平野遼

SUNNINESS (14) 「だから平野遼を評論する」

「ねぇ、パスカルって何で出来ているの?」とエリは尋ねてきた。彼女はところどころ常識のないところがあり、周りに人がいる時には恥ずかしくて聞けない事でも二人の時には平気で尋ねてくることがあった。男性を無抵抗にするほど頭の切れる彼女が、私の前では目にも唇にも素直な気持ちが書かれた様子で一心に耳を傾ける姿は可愛かった。それは優越感ではない。年寄りらしい心境だった。ただ、この時ばかりは私も「え?」だった。パ

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SUNNINESS (13) 「だから平野遼を評論する」

そうだ。あの時も辛かった。あれは、Jリーグが開幕した年だった。どんなサッカーをやるのか、ハーフタイムはどんな出し物が見られるのか。いよいよ当日の夜になると選手たちが入場してくる。ボールを手にしてウォーミングアップを始める。この時、気付いたのではあるがラジオではパスの交換を伝えるのですらひどく面倒な作業だ。ただ解説者はこれを簡単にしようとは思わない。くどい。とくに名前の連呼がまずい。ラジオでは今更ど

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MY HEART IS BEATING!
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SUNNINESS (12) 「だから平野遼を評論する」

しかし、財布の中身を確認しようとして、ポケットから焼き肉屋のマッチを落とした瞬間、二十年もの長い間、頑強に日本放送協会との闘いに耐え続けた母の顔が私の脳裏をよぎった。母は毎日夜遅くまでパートに出ていた。今は私に仕送りをするため焼き肉屋の荷下ろしを手伝っている。鉄の女、タイムセールの女王、安い家電製品のキング、どれもが彼女に与えられた我が家での称号だった。生き馬の目を抜くような世の中にはりめぐらされ

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MY HEART IS BEATING!
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SUNNINESS (11) 「だから平野遼を評論する」

時計は二時を指していた。コーヒーの後の長い休みは、体も心も食物の消化にとりかかるだけだった。私は少し眠くなってきた。しかし、そろそろ学校に行く支度をしようかと腰を上げた。エリも壁に寄ったなり大きく伸びをした。昼間はまだ太陽がきつく照り付けてはいたが、今は秋の穏やかな光のにこやかさが目の前で波のように動く緑の中に没していた。私はタバコをくわえながら上着を羽織った。大家さん宅の離れからは犬の吠え声が聞

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THANKS!THANKS!
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SUNNINESS (10) 「だから平野遼を評論する」

食事が終わると私はエリにコーヒーをごちそうした。マメの苦みが出ないように短時間で抽出したモカは酸味の強い味を好む彼女のための定番だった。エリは畳の上に両足を延ばして肉の燻製をかじりながら美味しそうに熱いコーヒーをすすった。昼下がりの光線は窓を通して室内に注ぎ、それを受けたテーブルの輪郭や、ニスで塗られた静物画や、内気で引っ込み思案な私や、まだ人間関係への順応力を持った当時のエリや、そんな二人の野心

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MY HEART IS BEATING!
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SUNNINESS(5) 「だから平野遼を評論する」

アトリエに戻ったが、私以外の人はいなかった。長い夏休みが終わり、午後のうちでも誰かと共に笑いたくなる午後なのに、制作の前の語りあいは出来そうもない様子だった。白い雲は上空から人間社会を見下ろしている。風に送られて、筋のように伸びていやがる。
私は心のウォーミングアップなしに仕事に着手する気が起こらず、アトリエの隅に突っ立っていた。カーテンから漏れる光が天井に反射している。物憂い光が突然自分のなかへ

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MY HEART IS BEATING!
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SUNNINESS(4) 「だから平野遼を評論する」

医療をともなう彼の救援行為はともかくとして、私が予備校時代に宗教にかぶれたのは、この、人はいいが頭の少し弱いところのある友人を救おうとしたためだった。いわば、ミイラ取りがミイラの経路をたどったという訳合いにもなる。そして、社会に直接働きかける活動に目覚めた私は、教団にかなりの大金を貢いだ。今思えば、とんだお人よしだ。しかし、それだけではない。私と大友さんは三鷹駅周辺で伝道修行を行っていたが、あのオ

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SUNNINESS(3) 「だから平野遼を評論する」

さて、鉛筆を削るだけの散漫な待機時間に終わりが近づくと、私は茨の道を進む覚悟でその時を迎えていた。触るとチョット冷たい練り消しが「それでは、どうぞ仕事に生きてください、自分のやるべきことを追い求めてください」と言わんばかりに鎮座していた。仕方なく私は眉間にしわを寄せて誰に促されるでもなく練り消しをこね始めた。そして裸の蛍光灯の下で一時間ほど、顔、膝、手の順に描き込みを加えた。やはり手は実物より大き

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I AM HAPPY!
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SUNNINESS(2) 「だから平野遼を評論する」

そう、それは夏の暑さが強烈に残る季節で、その馬鹿げた暑さに抗するには、イーゼルに向かうほかはないという炎天下だった。私はアトリエに入るなりシャツを脱ぎ捨てた。窓を開け、外の空気を中に入り込ませる。窓から顔を出すと、精彩のない芝生につつまれた中庭は、白や黄色の花がしぼんで、あちこちにちらほらしていた。ラジオから流れてくるボサノバがじりじりと夏を消耗し、元気があるのは凄まじいセミの鳴き声ばかりだった。

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THANKS!THANKS!
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SUNNINESS (1) 「だから平野遼を評論する」

はじめて狸小路エリと口をきいたのは、新学期がはじまって何日かたった頃だと思う。いや、夏休みに入る前だったろうか。自分のことならまだしも、彼女の画家としての死にまつわる出来事を思い出すのに、あの頃あの教室で彼女の声を聴いたようにいうのは、不正直な態度ではなかろうかと思う。私はもうすぐ五十で、自分の無知無力を人前にさらけだすのは気が引ける年だ。いっそのこと他人に悪く言われる危険性を回避して、むかし意気

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I LOVE YOU!
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