スガワラヒトミ

悲しいことも忘れないでいたい

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マガジン

  • キオク置き場【毎週土曜日更新(お休み中)】

    こころが動いた瞬間、自問自答して、記憶しておくための場所です。だいたい毎週土曜日の更新をがんばってみます。(お休み中)

  • 140字では収まらないつぶやきノート

    140字では収まらない、日々の考えごとを投稿します

  • 歌詞ノート

    自作曲の歌詞を載せています。普段言えないことを歌にできたら。

  • ライブ音源・映像

    ソロライブ(ピアノ弾き語り)の音源と映像です。

最近の記事

悲しみの束

いつか落とした悲しみの雫 乾かずそこに在り続けて 陽が昇ると きらきらと反射する 燃えたぎる太陽から 放たれたエネルギーが 折られ削られ 希望と呼ぶには やわらかく か細すぎる光 ただ 瞳の表面に煌めきを与えるほどの 微かな光 悲しみの数だけ 点在する雫 視線をやると きらきらと反射する 円盤の上 流れ 留まり きらきらと輝いてる 悲しみよ 光であれ ずっと そう願ってる自分に届いた 強く 確かな光

    • 変わらない「状況」について

      10年以上、おなじ目標を掲げています。 悲しいことに状況はほとんど変わっていません。 いや、変わりそうだった瞬間はあったかもしれません。 でも、今じぶんがいる場所は、目標にしたいとキラキラ目を輝かせたあの頃と、さほど変わらないように感じます。 もちろん幾度も選択を繰り返しました。 「もちろん」というと、それがさも当然、とような口調になるけれど、きっとこの「もちろん」はじぶんをただ正当化させるための防御壁なんだろうな・・・ 都度、選択を繰り返しました。 その度、掲

      • 桜の木、心と脳の繋がりについて

        桜の木、横を歩くと心がざわつきます。 ざわつくというのは「言葉にしたい気持ち」が溢れ出てくる感覚、だと認識しています。 私は心に落ちてきた殆どをまず言葉にして飲み込もうとする癖があります。 癖、といっていいのかわからないのだけれど、おおよそ そんな風にしていつも心と脳を繋いでいます。 言葉にしなきゃ、と思います。 言葉にしないとすぐ忘れてしまう気がします。 忘れず残ってくれたそれぞれは私をたのしませてくれたり、のちに助けてくれたり、はたまたチクチク刺してきたりします。

        • 「幸せになろうぜ」と叫ぶバンドがいた

          「幸せになろうぜ」 「君は幸せになるために生まれてきた」 そうやって歌い、叫ぶバンドのライブを見ました。 すこし前のことなので記憶が遠のいてしまっているのだけれど、心がざわついた記録がiPhoneのメモに残っていたので、クリックしないと辿りつかないここに置いておこうと思います。 この言葉に勇気づけられる人はきっと多いんだろうなって想像できます。 ただシンプルに、貪欲でわかりやすい。 そんなシンプルでわかりやすい言葉に引っかかってしまった自分にちょっぴり嫌気がさしました。

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        記事

          ダメな理由がないダメを消したい

          簡単に人の影響を受けてしまう自分がすこしだけ苦手でした。 昔「ほんとすぐ人の影響うけるよね(笑)」みたいにいわれたことがありました。 影響を受けることって「ウケる」ことなんだなって、発した人の声色と表情から、受けとりました。 そう言われたときのざわざわしたきもちが今も残っています。 自覚はありました。 好きな人たちの好きなものが気になってしまうんです。 好きな人たちの思考回路を自分に当てはめてみたくなるんです。 自分に馴染むかどうか試してみたくなるんです。 ただ、括弧

          ダメな理由がないダメを消したい

          やさしかったあの人が今日もやさしかった

          人のことを信じないようにしています。 というと、少し語弊があるかもしれません。 信じないというと漠然としたものになってしまうけれど、 あったかい人だな、とか 元気な人だな、とか いつもやさしくしてくれるな、とか 例えばそういったいつかの言動を記憶しすぎない というイメージです。 そういう風に考えるようになったきっかけを思い返していました。 薄々勘づいてはいたけれど、自分のことを信じられないなと思うようになってから、他人へもそう感じるようになった気がしています。

          やさしかったあの人が今日もやさしかった

          手のひら一杯の幸せを

          知り合いに「今幸せ?」と聞かれたことがありました。 目いっぱい 腕いっぱいの幸せを手にしているとは思えないのだけど、自分にとってはそれがほっとしていられる形のような気がしていて。 なんというか手のひらにのっかるくらい。 そのくらいの幸せを継ぎ足していけたらなって思っています。 それが今のままの生活を変わらず続けていくことを意味してるのかというとすこし違っていて、 視界の変化を求める自分にとって、同じことを同じように続けるのはただヤスリがけしていくような感覚で、手のひ

          手のひら一杯の幸せを

          はりさけるような 胸の痛みはないけど 蝕むような ちぐはぐを残していく 重たいような くすんだ色のかたまりが わたしのこころに 今 現れた この世界 時空をこえて 夢をこの目に映したりはしない 昨日の夜出会った光 嘘みたく眩しかった この世界 この距離越えて 君をこの手によこしはしない 君に見る笑顔はどれも 嘘のように 愛らしい 叫び惑うような 荒れた思いはないけど ぼやけるような 暗闇を残していく 哀れむような 動かない高い壁が わたしのこころを 今 閉ざした

          やわらかな初めましてを

          はじめてお話する方を目の前にするとき、緊張します。 相手によって度合いは変わるのだけど、たとえばじぶんよりすごいとおもってる人だとか、とってもとっても緊張します。 言いたいことはあんまり言えないし、その割になんでそんなこと言うの!みたいなことを言ってしまったりします。帰り道に反省会です。vol.なんぼまでいったかわかんない。 目だけは見るようにしています。 はじめての人は特にです。 嫌そうな顔をしていないか、気になるからです。 コミュニケーションとかではなくって、こわ

          やわらかな初めましてを

          アジサイミッションを遂行せよ

          「じぶんにはどうせできないしなぁ」をいちど横に置いてみることに挑戦しています。 大それたことではなくって、たとえば植物を育てたり、です。 おおよそ枯らしてしまう未来がみえるので、これまで手を伸ばしてきませんでした。 街中に咲いている紫陽花を見ては「わたしの手中にあれば・・・」などと妄想して、妄想で終わっていました。 妄想するくらいには紫陽花が好きでした。 なんとある日、紫陽花をいただく機会がありました。 迷いました。 いただいて枯らしてしまったらどうしようって。

          アジサイミッションを遂行せよ

          与えられなくても、奪わないでいられたら

          これまでに何度か、根っからのエンターテイナーだな、と思わされる方に出会ったことがあります。 だれかを楽しませることが生き甲斐、心血注ぎまくっている、といっても過言ではなさそうな、特別人を笑わせることが好きな人。 お金が流れる流れないは問わず。 そんな人に出会うたび、どこか羨ましく思いました。 羨ましく感じたのは、自分の中で「人を笑顔にしたい」という気持ちがどこかにあったからなのかもしれません。 ただ、そんな人に出会う度、「わたしは笑う側だな」と思わされました。

          与えられなくても、奪わないでいられたら

          いい人どまり

          音楽をつくって発信していて虚しくなる瞬間がいくつかあります。 そのひとつ、 暖簾に腕押しな感覚をもつときです。 よく「いい人どまり」なんて言葉を耳にするけれど、いわゆるその感覚です。 「あ、この人にとって自分たちはいいバンドどまりなんだろうな」って、そんな瞬間に出くわすとき。 この出会いは当然です。 ネガティブな意味ではなく、多かれ少なかれあって当たり前です。 その感覚が自分たちをより良くすることもあります。 ただ、当たり前だとわかっていても、そういう機会が重なってく

          いい人どまり

          生かしてくれて、ありがとう

          先日、誕生日を迎えました。 何気ない、どうってことない一日だけれど、自分はなんだか普段とはちがったことを考えがちです。 ここ数年、 「生まれてよかった」ということよりも 「生きていられてよかった」という感覚を持つことが多いです。 「産んでくれてありがとう」よりも 「生かしてくれてありがとう」って思います。 出発地点から歩き出して、気づいたら何年もたっていて、その中で数えきれないほどの感情を経験してきました。 プラスもマイナスもあったんだろうけど、それを経ても尚、生き

          生かしてくれて、ありがとう

          テンションの高い自分が嫌い

          なじむ話題が目の前に転がっていると、とってもテンションがあがってしまって、頭が支配されます。 ワクワクして言葉数が増えてしまったりします。 これは自分だけじゃなくって、周りにもそんな人がいます。 これはごく普通のこと、なのかもしれないです。 ひとつ、ほかの人はどうなんだろうって考えたことがあります。 高揚したそのあと、ふと我に返ったとき、すごく落ち込むことがあります。 ことがありますというか、割合そんなときの方が多いです。 「なんであんなに勢いよくしゃべってしまった

          テンションの高い自分が嫌い

          羨ましく、さみしく思うこと

          バンドをやっていると、バンド音楽が好きな人によく出会います。 同じようにバンド活動をしている人、ファンの方たち、ライブハウスの人たちやバンドスタッフ、 バンド愛みたいなものを語られることもしばしば。 こういう生活をしていると、これが日常なのかもしれません。 以前、自分は知らないことが多い、というようなnoteを書きました。 この記事の結論を濁しちゃうような話になってしまうかもしれないけれど、感じたこと。 自分はバンドが好きでバンドを始めたわけではありません。 音楽

          羨ましく、さみしく思うこと

          期待してたのかもしれない

          根拠のない期待、みたいな存在が苦手です。 自分がおもしろいと思った映画があったとして、それを友人に勧めたらきっと共感してくれるだろう、してくれるはずだ、みたいな感覚です。 この人は以前にこんなことしてくれたんだからきっと今回も助けてくれるはずだ、だとか。 世の中にどれくらいの人がこういう感覚を当たり前だとして過ごしているのかはわからないけれど、少なくともそういった人が存在してた記憶が自分の中には残っています。 その感覚を抱くこと自体はまったく否定しないのだけれど(きっ

          期待してたのかもしれない