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深いリラックスと自分との関係性~今日という日の振り返りから

今日はリフレッシュして凄くゆったりした時間を過ごすことができた。

今日までも幸せで仕事に打ち込んで、お客さまにもご来店いただけて喜んで貰えて・・・本当に充実していたけれど、ちょっと休みなしで走り続けて疲れがたまっていた感覚は否めなかった。

ごはんがちゃんと食べられていないからかな?
おやつにチョコパイひとつ食べられなくて残して、それでも糖の摂り過ぎで電解質バランスが崩れるのか夜中に足が攣る。

眠れていないからかな?
脚は攣るし、睡眠ログはいつも深い睡眠が連続してとれていませんよなんて言いながら昼間に運動しろだの就寝時間を一定にしろだのアドバイスをくれる。でも結果は芳しくない。

お風呂もいつもの時間に入れなかったら温水プールみたいな温度。ゆっくり時間が取れるわけじゃないから沸かし直しが勿体なくて泳がない温水プールから釈然としない気分で出てくる。

土日も家族との軽いコミュニケーションとインコと戯れる(という名のお世話&お掃除)以外は根詰めて仕事してしまったからすっかり曜日感覚が失われてしまってリラックスのきっかけも方法もからだが忘れてしまったのかもしれない。

どうしたら心底リラックスできるだろう?
好きなアーティストのコンテンツでも視聴すれば元気が戻るかな?
うん、そうに違いない!

今日は充電の日と決め込んで、時間をとって温かな浴槽に身を沈めてくつろぎながら好きなアーティストを見て過ごす。
という予定が崩れたのは、その前に・・・と必要な連絡を済ませてしまおうとLINEで一気にメッセージを送信した後だった。

信頼する友人からの連絡が届いたのはすぐあと。
わたしが仕事の依頼をした関係上、時間が取れるなら軽く打ち合わせをしておこうということになって、メッセージの時間だけで既に十分のぼせそうになっていたお風呂をきりをつけて上がることになった。

予定変更。

でも、それからの時間が本当に素晴らしいギフトだった。
もともと彼女と話すのは大好きだったから。その彼女とはキシダサトコさん。
noteでも作品を公開しているクリエイターさんでもあります。

今回はロゴデザインの依頼というクリエイターのサトコさんへの依頼だったので、わたしが仕事に持っているビジョンとか意図とか、サロンのインテリア、デザインの好みや好んで使っていたモチーフまで、核になるようなことを伝えながら盛り上がるままに話し込んで気が付けば4時間!(今数えました)

不思議なのですが、出会って数年、その間数回しか会っていないのに、ともに青春時代を過ごした仲間以上に自分を理解してくれているような感覚があるだけでなく、また好みがドンピシャなのです。

わたしは共感能力者ですが、HSPゆえ好みが細かいのとマニアックな面を持ち合わせていること、基本的には霊的・魔術的なものに魅かれることなどがあって、なかなか胸の内を語れる人には出会っていません。
興味のない話を延々されるのは嫌だろうと思いますし、大抵の人は興味のない話だとシャッターみたいなものを下ろすんです。
「閉店ガラガラ」?でした?そんな愛嬌は微塵もありませんが。

なのでとっても不思議にご縁を感じている、こころの中ではとっても古くからの友人なのです。

だからといって4時間は!我ながら今びっくり。

ただね。
その時間は完全に自分でいて、それでいて相手も相手のままでいて、なんのジャッジもないんです。人間って一人で誰にも会わないでいればジャッジがないんじゃない?と思うかもしれませんが、そんなことないんです。
セルフジャッジ、つまり自分で自分に裁きを下すことができる生き物なんです。そしてひとりでいると気づきにくいのですね。

今日のコミュニケーションタイムを簡単に言い表すことができないほど深いことが起きていたのですが、ひとつの側面としてあげれば、わたしは相手から完全に認められ、また相手を完全に認める意識を持つことで、相手を通して自分自身のことも完全に受容していました。

完全に相手を受容するとともに自分自身を受容すること。

こうして書くと2つ別のものが存在しているように読めるし、実際そうなのですが、この「完全なる受容」というものが起きているときには実際には文字通りの意識の感覚とは少し異なる感覚を持っているのだということをお伝えしておきます。

そしてこの「完全なる受容」とともにある時間、関係性の中でそれを味わったことがわたしの深い深いリラクゼーションに繋がったと理解しています。

そう、冒頭に書いた寝てもとれない蓄積した疲れ、どうやったら手放せるのかもわからない疲労を取り除いてくれたのは、レジャーでもなく趣味の時間でもなく、あてにしていたアーティストのコンテンツ視聴でもなく、そしてただの友人とのおしゃべりでもなかったということ。

こういう体験は初めてでした。
というのも人と話して疲れないのも、家族と話す時すら完全にリラックスすることが少ないわたしには初めてだったから。
話した後かえって充電された状態になっているなんて、魔法にでもかかったような感覚でした。

一日を振り返って、その要因を「完全なる受容がもたらしたもの」と理解したわたしですがみなさんは違う見解や体験をお持ちかもしれませんね。
でももしわたしの見解通りなら、人ひとりの意識がもたらすパワーは凄いということです。意識が変わっても変わらないものはある。ある視点では今が常に完全な状態でそれ以上もそれ以下もない。

ゆっくりと花弁を開く花々はつぼみでも枯れた様も常にそのものとしてその瞬間の最高の美を表現している。
でもつぼみはやがて開く。変化は常に起きている。

その瞬間を完全に受容して、かつそれが変化することを許す。
完全な需要とはその瞬間の表現を喜びをもって受け入れることかもしれない。受け入れながら次の瞬間には手放す可能性があることを許可している。

・・・ことばにはしきれないなぁと思う。ことばは齟齬を生むから。

でもこの感覚が誰かに伝わるなら・・・この感覚を生きている人は必ずいるから、その人にまだ誰かが出会えば体験が何より雄弁に語ってくれる。
そうして蝋燭から蠟燭へ灯をともすように、意識のひかりが輝くのだと思う。

今日も文体が揺れる中最後までお読みくださった方、ありがとうございます。
最後まで読まなくてもいいねくれる方もありがとうございます。
そしてサトコさんもありがとうございます!

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