現代版・徒然草【86】(第150段・芸を身につけること)

芸能の世界は、修行の段階から厳しいことで知られる。伝統芸能といわれるものは、由緒ある「型」の継承一つをとってみても、そんなに甘くない。

では、原文を読んでみよう。

①能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。 
②未だ堅固かたほなるより、上手の中に交じりて、毀(そし)り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、その骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終(つひ)に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双(ならび)なき名を得る事なり。 
③天下のものの上手といへども、始めは、不堪(ふかん)の聞えもあり、無下の瑕瑾(かきん)もありき。
④されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒(ほうらつ)せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変はるべからず。

以上である。

①の文のように、「自分がしっかり(芸を)ものにするまでは、人に知られないように練習に打ち込み、それから人前に出よう」とする人は、まったく芸は身につかない。

②では、こう言っている。

まだ未熟な状態であっても、上手な人の中に交じって、周りから笑われても恥じずに平然と稽古を重ね、天性の素質がなくても、途中で投げ出したりいい加減に練習したりしなければ、何年か経って名人の境地に至る。

もともと才能があって練習しない人よりも、持っている長所がさらに伸びて、周りからも認められ、立派な芸達者になれるのである。

③の文では、今でこそ天下の名手といえども、最初は下手くそだったし、ひどい欠点もあったと言っている。

④で締めくくっているとおり、その道の教えを忠実に守り、勝手気ままに振る舞わなければ、どんな芸能であっても、やがては世間に認められる師となれるのである。

今の時代では、周りから笑われながらも何かを必死に身につけようと努力する人は、どれだけいるのだろう。

いや、そもそも笑うことがハラスメントとして扱われる現代では、そういった経験すら少なくなっているかもしれない。

ただ一つ言えることは、積極的に人前に出て、何かを発表し、毎回失敗を恐れずにそれを積み重ねていくことが、自身の成長につながるということである。

人からの評価が低いところから始まるのは、当たり前なのである。


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