慶長4年(1599)1月5日は4ヵ月以上も伏せられていた秀吉の死が新年を迎えて公表された日。秀吉は前年8月に伏見城で死去したが内外への影響が大きく秘密にされてきた。朝鮮半島からの日本軍が撤退を完了したことと新年を待ち公表された。ただ死の当日には早くも噂として伝わっていたという。
慶長4年(1599)1月10日は豊臣秀頼が秀吉の遺言に従い母・淀殿とともに大坂城へ移った日。5日前に秀吉の死が公表されていた。この移動により豊臣政権は秀吉の遺言で伏見城に残り政務を執る家康と大坂城に移った秀頼と傅役・前田利家の2つに分かれた。これまで政治の中心は伏見城だった。