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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 前編 19

 8月1日に宝大王の柩を携えて、長津(ながつ)の磐瀬行宮(いわせのかりみや)に移った中大兄は、大王代理として本格的な「水表(おちかた)の軍政(いくさのまつりごと)」に着手した。


「水表の軍政」とは、対外軍事作戦のことである。

 そして同月に、西国から集められた兵士たちの正式な部隊編入が行われる。

 9月に入って、中大兄は豊璋王子に職冠を授け、多蔣敷臣(おおのこもしきのおみ)の妹を妻として娶わせた。

 未来の百済王に倭国の冠位を与えるということは、唐の冊封政策の写しであって、百済を倭国の勢力下に置くということである。

 おまけに豪族の娘を妻にするということは、倭国と百済の関係を強化するという目的とともに、百済王室は大王の臣下に過ぎないという意図もあった。

 そして、いよいよ、豊璋王子と5000人の護衛軍を派遣させようという段階になった。

 朴市秦田来津は、長津で出航の最終調整に入っていた。

 彼は、一隻ずつ丹念に軍船の状況を点検し、不具合があれば速やかに是正させていた。

いつ出航の合図があっても良いように。

「秦将軍、大伴様がお見えです」

 田来津が、舟底の点検にあたっている時に、一人の兵士が来客を告げに来た。

 大伴と聞いた田来津は、急いで表に出た。

 岸壁にいたのは、彼には懐かしい顔であった。

「おお、大国ではないか」

 大国と呼ばれた男は、田来津に手を挙げて見せた。

 この男は大伴朴本大国連(おおとものえのもとのおおくにのむらじ)で、互いに武術を得意としていたことから、飛鳥にいた時には家族ぐるみで付き合っていた間柄であった。

「ちょっと待っていてくれ。おおい、深草!」

 田来津は、舟底にいる高尾深草を呼んだ。

「はい、何でしょうか?」

「私は来客で上がるが、点検箇所は最初に言ったとおりだ。後は、お前がやってくれ」

「了解しました」

 田来津は高尾深草の返事を聞くと、急いで桟橋を渡り、旧友の下へ駆けつけた。

「いやあ、随分久しぶりだな、大国」

「本当だな。田来津、お前、少し老けたか?」

「えっ、そうか? そんなことないだろう。これでも、赤子の父親だぞ」

「そうだったな、子供が生まれたとか。おめでとう。如何だ、可愛いか?」

「ありがとう、ああ、俺に似て可愛いぞ」

「それは、安孫子殿に似ての間違いだろう。安孫子殿の子供なら可愛いに決まっているからな」

「おいおい、そら如何言うことだよ」

 2人は笑った。

「ところで、いつこちらに着たのだ?」

「昨日着いたばかりだ、内臣の命でな」

「そうか、お前も派遣されるのか。で、どこの部隊だ?」

「お前の部隊だ」

「俺の?」

 田来津は訝った。

「正確に言うと、内臣付の部隊だが、編成上はお前の指揮下に入ることになった」

「お前なら将軍職が当然じゃないか。どうして、俺の指揮下なんかに?」

「詳しいことは分からんが、これは内臣殿の命令だ」

「内臣殿? もしかして、内臣殿は、俺に対して何か思惑でもあるのか?」

「何だそれは?」

「俺を護衛軍の将軍に推挙したのも内臣殿だと聞いているし、大伴軍の中で最強と言われるお前を俺の部隊に入れてくるなんて。何かあるとしか考えられんではないか」

「そうか? それは考えすぎだろう。内臣殿が、お前に期待しているからだろ。真面目だし、正義感も強いしな。そう、疑うなよ。ただ俺の受けた命は、護衛軍の状況を逐次知らせるようにとのことだけだからな。ただそれだけだ。お前に対して他意はないよ」

「そうだろうか?」

 田来津は、大国の言葉にもあまり納得がいかなった。

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