御伽衆
ある春の夜、僕は夜中にいきなり目覚めた。
前日に昼寝もしていないしバイトでそこそこに疲れていたので眠い筈である。なのにもう眠気なんてすっかりふっとんでしまった。
その後眠れなくなる現象。それは神起こしとも呼ばれて何かの前兆だから起きていた方がいいよ。
と日本の呪術や伝承に詳しい大学の先輩に言われたのを思い出し、僕は住んでいるアパートの部屋から出てまずは近所のコンビニにコーヒーを買いに、後は気のむくままよ、と真夜中の祇園花見小路の路地をぶらぶら散策する事にした。
祇園、と雖も舞妓さん芸妓さんが住む置屋は十数年前のリーマンショックの影響でいくつか廃業してすっかり数が減り。いまは外装そのままに小料理屋や古民家カフェやアトリエ、古民家安宿となり、大分寂しくなった。
と祇園甲部歌舞演習場のガードマンのおじさんがこぼしていたの今やたらと思い出す。
僕は近年やたらと美味くなったコンビニコーヒーを飲み飲みほんのり明かりが付いた花見小路を迷路に見立てて道路の左側しか歩かない。というマイルールを課して無目的に歩いていると、
どん、
といきなり柔らかい何かにぶつかって目線を上げると相手は葡萄色の着流しに羽織姿の、歳の頃は二十八、九くらいのやたら色白な青年で、「ちょっと!前見て歩きなさいよ!」
といきなり扇子で額をはたかれた。
これ新調したばかりなのに…
と彼が悔しそうに袖口を見つめる様子から僕はぶつかり様、持っていたコーヒーが飛び散って彼の着物の袖口を汚してしまったことに気づいた。
「す、すいませんすいません!クリーニング代は分割で弁償しますから!貧乏学生なんでそこは勘弁して下さい!」
とコーヒーの紙カップを両手に掲げて必死で謝るとお兄さんは黒目がちの大きな目で、じっ…と僕の顔を見るとにやりと笑い、
「じゃ、今から始まるアタシの寄席に来てくれたら許してあげる。席代学割二千円」
と高価そうな着物を汚してくれやがった相手に随分太っ腹な条件で許してくれたので僕は彼について行く事にした。
そこは元は京町家の外観を生かした和風フレンチ(どっちだよ)レストラン「祇おん、はらしま」の店まるごと貸し切った三人の噺家による春の夜通し寄席という兄弟会の催しで上席のカウンターには通の旦那はんや同伴の芸妓はん、畳の席には寄席好きの一般人や学生などで店はほぼ満員である。
僕は端っこの席でチケット代2000円を払い、サービスドリンクの昆布茶を飲みながら、
彼我見亭。という知る人ぞ知る上方落語界の名門の兄弟弟子二人が語る落語を聞いた。
一人目の弟子、都都逸は遊女と客の駆け引きをキャバ嬢と客の掛け合いに改めた新作落語で客を笑わせ、
二番目の弟子、見返は今流行りの事故物件怪談になぞらえた長く祇園に棲む芸妓の昔語りで世の移り変わりを嘆いて座をしんみりとさせ、
そして最後の語り手が僕がぶつかった相手、彼我見亭春寂が座布団に座って一礼しただけで店内の皆が拍手した。
「さて─我々噺家というのは元を辿ると戦国時代、武将に仕えたご機嫌取りの坊様である
御伽衆
というのが起源と言われておりましてねぇ、西洋では王様に仕えて言いたいことを言うのが許された道化師のような、奴隷にも近い存在だったんですよ。
有名どころでは有楽町の元ネタになった織田有楽斎や織部好みなどで知られる古田織部などがおりまして、皆、武功で出世仕損なった負け組の元武将。
偉いお方に媚びてへつらい褒美でもおねだりしときゃいいものを、人生の最期でやっぱり俺は武将だ、と時の太閤秀吉に逆らった御伽衆、佐々成政の話を一つ」
と、羽織を脱いで我は坊主です、とばかりにつるりと頭を撫でた春寂さんに、一瞬にして成政が取り憑いた。
「我は黒母衣衆筆頭、佐々成政!
織田軍の切り込み隊長だった我が何故サルめに出し抜かれて媚びへつろうておる⁉︎悔しくてならぬ、腹立たしくてならぬ、だが…逆らうたら娘を磔にされる。仕方ないではないか…」
と語り出す成政の、あるじを本能寺の変で突然失い、いつも下に見ていた足軽同然の秀吉に無理矢理忠誠を誓わされて末森城落としに失敗した罰として肥後国に左遷されそこで起きた国人領主一揆を収めきれずに切腹に追い込まれた彼の屈辱の半生が
素は剛毅な武将としての成政、或いは負け組坊主として太閤秀吉に面従腹背で媚びる成政。居丈高に成政を責め立てる太閤秀吉、と一人でいくつもの役を巧みに演じ分けた春寂は、
15分間の語りのクライマックス、
「確かに我は太閤を裏切り、娘を平気で磔にさせた人でなし。だが…これでもののふとして、死ねる」
と手持ちの扇子で腹を切って果てて座に突っ伏す春寂さんの迫力に、皆息を飲んで一分ちかく黙り込んだ後、真夜中なのに割れんばかりの拍手が店内に響いた。
これは寄席ではない、まるで降霊術だ!
と桜満開の頃だというのに全身鳥肌を立てた僕はお客が引いた後、控え室で弟弟子と寛ぎ、僕の顔を見て「ま、クリーニング代の十分の一にでもなったでしょうよ」とお茶目なウインクをする春寂さんに向かって─
「お願いです、弟子にしてください!!」
と土下座していた。
これが、この時既に真打ち昇進が決まっていた創作落語の名人、春寂師匠と、
師弟二人で大作「御伽衆」を完成させる弟子である僕、彼我見亭夜更との出会いの夜だった。
「はぁー?」
と春寂兄さんが脱力してもともとの撫で肩から羽織りがずりっと滑り落ちた。
夜更けに歩いて出会った人について行ってはいけない。人生を大きく変えられるから。
というまことしやかな言い伝えは本当なのかもしれない。
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