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SUNNINESS (10) 「だから平野遼を評論する」


食事が終わると私はエリにコーヒーをごちそうした。マメの苦みが出ないように短時間で抽出したモカは酸味の強い味を好む彼女のための定番だった。エリは畳の上に両足を延ばして肉の燻製をかじりながら美味しそうに熱いコーヒーをすすった。昼下がりの光線は窓を通して室内に注ぎ、それを受けたテーブルの輪郭や、ニスで塗られた静物画や、内気で引っ込み思案な私や、まだ人間関係への順応力を持った当時のエリや、そんな二人の野心や我執や、何もかもを一つにしていた。 
そういう時、なんとはなしに話が始まった。私は今やっている展覧会とか耳新しい価値観とか芸術上の話がしたくもあり聞きたくもあった。新しい芸術に対するエリの意見はよくあるような誰かの入れ知恵や暇にまかせてひねりだしたものではなく、彼女自身の生活環境から生まれたもので、その地に足の着いた考えが私にも合ったものだった。
「私には平野遼の抽象が分からないわ」エリはこう話を始めた。
「大学のみんなも先生方もいいっていうから、いいのだろうなとは思うけど」そう言って自問するように画集で顔を隠した。 
「僕も最初はそうだったよ」私はしばらくして云った。
「本当?」彼女は本から顔を持ち上げてさぐるような目を私にあてた。
「おかげで信念は少しすり減ったけどね」私はぶっきらぼうに云った。
こういう時、同じ釜の飯を食う仲間の言葉というものは学府の長よりも強い影響力を持っている。朋友の言葉というものは本当にいいものだ。短いうけ答えの中に掛け替えのない心の交換がある。ただ言葉というものは他のものと同様に一つの抽象である。そして、それは子供っぽさや洗練された会話を使い分けながら人間性を獲得していくように、基本的なしきたりさえ守れば、きわめて自然に会得されるもので末尾はたいてい型通りの文句で出来ている。教育とは例外なく、その抽象を誰の手にも握られる形で掴むことだ。
しかし掴むといってもまるのままを手にするのではない。例えるならそれは金魚すくいの要領だといえる。手に持ったヘラの持ち上げた方や重心のかけかたなどを理屈と一体となって身に着けることだ。ただ見かけほど難しいことのない離れ業も、金魚そのものを目的とする人々にとっては立てた筋書き通りにはいかないものだ。つまり抽象が分かるということは副産物のようなものなのだ。
それは必要に応じて訳しながら考えるのではなく、それを愉しむことがすなわち自分自身をリニューアルすることを意味するもので、自分自身を変えることなしに解釈できるものではないと私が説明してみせたことが彼女の慰めになったに違いない。私はそういう関係がうれしかった。こうして弱音や憂いをなぐさめるのは、やはり同じ大学の仲間としてうれしかった。たとえば抽象画をどう理解するか、という疑問も、そこから受ける近代の感じ、もたらされる感想というよりも、それを本人が愉しめる。美に共感できる。という結論に達するしかないのだが、こういうお互いの現状を素直に伝え合う雰囲気があるかぎり教育というものは一本のたどるべき方向を示してくれるものだ。
しかし、この朋友の影響というものは絶対的ではない。私としては何とかエリに先人の知恵を授けたいと思ってはいたが中々容易くはなかった。彼女には具象にも「いい絵」と「悪い絵」があるように、平野遼の抽象にも「いい抽象」と「悪い抽象」があるのだという簡単な答えが分からなかった。そうして周りから白い目で見られることを恐れて、まるで裸の王様のようにそれを口に出さず、世間体の鏡に映る自分を気にして口の堅い私の前だけでしか本心を打ち明けないのだった。それにしても彼女はものを知らない。過去の美術への理解が甘い、かつ浅い。それが私の実感だった。 
「大学って何のために行くのかしら?」彼女は身を固くして座っていた。藪から棒の話題を私は無表情に聞いていた。
「平野遼って小学校しか出ていないそうね」話が平野遼に触れて私は振り向いた。
「それで、あれだけの絵を描けるのだからすごいわね」私は黙って唇をかんで、あからさまに議論に加わりたくない表情を作った。
「平野遼は美校に行かないことが幸いした。と本に書いてあったわ」彼女は私の沈黙の帳をこじ開けようと私の顔を見ながら言った。
「どうして黙っているの?」
「何がだい?」
「どうして、みんな美大に行くのかって聞いているじゃない」 
「君はやめたいの?」
「違うわ。何も高い学費を払わなくても物の本を見れば絵の勉強なんて一人でもできるって言いたいの。美大なんて教授が儲けるだけよ。人とお金を私物化して、肝心なことは何も教えてくれないじゃない」彼女の問いに私は首を振った。
「俺だって同じだよ、ウンザリしている。でも僕がこの道を選んだのは考えに考えた末だからね」
「惰性なのね」
「教授はどうせ教授だよ」
「大学って学生のためのものじゃなくて?」私はできれば言葉少なに応じようとしたが、エリはどうにかこうにかして私からも長い話をさせようとした。エリは相手を話にひきこむことが得意だった。  
「そうだよ。僕が大学に行くのは多くの書物に接し多くの人間と時間をともにして、その中から一般に通ずる共通の言葉を身に着けるためさ」私は説き伏せるように云った。
「共通の言葉?」
「ぼんやりとした自分の想念に見解をつけるということさ。たとえば淡いという言葉ひとつ取っても人それぞれだからね」
「へぇーなんだか合っているようだけど」と彼女は云ってから、罠にかかりそうな獲物を誘い出すように
「でも、空の青さにもいろいろな青さがあるように分類は時として本来の本質を見誤るものじゃないかしら?」と論弁的な思考を巻き付けてきた。
「自分の知識を制限する必要はないけど理解する範囲を手際よくまとめたのが教育じゃないかな」私はきわめて真面目な、つつましやかな無表情で言葉をつづけた。
「僕らは色のひとつひとつと語り合い、いつの間にか混色やら配色やらをそらんじて自分の色を覚えていくという寸法だけど、自分流の教育とは重大な学問的な意義というものを区別できないものだよ。たとえば平野遼についてごく自然な意見を云う場合にも、抽象は抽象でも熱い抽象なのか冷たい抽象なのか、その中心にある系統を知らないと話の細かいところまで通じ合えないということさ」
「話が通じなくて悪かったわね」
「僕は君のことをいっているのではないよ」
「そうかしら」
「世の中に浅薄でないものなどないよ」
「でも、美大の教授って先輩風を吹かせる人ばっかりだし、女生徒に舌なめずりする人も多いのよ。人としておかしいわ」
「確かに自分の地位を利用する人、その権力になびく人には抵抗を感じるけど、公共の教育と個人の教育とは対立するものではないと思うよ。誰にでも欠点はある。平野遼にも欠点はあった。学歴のコンプレックスもその一つさ。それをバネに平野遼は人に負けないくらい本を読み、その仕事がまわりから高く評価される一流の芸術家になった。教授を軽蔑するにも教養がなくてはね」
「なるほど、ねらいは相手を見下すためにあるわけね。私も何か話すネタに困ったら一杯本を読むかもしれないけど今はちょっとね」
彼女は私には目もくれずに、女らしい、意地の悪い口の利き方をした。私はどんな意味でも一個人への悪口は言いたくはないが、エリは彼女が接した過去の俗物に対する意見と同様に教授に対しても嫌悪に満ちた、ほとんど批評家の眼でじっくり品定めしようとするのだった。毒のある正義感、批評と批判の混同、けんか腰になって爪を立てる癖、すべてエリの得意とするところだった。

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MY HEART IS BEATING!
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これは、ある画家の半生の物語です。ある画家とは狸小路エリで、彼女が北海道を訪れ、悠久の自然に魅了され絵を描くという設定でストーリーが展開していきます。また、小説を車軸にしながらも、松井宏樹による写真と、彼女にまつわる展示も、二つの車輪となってHOKUBU記念絵画館で連動します。

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狸小路エリが平野遼の作品に出合い、最初は難解な抽象画に抵抗しながらも次第に影響を受け論文に取り組むことになる過程を描きます。それは物語の悲劇が彼女自身の過ちから起こったものばかりでなく、社会の中でのさまざまな理由から生まれたものだということを明らかにするものです。

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