見出し画像

短編小説「麻子とアキ 第一話 トラブルメーカー」(2)

(前 「麻子とアキ 第一話 トラブルメーカー」1へ)


〈シバさんと連絡とれたか?〉
 本条の声だ。ぼくはジェスチャーで麻子を部屋から出し、心を落ち着けるために深呼吸した。本条は、例の「ん?」という耳障りな声でぼくの返事を促す。
「取れた。たしかに麻子はあんたの財布を掏ってた。すまない」
 本条の声が甘ったるくなった。呟くような声でそおかあと言っている。
〈そおかあ。それじゃ話は解決や。三十万、今すぐに振り込んだってや。口座はな〉
「ちょっと待ってくれ。麻子はあんたの財布を掏ったとは言ったが、金は盗んでないと言っている。三十万はあんたの勘違いだよ」
 途端に本条の声が裏返った。ものすごい叫び声で何を言っているのかわからない。ざけんなこらあとかころしてやるとか断片的に聞こえる言葉はぼくを竦みあがらせた。
〈ンだこらぁ! おまえのスケが取った言うとるやろ! それでおれの財布が空っぽなっとる。おまえのスケがギったからやないんか! シバアサコがギったからおれの財布空になっとるん違うか!〉
 負けてはならない。ここで引いたら本条は際限なく要求額を吊り上げてくる。もともと金など盗まれていないのだ。本条はぼくたちにたかっている。
「だから麻子はあんたの金を盗んじゃいないんだ。脅そうったってそうはいくか。盗んでない金を返す道理があるもんか」
〈シバアサコは掏りしたんちゃうんか〉
 ぼくは言葉に詰まる。
〈おれの財布ギったのは事実やろ。それを何や、おれが悪いみたいに言いおって。何なら出るとこ出ようやないか。悪いのどっちか警察に決めてもらってもええんやで〉
 警察、という言葉がぼくを射すくめた。さっきぼくが本条に言った威嚇の言葉が今度はぼくを威嚇している。万引きとは違う。刑事告訴されるかも知れない。麻子に前科が付く。
〈な、おれも鬼やないって言うたやろ。だから金でケリつけよう言うとるんや〉
 自分の言葉がぼくに染み込むのを充分に待って、本条がまた甘ったるい声を出した。反論しなくちゃいけないのに口が開かない。
〈で、いくら出せる?〉
 甘ったるい声のままで本条が言った。
「三十万、返せばいいんですね」
 疑問形にしちゃいけない。せめて断言しなくては。ぼくはカラカラの喉を震わせて掠れた声を出した。本条が「ん」と相槌を打った。ものすごく無味乾燥な声だった。
〈ま、おれもずいぶん困ったわけやし、本当のところはいろいろプラスアルファアもお願いしたいんやけど、ま、しゃあない。ええか、今から言う口座に三十分以内に振り込んでな。言うで〉
 敗北感に打ちひしがれながら、ぼくはボールペンを手に取って本条の言う口座をメモした。自分の文字とは思えないほどに歪んでいる。本条は、三十分以内やぞと確認して、さっきと同様に優しく受話器を置いた。ぼくは、口座のメモを引き千切ってポケットに入れると、そのまま体を投げ出してソファに倒れこんだ。ドサリと腰が沈んで埃が舞う。
 麻子が、隣の部屋から顔だけ出して、心配そうにぼくを見ていた。

   ❃

 駅前の銀行まで行くとなると指定の時間に怪しかったが、近所のコンビニのATMなら時間内に振り込める。ぼくは変なところに少し安心した。本条は三十万以上の金を要求しなかった。たとえそれが「これから先回収する」ことの前兆であるにせよ、とりあえず貯金から足りる金額だ。消費者金融には手を出したくなかった。借金は嫌いだ。一時凌ぎでも、他人に借りを作らずにすむのはありがたかった。
 ぼくは麻子を呼び寄せると、頭を撫でてやってから強く抱きしめた。麻子が涙の線を残したまま笑った。麻子の笑顔を見て、ぼくも力が抜けて表情を緩めた。まったくおまえはやっぱり悪意の塊だ。そんな無邪気な顔をして、やる事は酷いし結果も酷い。不幸ばっかりぼくに運んでくる。そのくせ反省しないんだ。もう笑ってる。悪いことをして叱られた子供が、許しを得た瞬間にもう微笑むみたいに、麻子、おまえは本当に純粋な悪魔だよな。
 麻子と手をつないでコンビニに向かう。そうだった。今日はぼくと麻子の休日で、天気が良くてしかも季節は春なんだ。振り込みを終えたあと、このまま麻子とどこかに出かけようかと思う。麻子にそう言うと、麻子は「バリ島」と言って笑った。それもいいかも知れない。
 ATMの前に立って、ぼくは本条の指定した番号を入力した。後ろに立っている麻子が、興味深そうな顔をしてパネルを操作するぼくの手元を見ている。まったくお気楽なもんだ。麻子がこうして笑っていなかったら、この三年の間、ぼくはいったいどうして暮らしていたのだろう。想像できない。想像したくない。
 パネルが一瞬暗転して、振込み情報の送信画面になった。続いて振込先の確認画面になる。お客様のお名前、お客様の電話番号、お振込み先の銀行名、お振込み先の支店名、お振込み先の口座番号、お振込み先の口座名義。
 シバアサコ
 ぼくは目を疑った。
 シバアサコ。
 麻子。
「麻子」
 パネルに釘付けになっているぼくを、麻子が「ん?」と首を傾げながら覗き込んだ。
「振り込み先が、おまえになってるんだけど」
「え?」
 麻子が口を半開きにして体を後ろに反らせた。
「うそ? ほんと?」
「まさかおまえ、これ、狂言か?」
 麻子がパネルを覗き込んだ。本条の指定した口座番号の隣に、カクカクした液晶文字でシバアサコとある。
「あ」
「おい、冗談だろ? いくら何でもこれは無いよ」
「しくじった」
 麻子が舌打ちして言った。ぼくは限りない脱力感に襲われて、ATMに抱きついて辛うじて体を支えた。何てことだ。全部、麻子が仕組んだんだ。
「だってさ、アキさんバリ島ダメだって言うじゃん。でもチケット買っちゃえば行かないとは言わないかなって思って」
「だから仕組んだのかよ」
「うん。アキさん、ごめん」
 麻子は無邪気に笑う。ほんとうにこいつは、罪悪感ゼロで男を財布としか思ってなくて、悪魔でサイコパスで最低最悪の女だ。
「だけどさ、二人分のチケット代だよ。いいじゃん。一緒にワイン飲もうよ」
 怒る気力も失せた。ホントなんだこいつ。何なんだこいつ。
「二十二万だって言ってたじゃないか」
「八万は本条さんの分」
 悪びれずに言う。「本条さんすごかったでしょ? もと、本職だからね」
 そしてケタケタ笑う。ああ、何て奴だ。麻子、おまえはきっと、一生このまま変わらないんだ。
 そしてぼくは大いなる疑問を抱く。なんでぼくはこんなやつと一緒にいるんだ。そしてなんで、まだ一緒にいたいと思っているんだ。
「ねえアキさん。ATMが待ってるよ。もういいじゃん。振込完了にタッチしちゃいなよ」
 ぼくの背中に身を寄せて、まるで悪魔みたいに麻子がささやく。
「帰るぞ」
「え」
 まるで意外なことを言われたみたいな顔をして麻子が言う。「バリ島ダメ?」
「この期に及んでまだあきらめてないのかよ。すごいなおまえは」
 もじもじしている。
「妥協して箱根とかでもいいんだけど。温泉」
「だめだ。説教。長期戦になるからポカリ買っておけ」
「えええ。いやだ」
「あと八万はおまえが払えよ」
「ええええ! やだよ。アキさんごめんね。謝るからさ、ここはアキさんが男気を」
「そんなのは男気って言わない」
 麻子がしょげている。雨に濡れた子犬みたいだ。
「本条さん、基本的にはいい人なんだけど、約束破るとハンパなく切れるんだよ……」
「自業自得だ」
「うーあー。めんどくさい」
 麻子が体を寄せてきた。
「じゃあさアキさん、本条さん家に呼んでいい?」
「なんでだよ」
「めちゃめちゃに酔わせてうまいこと八万円なかったことにしてやろうかと思って」
「あらゆるケガを絆創膏だけで治そうとするよなおまえは」
「えへへ」
 麻子が笑っている。
 こういうやつだ。自分でもなんで一緒にいるのかわからない。
 でもそれが、かれこれ三年も続いている。

 もうすぐ記念日がやってくる。



(了)


(第二話はこちら)

※涌井の創作小説です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?