはありそうなクジラだ。
「つまり、ラッセンが描くところのあの海洋の極楽図が、おまえとこいつらの死んだ魚のような目には見えて、おれには見えないというのか」
世良彌堂は〈万物を丸裸にする目〉にも映らないものがあると知ってショックを受けていた。
ここは海獣たちの楽園なのか墓場なのか、チホにはわからない。
ただ海に溶けたように半透明なイルカとクジラの霊たちの見事な泳ぎっぷりに目を奪われるだけだった。
「どうです、モアイみたいでしょう?」
二人が振り返ると、階段の下に薄いブルーの白衣を着た男が立っていた。
「海岸沿いで見晴らしのいい場所は大抵こんな状態ですよ。おかげで観光客には不評ですがね」
男は総髪の長い白髪をうしろで束ね、枯れ木のように痩せていた。田舎の中学校の理科教師に相応しい風貌だ。
「SES患者が大勢集まって海を見る。同じ現象は、三重県の志摩半島でも確認されているようです。房総半島と志摩半島。半島という以外に、もう一つ共通点があります。どちらも世界有数の海底ケーブルの密集地帯ですよ」理由はわかりませんがね、と男はつけ加えた。
チホにはわかる気がした。世界は電気で繋がっている。
仕組みはともかく、海獣の霊とドンビも電気で繋がっているのだろう。
「貴様が総病院長か?」
世良彌堂は男を見下ろして言った。
「はじめまして。霧輿龍三郎です。歳は七十三。職業は医師、医療法人経営。よろしく」
「単刀直入に訊く。ブラッドウィル社を使って繭を集めているな? 目的は何だ?」
「ちょっと、失礼しますよ……」
霧輿総病院長はそう言って、パイプを取り出して悠然と煙草をつめ始めた。
「貴様、医者のくせに喫煙者か」
「吸血者殿。ぼくはただの人間です。血液は飲みませんが、煙草がないと生きた心地がしないのです」
総病院長はパイプに火を着け、深く吸い込んだ。
煙はまさか飲みこんでしまったのか、と思うほどあとになってから白く細い溜め息となってゆるゆると吐き出されていった。
「……医師の仲間でも煙草を毛嫌いする者は多いです。これで病気になった人間を大勢診ていますからね。酒や塩や砂糖だって同じじゃないか、と言うと違うと反論します。それらは飽くまでも過剰な摂取が問題であり煙草はそもそも人体にとって異物なのだ、少量でも有害だというわけです。データを見る限り彼らに理がある。だが、ぼくに言わせると底が浅い。ぼくたちの仕事は何だ? 医学じゃないか。人間がただ生きるためには必要のない知識の山だ……」
総病院長はパイプを銜えメガネの隙間から上目遣いに二人を見つめながら、階段をゆっくりと上がってきた。
円いメガネの下の細く鋭い目は、少なくとも地域医療に一生を捧げて自足するタイプの人間ではないことを告げていた。
チホは念のため、左手にナス型オモリを一個握っていた。
ドンビちゃんの目つきが変わる例の液体でも撒かれたら大変だ。
「……医学とは、健全な肉体と精神のためではなく、むしろ如何に不摂生に不真面目にふしだらに生きられるか、そんなどす黒い欲望にこそふさわしい技術体系だ。ぼくはこの仕事をそう考えています」
最後のステップを乗り越え、男は今チホと同じ地平に立った。
間近で見る霧輿総病院長は猛禽を思わせる目と張りのある声以外はくたびれ切った老人だった。
大それた悪事を働くには年齢が二十歳過剰で、体重は二十キロ不足している。
「貴様が食えない人間だということはよくわかった」
世良彌堂が老人を睨みつけた。
「一つ訊こう。おれの論文のどこがよかった? 貴様の胸に刺さった一言半句を言ってみろ」
「いや、あの論文はいいものです。脅し文句はいただけませんが」
老人は微笑んだ。今にも少年の頭を撫で出しそうだった。
「吸血者から抽出した物質で、人間のSESが改善する……これ、ぼくも考えました。兄から繭を分けてもらいまして、うちの大学で分析しました」
「ほう。結果は?」世良彌堂の碧い眼が光った。
「ヤママリンを知っていますか?」総病院長も円メガネの縁を光らせて答えた。
「確かヤママユガの繭から採れる物質と記憶しているが」
「これは話が早い。吸血者の繭に……」
「ヤママリンて何の薬? ヤママユガって、あの虫のガ?」
チホが割って入った。ここを逃すともう二人の会話に追いつけないと思った。
総病院長はチホにわかりやすく丁寧に説明してくれた。ヤママリンは休眠物質で、言わば冬眠の薬。
がん細胞をも冬眠させてしまう、医学者にとって魅惑の物質だという。
さらにヤママユガの繭には、セリシンも豊富に含まれている。こちらは強い抗酸化作用を持ち老化を防止する物質。
工業製品としてすでに広く利用されている。シルクプロテインという名前でチホが使っている化粧品にも配合されているかもしれない。
吸血者の繭を形成する糸はそのまま衣料の原材料として使える見事な空気紡績糸の構造を持ち、その成分を分析するとヤママリンの2000倍、セリシンの40000倍の作用を持つ物質が抽出されたという。
「ぼくは、それぞれドラキュリンとヘルシンと名づけました」
吸血者の長寿の秘密の一端が明らかとなった。
ドラキュリンがあらゆる病に惰眠を貪らせ、ヘルシンが老化にブレーキをかけているということらしい。
この素晴らしい物質を使わない手はない。
総病院長は秘かに臨床試験を行った。ドラキュリンとヘルシンをそれぞれSES患者に投与したのだ。
SESとは飽食と消費に明け暮れる現代文明の転換を怠った人間に下された業病である。総病院長はそう考えていた。
SESの蔓延で人類の生産活動は著しく阻害され、近い将来文明は壊死するだろう。
だが、業に塗れた人間の血液が吸血者に吸い上げられ、吸血者が吐き出す繭で人間の業病が癒されるなら文明は延命する。
「そんな都合のいい結末を期待したのですが、効きませんでした。試験はまだ途中ですが、おそらくダメでしょうな」
総病院長は吸い終えたパイプを胸のポケットに収めた。チホと世良彌堂の前から離れ、海を見つめるドンビたちの列の隙間に細い体を滑り込ませた。
「そもそもこれは病なのだろうか。静かに終わりゆく人類のありのままの姿なのではないのか」
総病院長はドンビたちと並んで海を見ながらつづけた。
「人類が土を食べて満足できればそれに越したことはないのかもしれない。もう治す必要はない。ぼくの仕事は終わった……いや、人を治そうなんて、おこがましいことだったのかもしれない。この世を離れようとしている人を捕まえて、ベッドに縛りつけ、無理やり呼吸させ、せっかく訪れた死の邪魔をする。医師がやっているのは結局、そういうことではないのか。こうして海を眺めていると、時々そんな妄想に駆られるのですよ」
「このつづきは悪徳医師の懺悔録にでも書くんだな」
世良彌堂は総病院長の痩せた背中に投げかけた。
「貴様の兄は繭を集めまくっている。やつは何を企んでいる?」
「それは兄と同じ吸血者であるあなたがたのほうが理解できるはずです。ぼくは兄の考えていることはわかりませんし、知りたくもありません」
総病院長は振り向かずに言った。
「協会理事長の実弟とも思えない発言だな」
「うちの病院がブラッドウィルに出資していたのは事実ですが、それは兄が金を出せ出せとうるさく言うもので仕方なく捻出したのです。申し訳ありませんが、あの会社の内情についてはぼくはよく知らんのです。繭の臨床試験が失敗した今となってはもう関わりたくもありません。正直に言いますと、ぼくは吸血者にはあまり興味がないのです。吸血者はぼくの患者にはなりませんからね」
ドンビたちのすぐ目の前で、巨大なシャチがジャンプした。
ドンビたちの体がかすかに前後に揺れて列に細波が起きていた。
同じ海を見つめる霧輿総病院長の目にシャチの幻影が映っているのかどうかチホにはわからなかった。
24.ドはドンビのド
ドンビたちはテーブル代わりの作業台に群がって各々の器に盛られた土にかぶりついていた。
それぞれが自宅で使っていた食器に土を盛ると、ちゃんと自分の皿が認識できるらしく特に混乱も起きないのだった。
あらぬほうを見つめながら、手掴みで口へ土を詰め込むドンビたち。
その様子に何故かホッとする男がいた。
沼崎は二階の窓から〈千里眼CHIZCO〉で中庭を観察していた。
悪夢にうなされたあとだけに、見慣れた風景を前にして安心したのかもしれない。
どうせならあの少年の夢が見たかった。
手術台の上であの金髪の男の子にメスや注射器でいたぶられるなら、同じ額にかいた脂汗でも甘美な雫となっただろうに。
妄想逞しい自分に苦笑いする沼崎である。
食事を終えた順にそれぞれの動きへ戻っていくドンビたち。
高圧線の鉄塔の下でドンビたちののどかな日常はつづいていた。
現在、ドンビは八体。
元国体選手の西機氏は今日もボート漕ぎ運動をつづけていた。
地面に敷いたダンボールの上に腰を下ろし自分で作ったオールをゆらゆらのろのろと動かしていた。
どこへもたどり着かないボートだった。
沼崎は満足して潜望鏡を引っ込めた。
異常なし。
ゾン百姓のゾ一揆まではまだ間がありそうだ。
ドンビの食事風景に刺激されたのか、小腹が空いてきた。沼崎はナップサックから非常食〈チョコの実〉が入った巾着袋を取り出した。
非常食もこうしてときどき食べて新品と入れ替えるのが備蓄のコツでもある。
〈チョコの実〉を食べ始める沼崎。
甘いチョコレート味が口中に広がっていく。勢いよく咀嚼していた口元が、ふとスローダウンしていった。
歯応えが、おかしい。甘さは確かにチョコに違いないのだが、妙にぬちゃぬちゃしている。
それに、この酸味。
腐っているのか?
いや、違う。
これは、ナッツチョコではない。
レーズンチョコだ!
書き換えられた記憶の継目が見えてきた。
千葉で食べて減った分を、誰かが補充したのだ。
しかし、チョコの中身を確かめなかったのが運の尽き。
自分は〈チョコの実〉に、レーズンチョコは入れていない。
やはりあれは夢ではなかった。
(おれは────)
沼崎は確信した。
(千葉で異星人どもに拉致された……)
25. 鬱血織り姫と血色悪い王子
霧輿総病院長は別れ際、手帳を取り出し何か記し始めた。
頁を破るとチホへ渡した。
そこには〈仁左衛門島〉とだけ書かれていた。
「兄はその島にいるでしょう。週末はたいていそこです」
「貴様の兄は島で何をしている?」世良彌堂が尋ねた。
「さあ、ぼくには兄の考えはわかりません。ここから先は吸血者の世界の話です。では、そろそろ退場させていただきますよ。ぼくの患者たちが待っていますので」
そう言ってまたゆっくりと階段を下りていく霧輿総病院長に、チホは協会本部で兄・霧輿龍次郎に会ったことを明かした。難解な吸血者ジョークを披露されたことも。
「それは災難でしたな。つまらなかったでしょう」
総病院長は一頻り笑うと、静かに告げた。
「ぼくが言うのも何ですが、ああ見えて兄は油断のならない男です。お気をつけて」
二人はタクシーを拾って〈島〉を目指した。チホが「仁左衛門島までお願いします」と言うと、車は何故か海岸線から離れ山へ向かった。
「おい、島だぞ」
世良彌堂が質すと、運転手はこれで間違いないと言う。
二人は訝りながらも従うしかなかった。
大瑠璃ダムは小櫃川の支流に造られたロックフィル式の多目的ダム。
同じ水系の亀山ダムは千葉県最大の総貯水容量を誇りブラックバスのゲームフィッシングやオートキャンプ場も複数あるなどアウトドアライフの一大拠点である。
ところが、ここ大瑠璃ダムは周囲が二キロほどの湖水の中央付近に土砂が堆積、発電施設としても農業用水としても利用できなくなってしまった。
県議会でダムを浚渫して整備し直す案が一度提出されたが費用その他の理由により否決。それも三十五年も昔の話である。
二人は渓流に寄りそう細い林道の中ほどでタクシーを下ろされた。
林道の脇に獣道のような小道があり、徒歩五分で〈島〉だという。
運転手の言葉通り五分歩くとリング状の小さなダム湖が現れた。直径六百メートルほどの湖水に直径四百五十メートルほどの中州が浮かんでいた。中州にはすでに樹木が生い茂り湖水は濠のように淀んでいる。
この大きな中州が通称「仁左衛門島」だった。
鴨川市太海浜沖に浮かぶ「仁右衛門島」は新日本百景にも選ばれた南房総有数の行楽地で源頼朝の隠れ穴、日蓮聖人の伝説で有名だった。
右と左でえらい違いである。
どこから乗りつけたのか湖岸に品川ナンバーの赤いジャガーが止まっていた。きっと別のルートがあるのだろう。
「いるな……」
世良彌堂が仁左衛門島を見据えて呟いた。
「見えるの?」
「邪悪な黒い影が、あの島を覆っている……」
チホの目にはただこんもりと緑が茂った中州が映っていた。
板を渡しただけの簡易な船着き場に手漕ぎボートが繋がれていた。さっさとボートの艫のほうへ乗り込む世良彌堂。
「ちょっと、わたしが漕ぐの?」
「おれは非力だ。力仕事はおまえに任せる」
世良彌堂は悪びれた色もなく言った。
チホはしばらく腕組みしていたが、諦めてボートに乗り込むと舳先に背を向けて腰かけた。
オールをセットしてぎこちなく漕ぎ始めた。
右のオールは何とか動かせたが、左は水中に突き刺さったままなかなか抜き出せない。
ペダルを踏めば前に進むスワンボートとは違って、普通のボートは難しい。
チホは、昔公園の池で家族三人でボートに乗ったことを思い出した。
国体の選手だった父親が漕ぐボートは水を掻く音もさせずに滑らかに池の上を滑った。
父親の膝の間に入ってチホも漕いでみた。
まだ吸血者になる前で小学校低学年の女子にはオールは重く、まったく漕げなかった。
チホの手の上から父親が大きな手で一緒に漕ぐと、忽ち周りのボートを抜き去って瞬く間に池を一周してしまった。あれは爽快な気分だった。
「おい、まるでミズスマシだ。ぐるぐる回っているぞ」
世良彌堂に指摘され、振り向くと確かにボートは左旋回を繰り返していた。
世良彌堂の指示で右一回につき左三回の割合で漕ぐとボートはやっと仁左衛門島へ向かって進み始めた。
コツを掴んだ頃にはもうチホの背中に濃い緑色の島影が迫っていた。
やがてボートは遠浅の砂地へ乗り上げた。
そばに杭に繋がれた船外機つきのカッコいいボートがあった。
二人はボートを降りて灌木と叢の奥を分け入った。
島は肥沃な土砂が溜まっているせいか、植物の成長は周囲よりかえって早いようだ。
世良彌堂は楕円軌道を描いて何度も迫ってくる大きなアブをレーザー光線でも出しそうな目で睨んでいた。
チホはいつでも撃てるように、左手にナス型オモリを握っていた。
どこからか軽快なミュージックが流れてきた。
「ふん。夏の定番大滝詠一か……」
チホはその曲に覚えはあったが曲名も歌手も知らなかった。
叢を抜けると、切り開かれた広場が現れた。
「あれか……」世良彌堂が立ち止った。
広場の中央にテントが張られていた。
テーブルの上にラジカセやダッチオーブンや酒瓶が置かれている。
問題の人物はタープの下のデッキチェアに寝転んでいた。
赤いアロハシャツに膝丈のズボンを履き、サングラスをかけて缶ビールを飲んでいる。
チホたちに気づいたようだ。
寝そべったまま日焼けした顔をこちらに向け、缶ビールを持つ腕を上げて見せた。
「何と軽薄そうなラスボスだろう……」世良彌堂が吐き捨てた。
二人がそばまで歩いていくと、男はデッキチェアから降りた。
春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
「君は天然色」(1)をバックに、男は朗々と一首詠むと、つづけて言った。
「いらっしゃい、お二人さん。ぼくが大友黒主です」
世良彌堂が怪訝な表情でチホを見上げた。吸血者ジョークよ、と小声で教えるチホ。
「その歌は持統天皇やないかい……あれ? 鉄板のはずだけど」
オールバックの銀髪を撫上げながら霧輿龍次郎は笑った。
笑い声が総病院長とそっくりだった。
「孫がここを知らせましたか。つまりあなたたちは選ばれたお二人だ」
霧輿はサングラスを押し下げて二人を見た。
「待て。孫だと? 弟じゃないのか?」世良彌堂が問い質す。
「戸籍上は弟ですが、あれは二度目の人生の孫ですよ。初めの孫は大友黒主にも負けない優れた歌人でした。もうこの世にはいませんがね」
霧輿はそう言ってビールを呷った。
吸血者協会本部で会った時は気がつかなかったが、ぽこんと飛び出た見事なビール腹だ。
見た目は六十代、中身は三桁以上。
この島の霧輿龍次郎は吸血者協会理事長の貫録も精悍さはなく、どこにでもいそうなも小父さん、おっさん、オヤジの一人だった。
霧輿は二人に椅子を勧めたが、チホも世良彌堂も座る気はない。
テーブルを挟んで二人は霧輿と対峙していた。
テーブルの上のダッチオーブンからローストチキンの芳ばしい香りが漂っていた。
「おや、あなたとは二度目ですね」
霧輿がチホを見て言った。
「しかし、この島でのぼくは日本吸血者協会の理事長ではありません。ただの仁左衛門です」
匿名希望という意味だろうか。チホは世良彌堂と顔を見合わせて首をひねった。
「やだなあ……まだわかりませんか? 仁左衛門は通名ですよ。ぼくの正体は元薩摩藩士、吉井友実」
霧輿はサングラスを額まで押し上げ左目でウインクした。
「よろしくね」
「貴様、血迷ったか」
世良彌堂が碧い目をぱちぱちさせた。
「吉井? 薩摩だと?」
「また吸血者ジョークよ、どうせ」
チホも信用していない。
霧輿は自分が吉井友実であることを立証し始めた。
吉井しか知らない西郷と大久保、薩摩の両巨頭の逸話。吉井が日本鉄道の初代社長だった頃に揉み消した大事故について。
正直どうでもいい話だったが、チホは吉井が坂本龍馬の日本初の新婚旅行をお膳立てした件だけ多少興味を引かれた。
「老人の昔話か」
世良彌堂が舌打ちして、苛立たしげに言った。
「貴様がかつて明治政府のB級高官で『坂本君』と大の仲良しだったのはわかった。それがイトマキ症の蔓延に怯える現代の吸血者と何の関係がある?」
「大ありですよ。この世の真実です」
吉井になった霧輿は嬉々として語り始めた。
「ぼくは大久保利通の側近でした。大久保が吸血者だったのはご存知ですね? 坂本君は英国の吸血商人グラバーの密使としてぼくたちに接触してきた。その窓口となったのがぼくです。ぼくたちは西洋吸血社会から入手した情報と武器で、吸血者弾圧政権だった徳川を倒そうとしたのです。また、西洋吸血社会はぼくたちを足がかりに、拠点を日本に移そうとしていました。あちらも宗教権力から随分苛められていましたからね。彼らは東洋の島国を吸血者のサンクチュアリーとする計画を進めていました。それに、西洋の吸血者はフィッシュオイルが豊富な日本人の血が大好きですから。だが、徳川を追放し権力を奪取した大久保は西洋吸血社会を切り捨てようとしました。日本の将来のためには西洋そのものと向き合う必要があり、何かと口を挟んで来る碧い目の兄弟たちは邪魔になったのです。坂本君も邪魔でした。坂本君は人間でしたが、西洋吸血社会に魅入られたやつらの手先、つまり人狼です。どこかで切らねばならない男でした……」
「貴様が殺した?」
いつの間にか話に引き込まれている世良彌堂。
「ぼくが殺すべきだった。出来れば刺し違えて死にたかった……吉井友実一生の不覚……」
梢の彼方の空を見上げる吉井。
「ストップ」
チホは世良彌堂と吉井の間を割るように腕を差し入れた。
「ここまでイトマキ症という言葉が一度も出て来ませんけど。はっきり言って歴史の真実とか、全然どうでもいい話なんですけど」
「おい、生き証人の貴重な証言だぞ」
世良彌堂が批難がましく言った。
「そうそう。ここから佳境(2)に入るのですよ、ここから」吉井も言った。
うるさい、とチホは一喝した。
「もう一度、前と同じことを訊くけど」チホは一歩、吉井に近づいた。
「イトマキ症は、病気なの? 病気じゃないの? 治るの? 治らないの? わざわざここまで来てやったんだから、もう隠さずに知っていることを全部教えなさい」
吉井は銀髪を撫上げながらばつの悪い笑顔を浮かべた。世良彌堂からも小さく舌打ちが漏れた。
「質問の答としては……」と改めて語り始める吉井。
「イトマキ症は病気ではない。よって治らない。そういうことになりますかな」
「ほう。病気じゃなければ何なのだ?」世良彌堂も話の本線に復帰した。
「イトマキ症とは、日本μ吸血線虫(3)が吸血者の肉体から離脱する現象。繭は結晶化した線虫の群体で、言わば生物学的タイムカプセル。線虫たちが時を渡って未来へ向かうための方舟です」
「ちょっと、待って。マイクロ何?」チホは慌てて訊き返す。
「μ吸血線虫。聞き慣れない言葉だ。何だ、それは?」世良彌堂も驚いている。
「吸血者協会のトップシークレットですよ。簡単に言うと、ぼくたちはμ吸血線虫の〝巣〟なのです」
吉井は先ほど万感を込めて龍馬を語った同じ口で事もなげに言った。
「……ス?」チホはまだ全然ピンと来ない感じだった。
「すって……」
「ぼくたちが飲む血液は線虫の餌になります」吉井は淡々と語った。
「そいつは寄生虫の類か? μ吸血線虫は、人間の腸に巣食ったサナダムシが食いものを盗み取るようにおれたちから血液を横取りしている、というわけか?」
吉井はビールを一気に呷った。喉を鳴らして飲み終えるとチホを見据えた。
「失礼ですが、あなたはまだ生理がありますか?」
「貴様、レディーに対して失礼にもほどがあるぞ」
何となく馬鹿にされているような気がして、チホは世良彌堂の横顔を一瞥した。
「普通にあるけど、それが?」
「そうですか。なら、あなたはまだ生きている」
吉井は空になったビールの缶をこんっとテーブルに置いた。
「生きている? 何の話?」またピンと来ないチホ。
吉井はチホから目を逸らし、世良彌堂を見下ろした。
「残念ながら、君はもう死んでいる。ぼくもだ」
「死んでいる、だと?」
「寄生虫とおっしゃいましたか……それはぼくたちのことですよ。この肉体はすでにμ吸血線虫のもので、ぼくたちはその器官を借りて今話しています」
「何を言っている?」
世良彌堂の肌がいつかのように緑冷めている。
虚ろな目で吉井を見上げた。
「貴様は、何を言っている?」
「ぼくたちの死について。すでに死んでいるぼくたちについて、です」
吉井はにっこりと微笑んだ。
26. エイリアン・アブダクション・イン・チバ
沼崎は鏡の前で舌を伸ばしてみた。
若干前より長く伸びるような気がした。
舌の先に黒い点が二つ出来ていた。
小さな血豆のようにもみえるが、これは不完全な〝目〟に違いない。
沼崎は納得したように頷いた。
沼崎の考えはこうだ。
自分は千葉でツチノコ星人(仮称)に拉致されたのだ。
彼らのアジトで、舌に彼らと同じ宇宙生命体を移植する手術を受け仲間にされそうになった。
しかし、人体改造手術は失敗した。
自分は記憶を操作され、すべてを夢だと思わされて放逐された。
彼らの誤算は、自分がこの世のあらゆる種類の超自然現象に通じていたことである。
何か一つ手がかりが見つかれば、そこから一気に真実まで遡る力を有している点だ。
沼崎は部屋の中を見回し始めた。
ほかにもどこか記憶が書き換えられているかもしれない。
もし書き換えられていればまた書き換え直すだけのことだ。
万年床の枕元にサバイバルガジェットが入ったナップサックが置かれていた。
沼崎はナップサックのチャックを開け、中身を取り出した。サバイバル7つ道具を番号順に布団の上に並べていった。
1〈千里眼CHIZCO〉
2〈ザ・シャークスーツ〉
3〈六一式串刺銃〉
4〈デビルイヤー〉
5〈昭文社ライトマップル関東道路地図〉
6〈死霊のしたたり水〉
7〈チョコの実〉
〝その1〟から〝その7〟までちゃんと揃っていた。
沼崎は更にナップサックの底を探った。
小物類に混じっていた小さな革のケースを手に取った。
7つ道具は実は8つ道具なのだった。
沼崎六一郎サバイバル7つ道具・その8〈裏注意〉(1)……AM、FM、短波放送が聴けるメード・イン・チャイナのスリーバンドラジオだった。
沼崎はケースのふたを開け、中身を摘まみ出した。
タバコの箱大の小型ラジオが沼崎のてのひらに載せられていた。
間違い発見。
機種が違う。
ツチノコ星人(仮)め、ただの小型ラジオかどうか分析するために偽物と入れ替えたのだろう。
沼崎は電源をオンにした。
音が出ない。
矯めつ眇めつラジオを観察し始める沼崎。
前の機種はアンテナがついていたはずだが、なくなっている。
スピーカーもなければ、イヤホンのジャックもなかった。
これは、何だ?
ラジオではないのか?
沼崎は耳を近づけた。
突然、ピピピピーという電子音が鳴り出してびくっとした。
見ると「0.082」と液晶画面に周波数が表されていた。
単位は何だ?
キロヘルツもメガヘルツもあてはまらない。
ギガヘルツなら、NHK・FM東京とJ-WAVEがそれに近いが、こんな表示の仕方は聞いたことがなかった。
数値は沼崎のてのひらの上でどんどん変化していった。「0.077」「0.064」「0.091」
ただ手に持っているだけなのに移り変わっていく。
足元がぐらつき始めていた。
違う。
サバイバル7つ道具・その8は〈裏注意〉ではなく〈ドクター抹香臭い〉(2)。
これは三年前、ネット通販で買ったウクライナ製の線量計だ。
沼崎は足元が崩れたように衝撃に震えた。
頭の中身が揺れているのだった。
気がつくと部屋の中が薄暗くなっていた。
沼崎は万年床の上に並ぶ八つの7つ道具を前に、座り込んでいる自分を発見した。
沼崎は立ち上がった。
忘れていた。
────裏日本大震災────
おれがサバイバリストになった始まりの出来事だ。
(つづく)
その7
その9
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