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SUNNINESS (14) 「だから平野遼を評論する」


「ねぇ、パスカルって何で出来ているの?」とエリは尋ねてきた。彼女はところどころ常識のないところがあり、周りに人がいる時には恥ずかしくて聞けない事でも二人の時には平気で尋ねてくることがあった。男性を無抵抗にするほど頭の切れる彼女が、私の前では目にも唇にも素直な気持ちが書かれた様子で一心に耳を傾ける姿は可愛かった。それは優越感ではない。年寄りらしい心境だった。ただ、この時ばかりは私も「え?」だった。パスカルは数学者で確か哲学の世界でも聞いたことがあるよな、とまでは思い至ったが、質問の答えにはならないと我ながら悟り、言葉に窮していると「あれ、さっき食べていたやつ、あの肉の珍味みたいなの」とエリは早口で説明した。
私はまじまじと彼女を見つめた。ここまで来てようやく私はそれが「パスカル」ではなく「カルパス」だと分かったのだ。もちろん私は彼女を笑い者にしようなどとは思わなかった。しかし彼女の輝かしい未来のためにも、それとなく間違いだけは指摘しておくべきだと考えた。
「そうだね、世の中にはよく分からないけど面白いものがある」と前置きしてから、まるでパスカルはすでに解決済みという調子で言葉をつづけた。
「たとえば、平野遼の絵で深々としたグレーに赤と白を華々しくドリッピングした抽象画もそうだ。それは何を描いているのかさっぱり分からないが、どこか哀愁の香りがする作品で、それが想像なのか幻影なのか、ただタイトルを見てなるほどと思うところもある。そのタイトルとはずはり『謎』なんだけど、それは肉の燻製がカルパスと呼ばれるのと同じくらい解きにくい謎だよな」と私は素知らぬ顔で結論を下した。彼女が自分の間違いに気付くのにしばしの時間を必要としたのかもしれない。彼女は目をみはった。
「あなたも知っているでしょう。肉の燻製のカルパスですよ」と私は云った。すると彼女はまるで頭に一発食らったようにすぐに理解しようとした。そして私の思いやりが届いたのか、今度は彼女がまじまじと私の顔を見つめ、次の瞬間には声を出して笑った。
ところで、エリは心が開いてくると大胆すぎる事柄も口にしたが、そのほとんどは異性に対しての話だった。そういう時、私は心の中で何かを調整した。じっと耳を澄ましてはいたが興味がなかった。我々は魅力のある対象に触手を伸ばすことに固執しお金と時間を無駄使いするものだが、最初から異性に惚れられることを意識的にあきらめて無関心でいるという方法はそれほど悪いものではない。
「私ってあなたのランキングでは何位くらいなの?」彼女が尋ねてきた。
「うーん、今のところ二位かな」と私は云った。
「なーに、ナンバーワンじゃないの?」
「そういう君はどうなんだい。僕のことを六位って云ったじゃないか」
「いいじゃない、ベストテンに入っているのだから」
エリは、どうして私が女性の興味を引き付けようとしないのか不思議に思っているようだったが、それは私が孤独の中で検討した末に生まれた態度で、人間関係に素直な欲求を持った彼女に対して、私は人生について抱いている自覚というものが悲観的すぎたのだ。だからエリから何を問われても私は苦笑いを浮かべ、その場をおさめようとした。実際、恋のゲームや駆け引きは苦手で私には手に余る代物だったが、それ以上に自分の人生経験を彼女におりこもうとは思わなかったのだ。自分は女性に対して真面目という以外は何の取り柄もない男だということを示し、自らの株を上げようなどとは露ほども思わなかった。
不愛想で女性をちやほやしない、そういう私をエリは安心できる人間だと思っていたのかもしれない。打ち明け話をするのが自然なくらいという態度をとっていた。私はそれに対して愉快だとも不服だとも思わなかった。基本的に私は他人の恋愛についても気にしないことにしていた。恵まれた容姿の恵まれた人生に劣等感を感じるくらいなら関心を持たない方が精神衛生上も好都合だった。そして対等な人間として彼女の恋の重大事を分かち合っていた。それだけだった。私は自分が妄想していた女性の姿ではなくあるがままのエリを見ていた。エリを本当に理解しているのは私だけではなかろうかと思われた。
四時を過ぎて、うっすらとした日が西に傾いてきたようだった。私とエリは大学の方へ歩いていた。道に沿った垣根を通り、世田谷百景の名木がある長い坂道を、自転車を押しながら足を引きずるように歩いた。校舎はゆるやかな高台から南に向かって緑ある風景が広がっている。
「心臓がつらかったら、少し立ち止まったら?」とエリは云った。
「なんとか耐えられるよ」と私は答えた。
「がんばれ自分、がんばれ自分」私は自分に呟いた。
「そういう言葉はもっと大切な時に取っておいた方がいいんじゃない?」とエリは笑いながら云った。
老人が坂の上の向こうから犬を連れて歩いてきた。守衛さんは車が通らないように手を広げていた。大学は立派な鉄筋校舎で野外彫刻も点在している。設備が整った東側の建物の樫の木の陰から用務員のおじさんが燃えさしを持って飛び出してきた。
一瞬、我々の足が黙りこくったように動きを止めた。そこには焼却炉が立ちはだかっていた。その前には持ち主の分からないキャンバスが積み上げられていた。下地の層がところどころ見えるだけで、これから完全燃焼するのかは分からないが、まずは寝る場所あたえられていた。景観は強烈だ。その現実の光景がいまにも崩れそうにせまってきた。
そのとき、私は大学という壁の中にある、互いの併存や、渦巻く競争、火花が散る独楽の回転に何となくだが気付いた。しかし、その果てしのない回転が制作の長さによって単位をもらうだけではない、もっともっと重要な利益のための行われていることには気づかなかった。もし私が自分の立場をわきまえていたならば、それが芸術という天体を周回するための軌道であること、大学はその助走にすぎないことを悟っただろう。しかし私はそれほど賢くはなかったので、広い敷地に積み上げられていたキャンバスがこれから燃やされる運命だということを悟ったのだ。目的地を峠の上から見下ろすように、私は自分の寿命を感じながらその光景をぼんやりと眺めただけだった。
校門の前で立ち止まって私は振り返った。そこからは二子玉川を望むことができた。大きく息を吐いたとき、ふいに彼女はペットボトルのキャップを外し、ハンカチできれいに飲み口を拭いてから私に差し出した。なぜか彼女のことを考えようとするとこの光景が浮かんでくる。それはかつてあったひと時よりも、鮮やかなイメージとなり回帰する長い夢のようなものであった。すらりと美しい姿のエリに、頑丈だが背丈の低い私がたとえ一瞬でものろけたとしたら、苦しいほど滑稽でバツが悪い思いをしなくてはならなかったろう。
もし、自然にしたがって愛情というものを私の中に認めねばならないとしたら、それは秘密の、私だけしか知らない精神的な欲求ともいうべきものであった。子供っぽい活気のあるエリを私は妹のように思っていた。と云いたいところではあるが…実は…私は自分の妄想どころか幸福の夢を叶える女性をたった今発見したことを理解し明るい光の側へ一歩足を踏み出したのだった。
授業開始のベルが鳴った。我々はあわてて教室へ走った。

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