『サーモンピンク』7.26


 交差点のむこうがわで、イノウエくんが女の子と歩いているのをみた。渋谷は夜の八時半、わたしみたいな元田舎者の大学生がひとりでぶらつくには、少しスリルを感じる時間帯。女の子は、サーモンピンクのハイヒールをはいていた。
 サークルの後輩のイノウエくんは、明るい茶髪にゴールドの片耳ピアスをつけた、飼い主からひとり立ちしたばかりの犬みたいな男の子だ。はじめての飲み会で、彼女募集中です、と大きな声で宣言したくせに、女の先輩にはなしかけられただけで緊張しちゃって、何も言えなくなった子。はなしかけたその先輩がわたしだった。
 所属は軽音サークルだから、バンド内恋愛は地雷だ。イノウエくんはすっかり同学年の女の子たちからさけられ、かわりに先輩たちに囲まれた。どんな子がタイプなの、とか、今いるうちなら誰がいい、とか、音楽の話なんかそっちのけになって、だんだん萎縮していくイノウエくんは、ちょっとかわいそうだった。やっと、パートはどこなのってわたしがきいたら、「あっ」ってだけ言って、ファジーネーブルを一気に飲みほす。
 それで倒れちゃったから、あの日は結局、パートをきけないままおわった。あとからイノウエくんは楽器経験者で、ピアノもキーボードも、ドラムまで叩けちゃう凄腕くんだったとわかった。高校生のときはダサ眼鏡でした、って新入生ライブのMCで、赤錆色のギターをたずさえてあいかわらず緊張しながら言う。正直、ちょっと格好よくって、目があったとき、数秒間そらせなかった。
 見つめあったまま、生演奏のリフが繰り返されるのは卑怯だ。あのときどうしてイノウエくんも、目をそらさなかったのかわからない。わたしはリズム通りに手を振って、ただの観客としてまぎれているはずなのに、まるで運命の相手に見つけられてしまったみたいに感じた。ずっと前から、会うのわかっていましたって言いそうな、激しい音楽に泥酔した虚ろな目。
 あの飲み会のとき、わたしのバンドに誘っておけばよかったと後悔した。数ヶ月の間に、イノウエくんはサークルの幹部になった。遅刻するし、女好きだし、先輩の煙草を買いに行かされて年齢確認されて買えず、泣きまねしながらもどってくるし、ダサ眼鏡が残響しすぎて何の曲を演奏してるのかわからない、でもテクニックでエモい、みたいな奴。わたしのバンド、エモやりたいのに、メンバー全員田舎出身の女の子で、白いシチューみたいな音しかならない。
 もう二年生になったけど、イノウエくんは結局、ずっと彼女を作っていない。わたしからみたらモテそうなのに、全然モテないらしくって、なんでですかね、ってイノウエくんが、わたしを含めた先輩集団にいつもの居酒屋で、両肘ついて悩みをうちあける。なんでだろうね、ってわたしはかえした。
 彼氏つくったことない三嶋先輩はだまっててください、とか、生意気言う。なめんなって、日本酒たのんで、そのうち東北出身のうちのバンドメンバーみんなでイノウエくん囲んで、彼氏いたことないのは女の子の誇りなんだぞ、とか、そんなことを言いながら何杯も飲ませた。潰しちゃってから、今日で一週間たつ。
 新入生ライブで目があってから一年以上、わたしとイノウエくんは、ただのサークルの先輩後輩だった。きっとこれからもそうだ、けど、イノウエくんはハイヒールをはいた子を、しかもサーモンピンクの女の子を連れて、渋谷を歩いていた。わたし、それをみた。
 家に帰って、就活の案内紙の上にアイスとお酒を置いたまま深夜になって、汗かいたわたしの感情と、机の上のぐちゃぐちゃを全部すてて、眠る。
 朝、イノウエくんは部室で、いつものように練習していた。いまどき軽音サークルで毎日朝練してるやつなんていないよって、もうずっとダサ眼鏡のままでいなよって、口に出せずに、おはよ、とだけ言う。
 おはようございます、三嶋先輩。イノウエくんが言った。
 正面にすわり、その音をきく。すごく簡単なコード進行。新入生が必ずやる、応援歌みたいな子供っぽい恋愛ソング。
 昨日、三嶋先輩、渋谷にいましたよね。
 ギターを撫でながら言うイノウエくんに、みられていたんだ、と思った。わたしがはっきりみたのだから、当然だ。
 わたしはうん、とこたえて、彼女できたの、ときいた。
「みてたんですか」
「サーモンピンクのかわいいハイヒールはいてた」
「先輩はハイヒールはかないんですか?」
 イノウエくんは、ギターの音色を目で確かめるように、フレットからななめに視線を落とし、不思議な質問をする。
 この赤錆色のギターで、今年もイノウエくんはサークル中の歓声を奪うんだろう、とわたしは思った。
「はくよ。男の子と出かけるときは」
「出かけるんすか」
「出かけないけどさ」
「じゃ、俺とどっか出かけませんか」
 ライブ終わり、二人で。
 あの子はいいの?
 わたしがきくと、イノウエくんは動きを止め、はじめてそんな単語きいた、みたいな顔で、あの色、サーモンピンクって言うんすね、と呟く。
「三嶋先輩、似合いそうだなぁ」
 あの子には道をきかれただけですよ、なんてベタな言葉を、イノウエくんは被せるように言って、ギターで顔をかくした。全然かくれていない。
 わたしも自分の発言に気づいて、あの子がサーモンピンクなんかはいてるから、って、ぶつけようのない気持ちをどうしようか、むずがゆい胸をつかんだ。どうしようもなかった。


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