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王貞治が「オーセンシュ」であるように古葉竹識は「コバカントク」である。

広島東洋カープが「赤ヘル」になった1975年。俺は小学校に入学した。野球というものに出会ったのはその前年秋。広島県の県北、比婆郡から広島市に引っ越したとき。知り合ったばかりの近所の子どもたちと野球ごっこをして遊んだのが始まり。

75年の夏が過ぎようとするころ、どうも街の雰囲気が違っていることに気づく。大人たちの様子がおかしい。小学校の朝礼では全校生徒でカープの応援歌を歌う。運動会ではみんな赤組になりたがる。

優勝そのものの記憶は薄いものの、山本浩二の男泣きは印象的だった。金城のアンダースローは美しかった。

優勝したあとの日本シリーズで鬼みたいに強い阪急にコテンパンにやられたことは鮮明に覚えてる。選手の顔が怖かった。怖すぎた反動だろう、みんなして「マルカーノって変な名前じゃのお」ってゲラゲラ笑ってた。デッドボール受けて「ワオッ!」と吠えたマルカーノの真似をしてはさらに笑った。

しばらくして優勝記念のレコードが出たりして夢中になった。カープ数え歌は今でも歌える。

翌年は長島巨人の優勝にかすんじゃった感じでイマイチ盛り上がれなかったように記憶している。

その年、カープの忘年会が親戚が経営しているホテルで開かれた。酔っ払った山本浩二はものすごく怖かった。衣笠は幼い俺を呼んで膝の上に抱いてくれた。「百恵ちゃんのドラマ観ようや」って。

古葉監督を直接知るわけではない。選手としての活躍もまったく知らない。だけど俺の中の重要要素になってるカープを、強いカープに仕上げて届けてくれた恩人であることは間違いない。

古葉監督はカープを通じて俺を育ててくれた。俺だけじゃない。何十万人というキッズの元気や勇気の源泉はカープだった。

おかげさまでなんとか大人になれました。相変わらずカープを応援しています。俺の人生にかけがえのない大きな宝物を与えてくれて、本当にありがとうございます。

カープを、俺を、ずっと古葉スマイルで見守っていてください。

世界のゴキゲンが増えるといいなって考えたりしゃべったり書いたりしてます。ありがとうございます。