光を閉ざしたアトリエ(8)
陽はすっかり沈んでいた。自宅をあとにすると、道路は雨のあがった後の特有の匂いがした。ひんやりとした風が身体を長い夢から徐々に覚ましていくようだった。それはひとりの画家の弛まぬ人生、光の閉ざされたアトリエでひたすら「闇」と対峙し、見続けてきた人生の集約だった。
アトリエを現存させている理由を夫人はただきっぱりとこう言った。
──平野がいつ立ちかえっても、すぐ筆が持てるように。──
その言葉にはある種の希望さえ感じられた。
── 一緒になる時、平野は私に言ったんです。 『自分は絵を描いて生きたいから、 この世の中でたったひとりでいい、理解者が欲しい』と──。
夫人の言葉が思いかえされる。ならば、壮絶であったかもしれない平野遼の人生は、夫人の思慮深き理解と豊かな愛情により、満足のいく終焉を迎えたと言えよう。幸福な人生だったのではないだろうか。
病院から戻ってきた時のことを、平野はこう書き遺した。
地獄の季節を私は通って
今は喘鳴する肉体を
アトリエの中に沈めている
何という美しさだ
何という心躍る悦びか……
もう何があったって絵を描きながら
くたばりたいと念じている
ランボーの苦痛を思い続ける
何ひとつ検査の結果を
知らされぬまま
紅葉したケヤキの中を
よろめく足で帰ってきたのだ
そして日記はここで終わっている。(了)
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