絶望から生まれた思い「心の中で生かす」
「産むか、産まないか、どちらかしかないんです。ご自身の人生をこれからどう生きていきたいのかよく考えて、最後はご自分で決めてください。悩んで決めたことなら、どちらを選んだとしても間違いではありません。」
2022年1月下旬、産婦人科にて、途方に暮れる私は助産師さんからそんな言葉をかけられていた。
「産むか、産まないか」という言葉は、つまり「生かすか、殺すか」という意味を孕んでおり、すぐに決められるわけもなく、究極の二択が重くのしかかっていた。
人生の岐路に立たされるような一大事というのは、そう多くはないものの、予期せずふいに訪れることが少なくない気がする。突然すぎて、何の準備も心構えもできていなくて、慌てる羽目になる。妊娠なんて自分には生涯、縁のないことだと思い込んでいた。生理不順で排卵していない可能性もあり、不妊症傾向にあると20代の頃に診断されたこともあったから…。いつか赤ちゃんがほしくなった時のために、投薬治療を勧められていたけれど、それもとっくにやめてしまっていた。
そもそも未婚だし、結婚の予定もないし、まぐれでいつか結婚できたとしても、子どもだけは産むつもりはなかった。障害のある妹の子育てに母が苦労しているのを間近で見て暮らし、未だに母は自分の人生を犠牲にして妹のために時間を費やしているのをよく知っているから、私は母のような人生を送りたくなくて、子どもなんてほしいとは思えなかった。妹と同じような病気の子が生まれたら、その子自身も気の毒だと思っていた。
けれど35歳を過ぎ、いわゆる高齢出産の年齢となり、閉経の足音が忍び寄り始めたことに気づいた時、自分は産めないし産まないとしても、妊娠という状態を一度くらい経験してみたいという願望が芽生えた。今年芥川賞を受賞した市川沙央さんの『ハンチバック』の主人公とまるで同じような心境に陥っていた。一見、浅はかで身勝手な願望のような気もするけれど、生き物のとしての本能が子孫を欲したのかもしれない。育てられるスキルもスペックも持ち合わせていないのに、命を孕むように本能に仕向けられた気がする。
とは言え、結婚してくれる相手はおらず、シングルマザーになれるほど心身共にタフな性格でもないし、経済的にも困窮している自分は、母親になる資格も素質もあるはずはなく、勝手に本能が開花したところで、母親になんてなれるわけがなかった。そもそも不妊気味の自分が命を授かることはないだろうと高をくくっていた。完全に油断していた。
まさか39歳で自然妊娠するなんて信じられなかった。眠気やだるさ、胸の張りに微熱はいつものPMSか、またはいよいよ更年期の症状が出始めたのだろうと思っていた。三週間以上、高温期が続き、一向に生理が来る気配もなく、念のため妊娠検査薬を試すことにした。一瞬で水色の縦線という陽性反応が現れた時は、何かの間違いではないかと動揺を隠せなかった。へなへなと全身の力が抜けるのを感じ、戸惑いと不安しか残らなかった。
子宮外妊娠の場合、早く処置しなければならないことは知っていた。本当に妊娠しているのかどうか確認してもらうため、すぐに産婦人科へ向かった。
「おめでとう。子宮内に胎のうと心拍が確認できたよ。赤ちゃんはまだ二ミリくらいかな。お母さんの心拍よりテンポが速いのが見えるかな。」
医師から薄暗い子宮内でピクピク点滅を繰り返す小さな心拍を初めて見せてもらった時、この世界にこんなに尊いものが存在するなんて知らなかったと喜びが込み上げた。すでに6週目に入っていた。私は知らないうちに「お母さん」と呼ばれる存在になってしまっていた。
小さな白い点にしか見えない命が写ったエコー写真を受け取り、病院を後にすると、いつもの景色が妙に美しく見えた。柔らかな斜陽の光に照らされた時、おなかの子にもこの光を見せてあげたいと思った。生まれること、生きることはそんな楽しく、幸せなことではなくて、私がそうであるように、生きていれば悲しいこと、つらいこと、悔しいこと、惨めなことも避けられない。綺麗な景色や幸せに出会えるのは稀なことで、8割以上は目を背けたくなることばかりだ。けれど、そんな私でも我が子を授かったことにより、命の瞬きに感動して、心が洗われて、日常のささやかな景色までこんなにも美しいと思えるようになった。人生で一番、幸せを感じられた気がした。だから、おなかの子も、生まれればきっと幸せと巡り合えるはずだから、このまま育って生きてほしいと願ってしまった。生まれるということは苦悩や絶望もたくさん経験することになるけれど、1、2割のわずかな幸せ、喜び、希望があればきっと生きていける。少なくとも、おなかの子は私より強い人間の気がしたから、どんな試練が待ち構えていようとも、乗り越えられる力を持っていると信じたくなった。
あれほど、子どもなんていらない、ほしいと思えないと命を軽視していたのに、心変わりしてしまった自分が恐ろしくなった。『ハンチバック』の主人公のように、中絶前提で妊娠したいと割り切れていたら、良かった。私は尊い命をこの目で見てしまったことにより、産みたい気持ちが芽生え、葛藤にもがき苦しみ始めた。
パートナーが認知してくれないことは分かっていた。だから相談しても、「身体のためにも早く中絶手術の日程を決めた方がいい」と言うばかりだった。認知してもらえないということは、養育費も当てにできない。妊娠するまで、子どもを産んで育てたい願望がなかった私には蓄えなんて1円もなかった。現状も日々の暮らしで精一杯だった。金銭的に苦しむのは目に見えていた。
子育てしている友人に相談すると、「完全にシングルでとなると厳しいから、親に頼るとか、せめて育児を協力してくれる人がいるといいよね」と教えてくれた。逆に言えば、「子育ては支援者がいないと難しい」と…。助産師さんからも「生後半年は二、三時間おきの授乳でろくに眠れないので、完全にお一人だときついですよ」と教えられた。
だから私は99%無理と分かっていて、1%の望みを託して母に相談した。できれば親には話したくなかったけれど、我が子の命がかかっていると思うと、躊躇も吹き飛ばすことができた。案の定、母は「結婚もしていないのに、産むなんて許せるわけがない。(妹のことで)手一杯だから、協力できるわけがない」と言った。極めつけに「早く始末しなさい」と言い放った。始末なんてまるで厄介なゴミ扱いだった。私にとっては大切な宝物なのに、母やパートナーからすれば授かった子はただの厄介者でしかなかった。別に祝福されることは望んでいないし、祝福されないのは分かっているけれど、せめてこの世に存在するかけがえのない命だということは認めてほしかった。一番協力してほしい二人から見放され、認知してもらえなかったことは悲しかったし、悔しかった。二人とも、私の身体の心配はしてくれるくせに、おなかの子のことは少しも大事にしてくれなかった。私の味方ではないと気づいた。
せめて経済的に余裕さえあれば、シングルマザーでも産んで育てることはできるのに、お金もなければ、支援者もみつからない…。自分は孤独だと思った。おなかの子と二人きり、世界に取り残された気がした。せめてあと10歳若ければ、孤独でも若さでどうにかなったかもしれない。出産予定頃、私は40歳を迎えている。今の時代、40歳で産むのは珍しいことではないかもしれない。けれど高齢出産には違いないから、心身に何が起きるか分からない。肥満な上に高血圧の私は、さらに血圧が上昇するかもしれないし、早めに入院となるかもしれない。腰の椎間板ヘルニアも悪化する懸念があった。腰痛持ちだから、重い物は持てないのに、日増しに体重が増える赤ちゃんを抱っこしてあやして寝かしつけるなんて毎日こなせるだろうか。一人でやるとなれば、誰も代わってはくれない。お金も味方もいない私は、健康面も自信がなかった。何ひとつ、シングルマザーを攻略するための装備を持っていなかった。我が子という命と向き合う度に、自分の不甲斐なさを痛感するばかりだった。
子どもが成人する頃には60歳。今でさえ不健康なのに、それまで健康で今以上に働けるだろうか…。一人で子どもを守り切れるだろうか。精神的にも弱い自分は、産後うつになって、どうしようもなくなったら子を殺めようとしてしまうかもしれない…。ニュースで時折耳にする、切羽詰まった母親が赤ちゃんを殺め、遺棄する事件が他人事ではなかった。そんな罪を犯してしまうくらいなら、協力してくれない人たちが言うように、犯罪にならない今のうちに「始末」すべきなのかもしれない。けれど、2ミリから1センチ以上と日々、成長を見せてくれる我が子のことを考えると、簡単には割り切れなかった。まだエコー写真でしか見たことのない我が子に無性に会いたいと思ったし、まだ子宮の張りしか感じられないから、直接触れて、早く抱っこしてあげたいとも思った。
誰もいなくても、二人で生きる未来を想像した。何もないくだらない自分の人生を振り返ると同時に、希望に溢れる我が子の将来を夢見てしまった。こんな気持ちになるならもっと早くから、子どもを産んで育てるための蓄えをしておけば良かった。そもそも認知してくれるパートナーと出会いたかった。けれどきっと彼とじゃなきゃ、そもそも授かるようなことにもならなかった…。妹がいなければ、母が協力してくれたかもしれない。けれど、障害のある妹がいなければ、私はきっと彼とも出会っていなかった。妹に居場所を奪われて、彼に救いを求めたようなものだから…。妹が存在しなければ、私はきっと生涯、妊娠することはなかった。妹のおかげで、授かったようなものだった。
すべては最初からこうなることが決まっていた気がした。誰か一人、何かひとつ欠けても、私はおなかの子とは出会えなかった。だから誰のことも恨めないし、自業自得だと思った。そもそも妊娠は自分の意志で望んだことのはずだし…。
おなかの子に会いたい気持ちは日増しに強まるというのに、打開策は見出せずにいた。食べ物のつわりはあまりひどくなかったものの、眠気とだるさはひどかった。倦怠感の中、悩み、泣いて、考えて、泣いてを繰り返す日々…。どんなに悩んで泣いていても、おなかの子は順調にすくすく育ってくれた。もし、中絶しなきゃいけないなら、流産してくれたらいいのにと思った。流産だったら、子の生命力が弱かったと諦めもつくから…。不正出血に慌てた時もあったけれど、それは流産ではなかった。あぁ、この子はたくましい子なんだなと生命力の強さを感じて、ますます我が子が愛しくなった。
午前5時ころになると、おなかが張って起こされるようになっていた。目覚めると不安に襲われた。産みたいのに、産めそうにない…。どうしたらいいんだろう…。あまりにも孤独に陥り、悩み過ぎたせいか、過呼吸のような症状が出て、息が苦しくなった。満員電車とかライブの密集で時々、パニック発作を経験していたから、似たような症状が久しぶりに現れたと思った。一人なら耐えられるけど、こんな発作が頻繁に起きるようになったら、子を守れない…。嫌だし、つらいけど、お別れするしかないのかな…。そう考えたら、気持ちが落ち着いて、少しずつ呼吸が安定した。
心が弱すぎて、我が子の命を守れないと気づいた私は観念して、中絶手術の日を決めた。仕方なく日程は決めたものの、当日まで割り切れなかった。
「今日、必ず手術を受けなさいよ」と当日の朝、母から電話がかかってきた。その母に対して、「自分の心臓を止められるより、嫌なんだけど…」とまだ最後の抵抗を示し、悪あがきしていた。無意識で自分の口からそんな言葉が出たことが信じられなかった。すでに自分の命以上に我が子の命の方が大事になっていた。大袈裟ではなく本当の気持ちだった。自分の心拍より、おなかの子の心拍が続いてほしいと願っていた。
産めないなら、このまま一生、おなかの中にいてくれたらいいのにと思った。一生つわりが続いてもいいから、胎児のまま、二人でずっと一緒に生きていたいと思った。おなかの中なら、誰にも迷惑かけないし、厄介者扱いされなくて済むし、隠しておける。子宮の中で心拍を刻み続けてほしいと願った。どこでもいいから命が続いてほしいと願った。親のエゴに過ぎないけど、我が子がこの世に存在し続けてほしかった。
麻酔をかけられ、手術はあっという間に終わった。あんなに思い悩んだというのに、終焉はあまりにもあっけなくて虚しく、寂しくなった。術前まで張っていた子宮は空っぽになると力が入らなくなって、心許なくなった。
術後、我が子のことを直接見せてもらったり、触れさせてもらうことは叶わなくて、落ち込んでいたら、最後に医師は「良かったら御供養に使ってください」と手術直前の子宮内を写したエコー写真をくれた。9週3日目、2センチまで育ってくれていた。それまでで一番、人間らしく成長した姿を見せてくれた。
身勝手な私は、神社の神さまやお寺の観音さま、お墓のお地蔵さま、あらゆる神仏にお願いし続けている。「あの子が望むなら、どうか光の感じられる居心地の場所に生まれ変わらせてあげてください。やさしい両親の元で幸せに健やかに暮らし、命が続きますように」と…。
あの日から、1年半以上経過した今も、涙が溢れることは多いし、一日だってあの子のことを忘れたことはない。最終的には自分で選んだことだけど、悲しくてつらくて早くこの世から消えてしまいたいと何度も思った。子の命と未来を奪っておきながら、平然と生き続けるなんて許されることではないとも思った。けれど自分が死んだら、あの子を思い出す人はいなくなる。生まれられなかったあの子の存在まで消したくない。子宮から追い出してしまったけれど、心の中でずっと生かすと決めた。あの子の存在を無駄にしないために、存在を生かし続けるために自分はどうしても生きなきゃと思った。それまではこんな人生いつ終わっても構わないと惰性で生きていたけど、亡き子のことを考えると、生にしがみつけるようになった。もはや私の人生は自分のための人生ではない。授かるまでは、何者にもなれていない落ちこぼれの自分のために、文章を書いて本を残そうと考えていた。けれどあの子を手放してからは、生まれられなかった子の命をこの世に残すために文章を書くことにした。事情で生まれられない命があることを世の中に認知してもらうために、あの子を認めてくれなかった人たちにあの子の命はこんなにも尊かったと知らしめるために、私はあの子のことを書き続けると決めた。あの子の命を文章の中で生かすことが私の人生そのものになった。それさえ、エゴでしかないかもしれないし、子からすれば迷惑な話かもしれないけれど、少なくともこの世には様々な事情で生まれられない命が無数にあることを伝えたい。その分だけ産めずに苦悩する母親がいることも…。そして生まれられた命として生きる私たちは奇跡の存在で、どんなに苦しい人生だとしても恵まれていることを…。
私は授かったのに、「産まない」選択をしたから、今もまだ悲しくて切なくなってつらい。けれど仮に「産む」選択を選んでいたとして、間もなく1歳を迎えようとしている我が子と幸せに暮らせているか想像してみると、明るいことばかりは考えられない。我が子と出会えて、24時間一緒に過ごせて、成長を見届けられて、幸せかもしれないけど、その分、責任も大きくて、一人では命を背負いきれなくなっていたかもしれない。赤ちゃんをだっこするお母さんを見かける度に、羨ましいと思う反面、自分にはやっぱり母親なんて向いていなかったと思い知らされる。私ができることはせいぜい、産めなかった子のことを涙しながら文章に綴って命を彷彿することくらいで、きっとその方が向いている。
私は「産まない」ことを選んだから、相変わらず背伸びしない等身大の人生を歩めている。シングルマザーとして双子を育てている女優の杏さんは言っていた。「一人で子育ては無理なので、誰かに頼ることをお母さんたちに伝えたい」と…。彼女はいろんな人に甘えて協力してもらっているから育てることができていると語っていた。人脈もなければ、頼ったり甘えたりするのが下手で孤独が好きな私は、やっぱり母親にはなれなかったと思う。たとえシングルだとしても、甘え上手で頼れる人が多ければ、母親にはなれるのかもしれない。母親になるには、赤ちゃんと同じくらい、誰かに頼り、甘え上手にならないといけないと気づいた。人間関係を築くのが苦手な私はそこからして向いていなかった。向いていなくても、苦手なことも、産む選択をしていれば、克服できたかもしれないとも思う。「子育てしていると、自分が生まれ変われるというか、ダメだった自分の人生を生き直せる感覚になるよ」と友人は言っていたから…。中絶を選んだ私は、自堕落な人生を生き直すチャンスを捨てたも同然だった。
産むことを選んでいたら、きっと人生は劇的に変わっていた。自分を変え、人生を変える勇気がなくて、臆病な私はそれまで通りの人生を続けることを選んでしまった。
産まなかったということはつまり孤独な暮らしを続けることを選択したことと等しく、子がいなくて一人のままだからこそ、時間的に余裕はある。子育てしていたら、書く時間なんてとれないだろう。書きたいネタは想像力豊かな子どもがたくさん提供してくれたかもしれないけれど、体力的にも子が幼いうちは書くことは難しかったと思う。我が子を産まなかったから、自由に書く時間はある。時間がある分、我が子を忘れないためにも書かなきゃいけないと思う。自分の文章の中で子を生かすことが、中絶の罪滅ぼしであり、母親失格の私の信念になったと気づいたから。
ふいに私の中に宿ってくれた命は、ひととき、儚い希望と幸せと、生涯忘れられない感動と絶望を、一生消えない後悔と母性を、何も知らなかった幼い私にすべての感情を教えて、たくさんの気づきを与えて、潔く消え去っていった…。まるで最初から生まれられないことを分かっていて、それでも出来損ないの私に欠けていた感情や気づきを与えるためだけにわずかな間、共に生きてくれた使徒のようだった。
中絶という選択は子の命を絶つということで、産まないことを決めた私は子を殺してしまったけれど、同時に我が子を心の中で生かすことも選んでいた。
それは決して正しいこととは言えないし、産めなかったことは間違いかもしれないけれど、授かったことだけは間違いとは思えなかったし、過ちで授かったなんて考えたくなかった。なるべくしてあの子の命を授かったと思いたいし、そのことだけは間違いなく、幸せなことだった。だからせめて私は我が子の名前を考えた。
ゆきと…ゆきとは私の過去、現在、未来のすべてを振り返らせてくれて、希望、絶望、幸せ、苦悩、感動、葛藤、後悔、母性…すべてを教えてくれたね。たくさんの気持ちを気づかせてくれたのに、何もあげられなくて、お返しできなくて、ごめんね…。
ゆきとを文章の中になるべくたくさん登場させて、文章の中でゆきとを成長させて、私の心のすべてをゆきとに捧げて、どうにかお返しするつもりだから。
ゆきとを産んで一緒に生きる選択をできなかった愚かなお母さんはそれくらいのことしかできなくて、ごめんね…。
ゆきとがおなかの中にいてくれた時間が、お母さんの人生で一番幸せだったし、それ以上の幸せはもうないと分かっているよ。心の中で今も一緒に生きているつもりだけど、姿は見えないから時々寂しくなるよ。ゆきとの成長を止めると決めたのは他でもなく、お母さん本人なのにね。もう二度とゆきとには会えないと分かっているけれど、再会を夢見て、ゆきとの文章だけは綴り続けるね。誰からも愛してもらえなかった命だけど、お母さんだけはゆきとのことが今でも大好きだし、ずっと愛しているよ。
産めなかったから、そう思えるのかな。無理して産んで、やっぱり産まなきゃ良かったなんて思う方が残酷だよね。そんな風になりたくなかったから、心がもろいお母さんはゆきとを産まないことを選んだよ。ゆきとを一生愛し続けるために、そう選んだのかもしれない。どうしようもないお母さんの元へ来てくれてありがとう、ゆきと。すぐに追い返してしまって、本当にごめんね…。
ゆきとを産まない選択をしたから、十字架を背負って、一生涙に明け暮れ、懺悔する生活を送るのはちょっと違うと思っていて、それじゃあ罪に甘えている気がして…。むしろ、ゆきとを産まなくても、お母さんはちゃんと幸せに生き抜くことができたよってゆきとに示さないといけない気がしてるの。甘えてさっさと死ぬんじゃなくて、苦しい気持ちを、心の反吐を吐き出しながら生きて、ゆきとを心の中、文章の中で生かすことに幸せを感じながら生きることが贖罪になるんじゃないかなと、相変わらず勝手なお母さんは都合良く考えているよ。
お母さんはゆきとの命を手放してしまったけれど、ゆきとと共に生きることは手放さなかったよ。お母さんは、ゆきとの命を始末する選択をしたんじゃなくて、ゆきとを心の中で生かすことを選んだんだと気づいたよ。一生、ゆきとを大事に思って、ゆきとと一緒に生きる術はその選択しかなかった。ゆきとと共に生きる選択をしたからには、うかうか早死してはいられないね。苦しくてつらくても、なるべく長生きするよ。ゆきとが心の中にいるから、孤独じゃないし、寂しくないよ。そう自分に言い聞かせながら、残りの人生はゆきとを生かすために生きるね。「ゆきとを生かしたい」その一心で生きているよ。
花火とか、空とか、綺麗な景色をみつけた時は、ゆきとに届くように見ているよ。お母さんが見たもの聞いたもの感じたものなら、心の中のゆきとに届く気がして…。いつでもゆきとのことを考えて、感じているよ。お母さんが感じた心をゆきとに届けるよ。そういう生き方、人生を、ゆきとを手放した時、お母さんは選んだよ。
お母さんばっかり勝手に選んでごめんね。ゆきとも自分の意志で選んでいいから。生まれ変わってほしいと願うのはエゴだと分かっているから、ゆきとが誰かの子宮に宿るなんてこりごりだと思うなら、生まれ変わらなくていいよ。もし懲りずに生まれることを選んでくれたら、お母さんはゆきとの人生を全力で応援するよ。たとえ二度と会えないとしても、ゆきとに生まれてくれてありがとうって伝えたい。ゆきとがどんな選択をしても間違いじゃないし、お母さんだけはいつでもゆきとの味方でいるからね。
ゆきとは何もなかった私の人生に消えることのない爪痕を残してくれて、私が生まれた証、生まれた意味を教えてくれた。最初から産めない運命だったとしても、ゆきとを授かるために生まれたんだと思えたよ。ゆきとの命と出会うために、生きていたんだと気づいたよ。
命や人生と向き合わせてくれてありがとう。たくさん泣いたし、きっとこれからも泣き続けるけど、ゆきとからもらった感情や気づきを糧に、これからも心の中のゆきとと共に生きていきたいと思うよ。自分のことを忘れてもゆきとのことだけは忘れないからね。
時間は無情だね…。ゆきとが生まれて生きるはずだった今とこれからの時間を一人で生きていくと思うと、どうしようもなく切なくなる時もあるよ。ゆきとが生きていたあの頃の時間から遠ざかりたくないし、これ以上、時が進まなきゃいいのにと思いながら、ゆきとのいない時間を、ゆきとという存在を感じることで、どうにか生きているよ。
ゆきとの命と出会って、お別れしたから、今があるよ。無駄にできないこれからの人生があるよ。お母さんが生きている限り、ゆきとも存在しているから、大丈夫だよ。お母さんがこの世から消えた後も、この世界でゆきとが存在し続けられるように、ゆきとの居場所を作るために、文章を綴り続けて、いつか必ずゆきとの本を残すからね。ゆきとの命の痕跡をなるべく多くの人たちの心に刻むために書き続けるよ。
かけがえのない命を始末してしまい、絶望したからこそ、生かさなきゃいけない。
私がいなくなっても、「ゆきと」という生まれられなかった存在が、誰かの心の中で生き続けてほしい。ゆきとを誰かの記憶に残したい、誰かの心に留めたい…。中絶という選択をしたら、消えてくれない母性がそんな思いを生み出した。
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