自然科学の恩恵は全人類を対象に捉えられている。これは、科学に限らず、哲学においても同じではないだろうか。ストア派哲学は、古代ギリシア・ローマに源流があるからといって、西洋人にだけ帰属するのではない。全人類のための哲学である。スピノザでも、カントでも、禅でも、すべて同様である。
岩波新書のシンプルなデザインが好きだ。その『エピクテートス ストア哲学入門』には、「後世への影響」の章がある。近世の哲学者、スピノザは「その澄み切った解脱の生活」からストアの賢者だとしている。生活をシンプルに整えたい。知的生活のデザインには、スピノザのスタイルを模範にできる。
哲学者スピノザの思想を学ぶ前に、スピノザの生活について知りたいと思い、書店に行った。けど、案外ない印象。そこで地元の図書館で検索したら、『スピノザ ある哲学者の人生』がヒットした。評伝ものなのだろうけど、ストア的な「その澄み切った解脱の生活」を詳しく知れることを期待している。
真の喜びは必ずしも笑いや表情、動作などの外面に現れない。だから、笑っていても、喜んでいるとは限らない。まじめなものとは、一人一人の人生の根本や世界の事象に対して、真正面から向き合うこと。文学はそれをずっとしてきた。 詳しくは、中野孝次著『ローマの哲人 セネカの言葉』を読んでほしい
ラヴィッシュな大富豪の生活のイメージにではなく、虚飾や見栄えとは無縁のストア的な生き方や禅僧のような、シンプル生活に私は憧れる。偉大な哲学者、スピノザの「澄み切った解脱の生活」を模範にしたいと思うようになった。彼のような人格者にはなれないかもしれないが、ロールモデルにはできる。
ストア哲学者、セネカは「喜ぶことを学べ」と訴えかける。喜びには、表面的で外的なものに由来する心の動きと、精神の深いところから発する真の喜びがある。セネカは、後者のような真の喜びはまじめなものなのだという。前者の喜びは、運命が災いすれば、あっという間に崩れる。一方、真の喜びは違う。