受け止めてくれる誰かがその「声」を待っている ~ 「声」 Mr.Children
「声」について
「声」とは何だろうと考えてみます。コミュニケーションの手段でしょうか。一般的にはそうですね。コンタクトをとったり指示をしたり確認をしたり。
広く生物という観点で見た場合、それは「声」である必要はあるのでしょうか?そこに人間である我々が忘れてしまっているものはないでしょうか。
象と鯨のエピソードその1
ライアル・ワトソンさんの『エレファントム』という書籍の一説にこんなものがあります。
それは、、
「アフリカのある地域。相次ぐ乱獲・密猟の影響でその地域では「象」は3頭しか残らなかった。それは象の母子(母1頭、子2頭)。
月日が流れ、2頭の子が亡くなり、母親1頭を残すのみとなった。
ワトソンさん一行は、最後の個体を守るべく厳重に監視をしていた。しかし、ある日忽然と母象は姿を消す。どこへいったのかは誰もしらなかった。ただただ日々が過ぎていった。
そんなある日、ワトソンさんは、ある「崖っぷち」にたたずんでいる母親を見つけた。彼はそれを見て、こう感じた。「象は群れの中では、低周波で会話をしている。だから彼女は打ち寄せる波の発する低周波を聞いているのだ。きっと、仲間の「会話」を思い出して、過去を懐かしんでいるのだろう。」と。
そのとき、崖の下の大海から巨大な鯨が水しぶきを上げた。
そう、母親象は、この鯨と低周波で会話をしていたのだった。最後に残った陸上でもっとも巨大な生物と、海でもっとも巨大な生物が、崖の上下のわずかな距離を境にして会話をしている。彼は言葉にならない思いが込み上げてくるのを感じた。」。
象と鯨のエピソードその2
ここに興味深い事実があります。江戸時代の画家、伊藤若冲の絵画。
(「象と鯨図屏風」)
「象と鯨図屏風」というこの屏風には、まさに、陸上でもっとも巨大な生物である「象」と、海上でもっとも巨大な生物である「鯨」が、コミュニケーションをとっている様子が描かれています。
ワトソンさんの出来事はつい最近のエピソードです。反対に伊藤若冲さんの絵画が描かれたのは17世紀。
このつながり。時空を超えた連携。
リアルと絵画の違いはありますが、同じ構図のコミュニケーションは、何を意味しているのでしょうか。彼はなぜ江戸時代にこの風景を想像できたのでしょうか。興味は尽きません。
声→言葉×感情
我々、人間の特質の一つである「声」は、単なる発声では意味を成しません。「声」を意味のあるものにするためには、言語が必要です。相手と共通の言語を発声することで「声」が意味を持ちます。
それが言葉(言の葉で言葉ですね。昔は葉に思いを託した文を添えたようです)です。
さらに、ここに感情が加わります。特に誰か大好きな人、なんとなく気になる人がいる場合、「声」に感情がこもり、結果として、言葉以上の思いを相手に伝えることができることになります。
都会の喧騒、街の中には、ありったけの言葉が溢れています。なんの意味かもわからないけれど。音がたくさん溢れています。耳を引く音があるとすれば、それは自分の想いと合致する歌詞だったり、セリフだったり。そんな風に、特定の誰かにだけ伝わるような言葉があります。
それは綺麗な言葉でなくても良くて、言葉にならない言葉でも良くて、意味のある言語ではない叫びでも良くて、ガラガラ声でもなんでもよくて。
受け止めてくれる誰かがその「声」を待っているんだと思います。
母親象の思いを受け取るかのように、海上に鯨が顔を出した。そんなふうに、誰かへの果てない思いを伝えたいならば、それを言葉にして、感情をこめて発すれば、きっとそれは伝わっていく。
象と鯨のコミュニケーションのエピソードは、そういったことを現代に生きる我々に教えてくれているような気がします。