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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その三 おりつの一件始末 14(落着)

 初めて受け持った事件だったが、色々とあった。

 あの冷静沈着な清次郎が、心を乱したのも驚きだったが、それよりも何よりも、自分の未熟さを痛感させられた。

 まだまだというか、矢張りというか、このお役目、本当にやっていけるのだろうかと内心不安だらけだ。

 父からは、及第点ぎりぎりだなと言われた。

 清次郎は自主謹慎中なので、評価が分からない。

 新兵衛は、

「初めてにしては上出来ですよ。わたしのときなんか、もう失敗だらけでしたから」

 と、誉めてはくれた。

 そう、新兵衛といえば、奥さんのやえだが、

「あれ、やえ殿、いつの間に」

 おりつが寺を出たその日には、もう井戸の傍で、清次郎の妻と洗い物をしていた。娘たちは、笑顔でやえにしがみ付いている。

「いえ、今朝ね。何か、惣太郎さんにまで心配おかけしたようで、申しわけわりませんでしたね」

 と、頭を下げた。

「いえいえ、そんな。でも、良かったです。あの……、それで、その……」

「ああ、出て行った理由(わけ)ですか。いやね、下種な話しですけど、これですよ」

 女は、露骨に小指を立てる。

 やはりだ。

「それで、その女の人は」

「ああ、それがですね……」

 と、母親が言いかけると、幼子ふたりが割って入った。

「父様(ととさま)がね、ごめんなさいって謝ったの」

「父様(ととさま)、ごめんなの」

 ふたりは、見ていたかのように、頭をぺこりと下げる。

 それを見て、清次郎の妻由利が笑う。

 やえは顔を真っ赤にする。

「もう、やだよ、この子たちったら。あの人も、子どもを連れて迎えにくるんですもの、子どもの顔を見たら、母親として帰らないとは言えないじゃないですか、もう、毎回毎回ずるいんだから」

 なるほど、新兵衛らしい。

 まあ、それはいいとして、新兵衛の女性問題は綺麗に片付いたのか、心配になってくるが。

「いえ、それがね、あたしの勘違いでして」

 と、やえは可笑しそうに腹を抱えた。

「実は、その女っていうのが、あの人の妹さんで、武州のほうに嫁がれたんですが、お姑さんと折り合いが悪くて、逃げてきたらしいんですよ。それで、このまま寺に駆け込もうかとも思ったらしんですが、さすがに寺役人の身内が飛び込んできたとなると、色々面倒でしょう。それで、あの人を外に呼び出し、相談に乗ってもらってたってことなんです」

 では、あの嘉平の慌てぶりはなんであったのか。ああ、きっと慌て者嘉平のことだ、変に勘違いしたに違いない。

 まあ、そういう自分も相当勘違いしていたのだが。

「それで、妹さんは」

「あの人に、色々と愚痴を聞いてもらったら、すっきりしたみたいで、帰っていったみたいですよ」

 そんなことで、簡単に憂さが晴れるのだろうか。

「女って、そんなものですよ」

 やえは、からからと笑いながら、洗い物を干しに行った。おたえとおさえ姉妹が、まるで蝶々のように、手をひらひらとさせながらくっついていく。数日振りの母である。嬉しくて当然だ。

 それを見て、由利は、

「良かったわ、やえさんが戻ってきて。おたえちゃんも、おさえちゃんもこれで夜泣きしないで眠れるわね」

 と、笑っていた。

 由利と二人っきりになったのを幸いに、惣太郎は、

「由利殿、この前は申しわけありませんでした」

 と、この前の不躾な質問を詫びた。

「もしかして、お母上さまから何か言われましたか」

「はあ、怒られました」

「そうですか。私は別に気にしてませんからと言ったんですが、波江さまは、本当に息子が失礼なことをしましたと、謝られるものですから。でも、ご心配なさらないでください、惣太郎さま。私、本当に気にしておりませんから」

「はあ、恐縮です。ですが、由利殿は、その……、なんと言いますか、お強いと言いますか……」

「私も、むかしは弱かったんですよ」、由利は遠い目をした、「あの人のお母さまやご親族の方から、色々と酷いことを言われましたわ。それこそ、おりつさんと同じです。私、すっかり参ってしまって、いっその事、死んでしまおうかと思ったぐらいです。ちょうどその頃、あの人もお役が忙しくて、私がそんな状況に置かれているのも知らなかったんです。それである日、私、ふらっと家を出たんです。別に、死のうとか、寺に駆け込もうとか考えてもいませんでした。本当に衝動的にふらっと家を出たんです。そして、どこだか分からない場所をうろうろしていたんです。そのとき、あの人が血相を変えて迎えに来てくれたんですよ。普段は冷静な人が、私のためにこんなに一生懸命になってくれるのかと思うと、私、涙が出てきて……」

 由利の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。

「あの人は、お母さまや親戚の方を集め、言ったんです。由利は私が守る、どんなことがあっても私が守る、子どもができようとできまいと関係ない、由利は私の妻である。もし、これ以上由利に子どもを望むなら、たとえ親子であろうと、親類縁者であろうと、深き血であろうと縁を切ると。私、その場で泣いてしまいましたわ」

 由利は、袂で目元を拭った。

 だから清次郎は、甚左衛門の煮え切らない態度に怒ったのだろう。まるで、むかしの自分を見ているようで、殴らずにはいられなかったのだろう。

「それ以来、私も強くなろうと思ったのです。あの人ためにも。そんな夫婦もいるのですよ、惣太郎さま」

 由利の満ち足りた笑顔に、惣太郎はなぜか酷く嬉しくなった。

(落着)

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