善意志について。 思うに、善意志とは意志それ自体のことしか指していないだろう。というのも、動力源である意志自体もとより善の具備なくして今の秩序とは何なのだろうか。秩序立てるのは無論自分のためであるが、元来それは人間一般のためであって、そしてそこに自己意識が乗ったに過ぎないのだ。
会話について。 好き勝手に言葉を交わして意思疎通する人もいれば真意を察し遠慮して話す人もいる。このことは会話によってその人が露わになってしまうことを表している。人はやはり霊性を帯びているが故に霊性を与えることができるのである。ちなみに宗教とは妄想のことでしかない。(悪気はない)
趣きとは。 壮麗な光景。それは美観だから「風雅だ」と、そのように思うのは人間生来の感覚のようである。とすればつまりは、純粋な感覚、いや理性であるのかもしれない。がしかし純粋であるということは実際、無経験ということだから、まあ矛盾しているのである。無経験の可能性(範囲)とはいかん。
かつては誰かを見てすぐに頑張りたいという気持ちになったが、今は無い。その人にとって不利なことがあっても、結局他の魅力があるので社会的には需要があるのだろう。例えばそれは、ビジュアル面とか天性による才能とかである。私は今一歩社会に合わせられていないが、うまく流れを掴みたいとも思う。