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孤独の中で正気になる感覚【無為自然】(;´・ω・)

「今、孤独ですか?」

と、何かの勧誘のような言葉から始まります今回のブログ(;´・ω・)

孤独って『よくないこと』『悪いこと』といわれていますが、私は数年くらい前から『孤独の中で正気になる(もしくは戻る)』自分自身を感じることがちょいちょいあります。


輪の中に入ると結局だいたい出て行くパターン(;´・ω・)

私ははっきり言って、社交には強いです()

友達も彼氏も作ろうと思えばすぐにできるし、話しやすいらしく実は結構人に好かれます。

我が強いわりに押しつけとかはしないので、協調することも。。。多分。。。得意としています(;´・ω・)多分

でもいつも必ず孤独に戻る(;´・ω・)

良い形であれ自分が悲しむ形であれ、人生に孤独が切り離せません。

まず、家族問題。私は恵まれた家の出身ですし、家族にも悪い人はいません。しかし小さい頃から疎外感があり(家族が私を仲間外れにしたわけではありません)

『この中から出ないと生きていけない』という感覚の中でずーっともがいていました。
最初は15歳で家を出ましたが、当時はもがいてもがいてトライ&エラーの繰り返し。めちゃくちゃ苦しかったですぅ。プークスクスry(;´・ω・)

家族がまともだからこそ未熟な私をサポートするので、いつもどこか焦燥感がありました(;´・ω・)

大人になった今、自活できるようになりめちゃくちゃ楽です(;´・ω・)生活費は楽ではないのに、サポートを受けてゆとりのある暮らしを送れていた日々よりも、楽なのです。

普通、家族から離れたいという人は毒親だったり兄弟と不仲だったりと、誰が聞いても納得する動機を持っていることが多いです。

しかし私はそれらに該当しないのに、『家族から離れたい』と思っていました。その気持ちを他人に理解してもらうのは難しいことが多い。
人間誰しも完璧ではないので、『親だって人間だから間違えることもある』とか諭してくれる人もいたりします。

でも理由がそれだけではない場合、こっちはどうすればいいよという点で常に苦しかったです(;´・ω・)

言語化は非常に難しいから、エッセイではなく小説という手段のほうが多分向いている複雑な話になってまいりました。。。(;´・ω・)笑

同じ経験をしたことがある方、同じ感覚を抱いて生きてきた方は、私の言いたいことを何となく理解できるかもしれません。
逆にいうと、そうではない場合に理解してもらえる可能性は低く、伝えるために表現力が求められるものでもあります(;´・ω・)

とにかく!

孤 独 な ん で す よ (;´・ω・)

わ た し 孤 独 な ん で す (;´・ω・)w

家族の輪の中でも生きてはいけない。そして後ほど語りますが、他人の輪の中でもきっと生きていけない。孤独でないと正気ではなくなる自分。

何故なのか?何故私の人生はそうなのか?

それは、過去生からの約束と因縁だと捉えています。

生きていると何となく、1冊の本みたいにこの人生の中でプロローグからエピローグがあるわけではないと感じるときがあります。

自分の考え、欲しいもの、欲しくないもの。それらはどう分析しても今世のプロローグからこれまでの章で辻褄を合わせるのは難しい(;´・ω・)

人生も小説も、物語には『そうなった理由』があるものです。

『そうなった理由』がないのに物語が突然急展開したり大どんでん返ししたり、もしくは登場人物の設定自体が途中で突然変わると、小説ならつっこまれるのに(;´・ω・)
フィクションではない人生なら成立するとは、考えられないのです。

例えば!

私が8歳のときのことです。母と買い物に行ったら、キリスト教のシスターが路上で十字架のネックレスを配って布教活動をしていました。
そのやり方はもしかしたらカトリックの方々ではなかったのかもしれませんが、とりあえず『キリスト教』という看板で活動していました。

私は彼女たちの話を聞いてみたくて、吸い寄せられるように近付きました。

そしたらママンにべらぼうに怒られました。

今でも鮮明に記憶に残っています。日本人にとって宗教というのは結構ナーバスな問題で、円満な人間関係を構築するために話題にしないほうがいいとされています。

ママンにとってもそうだったと思うのですが、それなら何故、私は彼女たちに話を聞きたい、知りたいと思ったのでしょうか。
そんなママンに育てられていてキリスト教のキの字も知らなかった8歳の私が、何故そのキーワードに反応して求めたのでしょうか。

オタクになる前だし、厨二病だからではないでしょう(;´・ω・)

私はこういうものを、『たまたま』とか『厨二病未満』とか『子供の好奇心』と片付けるのは都合が良すぎると思うのです。

それは、今世のプロローグからそのときのページまでではないところから『自分』が干渉しているのではないかと(;´・ω・)

その『干渉』は過去生からだけとは限らず、来世からというケースもありそうだと思いますけどね(;´・ω・)

家族の中だけでなく、私は他人と集団生活をする場でもいつも孤独を感じていました。
孤独を感じるだけならいいのですが、集団からは必ず離れる日が来る宿命です(;´・ω・)イヤッハー

『離れたくない』『離れたいなあ』

どちらと感じる集団からも、わりとすぐに離れることになります。

経験を繰り返しだんだんその人生と宿命の型のようなものを理解するにつれて、最初はとても苦しみましたよ(;´・ω・)そりゃあね。

だって私、日本社会で育ち、孤独は悪いものだと教えられて生きてきたもの(;´・ω・)

でも『これが過去生もしくは来世の私との約束』であり『因縁の清算』であり、『神との契約』であるとしっくり捉えるようになってから、集団から出て行くことに苦しみはしなくなりました。

学校を出て就職して1つの組織の中でずっと勤め上げることができる才能を持った方もいますが、私にはまず無理です(;´・ω・)

家族というのも最小単位であり最初の集団(コミュニティ)ですが、私はそこすらも無理だったry(;´・ω・)

足場。。。のようなものはいつもなかなか築けない人生のようです(;´・ω・)

それなら先手を打って自分から足場を壊しちゃえ!(;´・ω・)w

と、あるときから方針を築いたのですry

『孤独との付き合い方』失う居場所のコントロール(;´・ω・)

友達、学校、会社、趣味で繋がるコミュニティなどなど。集団の中に長くはいられない。それはわかっています。

その代わり私は集団の中ではない幅広い人間関係や、フリーランス(自分だけが看板の職人)としての私に本気で関わってくれる相手との人間関係にはとても恵まれていて上手くいきます。

これも人生の型ですね。

『孤独はよくない』と教えられると、つい集団の中で居場所を作れるように努力してしまう方も多いと思うのですが、集団の中からいずれ出ていく型をしているならそこに執着はせず(居場所を作ろうとせず)
自分が上手くやっていける人間関係にはどういう法則があるか見極めるほうがいいかと。

できねーもんはできねーよ(;´・ω・)と、切り捨ててできることにステータスを配分するというイメージです。

でも私と同じ型でも、時々は集団の中に立ち寄るのもいいと思います。

そこで得られるものもある。人と関わることでしか学べないものもあって、それは作家としてやっていくには意外と大事なことになったりします。

よっしゃ!人生は勉強だ!

と、集団の中に入ってもまあ壊れるといえば壊れるでしょうが(;´・ω・)

ただ、自分の意志で、どこで足場を失うか選ぶことは可能です。

集団の中にいられないのが人生の型なら、出て行かなければいけない事態になって初めて出て行くのではなく、そうなる前に自分の意志で引き際を決めて出て行くのです(;´・ω・)

すると、『集団の中に入ってもいずれは出て行くことになる』という型は消化できますが、破壊的な理由や苦しい理由で『出て行く』のではなく、前向きな理由で『出て行く』ことが可能になります。

同じ『出て行く』でも、そこには雲泥の差があります(;´・ω・)

これはもしかしたら、集団の中に入っても『その場にいたいのに何故かいつも出て行く羽目になるのが自分の人生だ』と感じている方にしか理解できないことかもしれません。

どうやって『過去生もしくは来世の私との約束』『因縁の清算』『神との契約』から生まれるものを経験するか、ある程度コントロールが可能です(;´・ω・)

コントロールという対策を許してくれる神という存在は、実に愛情深いと思います(;´・ω・)

人生は流されることも大事なのですが、時にはコントロールしたほうが目標に向かいやすいときもあります。

これからも孤独と共存していくけれど(;´・ω・)


私はこれからも孤独と共存していきます。

それが宿命だから。

きっとこの先も集団の中に入っても長くはいられない=他人の輪の中に自分の居場所を見つけることはできません。

タイミングを見極めて自分で出て行こうとしなければ、宿命は無理やり破滅的な状況をクリエイトして、私がその集団から出て行くしかないように状況を整えたりします。

そう、だから私はそもそも集団の中に長くいようとしない(;´・ω・)

基準はいつも『私』の単独であることを大切にしています。

『We』ではなく『I』です。

比較もしない、『皆がこう思っている』『皆がこうしている』も関係ない。だって『皆(=集団)』の中に私の足場はない宿命だもの(;´・ω・)

その代わり私は、『私』に合う条件を満たした人間関係の中でなら両足で立ちやすい宿命をしている(;´・ω・)

まあ相手も同じだけの熱量であることは必須なので、そうではなければ1対1でも壊れますけどね(;´・ω・)
そうなるとやはり最善はビジネスの関係なんですよ。

私がどっぷり付き合いをしても上手くやれる人間関係は、ビジネスのときだけです実は。
それ以外なら知人か遠い友人程度の浅い関係でも上手くいきます。
いずれにせよ、深い心のうちを話し合う関係性ではありませんね(;´・ω・)w

そこは把握したうえで常に『私』でいなければね(;´・ω・)

ちなみに、私とは違って集団の中で足場を確立しなければいけない宿命の型の人もいます(;´・ω・)

私は昔からちょいちょいプライベートな言動を人に追随されることがあります。
今より若い頃はそれが嫌でプンスカしていたときもあったのですが、今は大人だから書くと『私のやり方が成立するのは私の宿命の型だからで、異なる宿命の型ならやめたほうがいい』です。

孤独の中で正気になる感覚(;´・ω・)

最近も趣味のコミュニティをひっそりと抜けたのですが、抜けるタイミングを自分で決めて抜けたので(=コントロールして孤独に戻ったので)
誰も巻き添えにしていませんw

居心地がいいからと居座り自分の自然体であれこれしていると、おそらく宿命の型的に、何かが起きてメンタルにくるか何かしらがあって出て行かざるを得なくなりますが、コントロールしたときは問題ありません。

コントロールしないで居座ったときに『出て行かざるを得なくなる』ということは登場人物が必要です。

誰とも何も起きていないのに『出て行かざるを得なくなる』展開をすることはまずありえません。小説でも人生でも同じ(;´・ω・)w

その『私と何かが起きる人』の配役を、誰が担うかはそのとき次第です(;´・ω・)

私はね、そんなものを担わせて来世に持ち越す因縁を抱えるのは嫌なんですよ(;´・ω・)

『私と何かが起きる人』の『何か』がポジティブな内容である可能性は低いでしょう。その場合、私は相手のことフォローをしたり認めたり受け入れはしたりしても、人間としては別に好きではないと思うのでry(;´・ω・)

因縁を作りたくないんです。

シンプルに表現すると、そいつと来世で会いたくないです(;´・ω・)

ネガティブな内容の因縁が生まれたとき、来世が引き継ぐのはネガティブな因縁ですからな。

だから私はその配役を人生の中で出会った誰かが担わされる前に、自分でコントロールして型を乗りこなす(;´・ω・)

そうやって生きられるようになって人生はだいぶ楽になりましたが、そうなるまでには死屍累々ry

とてつもない数の苦しみがありました。

苦しみからはだいたい学びがあるものですが、私は気付いたのです。

孤独に戻ったとき、毎回私の頭はとてつもなく正気で、クリアで、そして新しい戦いに向かうのだと(;´・ω・)

集団の中で居場所に執着しているときは、頭があまり正気ではない気がします。

私の宿命の型は、破壊があれば前進する。破壊には別に『苦しみ』は伴わなくてもいい。神様は別に孤独に『苦しみ』を強制してはいない。

それがわかったとき、とてつもなく生きやすくなりました。

そしてこぼれ落ちるもの、失うこと、縁が切れることを、恐れなくなりました。

自分が自分らしさを失っていない限り、それらは全て『失ってもいい』ものであり、失えばそこには必ず代わりに新しい何かが入ってくる。

新しい何かも失う日が来るかもしれませんが、そしたらまた新しい何かが入る。

こぼれ落ちるものに執着しなくていい(;´・ω・)

必要なものは繋がるし、無為自然こそが実は神を最も感じるものなのかもしれないです(;´・ω・)

無為自然というのは何もしないで任せるということではなく、他の誰でもなく自分の宿命を生きた先の話だとは思います(;´・ω・)

まあ、無為自然まで行くのってマジで難しいと思いますけどね(;´・ω・)w


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