天正12年(1584)12月25日は越中富山城主・佐々成政が浜松城の家康を訪れ秀吉との戦いの継続を懇願した日。小牧長久手の戦い後に織田信雄と家康は秀吉と和睦。成政は命がけで冬の北アルプスを踏破し家康へ徹底抗戦を促すも失敗。このあと三河吉良で鷹狩り中の信雄を訪ねるも説得に失敗した。
天正16年(1588)閏5月14日は肥後国人一揆の責任を問われた佐々成政が尼崎で切腹した日。信長の黒母衣衆筆頭として活躍し本能寺の変後は秀吉と対立した。秀吉に許された後に九州征伐の手柄で肥後一国を任された。しかし早急な検地などの影響で国人一揆が起き成政は自力で鎮圧できなかった。