ハード・ロックシーンを辿る旅 ver.3 / アメリカで大衆化したハードロックと、90年代への流れ / ヴァン・ヘイレン 、 ボン・ジョヴィ
ハードロックの大衆化
1980年は、ハードロック自体も全米ナンバーワンになったり、かなりの売り上げを全世界的に記録するなど、大衆化が進みます。
ここでいう大衆化とは
というもので、実は、ヘヴィメタルの構成要素の様式美とは、ほぼ真逆に位置する音楽性だったのですね。
いくつか紹介してみます。
■適度にロックでポップな曲
Night Ranger - Don’t Start Thinking
Night Ranger - Rock in America
Danger Danger - Rock America
■わかりやすいバラード
FireHouse - Love of a Lifetime
■わかりやすいラブソング
いかがでしょうか。まさに80年代な音ですよね。
この大衆化の別の側面では他のヒットチャート常連のポップアーチストと並列して語られるということです。80年代のポップ系のオムニバスCDを聞くと、まさに混在していますよね。マイケルジャクソン、マドンナがいる中にヴァンヘイレンや、ボンジョヴィがいる。
こういう状況を踏まえてみつつ、今回は、いわゆる大衆化したハードロック系アーチストの中でも2大巨頭のご案内をしてみようと思います。
1、ヴァン・ヘイレン
バンド自体は70年代末期から活動を開始していて、ファーストアルバムの衝撃はかなりのものがあったと思います。
「Van Halen」
70年代のギターヒーローといえば、ハードロック界隈ではリッチー・ブラックモア、その他ロック界隈ではエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジだったでしょうから、このエドワード・ヴァン・ヘイレンのギターはかなり新しく、新たな時代の幕開けのように聞こえていたのかもしれません。
Eruption
新たなギターヒーローの登場ですね。
ただ、アルバムの2枚目以降は、楽曲の質という面ではデビュー作と比較して大きく劣っていて、5枚目まではやや厳しい感じだったかなと。。
そこに出てきたわけですね、起死回生の一発が。アルバム発売日の年号をタイトルにしたその名も「1984」というアルバムが。
「1984」
米国では、前年に発売されたマイケル・ジャクソンの「スリラー」が大ヒット驀進中でした。
マイケルが、ずーーっと一位だったものだから、ヴァンヘイレンは、ずーっと二位だったんですよね。
スリラーは、モータウン系ブラックミュージックのトップクラスとしたら、ヴァンヘイレンは白人系ミュージックのトップクラスだったと言えるかも知れません。
1983年~1985年の事
ちょっと横道にそれますが、このマイケルのアルバムからヴァンヘイレンのアルバムが出たあたりの3年間に世界の今後を大きく変える、、、つまり40年後を生きる現在の我々の生活になくてはならないものが登場しているんです。
また、現在の我々が暮らす社会の経済状態に大きく影響を与えた出来事もありました。
思えば、この3年が、今後40年にわたって(影響はおそらく、それ以上ですね。)続く影響力のきっかけとなった3年なわけですね。2つの側面から見てみます(大きく、1️⃣経済の流れと、2️⃣テクニック・技術の流れです)
1️⃣テクニック・技術の流れ~インターネットの登場(TCP/IP)
元々、60年代末から簡易的に情報をデータ回線にて往復させる実験は行われていたようですが、現在でもつかわれるTCP/IPというプロコトルに切り替えられていったのが1983年。
1985年にはマイクロソフトのウィンドウズver.1が登場し、コンピュータが一家に一台、誰もがインターネットでつながる現在の世界への道筋が鮮明になります。
最終的にこの簡易的ネットワークをWWW(World Wide Web)として整備していったのが、CERNという研究所。
欧州の反重力などを試験しているCERNという施設があることは、ダヴィンチコードの作者の小説や映画などでご存じの方も多いのではないでしょうか。
このCERN、膨大な施設であることも周知と思いますが、この研究所をコントロールするセクションも多方面にわたって存在していました。この研究所の世界的な包囲網の中で、情報の一括共有手段が望まれました。そこで、各拠点にあるコンピュータを回線でつなぎ、世界のどこにいてもだれもが同じ情報を見ることができるように整備した。具体的にはWWWや、ブラウザを通してそれを閲覧するという仕組みの誕生です。これが、1990年の事で、インターネットの登場です。
2️⃣経済の流れ
まず、1985年、ゴルバチョフが表舞台に登場、ソ連のペレストロイカにより、冷戦の雪解けが急速に進むことになります。これがソ連の崩壊、社会主義の終焉を誘発し、資本主義世界がより一層進むことになりました。また、プラザ合意も1985年で、実質的な円高ドル安に誘導されたことで、日本はバブル化が進みました。
資本主義の結果として、格差社会が出現し、先の将来の出来事となるリーマンショックや、トランプ大統領当選のベースにはこのあたりの不満がありました。音楽的にも、怒りのパワー(グランジ)が噴出してきたのも、この格差が遠因でしょう。
その後、40年にわたって、いや、それ以上の長期にわたって我々の日常に大きな影響をもたらす出来事がこの3年間、特に1985年に集約されているのですね。
キーボードとヴァンヘイレン
そんな兆候が見え隠れする1984年。クイーンがRadio GaGaで思いっきりキーボードを使い、80年代風に様変わりしていったように、ヴァンヘイレンも時代を象徴するように、キーボードをより効果的に活用していきます。
キーボードのメロディを、リフとして活用したのですね。それが「JUMP」。ギターソロの気持ちよさも特筆すべき要素です。
Jump
ヴァンヘイレンのこの言わずと知れたヒット曲ですが、ヴァンヘイレンとの出会いがいつだったかによって、感じ方が変わってくると思います。
僕は、↓のように、このバンドとの出会いは、次代のボーカル、サミー・ヘイガーのアルバムからです。この方、JUMPを歌っていたデイヴィッド・リー・ロスよりも歌唱力が抜群にあった。
僕が初めて、ヴァンヘイレンを聞いたアルバムを見ても、いわゆるハードロックチューンが満載で、どれもこれもがかっこよかったんですよね。
例えば、この曲。Judgement Day
1991年ごろ、中学時代に、このアルバムでヴァンヘイレンを知り、かっこいいなあと思ったわけです。で、当時読んでいた、BURRN!からの情報で過去に「JUMP」というヒット曲があったことを知りました。
そうなると、必然的にこの「1984」というアルバムが聞きたくなるわけですよね。。後日入手して聞いてみたわけですが、、、、。
これはあくまでも個人的な感想ですし、「1984」というアルバムを貶めるわけではありませんが、全体的に3曲以外は印象に残らないと感じました。その3曲が「JUMP」「Panama」「Hot For Teacher」。
Panama
この3曲の中でも、大ヒット!という触れ込みだった「JUMP」に実は、さほど感銘を受けませんでした。キーボードのメロディは良いし、ギターソロも良いのですが、サビの部分がどうも、弱いように感じるんですよ。
この曲だったら「Panama」や「Hot For Teacher」の方が完成度は高いのではないかと。
Hot For Teacher
この3曲以外がいまいち印象に残っていないため、個人的には、デイヴィッド・リー・ロス時代は、あまり好みではないのですよね。
ボーカルの変更
エディたちもそう思ったのかどうかはわかりませんが、ソロ活動に軸足が向いていた(歌唱力よりも、たしかに強烈な個性はある)デイヴィッド・リー・ロスに見切りをつけ、歌唱力があまりにも圧倒的にすばらしい、サミー・ヘイガーを加入させるに至ります。
彼は加入前に、すでにソロで実績があって、定評がありました。それはこちらにまとめています。↓
*デイヴィッド・リー・ロスの脱退後については↓にまとめています。
これが1985年の事。
そしてサミー時代の永遠の大傑作が、変革の年1985年に発表されるわけです。新生ヴァン・ヘイレンの誕生です。
「5150」
このアルバムは、80年代ハードロックの魅力が満載です。甘ったるくなく、激しすぎず。万人に愛される内容となっています。
Dreams
ただ、一方で、よい曲ではありますが、単調な↓のような楽曲もあります。これは一歩間違えるとメリハリのない退屈な楽曲になってしまうんです。
Best of Both Worlds
実は、、これがこのヴァンヘイレンのサミー時代の弱点ですね。アルバム内の楽曲格差が結構大きかったんです。特にこの次の「OU812」アルバムは、結構退屈で地味になってしまいました。
その反動が、91年の傑作だったわけなんですが。。
「F@U#C%K」
Right Now
90年代以降は、湾岸戦争やグランジの影響で、やや、、、このバンドにしては、ややスローダウンでした。。このあたりの顛末は90年代ハードロックの記事にて。
ヴァンヘイレンは、ザ・アメリカンロックを二人のボーカリスト共々体現していたバンドでした。ゴージャスでマッチョなアメリカン像ですね。
では、彼らほどゴージャスではなかったですが、オーソドックスなかっこよさを持っていたこのバンドはどうだったでしょうか
2、Bon Jovi
「Bon Jovi」「7800Fahrenheit」
Only Lonely
セカンドアルバムまでは、英国メタルの哀愁を取り入れたメロディで、いわゆるハードポップ的な音楽性でしたが、即座にヒット!というわけにはいきませんでした。
起爆剤となったのは、3枚目のアルバムからなんですが、この間、彼らと日本をつなぐイベントがありました。ここでの大歓迎が、彼らの記憶に残っていることが、彼らの日本への想いを厚くした要素だったようです。
それは84年に西武球場で開催されたロックフェス「Super Rock Japan 84」ですね。ホワイトスネイクにジョンサイクスがいた時代で、このラインナップが見れたということでも話題ですが。。。
Runaway
この西武球場のライブでの熱狂的な歓迎ぶりが、彼らの心に響いたんでしょうね。心温まる話です。
お返しに作られたのが、この曲。1990年のカウントダウンライブから。
Tokyo Road
そして、やる気を出したのか何なのか、エアロスミスが外部ライターを取り入れていくように、ボンジョヴィも外部ライターを起用。永遠の名盤で、彼らの出世作を世に送り出します。
「Slippery When Wet」
面白いのは、このアルバムが出た直後の来日公演。なんと、まだ超満員ではなかったようなんですよ。が、各国を回って数十か月後に再来日したころには、アルバムも大ヒットをしていて、なんと会場は超満員だったんだそうです。
Wild in the Streets
そして、88年に「ニュージャージー」というアルバムを発表して、年末カウントダウンライブを東京で行って、、、もはやヴァンヘイレンに匹敵する人気を獲得していました。
「New Jersey」
懐かしのCM
Born to Be My Baby
ありがちな口パクですね。レコードの音、そのままです。。当時の音楽の番組の慣例でしょう。
こんな感じで、彼らの活動も順風満々かと思い気や、、、、、80年代の終わりとともに、彼らを苦しめていたのは、その人気からくるものでした。そのあたりは↓にまとめています。
やはりボンジョヴィも90年代と80年代で活動の様相を大きく変えていきます。彼らのその後も90年代の記事のところで。
復活した大御所
80年代のトピックは、コラボと外部ソングライターの起用だったともいえます。
ヴァンヘイレンはこのどちらも無いので、完全に彼らの力だけであの高みに登って行ったのはすごいと思います。
ボンジョヴィは積極的に外部ライターを起用、これによって楽曲の幅が広がり大きな成功を掴み取ります。
Livin' on a Prayer
そして70年代を牽引したあの2組のバンドもこの流れに乗って華麗なる復活をとげます。
■エアロスミス
まず彼らは後にメインストリームになるブラックミュージックグループとのコラボを実現。これが今聞いても実にかっこいいんです。
RUN DMC and Aerosmith - Walk This Way
そして、この次に、外部ライターを起用し、楽曲に磨きをかけて、華麗なる復活を遂げたのでした。
「パーマネント・ヴァケーション」
エンジェル
■キッス
このバンドもメイクを取ってから、音楽性が拡散していったことと、楽曲の幅がなくなったことから失速気味でした。
このバンドもまた不足を補うべく、外部ライターを起用して再び復活をとげました。
「クレイジー・ナイト」
Reason to Live
まとめ
80年代は、70年代後半に失われたロックの魂が再び、息を吹き返していった時代だったとも言えます。
反面、反抗的な精神など、ロック本来が持っていた要素は薄れ、前述のように大衆化していきました。
これはこれで素晴らしいことではありました。
しかし、作用反作用の法則、エネルギー保存の法則のごとく、反動が生まれます。
明るくゴージャスで、一般化したロックに対して60年代、70年代のロックが持っていた反逆心、反抗心、思いの丈をストレートに叫ぶという根源的なロックの魂が徐々に、顔をもたげてきます。
そう、怒りとともに。
次回はこの、推移、怒りとともに、ロックの魂が復活していき、結果、その怒りの大きさに覆い尽くされていく様子をご紹介しようと思います。
さて、きらびやかな、愛の歌、ラブソングに満ち溢れていた、明るい80年代ハードロックの名残を惜しみつつ、今回はこの曲で終えたいと思います。
ヴァン・ヘイレン -「When It’s Love」
いつも読んで下さってありがとうございます。頂いたサポートはいろんな音楽などを聴いてご紹介するチカラになります。あなたに読んでいただき、新たな出会いを楽しんでいただけるよう、大切に使わせて頂きます。よろしくお願いします!