もう一度住んでみたい、古葉カープ全盛時代の広島

もう一度住んでみたい、古葉カープ全盛時代の広島

いくつかの街に住んできました。転勤族からすれば数は多い方じゃないかもしれませんが、川崎、大阪、広島、千葉それに埼玉。なかでも広島がよかった。 当時は中心部だけの地方都市、のどかなものでした。そう、当時というのは先だって亡くなった古葉竹識監督のカープ全盛時代です。 カープは広島市民の球団。地元東洋工業がスポンサー、ホームグラウンドは市民球場です。会社の同僚は地元の人。駅近くで飲んでいても、テレビがないと落ち着かないし、放送があって見れば、さらに気が気ではない。 中盤戦にな

🏇競馬ファンタジー。マイルチャンピオンシップ3

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枠順の感じでは・・・。前節変更ですね。小沢一郎さんは見当たらない。 先日訃報が聞かれた カープの元監督 古葉竹識(たけし)さん の方が近いか? 喪の2枠③ スター(星になった=死者) 横山武史(たけし)。 となれば 相手は やはりルメールか?(女王の⑫) カープの監督時代背番号は72なので、枠では267あたりを買うつもり。 あてにならない 競馬ファンタジー。 2枠のスターと言って思い出すのは 49回高松宮記念 福永ジョッキーのミスターメロディーです。『ロックンロー

楽しいことも、つらいことも…俺の野球人生はカープとともにあった【高橋慶彦 連載#11・最終回】
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楽しいことも、つらいことも…俺の野球人生はカープとともにあった【高橋慶彦 連載#11・最終回】

前の話へ / 連載TOPへ 山本浩二さんが監督に就任し、変化を痛感 何だかんだ言っても、選手を生かすのも殺すのもチームを預かる監督次第だ。どんなに才能に恵まれていようとも、使ってもらえなければ始まらない。逆に才能に恵まれていなくたって、我慢して使い続けてもらっているうちに一流プレーヤーの仲間入りすることはある。実際に俺自身がそうだった。 ミスター赤ヘルが監督として復帰したカープは新時代を迎えようとしていた  全ては古葉竹識監督との出会いから始まった。結果を出した選手に「

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古葉監督

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 カープの元監督、古葉竹識さんが亡くなりました。僕が生まれた年にカープの監督になり、11年間続けられました。  試合中のベンチでは、体半分位壁に隠れる位置に立ち続けていたのが印象的でした。写真を撮る時に体半分を壁に隠し、『古葉監督のマネ‼️』と言う奴がクラスに何人もいました。  また、大洋の監督になられた時は、『古葉監督がカープの敵になった』と憤りを感じたのを覚えています。  カープの黄金時代を作り、僕をカープの虜にしてくれた古葉監督、ご冥福をお祈りします。

【訃報】古葉竹識さん/①1963年のオールスターゲーム

【訃報】古葉竹識さん/①1963年のオールスターゲーム

広島カープと大洋ホエールズで監督を務めた古葉竹識さんが亡くなった。 享年85だった。 古葉毅(その後、竹識に改名)は1936年、熊本に生まれ、地元で文武両道の名門、済々黌高校の野球部に進み、2年生の春のセンバツでは三塁手のレギュラーとして出場、ベスト8入りを果たした。 その後、専修大学に進むと、社会人野球の日鉄二瀬(福岡市)の濃人渉監督(のちに中日ドラゴンズ、大毎・ロッテオリオンズで監督を歴任)に見出され、1年で大学を中退して日鉄鉱業に入社。 日鉄二瀬の野球部で、のちに中日

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古葉監督

古葉監督

王貞治が「オーセンシュ」であるように古葉竹識は「コバカントク」である。 広島東洋カープが「赤ヘル」になった1975年。俺は小学校に入学した。野球というものに出会ったのはその前年秋。広島県の県北、比婆郡から広島市に引っ越したとき。知り合ったばかりの近所の子どもたちと野球ごっこをして遊んだのが始まり。 75年の夏が過ぎようとするころ、どうも街の雰囲気が違っていることに気づく。大人たちの様子がおかしい。小学校の朝礼では全校生徒でカープの応援歌を歌う。運動会ではみんな赤組になりた

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【追悼文】古葉竹識さんについて思い出すいくつかのこと

【追悼文】古葉竹識さんについて思い出すいくつかのこと

本日、プロ野球広島東洋カープの監督などを務めた古葉竹識さんが11月12日(金)に逝去していたことが公表されました[1]。享年85歳でした。 古葉さんといえば、1975年のリーグ優勝をはじめとして1979、1980、1984年と3度にわたりカープを日本シリーズ制覇に導き、監督としての手腕の高さは広く知られています。 私も、プロ野球の中継をテレビやラジオで本格的に楽しむようになった1982年頃からダッグアウトで腕組みをしながらグラウンドを眺める古葉さんの姿を目にしており、後継

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「カープ激励の夕べ」への出席ボイコットが呼んだ大騒動。歯車が狂い始めた…【高橋慶彦 連載#10】
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「カープ激励の夕べ」への出席ボイコットが呼んだ大騒動。歯車が狂い始めた…【高橋慶彦 連載#10】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ 1986年「2年ぶりV」の翌年開幕直前に大騒動 阿南準郎監督の1年目にあたる1986年、カープは巨人とのシ烈なV争いを制して、2年ぶり5度目のリーグ優勝を達成した。西武との日本シリーズは初戦引き分けからカープが3連勝したのに、4連敗で逆転負け。シリーズ終了後には「ミスター赤ヘル」こと山本浩二さんが引退した。それまで阿南さんに「ニューリーダー」と呼ばれていた俺は「リーダー」としての働きを期待されるようになっていた。 ㊤山本浩二にビー

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〝スイッチ〟が入った瞬間、左手で箸が自在になった【高橋慶彦 連載#3】
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〝スイッチ〟が入った瞬間、左手で箸が自在になった【高橋慶彦 連載#3】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ 甲子園のワンプレーで広島がリストアップした 振り返ってみれば、高校時代の俺は周りが見えていなかったんだろう。「甲子園に出たい」という自分の思いばかりで。練習なんかでチームメートが妥協していると無性に腹が立ったんだ。あんまり頭にきて、仲間を殴ったこともあった。  そんな調子だから、チーム内でも浮いちゃう。「カッコつけやがって」って。もう、どうにもならなくなって、一度だけ野球を辞めようかと真剣に考えたこともあった。最終的には踏みとどま

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13年連続盗塁王の真っただ中の福本豊さんはレベチ!「弾丸より速い」【高橋慶彦 連載#1】
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13年連続盗塁王の真っただ中の福本豊さんはレベチ!「弾丸より速い」【高橋慶彦 連載#1】

はじめに 人は親しみを込めてファーストネームで呼び、その名前はベストセラー小説のタイトルにもなった。グラウンドを縦横無尽に駆け抜け、付いた異名は「赤い疾風」。常人離れした努力を積み重ねて不動のレギュラーの座をつかんだのに泥くささはなく、プレーにも華があった。強かったころのカープにさんぜんと輝いた男。グラウンド内外で数々の伝説を作った高橋慶彦が自らの野球人生を振り返る。 プロのレベルに驚き!「1年でクビ」を覚悟した いきなりで何だけど、実を言うと自分がプロ野球選手になるなんて

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