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私がnoteを始めたもう一つの理由


noteを始めて、いつのまにか500日が過ぎていた。
嬉しくてスクリーンショットを撮ったものの、500日をむかえたのは半月ほど前の話。

日々、今日は何を書こう、明日は何を投稿しようと、書きたいとめんどくさいを行ったり来たりしながらなんとか一年続けてきて、だんだんと自分の連続投稿の日数やダッシュボードもいい意味で気にせず、ちょっとだけ書くことが「習慣」になってきた今日この頃。
今日はこれまで書いていなかった私がnoteを始めたもう一つの理由を書いてみようと思う。


毎日投稿してみようと決めて、noteを書き始めた2021年の1月1日。
私はこんな想いを綴っている。


ここに書いているnoteを始めた理由ももちろん嘘ではない。
しかし、私にはもう一つ、noteを始めたきっかけのようなものがあった。


それは最初の投稿から遡ること2ヶ月程前、2020年の秋のこと。
ある知り合いが言った一言がはじまりだった。


「これから毎日自分の作品を発表していこうと思ってるんだよね」

その人は文章を書く人ではなかったのだが、ある夢があり、それに向けて自分の作品をSNS上に毎日発信していくという目標を掲げたようだった。

「すごいね!大変そうだけど、たくさん人に見てもらって何かにつながるといいね」

私はその人の新たなチャレンジにエールを送った。


しかし、その挑戦は約2週間ほどであっけなく終わってしまった。
それまで私はその挑戦を陰ながら見守っていたのだが、その人の少々飽きっぽいところや、色々とこだわりすぎてしまう性格などもなんとなく知っていたので「毎日チャレンジ、終わります!」を目にした時、お、おぉ...なるほど...なんて少し予想をしていたような気持ちになりながらも、それでもせっかく頑張って続けていたのに、残念だなぁなんて思っていた。


そしてその人が毎日発信するのを辞めた後、しばらくしてたまたま私たちは会って話をする機会があった。

「そういえば、毎日チャレンジ、辞めちゃったんだね」

チャレンジ失敗しました!というような内容も最後に発信していたので、そこまで気にしていないのかな、と思って私はそのことについて聞いてみた。

「あーあれねぇ。ダメだったねぇ。ダメっていうか、あんまり意味ないかな、と思って辞めたんだよね」

ちょっと予想していなかった答えが返ってきて、私は詳しく聞いてみた。

「意味ないっていうのは?」

「確かにコンスタントに作品を出していくっていう意味では、トレーニングにもなったし、日々デッドラインがあってそれに向かってつくっていくことでスピード感とか、身になったこともあったんだけど、どうしてもだんだんクオリティが下がっていくことに我慢できなくなっちゃって。
もうちょっと突き詰めたらもっといいものになるのに、締切に追われてある程度で諦めて見切りをつけて発信したり、作品だけじゃなく発信に付随する作業とかに時間を取られちゃうのがなんか無駄に感じたりしてさ。
あと、この毎日追われてる感じがシンプルに苦痛で。作品をつくることよりも発信することの方が目的になっちゃってるように感じて、なんかそれだと意味ないなって」

「なるほど...。続けた2週間で色んな葛藤があったんだね」


なるほど。と言いつつも、私はその主張というか感想に対して、なんとなく疑問を抱いていた。
疑問、というか正直に書くと、なぜか憤りのような気持ちを覚えたのだ。

なんでだよ...そんなこと、やる前からきっと想像出来たはずだし、それを乗り越えていくための毎日チャレンジじゃあなかったんかい、というようなガッカリした気持ちになったのだ。

私はその人のことを応援していたし、以前からいいものをつくっていると思っていた。
なんとか日の目を浴びるというか、その人が願っているような形で世間に評価されたり、夢に近づくことができればいいなぁと思っていたのだ。
尊敬していたし応援していたからこそ、その人の言った「辞めた理由」がなんだか気に食わなかった。
自分の中でその人のことを神格化し過ぎていたのかもしれない。
何かの不祥事を起こした芸能人などに対して「ファンだったのに!もうファン辞めます!」なんていう人の気持ちが初めて「あぁ、こういうことか...」とちょっとわかった気がした。
勝手に期待をして、勝手に裏切られたような気持ちになったのだ。


人の気持ちは人それぞれだし、各々の価値観があるよね。と、普段なら比較的人の行動や言動に自分の思いを乗せることをしない私なのだが、なぜかこの時は昔の熱血心が顔を出してしまったのか、それとも自分がすごいと思っていた人が自分の思っていたような感じと違ったのが嫌だったのか、私はそれを自分ごとのように捉えてしまい、そして勝手に落胆し、苛立ったのだ。

クオリティが気に食わないのなら、ある程度自分が納得してGOが出せるものを貯めてから始めることはできなかったんだろうか。
他の作業で時間が取られるならプライオリティを付けて最低限自分が毎日できるというラインで内容を決めればよかったのではないだろうか。
締め切りに追われるのが嫌なら今日つくるものと今日発信するものは別の頭で考えた方がよかったのではないだろうか。

その人がチャレンジをやめてしまった理由に関して、色々な解決法を勝手に考えたりもした。
そして、心の中でそんな難癖を付けていて思ったのだ。

「いやいや、そんなに偉そうに言って(思って)ますけど、それ、自分だったらできるの?」と。


人の失敗や経験に対して、外から意見を言ったり批判をしたり、もっといい方法かもしれないことを述べてみることは誰にでもできる。
しかし、私が思った机上の空論のようなそれは、本当に成し遂げることができるのだろうか。
なぜ私は、自分がやってもいないのに、2週間何かを続けるという努力をした人に対してこんなに偉そうなことを思えるのだろう。
そんなに言うなら(本人には言ってないけど)、まず自分がやってみろよ!と、私は私に、セルフツッコミを入れたのである。


そこから私は考えた。
たとえば私が毎日続けて何か発信するとしたら、どんなことができるだろうかと。
絵が描けるわけでもない。歌ってみた、踊ってみた、なんてこともできない。話すことが苦手な私が、ラジオのような音声配信なんてできるわけもない。

仕事をする普通の社会人をしながら、私が毎日続けられそうなこととは、一体なんだろうか。
そう思った私が、今まで何の経験もないのになぜか一番最初に思い浮かべたのが「書くこと」だった。

何か道具を使ったり、専門的な機材が必要だったり、特定の場所にいなければできないことはおそらく難しいだろう。
でも、考えること、書くことは、どこにいてもできる。
歩いていても、電車に乗っていても、人と話していても考えを巡らすことはできるし、紙とペンでも、携帯のメモでも、パソコンのメール下書きでも、最悪頭の中でだって思ったことをどこかに記録(記憶)しておくことはできる。

うん、何が書けるかわからないけど、やってみよう。
それができなければ、私は偉そうにその人のチャレンジ失敗に対して何かを思うことなんてできないし、やってみたらどれだけ大変なことかが実体験としてわかってこのモヤモヤも消えるかもしれない。
そう思ったのだ。


これが、私がnoteを始めたもう一つの理由である。
今思うと、とてつもなくなんじゃそりゃな勝手極まりない動機というか、独り相撲も甚だしい話だ。
もちろんその人に「じゃあお前がやってみろよ」なんて言われてもいないし、私がそんなことを勝手に思って、ひっそりとこのnoteを始めたことも言っていない。


けれど、私が勝手に始めた独り相撲はついに一年が過ぎ、500日以上続けることができた。
そして続けたことによって、自分が思ってもみなかった新しい世界がひらけた。
どうやら私は「書くこと」が好きらしいということも知った。
当時は「よーし、見てろよ!私も挑戦してやる!」みたいな謎の闘争心のようなものを抱いていたが、今は自分の新たな趣味のようなやりたいことを発見できるきっかけをくれてありがとうなんて思っているどこまでも自分勝手な私である。

ただの「対策を立てればできるのかの実験」だったものは、私の中でいつのまにか「やりたいこと」に変わっていた。
もしかしたら本当はそんなことを求めていたのかもしれない。
もうこの年だし新しい冒険なんてできないよ...みたいな年相応のありがちな空気が周りに流れる中で、私はその人のただやりたいからやってみる、という純粋な気持ちに感化され、自分もそうありたいと思ったのかもしれない。


そんなひょんなことから始まったこのnoteとの関わり。
これがこの先どこまで続いていくかは私にもわからない。
けれどこのきっかけによって、今まで何をやるのも3日坊主だった私は、文章を書くことの面白さや、続けるということの大切さ、そしてもちろんその大変さもを学ぶことができた。いや、今もそれを痛感している真っ最中である。


毎日投稿を続けていくためには...という記事もよく目にするnote。
次回は、私なりにここまで続けてこれた秘訣、とまで言えるかどうかはわからないがポイントのようなものもちょっと書いてみようと思う。


ちなみに、毎日投稿のきっかけをくれたその人も、今も作品をつくり続けているし「毎日」にとらわれていた時はできなかったらしい、人と会ったり自分とじっくり向き合ったりする作業をしながら自分なりのペースでやりたいことを続けているそうだ。

毎日続けることが特別偉いというわけでもないし、人それぞれ、自分のやりたいこととの向き合い方があるのだと思う。
あの時なぜ自分があんなにも強い気持ちを抱いたかは今でもちょっと不思議だが、私は今もその人のことを陰ながら応援しているし、ひっそりと感謝をしている。

ここに文章を書く日野笙が生まれたのは、まぎれもなくその人のおかげだから。

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