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SUNNINESS (13) 「だから平野遼を評論する」


そうだ。あの時も辛かった。あれは、Jリーグが開幕した年だった。どんなサッカーをやるのか、ハーフタイムはどんな出し物が見られるのか。いよいよ当日の夜になると選手たちが入場してくる。ボールを手にしてウォーミングアップを始める。この時、気付いたのではあるがラジオではパスの交換を伝えるのですらひどく面倒な作業だ。ただ解説者はこれを簡単にしようとは思わない。くどい。とくに名前の連呼がまずい。ラジオでは今更どうすることもできない。私は二十分と聞いていられなかった。参った。でも、どうしょうもない。
ところがその時、私が楽しみにしているのを知って、大友さんがテレビを自転車にのせて我が家まで届けてくれた。私はその大迫力に目を見張った。重低音が目と腹にずっしりと聞こえてきた。大友さんはこれを私に格安で売ってくれると云う。私は「テレビを買う余裕などない」と云った。「いくらあるんだ?」と云う。「三万円」と私。「それでもいい」と結局買うことになった。この時ほど私は友情というものをありがたく思ったことはなかった。ところが喜びの絶頂は数日後の内に、まったく思いもかけず私を奈落の底へ突き落した。高島屋の電化製品のセールで同じ最新型のテレビが二万五千円で売られているのを見てしまったのだ。あの時は辛かった。悔しいというより心が痛んだ。
 
私はテレビに目をやった。いつもならチャンネルが合っただけで気が咎めるところだが、見ても後ろめたくない状況になると不思議と見たくなくなるものだ。私は腹いせにテーブルにあった干した肉の袋を取り上げ一気に口の中に入れた。そして、もぐもぐと口を動かしながらかねてからの疑問をエリにぶつけた。 
「毛糸を編むなんて同じ動作の繰り返しで面倒にならないの?」
「ううん、同じ作業を続けているとね…」彼女は一呼吸置いた。
「分かってくるのよ」彼女の声音が高くなった。そして、もったいぶった口調で「間の取り方」と云うと顔をニヤッとした。毛糸の針を動かすことに上達の様子が見られる彼女だったが、何かを伝えようとするこの例えには欠陥があった。
「間の取り方?」
「あのね、関西の芸人ね、なんていう芸人だったかな、あれ、テレビ見た?」
「見ないよ」
「それでね、あの本ね、あれ、なんて本だっけ?」
「知らないよ」
「とにかく、でね、その本の中にね、あれ、いま何話そうとしてたんだっけ?」
「こっちが聞きたいよ」
「だから、カナリヤで毛糸を買ってきたの」
 何が、だからなのか分からないが「カナリヤはかなり嫌かな」と私はつぶやいた。ちょっとした偶然だった。
「いや、あなたのじゃないから」渋い顔が笑いに包まれた。私はそういうものに支えられていた。
窓を少し開けると涼しい空気が流れ込んできた。エリは空になった干し肉の袋を丹念に折りたたむとコーヒーをもう一杯入れるように命じてきた。私は黙ってそれに従った。風が通り、部屋の中でも一番涼しい台所はコーヒーの香りを含んでいた。
「でも平野遼の絵は暗いわ」彼女の声は台所と居間の境界から聞こえてきた。
「病んでいるというと、ステレオタイプな言い方だけど、芸術はこの世の中で生きていくためのエネルギーを生み出すものじゃなくて?」私は返事の代わりにマグカップをテーブルにのせた。するとエリは話題を別の方向へ持って行った。
「あなたの言葉では」そう切り出すと何かを読み上げるように喋り始めた。
「芸術はできるだけ、多くの人に共有されたい傾向と、低俗には陥りたくないという傾向が一緒になっていることもあるが、自分たちに関係のある問題と結びつき、知的な生産にたずさわるとき、つまり社会にとっての利用価値を発揮したとき、新しい宗教になりえる」エリの声はここで一度止まった。
「だから芸術はもう一歩前進する必要がある、ということよね?」と尋ねてきた。
「たしかにそれは同人誌に載せた僕の言葉だよ」私は微かな笑みを浮かべて答えたものの、なんとなく落ち着かない胸騒ぎを感じていた。エリの眼差しを見て彼女がどこへ議論を持っていこうとしているのかすぐに悟ったからだ。
「ただ、それは前進ではなく目標の置き換えかもしれないね。つまり時代の進展によってロードマップの転換を余儀なくされたという訳だね」
「興味ある意見ね」私が話している間はじっと動かなかった彼女が呟いた。しかし、新しい見解についての理解を、ある程度自分の中で片付けると再び口を動かし始めた。
「芸術はその価格があたかも絶対的な価値として示される時代は終わった。芸術は経済全体の中で利益を得るための手段ではなく、それ自体が目的化された装置になりつつある。その中心にはサイトスペシフィックなアートがあり、地域の歴史を掘り下げる構造を持った芸術祭がある。一方で芸術家は自分自身の経験を加えるだけでなく共同体の心理に呼びかける段階へと変化していくが、社会とは複数形で、芸術も複数形だ。見解の一致しないものどうしの密接な関係とは、ほとんどあてにならない。アートとは単に社会の一部分を代表するものにすぎない。それは時間とともに色あせ変形していくものだ。我々はその及ぼす影響を、あまり誇張しすぎないように注意しなければならない」
「よく覚えているね」私は言葉をさえぎると同時に、まるで自分の思想を茶化すように云った。しかし、彼女は相変わらず真面目な調子で「そのあなたの言葉を数行ほど朗読したいけど、いい?」と鞄から冊子を取り出し、私の返事を待たずに読み上げ始めた。
「普遍的なものは、芸術を一つの思想にまで昇華させた光の中にある。もちろん普遍的なものは個別的なものからも抽出できるがそれは本質ではない。現代に共通する不幸は人間の本質の全体を通してではなく、個人的な悩みの一定値のために描くという世界に、つまり自己充足性の世界に芸術がとどまっているということだ。そればかりか芸術は自分のことだけで大変であるから、共同体との密接な関係を証明する道をとざしてしまうことになる。芸術とはそうではあるまい」エリはまるで私の頭の中のある決心を引っ張り出そうとするようにページをめくり再び興味の中心へと朗読を進めた。私は目を閉じてその言葉だけを聞いた。
「かつて近代は堂々と悲劇の上に立っていた。どこか暗いところはあっても救いの光を社会に据えていた。世界の向上に資する言葉が絶対数の中に凝縮していた。自分のために描くという考えは、どの程度不健康かに関係している。厄介な現代美術は、それを気付かせる上では大きな仕事をしたが結局はそこ止まりで解決の道は示してはいない。そもそも個人問題から社会問題へという動きは現代にかぎったものではない。人間の精神と社会との割れ目を埋めることの出来なかった時代は、ほんの少し前にも存在していた。社会的な経験を通して知った本質は飽和していると思われるかもしれないが、戦争や、偏見、そういうことが貴重な歴史的教訓として目の前にあったからだ。絵を描くのにほかに何が必要であったろうか。個人の中での価値を考えるには、平均から考えるだけでなく、社会の立場から見てその原因を単純化することが役に立つ。それを基礎に人間の典型について考察を深めてゆけば人間に共通な本質を導き出すことができる。考えて描き、考えて見る。ここに絵画の絵画たる所以がある。したがって芸術とはすぐれた思想でなくてはならない」
それは私が微妙な陰影もなしに論ずることのできた幼さが残る文章で、繰り返し手を加えたとはいえ、そこに若々しい情熱の息吹が感じられた。私は何故か無性に恥ずかしくなり彼女に気付かれないように顔を手で隠した。すると彼女はここで一呼吸置くと、問い返すような調子で云った。  
「現代の不幸は教養の不足にある。これはあなたご自身で考え付いたものかしら?」 
「思いつくのは簡単だよ」私の表情は硬くなった。私はちょっと頭を下げて、かたくなに下を見つめながら呟いた。
「だけどネット社会を変えるのは難しい」
「評論の教養の不足よね。でも、なかなか核心をついているわ」 
「いや、真実味のない風潮に嫌気がさしているだけだよ」
「だから生贄がいるのでしょう?」
「なんだって?」
「禿鷹に啄ばまれる死体がいて、はじめて人は心を動かされる。これはあなたの言葉よ」
「でも、僕はそれを、悲惨な生贄の必要性を強調はしていない。第一、僕自身が苦しみや悲しみを描いてはいないのだから」
「だからこそ、平野遼を評論する、のね?」それは彼女の間髪を入れない言葉だった。 
「まぁ、絵画って、そんな高尚なものでもないけどね」と私は汚れたテーブルをごしごしと拭くように云った。
すると彼女は「肩の凝る話だったわね。ごめんなさい」と、それだけ云って口をつぐんだ。こういう時の彼女のしょげたような顔は不思議な魅力を持っていた。
同人誌のメンバーに入れるようにとりなしてほしいと改めて彼女から頼まれたとき、仕方なく私は大友さんを紹介すると約束した。それは彼女の念願だった。ようやく私の決心を引っ張り出したとき、彼女の態度は気分にふさわしい。快活なものに早変わりした。それは彼女と私にとっては嵐の前の静けさだった。しかし、この出来事がお互いの人間関係に大きな意味をなしていたように私には思える。

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