【大河ドラマ連動企画 第29-33話】どうする◯◯

※後追いで追加中


第29話 どうする守就(安藤守就)


急に出てくる偽ホンダ。今ひとつ使えない服部軍団。数正・忠次の老臣コンビが辛そうである伊賀越え。家康最大の危機の一つと呼ばれる回を本多正信復帰回にぶつけるのは理にかなっている。

 今回は本能寺の変の裏の混乱の中で再起を狙った人物を取り上げる。安藤守就は西美濃三人衆の一人である、と言えば歴史好きなら聞いたことがあるかもしれない。家康が今川氏真と遠州を巡って争っていた同時期、信長は美濃攻略を進めており、その中で信長に調略で切り崩された西濃地域を収める3人の実力者、安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全の3名を指して「西美濃三人衆」と呼ぶ。美濃安藤氏は伊賀氏とも称しており、先祖は伊賀朝光である。彼の娘は昨年の大河ドラマでも登場した「のえ」こと伊賀の方、北条義時の最後の妻である。安藤氏を称したのは守就からとされる。
 守就ははじめ土岐頼芸に仕えたが、斎藤利政(道三)の下剋上に伴い利政に、さらに斎藤義龍の謀反に際し義龍に仕える。娘婿には後に秀吉の軍師となる竹中重治を迎え、西美濃において勢力を誇ったようである。しかし、義龍の子・龍興の代になると疎まれるようになる(老臣が若い主君に煙たがられるのはどの家でも共通なようだ)。これに対して守就は竹中重治と組んで稲葉山城を襲撃・占拠。翌日城下に出された禁制では「伊賀守 無用」と掲げており、自分はもはや斎藤家に無用の存在、と自虐しているようにも見える。そしてその後調略を受け織田家に参入。その後の主要な合戦に参加し活躍。美濃衆の多くがやがて信忠付きになる中、数少ない信長付きの家臣となっている。しかし、転機は天正8(1580)年に突然訪れる。林秀貞と共に突如、謀反の疑いありとして追放処分を受けるのである。もう一人の西美濃三人衆、稲葉一鉄(氏家卜全は伊勢長島の戦いで戦死)は追放処分を受けておらず、なぜ彼だけが追放されたのか、真相は不明である。その後の足取りは不明であったが天正10(1582)年、本能寺の変で信長が討たれると混乱に乗じ挙兵。美濃の旧領を回復を試みた。皮肉にもそれを阻止し、安藤氏一族を討ち取ったのは稲葉一鉄であった。河尻秀隆や滝川一益を含め、本能寺の変は諸国に大きな混乱をもたらした。安藤守就もまた、「どうする」を決断し、その末に賭けに敗れたのである。

第30話 どうする義頼(里見義頼)

 天正壬午の乱の裏で進行する、秀吉の天下簒奪。助けを求める市の声は虚しく、北ノ庄は炎に包まれる。しかし、本作の柴田勝家は良いように使い潰された感は否めない。最初の方でも触れたが、信長を裏切った直後にも関わらず重用されているような扱いであったにも関わらず、信長死後は市に顎で使われている。もちろん、勝家も納得ずくの描写ではあるのだが、政略結婚で奥方が主導権を握るパターンはなかなか斬新である。
 今回、家康の判断の甘さが無自覚に敵を増やすことに繋がっている。お市の方に対して援軍を派遣しなかったことで茶々の心に消えない憎しみの炎をともしてしまった(だろう)し、領地裁定で真田昌幸の不興を買っている。その辺りが、真に独立大名化したばかりの家康の甘さとして表現されているのかもしれない。
 今回はネタ切れなので、天正壬午の乱に際して北条氏と連動して従軍したとされる里見義頼を中心に、安房里見氏を扱うことにする。信長の野望では真っ先に北条氏に滅ぼされる弱小としても名高い里見氏だが、実際は戦国時代を通じ北条氏と友好と敵対を繰り返し生き延びている。関東の大半を従属させた北条氏に対抗できていた優秀な勢力と言えよう。
 里見氏の先祖は新田氏(新田義重の庶長子・義俊)とされ、彼が上野国碓氷郡里見郷に移ったことが始まりとされる。安房入りの伝説は室町時代の結城合戦に敗れた里見家基の子・義実が安房に逃げ延び、下剋上の末安房を統一。次代は嫡男の成義が継いだとされる。しかし、その華々しい事蹟とは裏腹に義実・成義親子の存在は歴史書と矛盾が多く、架空人物説まで出ている有様である。通説では成義の子とされていた三代目・義通が歴史書にその名をはじめて現す安房里見氏である。近年は義実の子とする説も有力視されている。義通は下剋上を成した後、古河公方、次いで小弓公方に臣従する。四代目・義豊は若年で父・義通の死を受けて家督を継ぐが、実権を伯父・実堯に握られたため成人後にこれを排斥。しかし、実堯の遺児・義堯に敗れ、戦死したという。この実堯・義堯と義豊との天文の内訌は実際には義豊成人後の家督継承という説が登場したことで、義堯らによる正当化のための改竄と考えられている(この正当化にはクーデターに際し実堯・義堯親子が北条氏綱と共謀していたこと、クーデター後に義堯が北条氏綱を裏切り対決姿勢となったことを正当化する意もあると考えられている)。義堯は小弓公方と連合し北条氏綱と対決したが(第一次国府台合戦)、積極的に動かず小弓公方・足利義明の敗死を招く。その後、反北条連合に与した同盟勢力を攻撃し領土を拡大、里見氏の全盛期を作ったと言われている。義堯は子・義弘と協力し北条氏と一進一退の攻防を繰り広げるが、天正5(1577)年に義弘は北条氏政と和睦(房相一和)。束の間の平穏が訪れる。前置きが長くなったが義弘の弟(ないしは嫡子)が里見義頼である。
 義弘は房相一和の翌年に死去。この時、遺言で義頼に安房、嫡子・梅王丸(義重)に上総を分割相続するとしていたことに不満を抱いた義頼は北条氏政の支援を受け、上総国を制圧、梅王丸を出家させる。しかし翌年には甲州・武田氏、常陸・佐竹氏と結んで対北条同盟を結成。この同盟が武田氏の滅亡で破産になると再び北条氏と連携し、黒駒合戦に参加したのである。
 結果はドラマでも述べられた通り、北条方の敗北に終わる。この後、政略結婚していた北条氏政の妹が死去すると再度北条氏政と対立。この際には豊臣秀吉と連携しており、その優れた外交感覚は他の追随を許さなかった。しかし、そんな彼も病に勝てず天正15(1587)年に死去。後を継いだのは里見義康である。彼も即座に秀吉に連携し所領を安堵されたが、小田原征伐に際し、勝手に旧領回復の動きをしたため、惣無事令違反として安房以外の領国を没収されている。この時、仲介役となった徳川家康とも好を通じた里見氏は最終的に安房館山藩主となる。しかし、次代で大久保忠隣の親族であったことが災いし改易。大名としての里見氏は断絶する。この時、8人の側近が殉死し、「八賢士」と讃えられた。この逸話と冒頭に述べた入房伝説から着想を得て記されたのが、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』であった。
乱世において大勢力を前に見事に立ち回った里見氏。最後は理不尽とも言える改易を受けたが、その一族の名は後の世まで名を轟かせたのである。

第31話 どうする恒興(池田恒興)

とても三下ムーブが得意な池田恒興が登場した。部下の森長可のキャスティングがすごく贅沢である。今回はおそらく来週で退場する織田の重鎮・池田恒興を紹介する。
池田氏のルーツは不明な点が多い。美濃、近江、摂津などから尾張に移ったと考えられるが江戸時代の時点ですでにその詳細が不明となっている。ともあれ、その経歴がはっきりするのは恒興の父・恒利の代である。恒利は滝川貞勝の子であり、滝川一益の叔父に当たるらしい。その恒利ははじめ足利氏、次いで織田信秀に仕える。妻は信長の乳母となったが、その子が恒興であり、信長の乳兄弟として早くより小姓として仕官している。信長の弟・信勝の謀反に先んじて彼を殺害したり、桶狭間・美濃攻略・姉川でも活躍したりと初期から織田家を支えており、元亀元(1570)年には犬山城主となっている。その後は美濃・尾張を領有していたが、有岡城の戦いを契機に摂津にも所領を有することになる。本能寺の変の直前に羽柴秀吉の援軍に赴いていたためそのまま秀吉と行動をともにし、清州会議でも親秀吉として三法師擁立に協力。最終的に長男・元助と共に美濃を領有した。次週放送されるであろう三河中入り作戦の際に徳川軍と激突。元助共々壮絶な討ち死にを遂げてしまう。
跡を継いだ次男の輝政は後に徳川家康に接近。現在に残る姫路城を改修し、播磨姫路藩を創建。その後、池田家は鳥取藩、岡山藩主として幕末に至る。

歴史にもしもは禁句である、とはいつもの物言いである。もし彼が小牧・長久手の戦いで討死しなければ、どうなったであろうか。恒興は秀次の舅である。おそらくその後恒興・元助親子は秀次付きとなり、秀次事件に連座し結局命を落とすことになっただろう。輝政も連座する可能性があるが、おそらく実力者の助命で許される事になるだろう。問題はこの時空において家康は実力者たりうるのか、ということだ。三河中入り作戦がなければ家康は秀吉に対して軍事的優位を維持することはできず屈服することになる。そうすれば待っているのは大幅な減封。おそらく、三河・遠江の領有が許される程度であろう。そうなれば駿河、甲斐、信濃に賤ヶ岳七本槍系が配置される。前田利家がおそらく最長老で実力者という形になるため、輝政を除名するのは利家になる。家康もこの状況で秀康を人質に取られれば迂闊には動けない。そうなると、前田利家と共に豊臣家の協力者として家中の統制に腐心することになる。史実通りならば豊臣秀頼の成人まで存命しており、石田三成ら奉行衆と共に豊臣家を支えていた可能性すらある。その場合、輝政は大大名にはなれない(何しろ秀次事件に連座した一族である)。恒興の「どうする」が結果的に池田氏を大大名に押し上げた可能性はありそうだ。

第32話 どうする長可(森長可)

恒興、長可、まさかの伝令死である。そして何やら不穏な感じの数正。勝利に浮かれる徳川・織田家中だが…。はたして。
今回は池田恒興と共に小牧・長久手の戦いで討ち死にすることになった森長可を扱う。そもそも、森氏は源氏の一族、源義朝の大叔父にあたる陸奥義隆に遡る。平治の乱で討ち取られた義隆の遺児若槻頼隆は千葉氏の庇護下で成長、鎌倉幕府の御家人となる。頼隆は三浦合戦で三浦側に就き族滅の憂き目にあう(敵対勢力は基本族滅、の流れは昨年さんざん『鎌倉殿の13人』で描かれている)が、頼隆の次男、森頼定は鎌倉におらず難を逃れている。頼定が森氏の祖となり、分家には戸田氏がある。森頼定の次男・定氏の系統がいわゆる美濃森氏の系統となる。土岐氏の被官となっていた森氏だったが、長可の父・可成の代に織田信長に仕えるようになる。しかし、元亀元(1570)年の浅井・朝倉氏との攻防の中で可成および兄の可隆が戦死。家督を継ぐことになる。その後も織田家の中核として戦い続けた可成は最終的に信濃海津城を領有する。また、弟・成利(蘭丸)は美濃金山城を与えられた他、成利、長隆(坊丸)、長氏(力丸)は信長の小姓として重用される。まさに一族が厚遇されていた森家だったが、本能寺の変で成利、長隆、長氏が戦死。長可も混乱の信濃国に孤立するがなんとか美濃まで帰還。混乱状態にあった東濃地域を金山城を起点に攻略、平定した。小牧・長久手の戦いでは舅・池田恒興と共に秀吉に付くが、ドラマでも描かれた通り羽黒の戦いで大敗。挽回を期した三河中入り作戦でも最終的に徳川本隊と交戦することになり、眉間を火縄銃で撃ち抜かれ戦死した。
戦乱でほとんどの一族が討ち死にした森家だったが、秀吉により弟の森忠政が美濃金山城主に封じられた。その後徳川政権下にも生き延びた森家は津山藩主、そして赤穂事件で断絶した浅野家に代わり赤穂藩主となり明治維新を迎えた。

第33話 どうする成政(佐々成政)

石川数正による裏切り。諸説あるこの裏切りはやはり山岡荘八版同様、徳川家のための出奔となった。この先の紀行ナレーションがどうなるか、注目である(※第47話時点で松重豊さんが継続されている)。

今回は小牧・長久手の戦いの裏側で同じように秀吉に対抗し、最後には秀吉の軍門に降った、一人の武将を扱う。
なお、これを執筆するに当たり、手元にあった遠藤和子氏の『佐々成政』(サイマル出版会、1986)などを参考にしている。

佐々成政、という人物がいる。太閤立志伝Ⅳで秀吉プレイをすると最序盤にやたらと秀吉に突っかかってくる嫌味な先輩ポジションだったのが記憶に残っている。
「佐々」という名字はかなり珍しく、不思議な感じがする。どうやら元は宇多源氏の一つ佐々木氏に関連しているらしい。上総国佐々庄に起因する地名姓(ただし佐々庄は現存が確認できていない)や佐々木氏では呼びにくいと信長が縮めた説、果ては書類に「木」を書き忘れた説など諸説が乱立しておりはっきりしない。成政は永正~天文年間に佐々盛政(成宗)の子に生まれる。長男ではなかったが兄が稲生の戦いや桶狭間の戦いで討死したために、家督を継ぐこととなる。その後も抜群の活躍であり、永禄10(1567)年には黒母衣衆の筆頭となった。馬廻衆の中でも特に武辺者で構成された黒母衣衆は織田信長親衛隊としてエリート中のエリートであり、その筆頭である成政はまさに織田信長親衛隊の顔と言うべき存在となった。その後も各地を転戦した成政は北陸攻略の指揮を任された柴田勝家の寄騎として赤母衣衆筆頭の前田利家とともに配属された。この2人に不破光治を加えた3人を府中三人衆とも呼ぶ。北陸において粘り強く戦った彼らは富山城までを勢力圏に収め、富山城には佐々成政が守護大名だった神保氏とともに入った。この際には「佐々堤」と呼ばれる長大な堤防を常願寺川(後にここを訪れたオランダ人技術者・ヨハネス・デ・レーケをして『これは川ではない、滝だ』と言わしめたとされる屈指の急流)に設けるなど、城下の治水工事にも尽力したという。ここを拠点に魚津城を攻城していた時に本能寺の変が発生。成政は上杉軍との滞陣で動けず、柴田勝家も秀吉に敵討ちを先んじられてしまう。
その後の賤ヶ岳の戦いにおいても成政は勝家に与するが、結果はご存知の通り、秀吉の勝利に終わる。この際に一度成政は秀吉に降伏し、越中一国は安堵される。しかし、心中穏やかならざる彼は再び秀吉への反抗を試みる。
それが家康との連携である。小牧・長久手の戦いの少し前から成政は家康との連絡を取り、決戦中に寝返り前田氏の加賀・能登へ攻め込んでいるが、すべて撃退されている(余談ではあるが、この際の戦いの一つ『末森城の戦い』が原哲夫氏の漫画『花の慶次』に登場している)。
そのうちに小牧・長久手の戦いにおける秀吉の政治的勝利が決定してしまう。成政は家康に会うため、天正12(1584)年11月、富山から厳冬期の北アルプスを抜け、浜松へと赴く。俗に言う「越中さらさら越」である。現在も黒部ダムなどで知られる峻険な立山連峰を抜け信州を経由し、浜松へと突破したのである。しかし、この難行は残念ながら徒労に終わる。家康はすでに秀吉との直接対決より政治的決着を模索していたのである。失意のまま富山に戻った成政。翌年、10万を超える軍勢を自ら指揮して秀吉が出陣。降伏した成政は領地を没収の上、秀吉の御伽衆に迎えられる。奮起した成政は九州征伐において武功を立て、肥後国領主となるが、すでに彼は病を得、残りの時が多くはなかった。その焦りが彼にとって最大の悲劇を生む。性急な検地を行おうとした成政に国人衆が反発。大規模な一揆が発生してしまう。北野茶会の開演直後にこれを聞いた秀吉は激怒。直ちに軍勢を差し向け一揆は鎮圧されるも、成政は責任を問われ切腹となった。ただし、この説についても不明な点は多い。元々戦乱で疲弊していた九州に赴任する状況は非常に危険であり、秀吉による成政潰しの陰謀とも取れる。ともあれ、己の武勇と胆力で戦乱を駆け抜けた名将はここで散ることとなった。

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