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SUNNINESS (11) 「だから平野遼を評論する」


時計は二時を指していた。コーヒーの後の長い休みは、体も心も食物の消化にとりかかるだけだった。私は少し眠くなってきた。しかし、そろそろ学校に行く支度をしようかと腰を上げた。エリも壁に寄ったなり大きく伸びをした。昼間はまだ太陽がきつく照り付けてはいたが、今は秋の穏やかな光のにこやかさが目の前で波のように動く緑の中に没していた。私はタバコをくわえながら上着を羽織った。大家さん宅の離れからは犬の吠え声が聞こえていた。
すると、さっきまで晴れていた空が曇りだした。と思ったら、外から煙の匂いがして僕らは顔を見合わせた。窓のそばに寄り添うと、それは隣の畑からのものだった。私は窓を閉めた。隣の大家さん宅の雨戸も閉まった音がした。子供が喘息で、ずいぶん畑の主に苦情を云っていたようだがどうしたことだろう。畑で水をためた場所からはボウフラがわき、そのせいかいつも夏の終わりには坊やは風邪を引いた。はきはきと物を云う可愛い坊やと私とはよく庭をはさんでお喋りをしていた。地球が丸いことや友達が引っ越しで遠くに行ってしまうことを語り合った。今も縁側からその声が聞こえてきた気がした。しかし、それは大家さんの声だった。洗濯物を取り込んでいなかったことを教えてくれたのだった。私は再び窓を開けた。その時、作物を燃やした煙とともに、誰かが音を立ててやってきた。私は片手で揺れる洗濯物を反射的につかみ、もう一方の手でエリを制すると、手でサインを送った。喋るな!動くな!の合図だった。
「こんにちは!開けてください」それは男の声だった。男は戸口の前で何かを確認している様子だったが、電気のメーターを見たのか、あるいは出入りするドアの隙間に木っ端か何かを仕込んでいたのだろう。私たちが動かずじっとしていると、男は「いるのは分かってますよ」とドアを叩いた。私は仕方なく立ち上がった。そしてドア越しに「何ですか?」と応えた。もし、しつこかったら扉を鼻先で閉めて鍵をかけるつもりだった。それは効果的な意思表示だった。ただ、そのおかげで私は階段が大きく揺れるたびに、びくびくと怯える日々を過ごしていた。
「NHKです。開けてください」私は男と話をつける決心をした。もうそろそろ、蛇の生殺しのような状態からは脱したかったのだ。  
「こんにちは、受信料なら払いませんよ」
「まぁまぁ、そう言わないで」
「そういうことで、さようなら」私がドアを閉めようとすると、男はドアの隙間に靴のつま先を滑り込ませた。
「何でもない事です。騒ぎを起こすこともありません」と真剣な表情で喋る男は、小太りで肩幅がせまく、生真面目にネクタイを締めた姿は、いかにも役人だった。いつもの無礼な下っ端とは言葉遣いも服装も違っていたので、私は話を聞かざるを得なかった。 
ただ、画材を買うお金にも困っている私は受信料など払う気などさらさらなかった。立場の相違は、意見の相違である。当然ながら、それが当然という気持ちだった。したがって「見ていない」の一点張りで突っ張ろうとしたのだが、しかし、この男はこれまでの仇敵とはやり方が大きく違っていた。脅すのではなく、のっけからゴマをすり始めた。
「こんな立派なアパートに住んでいるあなたが受信料を払えない訳はないはずです」とそらぞらしい言葉で持ち上げてきた。そして、呆気にとられる私に「何かほかに理由があるのでしょう」とたたみかけてきたのだ。住んでいるアパートへの評価はジョークとしては中々のセンスだったが、おそらく、この声と表情に騙された人は数多いに違いない。実際、この言葉は私の心をつかんだ。男は私を特別扱いして不埒な輩と区別したのだ。私はただのケチで結構な貧乏だったが、被害者は自分だと言わんばかりの顔で「あるいは、そうかもしれません」と神妙に呟いた。そして「私もどうしていいか分かりませんでした」などとのたまったのだ。私のアパートはボロで雨漏りもしたが、それがどうだというのか。私は世の道徳の堕落に苦言を呈する苦学生だ。それで充分ではないか。
すると男は公共放送の必要性を教育的な立場から、あるいは災害時の危機管理の立場から説明してきた。そして「受信料は決して高いものではありません」と注意深く付け加えた。男は礼儀正しく明らかに人に話を聞かせるスキルを持っていた。私は心の中で黙って財布からお金を出し、それを受け取った男と固い握手を交わす場面を妄想した。深々と頭を下げる男と模範的な市民との美しい光景。この妄想は私の心をくすぐった。それは完全な服従だと理解しながらも私はもう少しで陥落しそうなところまで来ていた。なんといっても私は自分自身が偉く感じられることには弱かったのだ。 

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これは、ある画家の半生の物語です。ある画家とは狸小路エリで、彼女が北海道を訪れ、悠久の自然に魅了され絵を描くという設定でストーリーが展開していきます。また、小説を車軸にしながらも、松井宏樹による写真と、彼女にまつわる展示も、二つの車輪となってHOKUBU記念絵画館で連動します。

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狸小路エリが平野遼の作品に出合い、最初は難解な抽象画に抵抗しながらも次第に影響を受け論文に取り組むことになる過程を描きます。それは物語の悲劇が彼女自身の過ちから起こったものばかりでなく、社会の中でのさまざまな理由から生まれたものだということを明らかにするものです。

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