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目結紋 〜なごみ2023.2月号より〜
目結紋は四角の中心に点が構成され、四角の数が三つであれば三つ目、四つであれば四つ目といい、一番多くは十六目まで家紋として存在する。現在多く使われているのは四つ目紋であり、角が立っている菱状のものを「隅立て四つ目」といい、四角状のものを「平四つ目」という。
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この紋の成り立ちは絞り染めの鹿の子文様を模したものといわれており、糸で縛って目のような文様ができるため目結と称された。
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目結紋が文献に登場するのは平安時代後期の公家・平信範の日記『兵範記(ひょうはんき)」である。春日詣の際の装束目録に「紫大目結奴袴(むらさきおおめゆいさしぬき)」という目結紋入りの袴が記されている。また『源平盛衰記』には鎌倉時代初期の武将で近江源氏の佐々木高綱が三つ目結の直垂(ひたたれ)を着用していることが記されている。のちにこの佐々木家より分家した六角氏、京極氏、大原氏、高島氏はいずれも四つ目結紋を用いたが、三つ目から四つ目になった理由は定かではない。
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一方、同じくこの佐々木家より分家したとの説がある戦国武将の佐々成政の家紋も隅立て四つ目である。この成政が加賀の白山から持ち帰った黒百合を豊臣秀吉の正室おねに珍花として送り、おねは側室の淀を招いた茶会で黒百合を生けた。しかしそれを事前に知っていた淀は、三日後、おねを花摘み供養に招待し、準備していた黒百合を無造作に生けて見せつけたという話が、『絵本太閤記』に描かれている。もちろん創作であると思われるが、この「黒百合の茶会」の話は、おねと淀の確執を強調させ、のちに切腹となる成政との関係性をも紐付けるには恰好の物語であろう。
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いずれにせよ、目結紋は鹿の子文様を模した紋であり、古来、鹿は神使とされたことから神聖な紋章であったことは間違いない。
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