見出し画像

特別じゃないを愛すること

わたしは、何者でもありません。
有名人でもなければ、才能をお金にできる、なにかのプロフェッショナルでもない。
ただただ、三十年とちょっと、そのときどきで、目の前のことに一生懸命とりくんだり、たまに手を抜いたりしながら、世界の隅っこで、日々を生きてきました。
そうしているうちに、わたしのことを「家族」や「友だち」と呼んでくれる人たちと、出会うことができました。
それでも、わたしのことを「憧れの人」とか「愛する推し」なんて呼ぶ人はいません。
なぜなら、わたしは何者でもないからです。

わたしは、文章を書くことと、それを誰かに読んでもらうことが好きです。
何者でもないわたしは、誰もがあっとおどろくようなことや、お金持ちになったり、モテモテになったりするために役に立つようなことは、なにひとつ書くことができません。
わたしが書くことができるのは、わたしの身の周りに起こったことや、見聞きしたこと、そして、心で感じたことばかりです。
それでも、そんな、わたしの書いたものを、顔も名前も知らない、どこかの誰かが読んで「伝わったよ」という、あたたかいしるしを残してくれることは、本当に奇跡みたいで、いつも、心が、じーんと震えています。

見えない誰かの姿に励まされて、わたしは、わたしの書けるものを、日々の暮らしのなかで、ちょっとずつ書いていきました。
それは、生活のことや、親しい誰かのこと。いつかの思い出や、忘れられない景色。
そんなふうに、わたしが、わたしの目で見て感じたできごとを書いていくうちに、ひとつのことに気がつきました。

それは、わたしの日々は、ちいさなよろこびや、うつくしさや、おもしろさ、誰かのやさしさ、あたたかさで、いっぱいに満たされているんだ、ということでした。

とても、おおきな発見でした。
特別じゃないわたしの人生は、からっぽで、退屈なものだとばかり思っていました。
まぶしくきらめく才能を持った誰かが、流れ星のように、特別な日々を駆け抜けていく姿を、すてきだなって、うらやましいなって、ずっと、ずっと、見上げていました。
憧れる気持ちは、いまでも消えないけれど、わたしの日々も、からっぽじゃなかったんだと思うと、流れ星にむかって、そっと、手を振ることが出来るようになりました。

空を駆けることのできないわたしは、足元に目をおとして、ゆっくりと歩きます。
木の葉の道では、どんぐりを探すように。
砂の道では、貝がらをみつけるように。
いままで、あたりまえにあるものだと、つまらないものだと、ぽん、と蹴っ飛ばしたり、ばりばり踏みつけたりしていたものは、手のひらにのせて、じっとみつめると、なんて、いとおしいかたちをしているんだろう。

特別じゃないものを、愛すること。
それは、特別じゃない自分自身を、愛するということに、つながっていました。

わたしがいままで書いてきたものは、ぐるりと遠回りして届く、自分自身へのラブレターみたいなものだったのかもしれません。
これからも、わたしの書いた言葉がちゃんとわたしの心に、届きますように。


♪BGM「だいじなこと」くるり

読んで下さってうれしいです。 スキ、サポート、シェアなどのリアクションをいただけると満面の笑顔になります。